惨状と説教

誰か山から降りてきてほたえてから山に帰っていく記事。ブログ

貴志祐介作『ダークゾーン』の感想と、デスゲームを面白く描くことの難しさについて

はじめに。『ダークゾーン』の感想。

 なかなか良かったのではないでしょうか。

 と言っても、前半が最高に面白くて、途中相当中だるみして、最後盛り返す、というアップダウンがあったので、「平均すると」なかなか良かった、という感想が正確なところです。

 

 物語は軍艦島をモデルにした正体不明の世界を舞台に繰り広げられる、元々は人間だった者たちが特殊能力を持つ怪物となって殺し合いをする将棋とチェスをベースにしたゲームを描くもの。

 

 先に悪かった点を言うと、将棋の七番勝負を土台に同じルールのゲームが七回繰り返されるので、どうしても各勝負の展開がワンパターンになりがちで退屈する、というところ。

 主人公が勝負のセオリーをつかんできた四戦目、五戦目あたりにこれが顕著で、かつ、両軍探り合いの序盤から、敵の奇策で主人公たちが慌てふためく、という流れまで毎回一緒なので(もちろん、どう混乱させられるか、という内容はそのつど違うけど)、「このくだり何回やんだよ」、と思う。

 一方、「駒」が昇格するなど将棋のルールをベースとしつつ、オリジナル要素も取り入れたゲーム自体の面白さもあって、まだ話の正体が見えない前半は素晴らしく面白かった。また、このオリジナル要素が全面的に解放され、いったん理解したこのゲームのルールがまったく別の様相を見せる終盤も良かった。

 この小説、ゲームを通じた戦争の部分と並行して、まだ主人公が人間だった頃の話が挿入され、なぜゲームが始まったのか、この世界の正体はなんなのかがわかる構造になっており、ゲームの方がマンネリ化してもこちらの方の流れが終盤盛り上がって来て、これに引っ張られてぐんぐん読み進めてしまう、というのも、いまいちだった中盤が終わってから盛り返せた大きな要因だと思う。

 元ネタが将棋なのでしかたないかもしれないけど、たぶん勝負が七回は長すぎたのだと思う。この中盤の中だるみが個人的にはものすごく大きく感じられる。一方で、前半と後半は素晴らしいという、そんな作品だった。

 

デスゲームを面白く描くことの難しさについて。ゲームのルールなんかは「それなりにもつ燃料」に過ぎない。

 ところで、そもそもデスゲームとはなんであるか。

 wikipedia先生いわく、「登場人物が死を伴う危険な娯楽に巻き込まれる様相を描くようなフィクション作品、およびそのようなフィクションの劇中で描かれる、参加者の生死をチップにした架空の娯楽である。」とある。

 漫画、小説、映画と世の中にひしめくこのジャンルについて思うことがあるのだけど、それは、「消費者を興奮させつつ作品に付き合わせる上で、それがどういうルールのどんなゲームであるかは、あくまでそれなりに持つ燃料に過ぎない」ということである。

 たとえばすごく奥深いゲームを作り、消費者を飽きさせないために、ゲームを理解することにより見えてくる戦法やいわゆる裏ルールのようなものを持ちこむとする。それでも、失敗すると何が起こるか、どうすれば勝てるか、などのいわゆるゲーム性によって消費者を楽しませられる時間やページ数には限りがある。

 そして、ゲームに敗れれば人間があっけなく死ぬというきわめて刺激的なことにすら、おそろしいかな、消費者はすぐに慣れてしまう。

 そういう興奮と飽きるのの関係って、デスゲームものに限らずほとんどのフィクションにも適用できることじゃん、という指摘はごもっともで、ただ、この燃料が切れたときの減速が特に明らかなのがこのジャンルだと思っている。『ダークゾーン』の例で言えばたぶん五番勝負ぐらいがゲーム性で楽しませられたベストの長さだったんでないかな、と思うし、この「燃料」が切れた中盤は読み進めるのがそれだけ難しかった気がする。

 

ゲームを通して何を描くかが結局は大切なんだろう、ということ

 デスゲームもので俺が一番好きな作品に漫画の『今際の国のアリス』がある。

 この作品は生死を賭けた多くのゲームが出てくるので、上で書いたゲームのルール自体がもたらす「燃料」が切れる前に、読み手は興奮しっぱなしで完走してしまうのだけど、なにより素晴らしいのは、ゲーム自体が仮にもう読み手を楽しませてくれなくなっても、その向こうで展開する物語自体がものすごく読ませるところである。

 『カイジ』にも似て(作者の福本伸行もこの漫画を褒めてる)、『今際の国のアリス』は殺伐とした殺し合いがどこまでも続くのに、人情や信頼というウエットな感情が最後まで大きな存在感を持ち続ける。

 裏切りも落胆ももちろん描かれるし、冷徹な論理の力が決定打になることもあるけど、ロジックの裏で勝利を支えているのは、必ずと言っていいぐらい、誰かを信じる、誰かに託す、というある意味甘っちょろい感情で、でも俺はそこが良いと思う。

 ゲーム自体の面白さが効力を失ったとき、その先に読者を引っ張っていけるのは結局その後に何が起きるかであって、それはつまり、ゲームを通して作者が何を描きたかったかが存在するか、ということでもあって、そんなのまあ当たり前のような結論だけども、一定以上の長さを持つデスゲームが面白く描かれうる正解は、そこにしかたぶんないのだと思う。

 

おわりに。再び『ダークゾーン』について。

 難しいのは、ゲームそのものがちゃんと面白くないと「燃料」をもらっていない消費者は走りだせない、ということで、その点『ダークゾーン』はちゃんとゲームは面白い。

 特に終盤の描写は圧巻で、「駒」という概念を持つ将棋・チェスベースのゲームを題材にしたたくさんの作品がたぶんやりたかったこと、今後やりたがりそうなことを、素晴らしいかたちで表現している。

 ってことで、色々言ったけど面白い。それでいてまあ上のようなことも勝手ながら考えてここに書いておくので、以上、よろしくお願いいたします。

 

まずは上巻からどうぞ。

ダークゾーン(上) (祥伝社文庫)

ダークゾーン(上) (祥伝社文庫)

 

 

俺の中のデスゲームナンバー1。

 

欲望、決壊前夜。『ゴールデンゴールド』3巻までの感想について

はじめに

  「登場人物が全員全力で頑張ってるモノ」というジャンルがある。それは俺の中で。

  意味はそのままで、出てくるキャラクターが敵も味方も、強いやつも弱いやつも、全員現況の打開のために知恵を絞って全力で頑張っていて、その苦闘が伝わってくる作品を指す。

 

  実は、自分で言いだしておきながら、「ジャンル」という言い方はあまり的確ではない気もしている。

  なぜか。それは、この区分に分類できる作品があまりに少ないから。

  んなアホな、と読んでいる方は思うだろうし、自分でも思う。

  たいていの創作物に出てくるキャラクターたちはみんな頑張っているのに。特にバトル漫画なんかで敵味方が複数ヶ所で乱戦状態になるのはよくあることで、そういう作品はたくさんあるのに。

  にもかかわらず、敵も味方も、みんながみんな複数ヶ所で同時に頭をフル回転させていることで生まれる緊張と波乱を、そのまま読み手に伝えられる人間は、たぶんとても少ない。

  戦局が一つ一つただ消化されていくのではなく、互いに作用しあって思いもよらない事態になったり、本来のパワーバランスでは弱者である存在が意外なキーとなったりするような複雑な状況を、わかりやすく整理しつつ、先が読めない混沌としても表現できる作家は、それだけ、おそろしく少ないのだと思う。

  そういうことができる作家を「上手い」と呼ぶのか「頭が良い」と呼ぶのか…、まあ簡単に言うなら、「天才」と表現するべきなんだろうと思う。

 

あらためて、堀尾省太作・『ゴールデンゴールド』について

  瀬戸内海の離島で暮らす中学生・瑠花は、ある日海岸で人形のような干物のような、人型のおかしなものを拾う。

  瑠花はそれをなぜか「福の神」だと直観し、このおかしなものに「島にアニメイトを建ててくれ」と願をかけたところ、そのおかしなものが息を吹き返したように動きだし、そればかりかまるで瑠花に福を呼び込むようにして、民宿兼商店を営む家には客が次々と押し寄せるようになる。

  店は事業を拡大していくが、店主である祖母の様子はまるで福の神に憑かれたように変貌していき、島内の経済状況を一変させてしまったことによる混乱はついに傷害事件に発展する。

  果たして「福の神」は善か悪か。江戸時代に姿を現したこともあるらしいが、なぜか力を失った。目的はなんなのか。そもそも何者であって、再び封じる方法はあるのか。

  たまたま島に取材旅行に来ていた女性作家、傷害事件の捜査を通して「福の神」の存在に肉薄しつつある刑事などもからんで、新たに明らかになる事実はありつつも、混沌がひたすら拡大していく。

 

  『ゴールデンゴールド』を何かのジャンルに分類するのは難しい。

  例えば、「福の神」という謎の生命体の正体に迫るという意味では和風SFっぽい。過去に出現したときの記録を追うところなんか歴史物っぽいし、福の神を事件の犯人とすると、それに刑事が迫るという図式はミステリっぽい。

  急に混乱した島内経済にいろんな人がばたばたする様子など、群像劇の要素もある。どうもなかなかまとめられない。

  なので、話は冒頭に戻る。

 これは、中学生、作家、編集者、商店店主、史学者、地元スーパー経営者、半グレ、刑事などが福の神を中心に苦闘する、「登場人物が全員全力で頑張ってるモノ」である。俺がいまそう決めた。

  ちなみに、この作品以外で「登場人物が全員全力で頑張ってるモノ」は三作しかない。一つは同じ作者による『刻刻』、あとは『HUNTER×HUNTER』のキメラアント編、それから中島らもの『ガダラの豚』だけである。

  『HUNTER×HUNTER』という超有名作品が出てくるあたりなんか俺の馬脚を現した感があるが、気にしない。むしろ、こういう結論につなげたい。つまり、蟻編に匹敵するぐらい『ゴールデンゴールド』はすげえし、『刻刻』に続いてこれを描いている堀尾省太は間違いなく天才だということである。

 

  『ゴールデンゴールド』を読んでいてすげえな、と他にも思うことがある。

  それは、人と金をひたすら引き寄せる存在である福の神が、いまのように離島の商店でひっそり活動している段階を超えて、政府や警察など公的権力によって意図的に悪用されたらそれはやべえということを、物語早々に、しかもなんてことない会話の中でぽんと言及してしまうところである。

 

  俺が作者だったらこれは絶対やらない。できない。

  理由は二つある。

  まず、福の神の力は確かに国家レベルの問題に発展する可能性を秘めているが、そういう規格外にすさまじいものとして取り扱う必要を示してしまうと、登場人物たちに色々考えさせないといけなくて面倒くさいのがある。

  なんとなくすごいもの、というぐらいならまだ気楽だが、世界の命運を左右しうる、となると当然キャラクターたちはあらゆることを考える。というか、考えないと不自然なので読み手が冷める。

  これは、キャラクターの思考を通して作者自身の想像力、頭の良さが作中にモロにあからさまになるということでもあって、かなりおそろしい。福の神はなんとなくすごいもの、ぐらいの扱いでしばらくだらだら話を続けた方が、明らかに楽なはずである。

  絶対やらないもう一つ理由は、「福の神にはこういう利用のされ方もありえますよ」と早々と宣言することで、作品の展開にシバリがかかってしまうからである。

  もし、福の神の国家的活用について一切触れられないまま『ゴールデンゴールド』の連載が何年も続いて、終盤ようやくそういう展開になったとしたら、読者には「ほう、こう来るか」という驚きがある。麻雀風に言えば、「ビックリさせた」という役が一つ作品の評価に乗ることになる。

  でも実際にはこの作品はもうその可能性に言及してしまったので、いつかそういう展開に仮になったとしても、それだけでは驚かされない。読み手を驚かせるためにさらに何かを演出してくるか、もしくは、単に話を世界規模にする以外のとんでもない方法をエンディングにもってくるしかない。

  そんな理由で『ゴールデンゴールド』をすごいと思う。意図的にやってるなら覚悟があるし、天然でやってるなら怖いもの知らずだけど、なんとなく堀尾省太が自分自身で作品に異様に高いハードルを課していること、そして、それを毎回越えていることはわかるので、すごいと思う。

  

  3巻の最後で、twitterリツイートというとても現代的な方法で、福の神の存在は離島の外にも知られることになる。超自然的かつ正体不明の存在に、情報を爆発的に拡大するツールが掛け合わされたとき、何が起きるのか、何が無事ですまなくなってしまうのか、怖くて楽しみでしかたない。

 

  長々書きましたが、ちなみに3巻の感想で一番強く思ったのは「少女時代のばあちゃん超かわいくね?」ということなので、以上、よろしくお願いいたします。

 

 

 

  

  

セカイ系よ、30年後のディストピアで凱歌をあげろ。『ブレードランナー2049』の感想について(後編)

はじめに

 ハリソンが溺れる話をしていたら長くなりすぎた。ここから後編。

 

セカイ系のひとつの勝利としての『ブレードランナー2049』について

 なんか怒られそうなことから書き始めるんだけど、俺は『ブレードランナー2049』ってセカイ系作品の一種だと思う。

 この場合のセカイ系の定義は、「いち個人の行動や判断が、政治や経済というファクターよりも大きな影響力を持って、そのまま世界全体の命運に直結する作品」です。

 『2049』の中盤でライアン・ゴズリング演じる主人公がレプリカントから生まれた存在かも、と示唆される。

 レプリカントは子供を持つことができず人間に完全に支配された存在であるというのがこの世界の骨子であり前提なので、ゴズリングの存在は世界を根底から破壊する可能性を秘めており、彼の行動が世界の構造にそのまま作用しうる、という点でグッとセカイ系感が増してきます。

 で、俺の勝手なイメージですが、セカイ系って用語はたいがいその後に(笑)がついてバカにされがちというか、自意識過剰な若者の幼い世界観、として捉えられていると思う。

 その意見もまあ的を射ていて、一人の人間の判断が世界を大きく変えてしまうなんていうのは、実際の世の中が抱えている(とされる)複雑さを無視しないと成り立たないはずではある。
 じゃあ、セカイ系なのにちゃんと「現実」をとらえたものとして成立していて、批判する人たちを黙らせるようなつくりにするにはどうしたらいいか。

 これはたぶんひとつしか方法がなくて、それは、複雑であるはずの世界とその枠組みが実はまったく単純できわめてショボいということを明らかにし、こんなもの個人の選択であっさり変わったりぶっ壊れたりして当然でむしろどこがおかしいのか、ということを示すしかないのだと思います。
 『2049』は意図したかしなかったか(たぶんしてねえな)この方法に成功していて、人間がレプリカントを支配することで成立しているこの世界が、この支配関係の一点だけにあまりに頼りきった、どれだけ危うく、かつ複雑さとは程遠い世界であるかを作中を通して描いてきた。だから、一人の個人に過ぎないはずなのに出自だけは特別なゴズリングが世界を大きく揺るがしうる可能性が、ちゃんとリアルに観客に伝わるんですね。

 そういうわけで、とかく分別ある大人からはバカにされがちなセカイ系について、アメリカ映画という思わぬ方角から凱歌があげられたというか、ありがとうリドリー・スコットとドゥニ・ヴィルヌーブ、俺のような日本のオタクのために一矢報いてくれて、と彼らに抱きつきに行くんですが、向こうからしたらいきなり何を言ってるんだこのジャパニーは、という感じでしょうね。

 

主人公Kことライアン・ゴズリングについて

 前項の内容の続きになるんですけど、『2049』が本当にすごいのは、ゴズリングに一度は与えかけたセカイ系における唯一無二のヒーローという立ち位置を、結局奪い去ってしまうことだと思います。

 ストーリーが進むと、ゴズリングは実は特別な存在でもなんでもなく、彼自身はただの一体のレプリカントに過ぎないことが判明する。レプリカントから生まれた子供は別にいて、ゴズリングは世界の命運を巡る大きな物語の中心からは脱落してしまう。

 ここはすごくショックだった。ゴズリング自身がショックを受けるのは当然として、俺もショックだった。

 例えば廃墟に隠遁していたハリソンのところにゴズリングが訪ねていったとき、俺はその場面を「ハリソンは途中から薄々、目の前にいる男が自分の息子なのではないかということに気づいている」ものとして観ているわけですね。「ハリソンったらせっかく息子らしき男が訪ねてきたのに強がっちゃってもう」とか思って観ている。

 それが完璧にひっくり返される。ゴズリングもひとり相撲だったけど、観ている俺もひとり相撲だったことがわかる。作品の中と外で状況が共有されて、結果として、ゴズリングにすごく感情移入してしまう。

 その後も、作品としての焦点はゴズリングに当たり続ける。

 ゴズリングはヒーローではなくなったけど、この展開の方が俺には面白かった。誰にも替えがきかない英雄の活躍には感情移入できなくても、自分がそれまで持っていた大きな目的をいきなり失ってしまい、どこの誰でもなくなったまま世の中に放り出されてしまった気持ちは、理解できるから。

 一方、ゴズリングの最後については賛否両論ある。俺の中で。

 自分で新しい目的を見つけてそれに殉じて、降りしきる雪の中でその冷たさと美しさを感じながら死んでいく。素晴らしい。逆に言うと、素晴らし「すぎる」気もする。

 レプリカントが持っている心は、人間と同じく希望や未来を描くことができるのと同時に、人間と同じく迷ったり怠けたりしてしまうものでもあるはずで、そう考えるとあのエンディングはちょっとこころを美しく描きすぎている気もする。生き残って、もっと次の目的を求めてぶらぶらさまよう感じを匂わせて終わりでもよかったんじゃないかなー、とか思いました。

 

で、結局デッカードはレプ

 これはですね、俺には最後までわかりませんでした。

 正確に言うと、ハリソンがウォレス社の社長と会って、ハリソンがレプリカントと恋に落ちたのは彼が操作されていたからではないか、という発言が出たときは、ハリソンはレプリカントだったのだと思いました。

 ただ、後から考えるに別にこれといって決定的な証拠が出たわけではないので、結局よくわからないんですね。

 たぶん答えは『ブレードランナー』というシリーズをどうとらえるかによって変わってくると思う。

 例えば、人もレプリカントも「ジョイ」も、束縛と不自由さを抱えながらそれでも希望を目指すというこころのあり方については同じかたちをしている、というのが作品のメッセージであるなら、ハリソンは人間であり、本来異種であるはずのレプリカントと交わって次の世代をもうける、という方がなんとなくすわりはいいような気がする。

 一方、作品の主眼が人間という存在に対する戒めと警告であり、種族間の下剋上を描いたものととるなら、ハリソンはレプリカントであって、レプリカント同士で子供をつくったのだと見た方がいい気がする。

 ただ、作品のメッセージをどうとらえるにせよ、それはハリソンが何者であろうと成立する気もするし、何者であるかという問い自体を無効にするのが作品の狙いな気もするので、要はわかりません。あえて言うなら、俺はレプリカントだった方が面白いかな、とは思います。

 

おわりに

 そういうわけで、あらためて非常によかったです。俺は知らなかったんですが、どうやら『ブレードランナー』と『2049』の間を補完する作品がいくつかあるらしいので、次はそれを観てみようかな。

 最後に、ハリソンの嫁さんのレイチェルですが、前作のいかがわしい雰囲気の中だとあんまり目立たなかったんですが、今作の中では髪形が完全に浮いていて、「こわいなー、こわいなー、クレイジー・ダイヤモンド使ってきそうだなー」と思いながら観ていました。おしまい。

 

 

なくさなければ何も残らない。『ブレードランナー2049』の感想について(前篇)

はじめに

 100点満点で1,200点あげます。それぐらいよかった。すごかった。
 
 以下、ネタバレ全開で感想を書きます。すでに観た方の意見のすり合わせにつかっていただければ幸いです。
 
 もしまだご覧になってない方がいたら、先に劇場で観てきては、と勧めます。
 これは、俺の中では『2049』が数十本に一本あるかないかぐらいの傑作だったからで、ネタバレで先回りしてしまうよりは、やっぱり観ながら体験したほうがいいよな、と勝手に思うからです。
 その際、もしまだ前作『ブレードランナー』を観ていなければ、先にそちらを観ましょう。1,200点という点数も、続編としての評価というところが大きくて、3時間弱の長い尺をハラハラしどおしで観終えたのは、前作をふまえたセリフや演出こそがよかったからです。
 前作の記憶がないと、最悪この映画は無駄に長い上にやたら陰気で、ときどき人が溺れたりしているだけの作品になる恐れがあります。というか、そんな気はかなりします。
 

束縛された持たざる者たちの映画、『ブレードランナー

 『ブレードランナー』のテーマは、不自由かつ何かを大きく欠いた存在でも希望を持つことができるのか、という問題にあると思う。
 例えば、作中に出てくるレプリカントという人造人間は、身体的には普通の人間とそんなに変わらないけども、創造主である人間の望むとおりの仕事、生き方しか許されない。子供を作る機能もないし、人為的に寿命を設定されて早死にする個体もいる。
 それでも、何かを望んだり感動したりする「こころ」というものは持っていて、単なる人間のための道具ではなくて、じゃあそこにはどんな救いや希望がありうるのか。
 一方、支配者である人間について
 人間はレプリカントを従える立場で、本来彼らよりはるかに自由で幸福なはずなのに、物語を追っていくとそうでもないのがわかる。
 これが『ブレードランナー』のいいところで、むしろ「自由であるはず」という前提がある分だけ、生活のために任務に縛られてレプリカントと殺し合い、望んだはずもない退廃した世界で暮らしているおかしさがはっきりしてくる。
 レプリカント側こそが心という概念のポジティブな面を代表する、という見方もできるでしょうし、人間もレプリカントも楽観的な未来を想像できず、様々な束縛を受けつつも生きていくしかない点で共通しており、互いの差は大きな問題ではない、という見方もできようかと思います。
 
 で、続編の『2049』でもこうした思想は引き継がれている。
 それを表すのが、作中で「ジョイ」と呼ばれる、独り者の恋人用に開発されたプログラム人格である。
 ジョイはプログラムだが感情を持ち、相手を好きだと伝えることはできるが、その姿は基本的にホログラムで表示されており、その体に触れることはできない。後付けの機能でようやく肉体「らしきもの」を与えることができるだけだ。
 つまりジョイは、生殖能力はなくても行為自体はおそらく可能だったレプリカントより、さらに多くのものを始めから奪われている。
 作中で、主人公を演じるライアン・ゴズリング(実はレプリカントであることが前半で判明する)とジョイとのラブシーンがあるんだけど、ジョイは本当の肉体を持たないため、一人の娼婦の助けを借りその体を仲介することで、ようやくゴズリングと関係を持つことができる。
 相手が求めているものを与えるため、自分が欲しいものを受け取るためにそこまでしなくては、ジョイは人間はおろかレプリカントにさえ並ぶことができない。
 でも、綺麗ごとのようだけど、好きな相手のためにそこまでできる愛情の深さにおいては、ジョイは作中の他のすべての生命と同列に立っているとも言える。
 ジョイ自身が言うように彼女のすべては0と1の二進法で設計されていて、意地の悪い考えをすれば彼女の「愛情」が果たして本当に人間やレプリカントと同じかたちをしているのかはわからない。
 でも、ジョイ自身はそれを同じだと思っており、ゴズリングの方もそれを信じるのなら、そこにあるものが愛とは違うと言うこともまた、誰にもできないのだと思う。ジョイが自分のデータを保存している媒体を破壊されたとき、「愛している」という言葉を最後のメッセージに選んで消滅したのを「死んだ」と感じた俺は、作品の術中にまんまとハマっていると言える。
 このように、色んなものをはじめから制限されて、奪われながら、それでも最後に残るものこそが「心」や「命」の本質であるということ、それが確かに存在することを知るためには、それ以外の余計なものをなくしていくことでしかたどり着けないということ、それが『ブレードランナー』が前作から一貫して示してきた方法論なのだと思う。
 なおこの映画、けっこう暴力要素が強いところがあって、人間もレプリカントもみんな、ぶん殴ったりガラス片を思いっきり握らされたり水に溺れさせられたりするんですが、これもすべての生命は同列であるということを、愛情や希望といった面とは別の、苦痛というネガティヴな方向から描こうとしたんでないかな、と思います。
 

SF的小道具とか巨大建築とか

 こういうことを書くととても思想的というか、要はめんどくせえ映画なのかな、という気がしてきますが、SF的なグッズとかハッタリのきいた巨大建築の「画」の力がいい仕事をしていて、純粋に観ていて楽しい作品でもあったと思いました。
 個人的には、レプリカントのデータを格納した棚が延々と並んでいる画が厨二くさくてよかったかな。他には、前作の舞台だった建物が完全に廃墟と化して再登場したときに感じたノスタルジーとか、溺れてるハリソンをバックに夜の海で殴り合ってる場面も緊張感と悲しさがあって美しかった。
 

リック・デッカードことハリソン・フォードについて

 で、そのハリソンについて。
 ハリソン・フォードというと金曜ロードショーハン・ソロインディ・ジョーンズ役で出てくるおっさんという認識なんですが、『2049』のハリソン、すごくよかった。前作のファンからの『2049』に対する意見は様々だと思うけど、それでもハリソンが登場するシーン、デッカードブラスターを構えながら闇の中から姿を現す、という演出は、誰の目から見ても満点なんじゃないでしょうか。
 ハリソンは前作と同じくあんまり強くなくて、体も年相応に丸くなっちゃってるんだけど、不思議と緊張感は残っていて、ハリソンが『2049』の役柄にうまくハマったのも、今作の勝因の一つかと思います。
 あと溺れるシーンね。これは素晴らしかったですね。この人ガチで溺れてるんじゃねえの、と思ったもんね。
 アカデミー賞に溺れ男優賞があったら今年はまあハリソンが獲るだろうなというか、このシーン撮ってて監督がカット!OK!つった後ADが「フォードさんお疲れ様っす!すごかったっすよ!」ってタオル渡しに行ったらもう息してなかったみたいな、なんかそういうのを感じましたね。ええ(ハリソンが溺れる話してたら長くなりすぎたので、後編に続く)。

悪夢について3

  友人と一緒にいて、そいつが「俺の叔父さんがさあ、」と親戚の話を始める。
  あたりが妙に暗い。誰もいない工場のような、地下室のような、知らない機械がたくさんあって室内を無数の配管が走っている。
  「別の叔父さんがさあ、」と友人はまだしゃべっている。
  「あと別の叔父さんがさあ、」と友人が言うので、「お前叔父さん何人いんだよ」と言って相手の顔を見る。
  友人の目の中に、瞳が蜂の巣のように無数にぎっしり集まっていて、それがてんでんばらばらに色んな方向を見ている。「あと別の叔父さんがさあ、」とそいつが言う。
  これが本当に自分の友達なのか、わからない。ただ、こいつの言っている叔父さんなんていうのは、この世のどこにもいないんだろうということは、なんとなくわかる。

『悪魔を憐れむ歌』1巻の感想と、創作におけるボーイズラブ要素に関して思うことについて

はじめに

 作品の内容と直接関係のない、断りの言葉からはじめさせてもらいます。

 この文章は男女の性別について問題のある考えを含んでいたり、それによって誰かを傷つける可能性があります。

 また、本来明確に区別されるべきそれぞれ別々の感情を、混同している可能性もあります。

 書いていてそう思うところがあり、自分の中でもともと性差や同性愛に関する意識が高くないという自覚もあって、そう感じながら述べるものになります。

 じゃあ書くな、というようなものですし、最初に言えば許されるものでもないでしょうが、誰か「お前の考え方は間違っている」と強く思われる方もいるかもしれないので、最初に謝っておきます。すみません。

 

 『悪魔を憐れむ歌』の感想について

 梶本レイカ作、犯罪・警察漫画。

 冒頭、雷雨の中で警察によってひとつの死体が発見される。全身の関節を逆向きに折り曲げられたたまれたその遺体は、すでに起きていた別の殺人事件の被害者と酷似しており、事態は「箱折犯」と呼ばれる殺人者による連続殺人の様相を帯びる。

 しかし、その後犯人が捕まることはなく、8年の歳月が流れる。事件は風化しかけ、「箱折犯」は実在するかもあやしい存在として扱われていた。

 署内でただ一人、いまだに解決に向け執念を燃やす刑事・阿久津は、あるとき同僚から事件について手がかりを得られるかもしれないと一人の医者を紹介される。

 訪ねていった医者・四鐘は阿久津を丁重に迎え、阿久津が注目していた遺体の損傷について同様の見解を述べる。このことをきっかけに阿久津は四鐘を何度か訪問し、距離を縮めていくことになる。実はこの四鐘こそが、自身の追う「箱折犯」であるとは知るよしもなく。

 

 本来なら警察から逃げる立場であるはずの四鐘が、なぜか阿久津に執心し、むしろ積極的に接触しようとする。追う者と追われる者が、片方が気づかないまま異常に近い距離感で接するのでものすごい緊張感があり、これがいつ決壊するのか、怖いような期待するようなである。

 四鐘の殺人の動機も不明だったり、道警上層部がなんらかの理由によってこの事件を隠蔽したがっていたりと、他にもまだ謎がある。特に、主人公・阿久津が作品紹介によって「鬼」と表現されていること、彼が捜査の過程で同僚をひとり廃人に追い込んでいることが示唆されていることなど、当人の明るいキャラクターともあいまって、秘められている部分の多い作品である。

 今後、そして最後に明らかになるものはなんなのか、期待して待ちたいと思う。

 

 ここで特に触れておきたいのは、作品の中に流れる、人が同性だけに向ける特別な感情の気配についてである。

 描いている方がボーイズラブの作家さんなので色眼鏡で見ている可能性もあり、作り手としては実はそういうつもりでないのかもしれないが、特に四鐘と阿久津が接する場面、四鐘が阿久津を診察しているところなど、そこには性的な関心も含めて、いくつか特別な感情が混じっているように見える。

 

 俺は異性愛者なのでこれが理解できないかというと、実はそうではない。むしろ、この関係性にかなり惹かれるものを感じる。

 これが性的な興味だけだったら絶対にそうはならなかっただろう。でも、ここには他にも、人間が同性にしか期待しない特別な気持ちがあるようで、そこにひきつけられるのだ。

 

 この流れで例として扱うと怒られるかもしれない。でもわかりやすいので引き合いに出す。

 俺がイメージするのは『ピンポン』におけるペコとドラゴン、ペコとスマイルの関係、もしくは、同じ松本大洋の『竹光侍』における瀬能と木久地の関係だ。あと、AMAZONのレビューで触れてる人がいたけど、同じ警察ものってことで『レディ・ジョーカー』の合田と半田の関係とかも。

 もちろん、ここには恋愛の要素はない。ペコとドラゴンだったらどっちが受けなのかなあ、とかは別に考えない。

 でも、例えばペコが卓球がバカ強い女子だったとして、男子であるドラゴンがペコとの勝負でああいう心境にたどりつけたか、もしくはスマイルがひそかにすさまじい才能を秘めた女子だったとして、スマイルに追い抜かれた男子のペコが頂点で待つスマイルを追ったかというと、これは成立しないか、まったく別の物語になったと思う悪鬼のような女剣客・木久地はちょっと見たいけど)。レディ・ジョーカー』の合田と半田の交流、激突も、同性同士でないとたぶん成立しないだろう。

 

 男は男にしか救ってもらえないところがあるというか、もしくは単に救われないと思いこんでるだけなんだけど、でも結局この思い込みが強固すぎて実際男にしか救ってもらえない、男同士を通じてしか腑に落ちない部分があると思う。

 自分と同じ性別である誰か、ということが重要だ。バカらしいかもしれないけど、同じでないと納得できないのだ。

 ここに、それが性の対象であるかどうかが加わると、ときとして作品自体がまったく別のジャンルに分類されてしまう。でも、相手を恋愛対象として見る作品であるかどうかに関わらず、実は共通している部分がある。

 そこには、同性ゆえの憧れや悔しさ、その果ての納得や成長など、同性だけに寄せてしまう激しい期待が存在する。そして、こうした感情の存在は異性愛者でも理解し、強く実感することができる。

 

 『悪魔を憐れむ歌』の作中で、阿久津が「自分は箱折犯の存在を必ず証明してみせる」と当の犯人自身である四鐘の前で宣言したときの四鐘の表情が、とても印象に残る。犯人として追い詰められる怖れでもなく、といって爆発するような歓喜でもなく、なにかまぶしくて美しいものを見たようなその顔。

 四鐘にとって阿久津がどういう存在なのかまだはっきりとわからなくて、この表情の奥にあるのは感動なのか、期待なのか…。でも、たぶんこの表情は阿久津が言ったからこそなのだと思うし、たぶん阿久津が女性ではダメだったんじゃないかな? と思う。

 仮にここに恋愛感情が混じっていたとしても、それでいっぺんに「理解不能」にはならない。『ピンポン』や『レディ・ジョーカー』とはもちろん違うけれど、なんというか、領域を接するものであり、まったく異質なものとしてとらえる方がむしろ正確ではない、という感じで、この作品を見て、楽しんでいる。

 

 この漫画は暴力描写が多い。また肌の質感などキャラクターの画が生っぽいため、合わない人もいるだろうと思う。なによりボーイズラブ要素を忌避する人もいるでしょうし。

 でも、同性間のギリギリするような緊張感と、それゆえのカタルシスの予感はむしろ他の「非・ボーイズラブ」作品と共通する部分でもあって、他の生き方ができなかった不器用な者同士が互いに代わりがきかない役目を与えあった果てに激突するのを題材とするのが好きな人は、読まないと、きっともったいない作品だと思います。

 最後に、もちろん同性間のみで生まれる感情について男だけに制限する必要はなくて、女性同士でも同様のこと、あるかもしれない、ということを申し添えます。『鉄風』とかそうなんだろうか? 未読なのでわからないですが。おわり。

 

悪魔を憐れむ歌 1 (バンチコミックス)

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Go レイリ Go! 『レイリ』4巻の感想について

はじめに

 豚カツが好きで、カレーも言わずもがな好きで、果たしてこの二つを一緒に食ったらどれだけ美味くなるのかしらん、なってしまうのかしらん、と思ってカツカレーを頼んで食うと意外とそうでもない。

 せいぜいが、まあカレーとカツ一緒に食ったらそれはそうなるよな、という域を出ていないというか、なんならカレーを純粋にルーと米の配分に気をつかいつつ食ったり、カツをソースとカラシつけて合い間にキャベツはさんで食ったりした方が美味いよな、ということになったりする。

 

 いや、美味いけどね。カツカレー。

 

『レイリ』4巻の感想

 というわけで、『レイリ』、戦国の世で一人の少女が家族を戦禍で失い、自らも敵を殺して殺して最後に死ぬべく戦う漫画の第4巻である。

 原作の岩明均は『寄生獣』はもちろんのこと、『ヒストリエ』で新刊が出るたび「ああ、月日が経つのは早いなあ」と毎回実感させられながら買わざるを得ない作家であり、作画の室井大資知名度こそ岩明均には劣るだろうけども、『ブラステッド』から入って『海岸列車』も『秋津』も素晴らしい、最近では自身が原作となった『バイオレンスアクション』も最高な、好きかどうかで言ったら俺の場合室井さんの方が好きなくらいの漫画家で、じゃあその二人が組んで漫画描いたらどうなってしまうの、俺はどうなってしまうの、というのが『レイリ』だった。だったんだけれども。

 

 正直に言う。1巻、2巻と「あれ?」というのがあった。

 

 こんなこと言うのは分をわきまえていないかもしれなくて、これはもう自分の子供の肉食わされたり殺されて死体処理の槽の中に落とされて石灰ぶっ込まれたりしないと許してもらえないかもしれないけど、正直そこまで面白くなかった。単につまらないというより、ハードルが上がりすぎてて、それを超えるには至らなかった。

 

 まず『レイリ』は展開が遅い。

 戦地に赴いて派手に死にたいはずのレイリなのになかなか肝心の戦闘が始まらない。また、家族を殺されて虚無的になった戦闘少女というキャラについて、これを短篇ですぱっとまとめるわけではなく変に尺をたっぷりとって描き始めると、まあ戦国時代だからそういうヤツもそこそこいるんじゃないの、という凡庸さが目立ってくるというか、レイリとは果たして注目する価値があるキャラなんだかそうでもないんだかよくわからないことになってしまう。

 あと、これは俺が日本史音痴だからというのもあるんだけど、レイリが所属する陣営である武田家について、信玄亡き後の戦国時代におけるポジションがどうもよくわからず、仮にレイリというキャラを抜きにして、歴史的に見た大きな物語としても、作中で何が起きているのかもよくわからない。

 レイリ個人に注目しても、あるいは史実に焦点を当てても、結局なにが起きてるのかよくわからないまま2巻まで来てしまった。3巻でようやく血戦がはじまって、少し面白くなったけども。

 

 で、4巻である。端的に言う。4巻、面白かった。

 

 徳川家康とその背後にいる織田信長にらまれ、レイリの命の恩人である岡部丹波守が窮地にいる状況。レイリがその影武者を務め、自らの主君ともするところの武田信勝は岡部守を救わないと決断するが、レイリはこの考えに反し、独断、丹波守が籠城する高天神に向かう。

 信勝に顔立ちが似ていて、剣の腕が立つ。それだけが、レイリが信勝の影武者を務められる理由であって、それはそのまま、俺のような読者がレイリの物語に付き合う理由でもあった。そして、その理由はこう言ってはなんだがそれほど心に訴えてくるものではなかった。

  しかし。到着した高天神にて、並み居る武将を前に信勝顔負けの戦略論をぶったシーン、これがとてもよかった。死にたがりのレイリの性格と、彼女が示した能力の高さと、物語的にようやく天秤が釣り合って、自分では死にたいのに周りを力づけることもできるようになって、この娘はこの後どうなるんだろう、と久しぶりに物語のこの先が読みたくなった(偉そうなこと書いていすぎる。スミマセン、スミマセン)。

 

 さらによかったのは、レイリが独断で高天神に向かおうとするところを、信勝の側近でありレイリ自らひそかに思いを寄せる? 相手でもある土屋惣三に止められ対峙する場面で、勝手に行ったら死罪、と宣告する土屋に対し、だったら斬れ、とレイリは言う。

 二人は一度剣を交わしたことがあって、土屋の方が強いのだが、いまのレイリにはそういう実力とはまた別の凄味がある。もちろんお互い憎しみあってはいないけど、それぞれが戦国時代の一介の兵士として、自らの恩人や主君に対し軽んじることのできない忠義を抱えている。向き合いながら徐々に緊張感を増す二人の表情を、ひとコマひとコマ切って画面に落としている。 

 以前だったら、ただでさえ展開が遅いのにここで時間かけないで…と思っていたはずのシーンで、それが評価が逆転してしまったのは、俺の中で『レイリ』の見方自体が大きく転回させられたからだと思う。この二人が組んだのに、あんまりだな? という以前の評価が完全にひっくり返った。ちなみに、ここはレイリの表情の画もすごく良かった…。

 

 その後レイリは高天神に到着、さらに、どん詰まりになっていた戦局に突破口を開いてみせ、さらなる活躍を見せる予感とともに4巻は終わっている。さあここから、あらためて死にたがりの部分をどう取り込んでくるかが見たいと思う。4巻にしてついに、いいぞ、『レイリ』、と思う。以上。