惨状と説教

誰か山から降りてきてほたえてから山に帰っていく記事。ブログ

『ゴールデンカムイ』18巻がすさまじかったことについて

 ネタバレを含むので、未読のファンの方は注意


 面白いのはいまさら言う必要もない…はずの漫画なんですが、18巻(の後半)がマジですごかったので、つい感想を書きたくなりました。
 演出というのか、伏線というのか…。
 伏線という表現を使うのにちょっとためらうのは、ある一コマが俺を激烈に感動させた理由が、なんというか、狙ってやっているのかどうか不安なところがあるから。
 でもたぶん意図して仕込んだもの、ネタとして前から寝かせながら、虎視眈々とタイミングを計っていたものだと思うんだ、やっぱり。


 皇帝暗殺事件を起こして逃亡中の、ウイルク、キロランケ、ソフィアを描くエピソード。

 三人がそこで出会ったのは、ロシアに渡って現地で妻を持った、長谷川という写真師だった。三人は長谷川一家のもとに身を寄せる。もちろん身元は隠して。
 ある日彼らは警察の襲撃を受けるが、狙われていたのは実は長谷川の方であることが後に判明する。身分を偽っていたのは長谷川も同じで、彼は実は日本軍のスパイなのだった。


 で、すさまじいのはこのエピソードの最終盤。
 長谷川は、ウイルクたちが警察と繰り広げた銃撃戦の中の不幸な偶然で、いままさに妻を喪おうとしていた。
 いまわの際の妻に、長谷川はある告白をする。
 「私の名前は長谷川幸一ではないんだ…」
 この一コマを読んだとき、俺はものすごい鳥肌が立ちました。
 たぶん、演出上の「本命」は次のページの大ゴマなんです。でも俺はその前のこのコマにこそ『ゴールデンカムイ』のすごさが詰め込まれていると思う。
 セリフを目にしたとき、脳内をブワァッと色んな想像、そして気づきが駆け巡ったんです。
 名前の告白というこの場面で思い浮かべたのは、きわめて重要な人物であったにもかかわらず、いまだに名前に不確かな部分が残っていた「彼」のこと。
 そして、その「彼」がもし、アシリパの父親やキロランケとすでに接点を持っていることになったらどうなるのか、という戦慄。
 考えてみれば、長谷川がキロランケと共闘するときに登場した武器も象徴的で。


 とにかく名前。名前なんですよ。
 前から明確な疑問を抱いて怪しんでいた人もいるんだろうけど、俺の中では「まあそういう扱いのキャラクターなんだろうな」という認識…というか、意識さえしていない。
 逆に言えば、無意識には違和感を抱いていたのかもしれなくて、そんなちょっとした引っかかりまで利用されてしまって、はたしていつからこれを狙っていたのか、満を持してここで開放したのか、と思うと、もう感嘆の声しか出ない。
 「長谷川は実は日本軍のスパイだった」という真実が、さらに大きな真実を心理的に隠す構造になっているところも憎いですね。一つ謎が明かされると安心してしまうもので、それ以上なにかあるのでは、とはなかなか疑えないので。
 すげーな、と思いました。完全に参りました。


 今巻でもう一つ感動したのが、アシリパたちを追う杉元一行が目にした謎の木彫り人形(なにかの動物を模したものらしい)のネタばらしが最後のページでされるところ。
 なんというか、地道な取材の積み重ねと強靭な発想力の一端がわかった気がして感激しました。
 たぶん、取材中に人形の実物を目にする機会があって、「これ○○? とうてい見えないけど」ということがあったんじゃないかと思います。それを練って膨らませて、あの答え合わせにたどり着いたんだと思います。これが、クリエイターの頭の中をのぞけた気がしてよかった。


 そういうわけで俺は大変感動しました。奇跡のような漫画だな、とつくづく思います。以上、よろしくお願いいたします。

蝉の成虫の寿命が一週間であるわけがないことと、ナマケモノからナマケモノへのお願いについて

 あるところに昆虫好きの少年がいた。
 近所の木が咲かせた花にクマバチがやってくれば虫取り網を振り回してそれを追いかけ、夏に公園のクヌギに勝手に黒蜜を塗っては、仕事で疲れた父親を付き合わせて早朝にそれを見に行く。
 暇さえあれば、当時は実物を見ることなどとうてい叶わない、怪獣のような海外のカブトムシやクワガタの写真を頬を上気させながらみつめて、チラシの裏に下手くそな絵で熱心にそれをスケッチした。
 ある日のこと、少年は何人かの他の子供たちと一緒に、引率の大人に連れられて近所を散歩していた。
 昼間だったが、子供たちは途中でとても珍しいものを目にした。ちょうど一匹の蝉が、木の枝から体を吊り下げながら、羽化しているところだった。
 昆虫好きの少年は、図鑑で覚えた知識をひけらかすつもりでこう言った。「蝉は羽化してからだいたい2週間くらい生きるんだよ」
 口にすると同時に、彼はおさな心にある感情がわき上がるのを感じた。
 それは恐れだった。
 「蝉の成虫の寿命は一週間であること」。
 この俗説が世間に広く知れ渡っていることも知っていた彼は、「一般的には一週間しか生きないとされているけど、実は、」という部分を省いてしゃべってしまったことで、自分が単なる無知として扱われる可能性があることに気づいたのだった。
 果たして、少年は他の子供たちからいっせいに馬鹿にされ、「蝉の寿命は一週間」という当たり前の「常識」を知らないマヌケの烙印をおされることになったのである。
 それから二十年以上の時が流れた。
 あのとき自分が「だって図鑑に書いてあったんだ」と反論したのか、ただ黙りこくっていたのか、それは定かではないが、少年は大人になったいまでも、まだあのときのことを覚えている。

 

headlines.yahoo.co.jp


 という記事を見たのである。
 見た瞬間、少年こと俺は黒いギラギラとした恨みの炎が時を超えて自分の身を焦がすのを感じたし、よせばいいのにこの記事に関するSNSの反応を調べたせいでその炎の大きさがさらに増して爆破炎上することになった。


 誤解されないように強調するのは、研究に臨んだ高校生とその成果を、批判したりいやしめるつもりはみじんもないこと。
 彼は小さい頃の俺がいつかなりたいと思っていた姿そのものだし、スーファミやプレステがいつしか人生の中心になってしまった俺が(別にそれがいけないわけじゃないけど)、結局なれなかった、理想そのものだからだ。
 昆虫が自分のすべてだった頃の俺だって、結局図鑑の説明をなぞっていただけでそれを自分で検証したわけでもないし、彼へのリスペクトは欠かせない。


 しかし、とにかく二十年以上前の図鑑に、「寿命:2週間程度」という記載はあった。
 そして、これがちゃんと根拠を持つものであるなら、俺が怒りを抱くのは、「事実」から「誤解」へととっくに変わっていた俗説について、まるではじめてこれが覆されたかのような書き方をした新聞と、それをそのまま受け取って騒ぐ人々だ。
 羽化した蝉が一週間で死ぬなんてのは、見た目が毒々しいキノコは危険だが地味なやつならすべて食える、ぐらいの、いわば有名さと誤っていることとが自然にセットでおさえられているべき「有名な誤解」に過ぎないと思っていた。
 だからついでに言えば、『八日目の蝉』という本のタイトルがあるが、自然界で蝉が八日目を迎えることは普通のことで、一週間しか生きない、という説を下敷きにすることでシンボリックな響きを持っているけれど、現実には八日目を迎えた蝉は長生きでも特別でもないのだ。


 そりゃ俺も子供の頃は、蝉が実は一週間以上生きるという情報を特別な知識だと思っていた。だからこそ自慢げに話したわけだし。
 しかし、幼い頃に図鑑で見たことなんかなくても、成長してからなんかのタイミングで知識として入ってきそうなもんだ。

 それなのにこの記事を受けて、常識とされていることを疑うことの大切さ云々、とかSNSでさらっとまとめられると、おいおいちょっと待ってくれよ、と思う。

 俺は虫が好きだったから図鑑を読んで知ったけれども、別にそうじゃなくてもいい。
 昆虫なんか興味なくても、蝉について気まぐれにググッてみて目にするのでもいい。
 昆虫好きの変わり者とだべる機会があって、豆知識を聞かされるのでもいい。
 なんだっていくらだって、チャンスがあったはずなのだ。
 疑いを持つ姿勢とか、なんというか、そういう漠然とした心構えの問題じゃないのだ。

 なんでか知らんが虫が好き、とかの天与の熱意があるんならともかく、そうでもなければ専門外の知識にぶっつかる嗅覚を養う経験とか人付き合いとか、要は物を読んだり聞いたり人と会ったり、常識から抜け出すというのは、そういう地道で具体的な勉強に帰結する話なのだ。
 反骨精神でも俯瞰的な視点の獲得でもなんでもいいが、その手の精神論は結局怠慢なだけだし、その人たちのいう「常識」とやらも、そんな気の持ちようで壊されるほど脆くないはずだ。


 怠慢。そう。怠慢ね。


 グサァッ、というのは、俺が「何が常識を疑うだ、食らえこの野郎」と言って投げたブーメランが秒で俺の頭に刺さった音。

 


 なぜなら実は俺も怠け者。俺の方はというと、常識がまったくない。疑うべき常識がない。
 それは別に俺が反骨的に生きてきたからではなく、単に、「普通」を学ぶことに対する努力ができなかったからだ。下着を毎日変えるのがめんどくさい、というのにも似た、努力でさえない当たり前の日々の営みができないのだ。
 だから社会人として、あるいは30過ぎた大人として、毎日めちゃめちゃ苦労している。みんながすいすい済ませていく、なにをそんなことで…というようなことでいちいち悩んでいる。
 繊細なわけでも思慮深いわけでもなく、単に普通のやり方を学んでこなかったから。蝉が一週間で死ぬと思っている人たちは、俺を見てきっと引くだろう。なんだこいつ、いい歳こいてこんなやついるのか、と思うだろう。
 ちくしょう、と感じるが、頭に刺さったブーメランから派手に流血しながらどうしようもない。


 なんの話だかとりとめもないが、とにかく蝉は一週間では死なない。そんなことは前から判明していた。
 俺はとりあえずもう少し普通を頑張る。具体的には昨日はいた靴下を、まあいいか、つって今日もはくことをやめたりとか。常識を学ぶ。
 だからみんなも蝉について学べ…というわけじゃないが、気軽に常識を疑うとかどうとか言わないでほしい。
 そいつは才能や努力の果てに結果として達成されるものでしかなく、平然とそう口にするのは高邁なようで実は怠慢のひとつのかたちに過ぎないし、何よりも常識ってやつは、基本的にそれなりに大事なもののはずだからだ。
 常識ってもののおかげで、いい歳して身の振り方がわからず、半日オフィスや自室の隅で固まってる、そういうやつにならずにすんでるかもしれないだろう? って俺はそう思うんで、以上、よろしくお願いいたします。

汚物について

 一週間のうちほとんど感情を動かさず表情も変えることなく生きているが、たまに飲み会に行くとたくさん愛想笑いをすることになるのでなんとなく帳尻が合うようになっている。
 救いがたいのは、興味もなく噛み合うこともない会話の中に自分なりに寂しさが埋まる部分もあることで、なんだかなあ。もう少し上等に生きられるつもりでいた。
 飲み会がハケて東京駅から、始発の中央線に乗る。俺も交えて、乗客たちはみな多かれ少なかれアルコールを呼気に溶かして、ぐったりと、あるいは同乗者とげらげら笑いながら発車を待っている。
 みんな消えてくれ、と思う。消えてくれ。一人残らず。その中に俺のことも含めて。全員この世から消えてくれ、と思う。
 目の前の座席に、誰かが何時間か前に吐いたのだろうゲロが固まっていて、不快感はありながらも、俺は酔いが回った頭なりに、わずかに残った冷静さのかけらみたいなものでそれを眺めていた。
 若い女性、サラリーマン、若くない女性、一人一人その座席の前までやってきて座ろうとしては、たぶんゲロに気づいてうっ、となり、たじろいでその場を離れていく。俺はそれを見ている。性格が悪いのだ。座ろうとしてゲロを見て慌てる人たちをじっと見ている。


 アーシュラ・K・ルグウィンの小説に、『オメラスから歩み去る人々』という作品がある。
 あるところにオメラスという町がある。オメラスは理想を体現したような素晴らしいところだが、そこに暮らす住民たちはみな、自分たちの住む理想郷のある秘密を知っている。
 オメラスの奥深く、そこに、あまりにも不潔な狭い牢屋があり、その中に一人の子供が閉じこめられている。そしてオメラスの繁栄は、この子どもの苦痛と絶望と引き換えにもたらされているのだ。
 理屈はわからない。しかしとにかく、オメラスの多数の人々の栄華は一人の子どもが地獄の苦しみを味わい、汚物にまみれて沈黙していることと引き換えにもたらされている。そして、オメラスに暮らし続ける人々は全員、そのことを理解しているのだ。


 いま、電車に座る俺の目の前にひからびたゲロがあって、電車は東京駅を出て神田、御茶ノ水と進んでいくが、そこに座ろうとした人はみなゲロに気づいてあわてて飛びのいてそこから離れていき、誰も座ることがない。


 俺は何でこんなことを考えるのかわからない、そもそも目の前のゲロとは関係ないし『オメラスを歩み去る人々』とも関係ないとしか言いようがないが、金曜日の深夜にだらだらと電車に乗り込んできてもう何も考えたくない、という表情の人々、どこから前借りした元気なのか同行の知り合いとげたげたと車内で下品に笑う人々が、たかが一つのゲロにああも狼狽しているのを見て、あることを思う。
 俺たちが日常の何かを冷静に少し見直すこと、あるいは少し諦めること、みんなでみんないっせいに、「くだらないからやめた」と言ってしまうことが、どこかの誰かを、あるいは俺たち自身を、週末のしょぼい気晴らししかないこのどうしようもないゴミそのものの生活から楽にしたりしないだろうか、と思う。その何かが何かはわからないが、なんとなくそうじゃないかと思う。
 なんでかは知らない。知らないけどそう思う。たぶんそれでもみんな、本当は無意味そのもののクズのかたまりを大事に抱えながら、わずかな汚物を踏むことを恐怖しながら生きていくことから逃げられないことを理解しながら、そう思う。
 以上、よろしくお願いいたします。

悪夢について5

 勤め先に行くために、どこかの駅で切符を買おうとしていた。
 券売機の調子が悪いのか、硬貨の状態がよくないのか、機械が何度小銭を入れても受け付けてくれない。自分の後ろには切符の購入を待つ人たちが並んで列をつくっている。
 列はどんどん長くなっていく。焦って投入を繰り返したが、まったくダメだ。周囲の人たちは苛立って、その怒気が空気にじっとりとにじんでいる。
 唐突に、近くにいた男に足を蹴り飛ばされた。自分は、恥ずかしさと混乱で一瞬呆然とした。それから、一挙に、強い怒りがわき上がってきた。
 「いま、あなた蹴りましたよね」
 「蹴ってねえよ」
 「蹴りましたよ。どういうつもりですか」
 「蹴ってねえって」
 男は馬鹿にしきったようにへらへら笑っている。
 「ふざけないでください。警察に一緒に来てもらえますか。続きはそこで話しましょう」
 服をつかむと、強引に男を引っ張って駅を出た。ふと、このままだと会社に遅刻する、という考えが頭をかすめた。
 しかし、男を連れて歩き始めてしまって、もう後戻りができない。悔しさと怒りで頭が煮えたようになっている。男の方は、警察に行くというのに、少しも焦らないであいかわらずにやにやしていた。
 街にはあまり人がいなかった。辺りには白くまぶしい光が射していて、建物も道路も穏やかに静まりかえっていた。
 一本の道を通り越して歩き続けようとしたとき、男はだるそうな声で「おい、こっちだこっちだ」と言った。その言葉で、いま過ぎ去ろうとした通りを見たら、その奥に交番が建っていた。なんだか涙が出そうになりながら、男を引きずってずんずん歩いた。
 交番の中に入って声をかけようとしたら、それよりも早く、とても警察官には見えない髪を茶色く脱色しただらしない格好をした男が、「電話」とだけ言って、古めかしい黒い受話器を自分に押しつけた。
 受話器を耳に当てると、向こうから職場の上司が「おまえいまどこにいるんだ」と冷たい声で言った。
 反射的に時計を探した。交番の壁にかかっている時計は、始業時刻を40分過ぎたことを示している。
 自分は激しい動悸を感じながら、「遅れました」と、まったく答えにならないことをつぶやいた。視界の向こうで、自分が連れてきた男と警官が並んで、旧知の仲のような親しさを漂わせながらにやにや笑っている。
 「理由は」 聴いたこともない、突き放したような声音だった。自分は頭が真っ白になって、自分がそれに何を答えているのか、そもそも何かしゃべっているのかさえわからなかった。そのつかみようがなくぼんやりした隙間に差し込むように、「ずっとそうなんだよ。だからおまえはそうなんだよ」と誰かが言ったが、それが連れてきた男と警官のどちらなのかはわからなかった。

「NGT加藤美南が研究生降格」という見出しから感じる違和感について

 ファンの方には悪いのだが、○○48とか○○坂とかの界隈が嫌いだ(ひとくくりにするのもまずいのだろうか?)。
 メンバーのことが、ではなく、あくまで彼女たちの周囲に漂っている空気感、事業全体が形成している雰囲気みたいなものが。
 俺はあの界隈を、割と積極的に嫌っている。


 今日、「NGT加藤美南が研究生降格」という記事の見出しを見て、強烈な違和感を覚えた。その正体について考えてみたら、なんで俺があの界隈のことが嫌いなのか、その理由の一端がわかった気がしたので、書いておく。
 事前に断っておくと、記事に出てきた人を含め、いかなる特定の個人を批判するものではないし、反対に、擁護するものでもない。誰が悪いとか良いとかの話ではない。あくまで事業全体に対する批判である。
 読んでみて、こいつは何にそんなにムカついているんだろう?と感じる方もいらっしゃるだろう。俺もうまく説明できる自信はあまりないんだけど、がんばって書いてみる。

 

 ことの次第はつぎのようなものだ。先日から報道されているNGT48のメンバーに対する暴行事件と同メンバーの脱退をめぐり、別のメンバーの一人が内輪向けにメッセージを送信しようとしたところ、それが誤って外部に発信された。誤送信した者は、内容の問題性により、「研究生」に「降格」させられた。
 読売新聞を含む多くのメディアが「研究生」への「降格」を伝えており、記事の元と思われるNGT48のHPでも同じように公表されている(そもそもこちらが情報の大元だから当たり前だけども)。

 「研究生」に「降格」。
 「研究生」に「降格」ね。

 

 …それはいったい、なんなんだ?


 軽いとか重いとかではない。それ以前に、どういう意味合いを持つ、どんな罰なのだ?


 俺の苛立ちはごく単純に、そこに尽きる。「研究生」に「降格」ということの意味が、文字通りわからないということ。
 もちろん、ググればわかるだろう。

 逆に言えば、ググらなければわからない(俺はね)。
 それは、ステージに上がれないということなのか?
 ファンとの交流が一切できないということなのか?
 給料が出なくなるのか(そもそもどういう雇用契約なのか知らないけど…)?
 正規のメンバー(?)と「研究生」は何が違うんだ?
 「研究生」になるとは、要は今の立場から何を失うことで、どういう点で「罰」なのだ?
 謹慎ならわかる。
 活動自粛もわかる。
 減給もわかるし、除籍もわかる。
 「研究生」に「降格」は、わからない。

 上で書いたとおり俺はこの界隈が嫌いだし、あまり興味もない。
 暴行を受けたメンバーの方は気の毒だと思う。被害者は保護され、支援されるべきだし、加害者も加害者にくみする者も罰されるべきだと思う。しかし、なんだか申し訳ない気もするが、他のニュースと比較して関心があるかというと、正直ない。
 ただ、今回のこの報道については、公式の広報のしかたにも、それをそのままコピペしたようなかたちでニュースにしたメディアにも、強い不快感を感じたのだった。

 

 「え、要は自分がよく知らない世界の用語だから意味が理解できないってことですよね?」
 まあ、そうなんです。
 「よくわからないんですが…それの何が、そんなに嫌なんでしょう?」

 

 当然そうなるだろう。だから、俺の個人的な怒りをできるだけ理解してもらえるように説明してみようと思う。

 「研究生に降格」という表現は、罰則の内容を説明する上では「閉じられた」言い方だ。なぜなら、部外者にはそれがなにを意味するのかちっともわからないからだ。

 だからまず、新聞を含むメディアは、アイドルに興味がない人も目にする可能性がある以上、この表現を使いまわす以上ことがどれだけ自分たちの役に立たなさ、どうしようもなさを証明するものであるか、理解してほしいと思う。

 そして、メディアは言語道断として、俺は公式HPがそもそもおかしいし、もっと言ったら危ういと思う。
 なぜか。
 ここからが重要なんだけど、その理由は、ペナルティを閉じられた言い方で説明しようとする=外野は別に理解できなくてもいいし、説明する必要もない、という姿勢は、罰の内容そのものも、やがて閉じられたものにすると思うからだ。
 罰の内容が閉じていくということは、もしもこの世に一般的に適用されるべき正義や常識というものがあるなら、そういうものから外れた、その業界、文化でだけ通用するルールによって人が裁かれやすいということだ。
 そしてそういうルールは、得てして過剰に暴力的になったり、果てしなく無意味になったり、その両方になったりする。
 たとえばシノギをしくじったヤクザが小指を詰めるとか。
 連合赤軍のメンバーが自分の意志の弱さを私刑の中で「総括」させられるとか。
 魔女だと決めつけた女性に石をくくりつけて水に沈めるとか。
 それらの罰は、その共同体の中では意味があるのかもしれないが、外部から見ればまったくちんぷんかんぷんで、暴力的で、意味がない。


 もちろん、ペナルティとはある程度、それを受ける者が所属しているグループによって特色を帯びるものだ。仮に同程度の悪事を犯しても、組織によって罰が異なることもあるだろう。
 しかし、だからこそ罰則というのは、正義や常識というものに常に接続しようという意識が必要になると思う。そして結局、一般的な感覚とちゃんとつながっているということがどこからわかるかといったら、それはそのペナルティの内容について、部外者にもわかりやすく説明ができるということなんじゃないのかな?

 くだくだと書いたけど、要は「よくわからねえから気にいらねえ」ということだ。別にそれでいい。
 どうも運営は(ついでにメディアも)「研究生に降格」という表現で十分だと思っていて、それが公正な言い方で判断として成熟していて実はちょっとそういう表現をすることが秘密っぽくてカッコいいと思ってるのかもしれないけど、別にそんなことねえよ。なにがなんだかあやふやでムラ社会的でヤンキーっぽくてオタクっぽくて自己中心的で幼稚でクソだせえんだよ。

 若くて可愛い女の子たくさん集めて、一大規模で事業興して、トラブったときの対応がどっかのバカなガキレベルか反対に妙に世慣れてそこらの人間見下してる大人みたいで胸くそ悪いんだよ。

 
 もう一つ、何か言うことを付け加えることを許してもらえるなら、そういう、わかる人だけわかればいい=わからない人はわからないか、ググればいいって態度が、今回の事件がどうしてこれだけの騒動になって批判されているかの原因を、端的に表してるんじゃないかと思う。
 くどいようだけど、特定の個人を擁護したり批判したりするつもりはない。誰か、ではなく、あの空間とそこに渦巻くルール自体が嫌いなのだ。今回の件でよくわかった。
 なんだか変な文章だけど、好きなことを書かせてもらってありがとう。もしファンの方で最後まで読んでくださった方がいたら、気を悪くさせる文章ですみません。

 あとは、「研究生に降格」という言葉の意味が、俺が思っている以上にふつうの常識であったという展開にならないことを祈るばかりです。以上、よろしくお願いいたします。

 

『レイリ』完結に寄せる言葉について

 完結しました。お疲れさまでした。

 

 実を言うと、たかがいち読者の身で勝手ながら、この6巻を読み始める前は不安がありました。

 以前、記事でも書いたことなのですが、物語の開始当初からどうにもストーリーのエンジンがかかるのが遅すぎると感じていたところ、これがついに盛り上がってきたのが4巻で、と思ったら結局6巻で終わりになってしまうという。

 どうも急な印象があり、もしかして打ち切りなのでは、と思った。作画の室井大資が携わっている『バイオレンス・アクション』の現況もあって、『レイリ』についても、なにかすったもんだがあった末の終了なのでは、という邪推もあり。

 要は、物語としてちゃんと閉じられているのだろうか、というおそれがあったわけです。

 結論として、まったくの杞憂でした。素晴らしい幕引きだったと思います。

 で、物語の締め方の美しさとともにある感想も抱きました。

 それは次のようなことで、史実の出来事の中でも割りと小さいな規模のものに終始した印象のある本作、よく言えば大河の傍流、悪く言えば地味な部分が取り上げられているイメージでしたが、実は歴史の大イベントど真ん中にぶっ刺さってる箇所、伏線もあったということ、それでいて、単に歴史の影に隠れたすごく重要なストーリーなんだぜ、というだけでない、不思議な清々しさがあることです。

 

 大イベントにからむのは織田信長をめぐる部分で、対武田家という意味では今作で武田に完勝しているといっていい信長が、武田信勝の偽造した手紙に心打たれた明智光秀によって、最終的には討たれるという構造になっているところです。

 これはある意味、悲劇の天才である信勝が、滅んで消えゆく武田軍という歴史の端っこのポジションと短い生涯を飛び越えて、史上の大イベントを呼び起こしたということです。そしてこれを考える上で、信勝は偽造した手紙の差出人こそ偽っているけれど、そこに書かれた言葉は本心から出たものであるというのも重要なところだと思います。

 失敗続きの不器用な父への愛情と、そうした人物こそこれからは人を束ねる立場に立つべきであると判断する慧眼によって、歴史の流れを大きく決定づけたこと、それがこの話のミソだと思います。

 

 もう一つは、せいぜい雑魚の群れ相手に無双したり友軍の敗戦処理を手伝ったりといった規模で戦っていたレイリが、実は徳川家康という戦国の最終勝者の文字通り背後を二度も取り、その気さえあれば首級を獲れる活躍をしているところです。

 レイリ=零里とは、もともとはいつまでも家族のそばから離れないことを願ってつけられた名前であり、それが後に信勝の影武者として主君とのゼロ距離という意味も兼ねることになったのだと思うんですけど、この家康との奇縁を考えると、実はこの大将軍との「レイリ」もかかっているのでは、と、これは深読みかもしれませんが、そんなことを思います。

 

 上に書いた信勝の手紙と光秀の件も含め、この物語の中ではいわゆる歴史上の大イベントとそうでもない部分がつながり、あるいは単に混在していて、これは、一般的に感じる、たとえば日本史のテストで点を取るときに意識されるような「重要な」部分とそうでない部分をあえて並べ、たいらな視点で見直すこともテーマなのではと考えました。

 天下の徳川家康が一人で立ちションしてたら一介の女剣士にあっさり背後を取られる場面、あるいは物語の最後が大河とか一大叙事詩とかまったく関係なくああいう感じであったことも、なんとなくそれを象徴しているような気がしないでもないです。

 

 あらためて、よい物語でした。原作の岩明均には引き続き『ヒストリエ』をがんばっていただくとして、室井大資には『イヌジニン』の続きをとても描いてほしいのですが…。どうでしょう。

 作者のお二人に、重ねてお疲れさまと申し上げます。以上、よろしくお願いいたします。

クマバチ、犬、知的生命体、あるいは愛の辺境の美しさについて

ムダなことがこぼれそうでも 交尾のための生じゃなく


 スピッツの『ハイファイ・ローファイ』という曲の一節で、はじめて耳にしたときの年齢が10代半ばということもあって、こころの芯を突き刺されたような衝撃を受けた。
 16~17の頃といえば基本的にエロいことしか考えておらず、1日のうち30時間はエロいことを考えているというある意味ジャック・ハンマーのような状態であったため、「交尾のための生」という言葉も、そこで歌われている心情も、聴きながらどこまでも深く身にしみるところがあった。
 交尾のための生「じゃなく」と否定してみせてはいるものの、そうやってあえて否定することがかえって、それがこころの中でどれほどの存在感を示しているかを際立たせているようで、また、さすがにそれだけでは自分の人生いけないだろうという、他人からすればこいつは一体何を悩んでいるんだという感じの、しかし切実でもある、危ういバランスがここでは歌われている気がした。


 先日、公園を散歩しているときに一匹のクマバチを見つけて、唐突にそんな過去のことを思い出したのである。
 クマバチというのは体長2cm強ほどのずんぐりした大型のハチである。穏やかな性格で、いじめたりしなければ刺されない…というか、オスの方にいたっては刺すための針さえ持っていない。
 俺が公園で見たそのクマバチは、空中でぴったりとホバリングしており、俺が完全に不審者と化してこれを観察していると、どうやらハチの近くを他の昆虫が飛んで通りすぎるたびにすごい速度で飛空してそのあとを追いかけ、また元の位置に戻るのを繰り返しているのだった。
 何をしているとかというと、つがいになる相手を探しているのだ。
 観察するほど、その異次元の運動能力に驚かされる。
 糸で吊ったように長時間空中で制止しつづける制空力、体力、同族を見つけたと思うやいなや瞬時に最高速度に達する加速力。
 いったいどういう体構造と筋肉をしているのか…。
 また、別にずっと飛んでいないで、どこかに止まって相手を探せばよさそうなものだとつい思ってしまうが、そういうことでもないらしい。
 感心する。と同時に、たぶんここで大切なのは、あくまでクマバチとはそういう生き物であるということを、ちゃんと承知しておくことなんじゃないかな、と思う。
 どういうことかというと、こういうときに俺達はついつい、「自分はそこまで熱心じゃない」とか、「一途じゃない」とか、自分を基準に考え、相手をまるで一生懸命な性格であるかのように擬人化してしまう。
 しかし、そもそもクマバチというのはそういう「種」なのだ。まあ中にはナマケモノの個体もいるかもしれないけど、交尾のための生として、命のすべてをそこに注力すべくつくられ、生きているのだ。
 人間とは根本的にそこが異なっていて(10代男子は別とする)、この生き物に敬意を抱くときも、この決定的な違いを忘れてはいけないような気がする。


 

秋田犬わさおの妻「つばき」が死ぬ 「人間の夫婦のようだった」 - ライブドアニュース

 なんだか違和感のある題名だな、と思ったのだが、後から考えるに、要は「関係ねえだろ」ということなのだと思う。
 別に、人間のようであることが高尚であったり、犬の愛情としての価値であるわけではないし、犬には犬の世界なりの良い「愛」があるんじゃないか、と思うので。
 記事を読んだら、世話をなさっていた方の感想から取ったタイトルのようでかなり罪悪感が…。でも、思ったことは事実なのだ。


 人間以外の生き物に接するとき、そこに人間らしさを感じるかどうかで、どうしてもその種族に感じる親近感とか、可愛いと感じる気持ちとかが左右される。それは当然のことだし、興味や愛着を持つ理由としてはなんの問題もない。
 ただ、先ほどのクマバチの例でも書いたように、それだけだと目の前の生き物を、人間に似た何かではなく、その種族そのものとして観察する視点がずっと抜け落ちたままになる。
 俺はそれはまずいと思うんだよな。特に明確な根拠はないけどまずいと思う。だって結局相手は人間じゃねえんだもの。


 最近、『深海のYrr』という小説を読んで、フィクションの中の話ではあるけれども、意志を持った相手と接するとき、人間を基準に相手の心情を想像すると大きな過ちを犯す可能性があることが書かれていた。人間と同じように考え、学ぶことができる生物でも、「愛」が意味すること、生きる目的、死の重ささえ、まったく異なっていることがありうると思うし、そのうえで相手を尊重したり敬ったりする方法とか、あってもいいんじゃないの? と思う。


 例えば動物の殺処分に関する情報に触れ、檻の中で死を待つ犬や猫の写真に心を打たれるとき、また、それが我々の何かの行動につながるとき、そこで大きな役割を果たすものとして「擬人化」の効果を無視することはできない。
 それが難しいところで、彼らのことを完全に別物として理解しようとしろというつもりもないし、そもそも動物と長いこと接している方はいちいち言われるまでもないことなのかもしれないが、俺は、自分とは違う生き物のことを、人間に寄せて想うだけではなく、俺たち自身からできる限り離れたところでその愛情について考えてみることも想像力って言うんじゃないか? って最近けっこう思うので、以上、よろしくお願いいたします。