惨状と説教

誰か山から降りてきてほたえてから山に帰っていく記事。ブログ

中華版自分探し、古希にしてついに終了。『太公望伝』の感想について

はじめに

 時節柄、外出が気ままにできない(特に遠出)。

 そのせいか、気持ちの面だけでも遠くに行こうと諸星大二郎作品ばかり読むことになる。古代中国、隔絶された山村、っていうか普通に異界。そんなのばっかり出てくる。

 

太公望伝』

 というわけで太公望伝である。諸星作品には珍しく、超常的な存在との接点はあまりない作品だが、これが久しぶりに読み直したところたいそう面白かった。

 ちなみに太公望とは歴史上の人物であり、『封神演義』なんかにも登場する。

 本作では、人身供犠のために殺されかけていた奴隷であったのが、供物としての数を合わせるために気まぐれに放免され、それから徐々に立身していくキャラクターとして描かれている。

 

 そんな『太公望伝』は、ひと言で言うと自分探しの物語である。

 自分探しと言うと、若者の自意識とモラトリアムから煮出されくる、見る者の苦笑いと共感性羞恥をさそう青臭さの結晶、というイメージだが、『太公望伝』のそれはひと味違う。

 なぜならこの作品で太公望が「自分」を見つける(作中では釣り上げる、と

表現される。ちなみに釣り好きな人のことをそのまんま「太公望」と呼ぶことがある)のは古希、70歳を迎えてのことなので、かなり気合が入っている。

 

 たいていの場合、自分探しと言うのはどこか適当なタイミングで、「まあこの辺でひとつ、見つかったってことにしておくか」となる。「就活とかも控えているしな」なんていってなあなあにある。

 そもそも好きでやり始めたのはおめえだろ、という感じだが、探している本人も社会からの圧みたいなものにもみ洗いされて自然とゴールしていくし、年齢を重ねたあとは「あのときは…」なんて悶絶したりする。

 ポイントは、じゃあ果たして何人のワコウドが本当に自分を探し当てたのか、ということで、それをちゃんと完遂しきったやつは実際のところほぼいないのではないだろうか。

 恐ろしいことだが、マジモンでそれに全力で取り組もうとすると、一生ごとになるぜ、ということが『太公望伝』では描かれている気がする。マジで。

 

 ところで、諸星作品というと、登場人物の8割が強欲なおっさんとおばさん、じいさんで構成されることで有名である(望むものは不老長寿だったり莫大な富だったり世界の真理だったりする)。

 『太公望伝』を読むとあまりそういうキャラクターが出てこなくて、おや、と思う。

 主人公も欲望にあまり振り回されることのない人物だし、周囲のキャラクターもなんとなく小さくまとまっているというか、善悪はともかくド外れて壮大な野望を持った人みたいなのは出てこない。

 

 不思議だな、と少し思ったが、考えてみれば、やっぱり『太公望伝』もこうした諸星作品の系譜にちゃんと連なっている作品だと思うにいたった。

 というのは、不老長寿もこの世界の真実の探求も、ある意味「自分探し」みたいなものだからだ。

 「自分」には、あるいは自分が主役を張っているこの世界には、もっと隠された可能性があるはずだ、という感覚。

 壮大な、目もくらみ意識が陶然となるような神秘が世界には存在するはずだ、という期待。

 これらは言い換えれば、「自分探し」の変形と言える。

 諸星作品は実は、昔から一貫して「自分探し」を扱っていたのではないかな。それが『太公望伝』にいたって、珍しくというかついにというか、このテーマを真芯から描いた、というのが正しい理解かもしれない。

 

 そういうわけなんで読むといいですよ。

 30過ぎて心がブラブラしているままでこの作品を読んだら、俺よりもっと年かさの主人公が、ただ一人の伴侶に自分の心を打ち明けることもできず亡くしていき、自己流の思想まがいに入れ込んで人生を棒に振ったことにきづいて慟哭する場面が描かれていて、なんとも言えない気持ちになったことです(ネガティブな感情ではないが)。

 以上、よろしくお願いいたします。

 

諸星大二郎スペシャルセレクション 太公望伝

諸星大二郎スペシャルセレクション 太公望伝

 

 

 

遠くに行く(気持ちの中で)。『移動』をテーマにした創作5選+αについて ②

①はこちら。

 

『BLAME!』

 原作者である弐瓶勉自ら、「主人公は建物かも」と言ったとされる、巨大建築探索SF。

 物語の舞台は「基底現実」と呼ばれる超巨大構造物。

 なぜいちいち現実などと呼ぶかというと、主人公たちが目指しているのが、ネットスフィアと呼ばれる電脳世界へのアクセスであり、この仮想空間と対置されているから。

 

 設定を見るとゴリゴリのハードSFであり、これといった説明もなく奇態な単語が乱舞するが、とにかくフィクションにぶっ飛ばされてこの日常から解放されたいなら、心を無にして絵を眺めるだけでもいい。

 『BLAME!』」で描かれる階段、通路、エレベーター、壁をはうパイプやダクト類…。

 それらは無機質で、壮大で、空虚で、あまりに意味がない。

 近いテイストで言うと、『エイリアン』シリーズの巨大建築、『ブレードランナー』のビル群なんかが印象として似ている。

 しかし、たぶん『BLAME!』の方がスケールは馬鹿デカいだろう。

 なにしろ『BLAME!』の自動化された建設システムは、すでに地球を飲み込み、銀河系まで到達しようとしているらしい。木製まで到達した「ビル」。信じられるだろうか?

 

 この世界を探索する人間たちは(主人公は正確にはサイボーグだけど)、そのちっぽけさを極大に、残酷なまでに強調され、その存在には、あまりに無意味なこの巨大建築以上の無意味さしかない。

 それゆえに、彼らがときおり灯す希望の光、切実さはおそろしく尊い

 もしかすると、現実の世界の途方もなさと非情さ、そこに生きる人間の小ささと愛しさを、SFという形式によって正しい尺度で説明した唯一の作品なんじゃないだろうか、とも思う。

 

『トリコ』

 以前こんな記事を書いたことがあって、『トリコ』という漫画の魅力は『HUNTER×HUNTER』+『刃牙』であると。ハンタの冒険成分をベースに肉弾で殴り合ってもにゅもにゅ肉を食うから『トリコ』はおもしれーんだ、と。

 

 冒険感が最高潮を維持していたのは、残念ながら、12‐13巻あたりのグルメ界初挑戦あたりまでだったと思う。

 そこを機に少しずつ『ドラゴンボール』化していったというか、話の規模が大きくなるにつれて初期の生々しい魅力からはズレていった気がする(雰囲気が変わってもそれはそれで面白かったが)。

 

 逆に言うと連載初期の『トリコ』は本当に死地を冒険してる感満点で、先日ふと第1話を読み直したときも、その完成度、ワクワクさに度肝を抜かれた。

 強ければ生き、弱ければ死ぬ…と思いきや、弱いものは弱いものなりに生きるための知恵を尽くしている。

 それは生きがいとかいう漠然としたものでなく、生命体としてその環境で生存し続けるために。そして、強者がそれを無慈悲に食い散らしていく。

 野蛮で、泥臭くて、自然界における人間の脆弱さとしたたかさが同時に描かれるようなああいう作品、他にあるのかな、今後現れるのかな、と思う。

 

『はたらくカッパ』

 「遠くに行く」シリーズ大トリにして、最終兵器。

 逆柱いみりという漫画家を知っている人は知っているし知らない人は知らないだろうが、好きな人は、一度知れば生涯その創作をフォローし続けることになるんじゃないだろうか。

 俺も大学生のころにはじめて知って以来、10年以上追いかけている。

 ちなみに、その間に出された新作は『空の巻貝』『ノドの迷路』だけ。寡作なのだ(イラスト集も入れるともう少しある。『臍の緒街道』と『蜃楼紀』を持っているのは俺のちょっとした自慢)。

 

 系統としてはで紹介したpanpanyaに近く、何かしらの目的を与えられた主人公が、どこかしらを移動すること、移動それ自体がテーマになっている。

 ただ、逆柱いみりの描く世界はガチの純度100%、当局規制モノの異界であり、そのうえ常に生命の危機をはらんでいる。

 そこはかなりグロテスクでバイオレンスな世界であり、実際主人公の周りの人たちは、異常存在の攻撃によってばんばん死ぬ。

 

 もう一つ触れておきたいのは、そこで描かれる世界がまったくの混沌のようでいて、異界には異界なりのルールというか、「意味」があるように感じられるところだ。

 それは、独自の秩序によって行動しているらしい怪物たちもそうだし、なんなら風景の片隅で言葉もなく踊っている者、たたずんでいる者、何かを売っている者、ひとつひとつに意味深な背景がありそうに思える。

 俺たちがそこにどんな意味があるのか、知ることは絶対にない。しかし、逆に言えばどんな意味があるのか、いくらでも妄想していい。

 その気になれば、一コマあたり5分ぐらいかけて、じっくりそこで起きていることをイメージしたっていいのだ。

 

 今回は、作品群の中から『はたらくカッパ』を選んだ。理由は手に入りやすいのと(古いやつはプレミアがついてて買えない)、主人公のアンヌがかわいいから。

 九龍城、廃工場、アジアンマーケット、地下街、海底、その他あらゆる猥雑でうす暗いところ。

 そんなキーワードにピンときたら手に取って欲しい。

 

 以上、よろしくお願いします。 

増訂版 はたらくカッパ

増訂版 はたらくカッパ

 

 

遠くに行く(気持ちの中で)。『移動』をテーマにした創作5選+αについて ①

はじめに

 時節柄、なかなか外出ができない。

 実際に外を気ままにぶらつけないでいることより、『好き勝手出歩くなよ』という制限の存在の方が重苦しく、そのせいでかえって、ああ、遠くに行きてえな、という気持ちが強まってくる。

 

 そういうわけなので、頭の中だけでも、遠くに行った気分になれる物語を集めてみた。みんなこれを読んで、少しでも閉塞された日常を忘れるとよい。

 

『みるなの木』

 椎名誠の初期SFより。同氏の作品では、他にも『武装島田倉庫』や『胃袋を買いに』などもおすすめ。

 漫画で同じような感触の作品を挙げようと思っても見つからない、きわめて特異な作品群なので、小説から唯一、今回のテーマで取り上げた。

 

 俗に『北政府もの』と呼ばれている(らしい)これらの物語の中では、世界はもれなく破綻しており、化学兵器によって汚染されきっており、泥と雨、鉄錆の中を、異常な進化を遂げた生物たちがうごめいている。

 人間はその世界で懸命に、文字通り「命を懸けて」生活している。それは何かを守ることであったり、運ぶことであったり、攻撃することであったり、飯を食うことであったりする。

 

 この物語を読んでいると、小説とはまさに、文字と言葉で世界を創っていく行為なのだと実感する。

 ぎゅう、と圧をぎちぎちにかけて詰め込まれ、読むと湿気と怪奇生物の息遣い、機械油の匂いが立ち上ってくるような文章。何者なのかまったく説明もなく挿入される生物や植物の名前。

 人間はこの世界の中で、生き物としても、あるいは紙面上のスペースとしても、わずかな存在感しか与えられず、狭い隙間でかろうじて生き延びているに過ぎない。

 ただ、椎名誠のすごいところは、その限られた生存権の範囲で、人間の力強さ、生命力を負けずに描き出すところなんだよな。

 なお、似たような感触の作風でさらに世界の異常性を強化した作品に、酉島伝法の『皆勤の徒』がある。「理解したい」という読む側の気合いを試すようなハードコアな作品だが、椎名SF既読者には薦めたい。

みるなの木 (ハヤカワ文庫JA)

みるなの木 (ハヤカワ文庫JA)

  • 作者:椎名 誠
  • 発売日: 2000/04/01
  • メディア: 文庫
 
新装版 武装島田倉庫 (小学館文庫)

新装版 武装島田倉庫 (小学館文庫)

  • 作者:椎名 誠
  • 発売日: 2013/11/06
  • メディア: 文庫
 
武装島田倉庫 (新潮文庫)

武装島田倉庫 (新潮文庫)

  • 作者:誠, 椎名
  • 発売日: 1993/11/30
  • メディア: 文庫
 
胃袋を買いに。 (文春文庫)

胃袋を買いに。 (文春文庫)

 
皆勤の徒 (創元SF文庫) (創元SF文庫)

皆勤の徒 (創元SF文庫) (創元SF文庫)

  • 作者:酉島 伝法
  • 発売日: 2015/07/19
  • メディア: 文庫
 

 

『おむすびの転がる町』

 「街並み」を本気で描かせたら右に出る者のいない、panpanyaの最新作。

 気楽に外を出歩けなくなって実感したことの一つに、近所をフツーに歩く、という行為を自分がいかに愛していたか、ということがある。

 そういう意味では、地理的にどんなに遠くを、あるいは異界を描き出す作品よりも、その辺の街路を精緻に描き出した風景にいやしを感じるときもある。

 

 ポイントは、その精緻さが常軌を逸しているというところで、がっつりと陰影を描きこまれ、ときとして歪みを加えられた街の風景は、愛おしさと同時に、確かな恐怖をはらんでいる。

 夢の中の風景というか、子供の頃に見る街の印象というか…。

 住宅があり、坂があり、カーブミラー、マンホール、道路標識があり、その世界はどこにでもある街の姿のはずなのに、これを読むとき、俺たちは確実にどこかをさまよっている。

 一方、出てくるキャラクターはノー天気でポップだ。そこが安心できる。

 何かしら妙な使命を与えられた主人公と一緒に、平凡だけど不可思議、どこにでもあるけど奥行きのある「ただの街」を堪能してほしい。

 

 遠くに行く(気持ちの中で)。『移動』をテーマにした創作5選+αについて②はこちら。

おむすびの転がる町

おむすびの転がる町

  • 作者:panpanya
  • 発売日: 2020/03/31
  • メディア: コミック
 

 

4月11日について

 ものすごく久しぶりに会う友人のところを訪ねていった。

 友人は飲食を経営しているのだが、昨今の騒動で人が来なくなって大変だという。

 俺にできる支援として(と言うのもちょっと変か?こっちも商品をいただいてるわけだし)、テイクアウトを買い求めに行き、そのついでに顔見せをしたかたちだ。

 

 友人の店を訪ねるのははじめてだった。それほど広い店ではないけど、清潔で落ち着いていて、「ああ、いいお店だな」と思った。

 細長い店内、入口近くにいくつかテーブル席が設けられていて、奥がカウンター。訪ねていったら、カウンターの対面となる厨房内で、友人が調理の最中だった。

 思ったよりも、店は繁盛していた。少し安心する。

 このとき、友人の結婚相手にもはじめてお会いした。夫婦でお店を切り盛りしているようだ。

 帰り際、店の外まで見送りに来てくれた友人と軽い世間話をしていると、店内からちょらちょらっと小さい人が出てきて、ひし、と友人のエプロンの辺りをつかむ。

 実はカウンターの奥でお昼ご飯を食べていた子で、「もしかしたら」とは思っていたが、やっぱり友人の娘さんらしい。お店の中で「挨拶しておいで」とか言われたのかもしれない。

 娘さんにも挨拶する。「またな」と友人に言って別れた。

 

 いい家庭、いい店を友人は築いていた。

 もちろん、血の滲むような努力があったのだと思うが、よかったな、と俺は思う。そう思える余裕がまだ自分にあることが少し嬉しい。

 それと同時に、新型コロナウィルスをめぐる昨今の騒動について、こんなことを思った。

 

 飲食店の営業をめぐる議論はなんだかすごく「遠回し」になっている。

 現時点では、『営業するな!』と強制的に命令されているわけではない。

 ただ、飲食というのはそれを利用する客があってはじめて成立するわけで、その客は「外出自粛」を求められているので、じゃあそれに応対する店の方は、『自分たちは店を開いていていいのか?(自宅に留まっているべき人たちが屋外に滞在する片棒を担いでいいのか?)』という道義上の問題が生まれる。

 

 ただ、友人が仕事をしているところを直接目の当たりにして、これはちょっと、店を閉めるって判断はそうそうできねえな、と思った。

 少なくとも、「世間のために」うちも自粛の流れに協力しますよ、ってのはありえねえな、と感じる。

 いや、実際、店を訪ねるまでに他の飲食店の多くが長期の休業に入っているのを目にしてもいるのだが、あくまで「経営上の」判断だろう。

 自分が店を開けないと家族を守れない、となったら、仮に後ろ指さされようが営業するだろうな、と思った。

 

 この流れで実感したことがもう一つある。

 新型コロナウィルス対策でBCG注射が有効とか、福島の原発事故のときはうがい薬を飲むといいとか、真偽のよくわからない噂が広まって、まあ俺も冷笑している(していた)。

 ただ、友人とその伴侶が夫婦で働いてその周りをちっこいのが動いている、みたいな現場を直接見て、笑えなくなった。

 

 あの家族で誰かが倒れる、不調になったら生活自体がぶっ壊れるだろう。

 店長である友人はもちろんだが、その伴侶がダウンしても店は回らなくなるだろうし、子供が不調になってもその看護を誰がやるのだ、ということになる。

 個人事業(あるいは中小・零細企業も)というのはそういうギリギリの線の上を走っている。

 例えば平時を100とするなら、100未満になった瞬間に営業が回らなくなる、エマージェンシーが点灯する。

 当然一番大きなダメージをもたらすのは店長に何かあることだが、その連れ合いも、子供も、その不調が『1』以上のダメージをもたらすなら同じこと、ある意味全員が等価となる。

 

 そうしたらBCGだろうがうがい薬だろうが、頼れるものは正直なんでも頼るな、と思う。これを非科学的と言って笑う俺は、想像力が欠如していると感じた。

 以上、よろしくお願いいたします

『ID:INVADED』11話までの疑問と感想を整理することについて

はじめに

 けっこうな波乱が巻き起こりつつ(主に東郷室長補佐の新事実的な意味で)、解決された謎も多かった第11話。

 前回までの疑問や推測を自己採点しつつ、再整理していく。

 

百貴宅から検出された鳴瓢の思念粒子について

 百貴宅から検出された鳴瓢の思念粒子は、鳴瓢が独房で殺人犯を自殺に追いやったとき、壁際の写真に付着したものだった。

 というわけで、鳴瓢は百貴宅で誰かを殺したのではないか、それは行方不明の飛鳥井木記ではないか、という俺の推理は外れ。

 ただ、鳴瓢には別の角度から新たな疑惑が生じたので、それについては別項で。

 あと、百貴がなぜ、自宅由来のイドに鳴瓢を潜らせることを罠と見抜いたのか、これでわからなくなってしまった。

 あの「全部罠だ」発言は、てっきり百貴が自宅での鳴瓢による殺人に思い当たったからこそ、鳴瓢をドグマ落ちさせる陰謀に気づけたものと推測したのに…。

 あらためて、百貴はどこから鳴瓢が潜るイドの正体に勘付いたのだろう?

 

名探偵3人集合

 チーム感あってよかったですね。

 名探偵が2人いると、どちらかはかませになる、という富久田の不吉な言葉が何かの伏線でないことを祈るばかりだけど、そんなネガティブな予感を吹き飛ばすくらい、「さあ反撃だ!」という雰囲気があってすごくよかった(結局、鳴瓢のドグマ落ちも回避されたみたいだし)。

 

富久田と本堂町

 で、この2人ですよ。

 この2人の関係性は…なんだろうな。

 お前ら結婚しろ!と茶化せる感じでもないし(恋愛感情はたぶんないと思う)。

 

 「因縁」と「相思」と「エモさ」を足し合わせたうえ、どう整理していいかわからないような…。

 

 基本の関係性としては、穴を空けた加害者と被害者なのだ。

 ただ、本堂町は自分に空けられた穴を自身の大切な一部として受け入れている気配がある。

 一方、飛鳥井木記のイド内の過去世界で、いきなり現れて意味のわからないことを言う本堂町をあっさり受け入れただけでなく、本堂町の推理のサポートまでしてみせた富久田。

 去り際の「また、会えるかな?」から、相手を意識している=主導権をとられているのは富久田の方…と思いきや、砂漠の世界では富久田=穴井戸の方が本堂町=聖井戸を少し振り回しているように見える。

 場所によってリードする側を交代しながら、ギブアンドテイクを交錯させ、共に殺人者であり名探偵。

 そして、「穴」が何を意味するかは、結局この二人にしか共有できない世界なのだ。

 これほど重層的に惹きつけ合う2人が、かつていただろうか?

 

ジョン・ウォーカーは何者か?

 局長でした。

 

7人の殺人犯、7件の殺人

 飛鳥井木記のイド内で、本堂町は鳴瓢が残した手帳から、一連の事件が7人の殺人犯による各7件の犯罪から構成されていることを知る。

 

 7という数字の意味するところはまだわからない…。

 本堂町が推測したように、創世記の7日間にかかっているのかもしれない。

 あるいは、7人×7件=49で、四十九日とかかっているとか…(仏教において、故人が極楽に行けるかどうかを決める最後の審判)。

 

 ただ、7人の殺人者については気になることがある。

 劇中では対マン、股裂き、顔削ぎ、舌抜き、墓掘り、腕捥ぎ、穴空きで各曜日ごとに犯行を起こしていることが判明した。

 イド内イドの中、飛鳥井木記の夢で、飛鳥井を殺しに来た顔削ぎが、「今日は俺の番だろう」というようなことを言う。

 ここから、ジョン・ウォーカーによって飛鳥井木記を夢の中で殺した人物が、曜日替わりの殺人犯たちとしてリストアップされているようだ。

 気になることが二つある。

 一つは穴空き=富久田の存在で、富久田は本堂町との会話で、「夢の中でジョン・ウォーカーに、飛鳥井木記の殺害を薦められたが、興味がないから断った」と答えている。

 飛鳥井の夢内殺人に関わっていない富久田は、本当に7人のうちの一人なんだろうか?

 まあ、夢の中に招待された時点で連続殺人犯としてのルートになるのかもしれないし、富久田が実際に決まった曜日にだけ犯行に及んでいるなら、そうなのだろうけど…。

 もう一つ気になるのは、上でも書いた鳴瓢のことで、独房内で犯人たちを淡々と自殺に導く=間接的に殺害する行為を続け、件数が「7」に近づきつつある鳴瓢の存在は、かなりきな臭い。

 鳴瓢が数字の7にまつわる何かの計画の最後の仕上げに関わっている、というのはあり得るんじゃないだろうか(別に、鳴瓢に不幸になって欲しいわけではない。あと、この発想はもちろん、映画『セブン』から思いついている)。

 

飛鳥井木記、ついに現実世界に登場

 現実世界では所在不明だった飛鳥井がついに登場。やっぱり、ミヅハノメの中枢として、イドの生成を担っていたっぽい。

 局長の狙いは、推測するに、以前飛鳥井が十数人を同時に昏倒させた能力を最大出力で解放し、全人類の精神を同じ夢で侵食する(invade)ことじゃないだろうか。

 ちょっと思ったけど、仮に、ジョン・ウォーカーによって夢の中で飛鳥井木記を殺した者が、現実でも殺人を犯し、その残滓から飛鳥井がイドを生成する、というのがミヅハノメというシステムの真相だとしたら、あまりにマッチポンプというか…飛鳥井かわいそうすぎるね…

 

百貴室長と東郷室長補佐

 ある意味、11話最大の衝撃。

 舞城って、誰かの秘めたる思慕やいわゆるNTRを描くことは多いけど(『美味しいシャワーヘッド』『淵の王』『すっとこどっこいしょ』『畏れ入谷の彼女の柘榴』)、完全に視聴者の不意を突いてくるのは珍しいかも。

 緊迫したあの場面であえての演出、良い意味でらしくなさを感じた。

 

 残り2回! 

 一応黒幕は判明したけど、謎はまだ多い。もうひと波乱あるかな? 鳴瓢には幸せになって欲しい。

 以上、よろしくお願いいたします。

新型コロナウィルスによるマスクやトイレットペーパーの不足について。あるいは、不合理な行為は不合理なことなのか?ということ

 新型コロナウィルスの報道によって日本中の店舗からマスクがなくなってしまい、「まぁ俺はマスクをしねぇしなぁ」ってヘラヘラしていたら、今度はトイレットペーパーやティッシュペーパーまで不足し始め、季節に限らず万年鼻炎で洟水を垂れている俺もついに困ってしまった。

 

 ウィルスの影響でペーパー類の生産が悪化するというのはデマであるらしい。

 店頭からティッシュペーパーはなくなってしまい、しかも、その背景には特に根拠がないという、二重の意味でふざけんなよー、という感じになっているところ、こんな記事を読んだ。

 

limo.media

 

 ウィルスがペーパー類の生産に悪影響を及ぼす、というのが本当であろうとなかろうと、買い占めが発生している時点で自分もトイレットペーパーを購入して確保しておくのは合理的な判断である、と書いてある。

 といって、多目に購入することを擁護しているわけではない。

 主旨としては、買いに走ることに合理性がある(賢い判断である)以上、デマに影響されて行動するのは愚か、と断ずるのは的を射ていないこと、そして、こうした動きを静止するためには、自分の利益追求だけではなく、他人の苦労を想像する思いやりという要素を持ち込む必要がある、とのことだ。

 

 なるほどなあ。

 そう思いながら、どこか心の隅で納得がいかない。

 

 自分の利益のために行動するのが合理的なことはわかる。

 俺がわからないのは(純粋にわからないのであって、ケンカ売ってるわけじゃないですよ?)こういうことだ。

 自分がここでトイレットペーパーの買い占めに加担したら、誰かが困るだろうなあ、そういう罪悪感を抱えるくらいなら、買わない方が気持ちが平安だなあ、という人間がいるとする。

 その者が「買わない」のは、不合理な選択なのだろうか?

 それはそれで合理的なんじゃないの? だってその人にとっては、紙がなくて困ることよりも、他者を困らせないで済む方が、選択として価値があるわけだから。

 

 つまり、優しさとか想像力とか、そういう心の働きも、合理的かどうかを判断する材料になると思うのだ。

 

 例えば二人の人間が将棋を指していて、片方に「詰み」が見える盤面が訪れたとする。

 このとき相手を詰ませるべく指すのが「合理的」であるのはわかる。それ以外の手を指すのは「不合理」で、選択する意味はない。

 

 ただ、世の中のあらゆることが、みんなでひたすら将棋を指すように一つの「層」だけで動いているわけではない。

 将棋を愚弄するつもりはないので、あくまであり得ない話として述べる。

 例えば、対戦相手が自分の恩人で、かつ向こうの進退がかかった一局であるとか、その対局に自分が勝つことで代償として何か失うものがあるとき、「詰ませない」手をあえて指すことは、けして不合理ではなく、ひとつの合理的な判断と言えるんじゃないか?

 

 俺には、結局、俺たちは全員が全員、自分の「合理性」に従って生きているように見えてしまう。

 その中で、紙がないと用を足すときに困る、として快適さに重きを置く人間と、自分が多少不便でも、より多くの人間が助かる選択をした方が自分がおちつく、というもしかしたらちょっと変わってるやつがいるという話で、そこは合理的かどうかで線が引けないんじゃないの?

 

 正直、俺からしたら優しさとか想像力みたいな概念は合理性の外から持ち込まれるもの、みたいな物言い自体がちょっとピンとこない。

 俺たちが全員それぞれの合理性に従って生きてるとしたら、そこにある違いは合理的か否かではない。そいつが、自分の快・不快以外の基準を生活に持ち込んで、どのくらい複雑なルールで生活してるかだ。

 っていうか、単に、他のやつのことって生きててもうちょっと考えてるもんじゃねえのかよ? というのが正直なところなんだけど、まあ俺は経済学のド素人だし、大学のゲーム理論の単位も「あ、これわかんねえな」って落としたぐらいなので、誰かわかりやすく教えてくれる人いたら教えてください。

 

 あと、マスクって病気に罹患しないためのもの、って以上に、他の人を自分の病に巻き込まないためのものらしいですね。

 それをしないやつに、他者への想像力をどうこう言う資格があるのか。

 そういうツッコミは、今回はナシでお願いします。以上、よろしくお願いいたします。

爆散する恋心。『チェンソーマン』6巻の感想について

 記事の題名、ちょっと考えたけれどもう公式のつけたコピーがさすがそのまんま正解ですわ。

 まんま的を射ている。そして本編ももちろん素晴らしい。『チェンソーマン』を読むときはアルコールでハイとぐでぐでのアイノコになって楽しむ、というのが俺の好きな読み方ですが、今回もそれで最高でした。

 

 詳しいことは書かないけども、前巻でデンジに言い寄ってたレゼはやっぱり危険&超危険なヤツでした。ってんで、死人が超出ます。

 

 以下、少しネタバレ。

 騒動がひと段落してのデンジ。デンジはまあアホでスケベで、バカ=人の心の機微とかいちいち考えないところが一周して誰かのハートをつかむ、みたいなところがあったけど、今回の大騒ぎの幕引きのデンジは本当にただカッコよかったんじゃないかな。

 あれで相手がオチなかったのは、それだけ相手の悲壮さを感じさせる場面だった気がする。

 6巻の最後に、「本当は自分も○○」という告白があるけど、ひとつの嘘の告白の中に他の嘘を謝る気持ちも含まれているようで、本当はやっぱりデンジのことが好きだったんじゃないかな、と思いました。

 

 マキマの新しい能力っぽいのが登場しますが、「1人1能力」の作品でもないので、なんかもうめちゃくちゃ引き出し多そうで怖い感じです。あとパワーちゃんね。もうパワーちゃんとくっつけばいいんじゃないのかな。

 

 ところで、6巻で俺が一番好きなシーンはデンジとは関係なくって、「はあ…今日合コンだったのになあ」「俺も連れてってくださいよ」です。

 喋ってるの、両方とも「ポッと出」のキャラなのに、一気に空気が締まる&作品の密度が上がる。

 こういう演出を、ドがつくほどばしっと、かつ軽やかに決めるのが藤本タツキさんのすごいとこです。尊敬します。次巻も楽しみ。

 以上、よろしくお願いいたします。