惨状と説教

誰か山から降りてきてほたえてから山に帰っていく記事。ブログ

The bizarre is still here. 『岸辺露伴は動かない』2巻の感想について

はじめに

 1年弱前のことなんですが、わたくし信者の方に刺される覚悟でジョジョシリーズの最新作『ジョジョリオン』をクソミソにけなす記事を書きまして。

 要は戦闘が全然面白くないのも含めて読者が置いてきぼりになってないか、って内容だったんですけども。

 で、先日のことです。ジョジョシリーズから今度は『岸辺露伴は動かない』という短編集の2巻目が出たんですね。私もあんな記事は書いたけれどもファンだから、買ったわけです。

 

 …いやー、面白かったですねえー。

 

 手のひら返しもいいとこなんですけど。でも、読んでてめちゃめちゃ楽しかった。なので、以下その感想を書きます。

 

「奇妙さ」はなお続く。

 「ジョジョ」の何が好きか。

 ファンの人に尋ねたとき、その答えは本当にたくさんあると思います。

 頭脳戦と肉弾戦が錯綜する緊迫のバトルを挙げる人もいるでしょうし、緻密に描き込まれた絵を挙げる人もいると思います。

 独特のセリフ回し、絵画のような魅力のある風景、豊富な雑学って人もいるでしょう。また、言葉にできない、独特の「空気感」としか言えないものが好き、という人もいると思います。

 俺は、率直に言うとこれらの魅力のうち、かつての戦闘描写と絵にあった良さは、『ジョジョリオン』になってだいぶ失われたんじゃないかと思っています。

 絵については好き好きかもしれませんけども、戦いの運び方だけは本当にまったく評価できません。

 いまの戦闘シーンは5部のポルポの指食いとか初期のGEのダメージを跳ね返す描写が延々繰り返されているようなものだと思います。読者としてどこを信用したり考察しながら読めばいいのかよくわからないわけです。

 ただ一方で、シリーズを重ねてもまったく輝きを失わない部分があります。

 俺たちも日常の中でふと感じる、違和感とか生理的な不快感というもの。周りの風景や他者の中に感じる、「…あれ?」という感覚。

 つまり「奇妙さ」と呼ぶべきもの。これは、いまもなお続いていると思います。『ジョジョリオン』においても、『岸辺露伴は動かない』においても。

 

短編だからこそできることがあると思う。

 その中で、『岸辺露伴は動かない』を特別こんなにも面白く感じたのにはやっぱり何か理由があるんだろうと思うわけです。たぶん、短編ならではの良さというものと「奇妙さ」との調和みたいなものが。

 漠然とした、かつ創作論みたいな話になりますが、この点をもう少しくわしく考えてみます。

 この短編集では色んなトラブルが主人公である露伴先生を襲ってくるわけですが、見直してみるとあることに気づきます。

 それは、露伴先生は必ずしもこれらのトラブルの全部を解決はしないということです。とりあえず大ピンチを脱したので急いで撤退した、というエピソードがけっこうあります。

 長編だとこういうただのその場しのぎはあんまりないですね。

 長編であれば敵対する者は基本的に打倒されないといけない。優劣がつけられないといけない。もし決着がつかないなら、それは伏線となって、やはりいつか白黒つける必要が出てきます。

 短編はその辺うやむやにしてもいいというか、謎は謎のまま、というのが許される気がします。敵わないものは敵わないまま、ということも。で、ジョジョの「奇妙さ」というのは、この曖昧さの中でなかなかいい感じに映えるようです。

 また、「ジョジョ」の主人公たちはスタンドという特殊能力を使うわけですが、彼らをどんな脅威が襲うかというと、同じスタンドを使う敵なわけです。

 一方の『岸辺露伴は動かない』を見ると、露伴先生を苦しめるのはスタンド以外のものであって、それは生物だったりスタンドは持たないけど常識を超えた超人だったり、もっと意味のわからない「現象」としか言えないものだったりします。

 短編はこのへんもいい加減でいいんだろうな、と思います。

 スタンドはあくまで、この世界の「奇妙さ」を説明するための一つの解釈に過ぎない。長編だと色んな不思議をスタンドという枠組みだけで説明していかないといけないけど、短編であれば世界の多様性をもっと自由に描きながら、次のエピソード、次のエピソードと身軽に飛んでいける。

 こうした短編ならではの特徴と「ジョジョの奇妙さ」との相性がもたらすものこそ、『岸辺露伴は動かない』の良さなんじゃないか、と思うわけです。

 

おわりに。他のキャラの短編集も見てみたい。

 そういうわけで『岸辺露伴は動かない』、すげえ面白かったのでファンの方もそうでない方も読んだらいいと思います。

 露伴先生ってジョジョシリーズでもかなりの強キャラなんですが、思い返すと読んでいるとき、「とっととヘブンズ・ドアー使って解決しちゃえばいいのに」って思わなかったんですよね。

 これはけっこう不思議なことで、スタンド使えばもっとスマートにトラブルを解決できただろうに、ともかく露伴先生のピンチにひたすらハラハラさせられていた。まさにこの短編集の凄みというべきでしょう。

 こんな感じのフォーマットで、個人的には露伴先生以外のキャラのお話も見てみたいと思います。

 ホル・ホースが主を亡くした後に世界を行脚する話とか。

 ミスタがジョルノの右腕として活躍する話とか。

 ああいうフットワーク軽くて有能でコメディもできるキャラクターたちの短編集、あったらぜってえ見たいぞ、と思ったので、以上、よろしくお願いいたします。

 

岸辺露伴は動かない 2 (ジャンプコミックス)
 

 

 

京極夏彦作品に感じる違和感とフィクションにおけるイカレポンチの扱いについて

はじめに

 2~3月にかけて狂ったように京極夏彦の『巷説百物語』シリーズを読んでいた。

 面白い。ファンといってよいかもしれない。

 しかしその一方で、実は、読みながら違和感を感じる瞬間があった。

 それもたまにではない。多々あった。

 俺はこの違和感について整理しておきたいと思った。なので、以下そのことを書く。

 

 注意。この記事は基本的に京極夏彦作品に対する批判であり、フォローも特に入りません。悪口ばっかです。

 なので、ファンの方、作家さんへの批判を許せない方はここで読むのをやめるか、アホがなんか妄言を吹いてるな、ぐらいにとらえていただければと思います。

 

フィクションにおけるイカレポンチの扱いについて

 『巷説百物語』シリーズについて、話の流れはおおまか次なようなものである。

 

 ①何か世間を騒がせるような問題、怪事が起きる。

 ②その裏には正気を失った狂人やら悪人やらがからんでいるようだが、もろもろのしがらみがあって、事実をそのまま明るみに出すことができない。

 ③そのため、妖怪という超常的な存在を持ちだしそのせいにすることによって、世間を煙に巻き、事態を丸く収める。

 

 俺は『巷説~』の何が気になったのか。それは、作中における狂人、つまりイカレポンチの扱いであった。

 

 このシリーズには、理由もなく人を斬りたくなったので実際に斬っちゃう人とか、理由もなくイライラするので権力をかさに着て暴力をふるっちゃう人とかが大勢出てくる。

 ポイントは「理由もなく」というところで、彼らがそういう狂気に陥ってしまった背景はほとんど語られない。彼らは、単にそういう人、という扱いでぽんと作中に登場する。

 彼らが、単に作中に波乱を起こしたり暴力による緊張感をもたらすだけの存在ならそれでもよい。好物である。

 また、彼らが大暴れした後、自分よりもっと大きなパワーによって打倒されるならそれもよい。これも好物である。

 俺が強烈に違和感を抱くのは、『巷説百物語』が彼らを破滅させるとき、自らの罪を自覚させ、それによって自滅させようとするところにある。

 物語に登場した彼らは、単にパワーで押しつぶされて敗れるのではない。

 彼らは、彼らがそれまでの生き方を続けていく限界に追い詰められて、それによって破滅する。

 自分より強大な者が出ようと出まいと、狂人たちはすでにどん詰まりにいたわけで、彼らはそのことを悟って滅びるのである。

 俺は『巷説~』がその過程を描くときのやり方に、腑に落ちないものを感じるのであった。

 

 俺は、悪人や狂人がもうそれ以上その生き方を続けていけなくなって破滅するとき、その狂気の根本に何があったのかわからないのは、よろしくないのではないか、と思う。

 これは、悪行への裁きは何をしたかだけではなく、その原因となった要素も含めて下されるべきだと考えるから、そう思うのかもしれない。

 ただ、別の理由もある。

 「こいつはイカレポンチなんですが、その原因や背景はよく知らないです」「でも悪いことしたから死んでもらいますね。それも、思いっきり自分自身に絶望して」

 なぜ自分が狂っているのか、なぜ自分は悪いことしかできないのか…。

 そのこともちゃんと描かれないまま、創作者によって自らの限界を悟らされ、死んでいく。

 そんなイカレポンチは、クリエイターにとって都合がよすぎないか?

 作り手として、楽をしてしまっていないか?

 というか、受け手である俺はそれをそのまま受け止めていいのか?

 そう感じるのだと思う。

 

 『ドラゴンボール』のフリーザとか『殺し屋1』の二郎・三郎なんかは、ああいうド外道になった理由なんかは特に語られない。

 こいつらは、単に力比べで負けて破滅していく。だから、主人公によって成敗されなければのうのうと生き続けただろうと思う。

 一方、町田康の『告白』で主人公の熊太郎が凶行に及ぶとき、そこには主人公の生い立ちと、自分として生きた結果どうしようもなく行き詰ってぶっ壊れる様子が、膨大なページ数を割かれて描かれている。

 熊太郎は自分として生きた結果破滅するしかなかった。ある意味はじめから詰んでいて、最後の最後に自分でそのことに気づいた。

 小説としてのこの流れに、俺はとんでもない衝撃を受けた。この小説のせいで文字通り人生がねじれたと思う。

 

 凶行に及んだ理由や背景さえしっかり描かれれば、下された裁きに納得いくのか。

 いわゆる精神病質とか過去のトラウマとか、そういう属性付けで狂気に説明をつければいいのか。

 

 そんな簡単じゃない気もするが、イカレポンチの扱い方、狂気の消費のしかたについて、俺はこう思った次第なので、以上、よろしくお願いします。

 

 (追記:『巷説~』における凶行の全部が全部理由不明なわけではないので付記します。「帷子辻」とか「野狐」とか。これらはシリーズ中でも特に俺の好きな章です)

 

 

 

 

 

『ゴールデンゴールド』4巻の感想と、「物語」の臨界を探ることについて

はじめに

 『ゴールデンゴールド 』という異次元のように面白い漫画があって、3巻が出たときにこういう記事を書いた。
 で、これを書いたとき、この3巻で作品としてのタメの時期は終わりかな、と思っていた。ここまでに十分に伏線が蓄積された感があったので、ここからはそれらを矢継ぎ早に消化していく展開になるんじゃないかな、と。
 
 溜めこまれた伏線について少し話をする。
 まずこの作品には、人と富をひたすら集める力を持ったフクノカミという超常的な存在が出てくる。
 このフクノカミを中心として、登場人物同士の中でたくさんの因縁が生まれた。金銭的な利害関係もあれば、暴力的な関係性もある。主人公の女の子が同級生に抱く恋心、みたいな青春ものの要素もある。
 で、フクノカミは江戸時代にも出現しており、そのときは島に多大な被害をもたらしたらしい。過去に何があったのかは今後明かされるんだろう。
 主人公サイドは異能バトルもののライトノベルさながら、フクノカミのこの「能力」の性質を探り、その無力化を図る。
 物語はこうして、無数の思惑、謎、埋もれた歴史をはらみながら、離島、本州、さらに東京まで、舞台をまたいで展開する。し続ける。
 ここまでに揃ったものを消化していくだけで、言い方は悪いけど間違いなくこの先も面白いだろうと思ったんである。だから、これ以上新たな要素が持ち込まれることはなく、シンプルな展開になるだろうと思っていた。
 
 でも、実際はそうならないのであった。
 4巻で物語の混沌はさらに深まった。先が見えない。
 肝心なことは、ひたすら複雑になりながら、それでもただ面白くなり続けていること。
 

面白い「物語」って何かを考えてみること

 いきなりだけども、面白い物語とはなんだろうか。というか、最高に面白い物語である『ゴールデンゴールド 』の何がそんなに面白いんだろう?
 
 どんなフィクションを面白いと感じるかは当然人それぞれである。
 でも俺は、『ゴールデンゴールド 』の面白さには、万人にかなり共通した、何か絶対的な面白さの一つがあると思う。
 それで、その面白さの正体なのだが、それはつまり、作品における情報の「量」なのではないだろうか、と思う。
 
 漫画を含むあらゆる創作物は、有限の空間に詰め込まれた情報のカタマリと考えることができる。
 それで言うと漫画は、ページや本という有限の空間に閉じ込められた画と文字の集合体である。
 クリエイターとは、これらの情報を受け手に与えて、いかに相手の心を動かすかという「競技」に参加している人たちであると言える。
 さて、この「競技」にはいくつか種目があると思うのだが、その中の一つに、限られた空間にどれだけ多くの情報を詰め込めるかという「量」を競う種目があると思う。で、この競技のチャンピオンこそが、すなわち絶対的に面白い作品と呼べるのではないかと思う。
 
 「量」が多いってそんなにすごいこと?
 すごいことなんである。
 別に、手っ取り早くキャラ増やして人間関係を錯綜させ、時間軸を往復し、伏線いっぱい張ればいいんじゃね?
 実際はたぶんそんなに簡単ではないんである。
 
 なぜかというと、新しい要素が作中に投下されても、俺たちがそこに関心を惹かれなければそれはただのノイズであり、情報とは言えないからである。
 また、新しく持ちこまれた情報の印象が強すぎて古くからあった要素がかすんでしまっても、情報量の総体は増えない。プラスマイナスゼロである。
 作中にどんどん新しい要素が加わり、それに比例して情報「量」が増えていく実感がちゃんとあること、それは、作品を支えるクリエイターの構成力が図抜けているからにほかならない。
 ここで行われているのは、情報を詰め込み過ぎて作品が破綻するギリギリの臨界を探る試みであり、『ゴールデンゴールド』はその極致だと思う(同率首位はHUNTER×HUNTER)。
 
 別に、情報量が多いものは少ないものより作品として上等というつもりはないんである。
 テーブルがあって、その上に一個だけリンゴを置く。それを眺める楽しさもあると思う。
 リンゴとバナナを一緒に置いて、その色やかたちの違いを楽しむのだってありである。
 ただ、リンゴを置いてバナナを置いて蜜柑もブドウも洋梨もスイカアケビも置いて…とやっていったら、どこかの時点で普通、それは「ただのフルーツ盛り」になり、それでもまだ続くようなら興味を持ちようのない色のカタマリになる。
 それが、その後マンゴスチンもドリアンも追加されて、さらにリンゴはどこ産でどこの農場の誰が作ってこの後レモンと一緒にすりおろされてジュースになります、みたいな細かい話まで出てきながら、その意味がすべて「わかる」。
 これは受け手の理解力がすごいのではなくてフルーツを置く方がすごいのだが、このテーブルの上の果物がすべておんなじ存在感を放つ感覚は受け手自身でも驚くほどで、この感動こそ「面白さ」の一つの答えだと思うが、どうだろうかと思う。
 
 
 まったく本編に触れないのもなんなんで、4巻のハイライト。フクノカミとフクノカミを追う刑事・酒巻がついに一対一になる場面が最高でした。
 機先を制したつもりが、どす黒い底なし沼に一瞬で引きずりこまれたような感覚。すごい緊張感。そして、そこからの展開…。
 
 次巻はこの漫画のアイドルであるばあちゃんの過去編らしいので、楽しみです。以上、よろしくお願いします。
 
 
 
 
 
 

夢について2

  俺はいま小学生で、友人が携帯電話を買うというのでそれについてきていた。

  店は郊外のショッピングモールの一画にあった。俺は待合スペースの椅子に座りながら彼が契約を終えるのを待っていて、彼がこっちにやってくるのを見て立ち上がり一緒にモールを出た。

  俺とその友人・Aとは実は高校生の頃に本当に些細なことで喧嘩をして、それ以降一度も会っていないのだ。

  俺はそのことを知っているのだが、いまの俺たちが二人とも小学生であることは受け入れていて、もちろんいまの俺たちは友達だった。

  ショッピングモールの外は、田舎というよりも荒野といった方が近い、荒涼とした景色だった。丈の低い草がぼうぼうと生える中を、灰色の道がガードレールのないまま走っている。雪が降り始めていた。

  道を歩いていると後ろから声をかけられた。俺たちの友達のBだった。

  Bは中学校に入ってから俺やAではないいわゆる不良と付き合うようになり、疎遠になってしまう。Aのときと同じように、俺はそのことを知っていながら、いまはBも俺たちと同じように小学生の姿で、いまはまだ俺たちの友達なのだった。

  一緒に遊ぼうぜ、とBが言った。しかし、俺とAは少し顔を見合わせてから、今日はいいよ、とにやにやしながら言った。

  Bはからかうとムキになるところがあって、それが面白くて俺やAは彼のことをよくこうやっておちょくっていた。

 なんでだよ遊ぼうぜ、と案の定真剣になり始めたBを、また今度また今度、と俺たちはのらりくらりかわしながらからかった。

  しかし、今回は度を越しすぎてしまったらしい。じゃあもういいよ、とBは怒ってどこかに行ってしまった。

  俺とAの間に気まずい沈黙が生まれた。俺たちは来た道を黙ったまままた歩き始めた。

  俺とAは、なんとなくお互い近くにいることが嫌で、二人の距離がだんだん離れ始めた。Aは俺から遠く離れた先を行って、とうとう見えなくなってしまった。

  降り続けていた雪が深く積もって、あたりは一面の雪景色になった。ふと遠くを見るとそこに二つの人影があって、AとBが二人でそこで遊んでいた。

  俺はぼんやりした気持ちのまま、雪を踏んで二人の方に近づいていった。二人が俺に気がついて、俺は二人に、遊びにいれてくれよと言いたかったが、Bをあんな風にからかった後でそう口にするのがすごく恥ずかしくて、何も言えずにもじもじしていた。そうしたら二人が笑って、何してんだよ、早く一緒に遊ぼうぜ、と言った。うん、遊ぼう、と俺も笑って言った。

  Aがどこからかボールが山になって積まれたカゴとバットを見つけてきて、それはなぜか手品で使うための握ると分裂するボールだったが、俺たちはそれで遊ぶことにした。

  俺やAが投げたボールをBが打つだけの簡単な遊びだった。Bがバットでボールを打つとボールが色とりどりに増えながら雪景色を飾って、俺たちはそれがめちゃくちゃ楽しくて、みんなでげらげら笑いながら遊び続けた。

  俺はBが打ったボールを雪を踏みながら追いかけて、ふざけて雪の上に飛び込んだ。雪はまったく冷たくなくて、ただひたすらやわらかかった。俺は雪に顔をうずめながら、うくくうくくと笑い続けた。

  俺の頭に唐突に、ひどく暗い顔をした大人の男の顔が浮かんだ。俺はそれが未来の自分の顔だと知っていた。

  でもそんなものただの夢だ、と俺は思った。俺が見ている雪の中で友達と遊ぶ夢の中に、大人になった俺の姿という夢が混じっただけなのだ。

  目が覚めたら俺は小学生だと俺は思っていた。そして、夢で見たのと同じように、また友達と一緒に遊ぶんだ、と信じていた。

悪夢について4

  俺は政府の要職で、他の高官たちと一緒にある国との会議に参加していた。

  その国の会議室で、俺たちは相手から敵意のないことを示せと求められた。何があっても抵抗できない姿勢で地べたに体を預け、こちらを完全に信頼していることを表せ、という。

  不思議にも馬鹿げているとか屈辱だとか思わなかったし、俺以外の人間もそうであるらしかった。

  ためらいなく相手に無抵抗な姿を晒せるというのは、服従ではなくむしろ精神的に上に立つ行為だと思ったのかもしれない。それは俺たちのマッチョイズムと矛盾するものではなかった。

  そもそも、国同士の会合というのは映像に残されたり文字に書き起こされたりすることばかりだけではない。むしろそのやり取りの多くは闇の中で交わされるこうした馬鹿げた虚勢の張り合いによって占められている。

  俺たちはスーツ姿のままぞろぞろと身を床にかがめた。

指示された姿勢は奇妙なものだった。仰向けになり、両方の手のひらを空中で開いて何も握っていないことを示せ、という。それが敵意がないことを示すためのこの国における作法であるらしかった。 

  四つ足で立っている動物の人形、ちょうどあれをひっくり返したようなかたちで、俺は地面に寝転んだ。そのとき、ばすばすばす、という衝撃を腹に感じた。

  俺の横に女性が一人立っていて、手に小銃をさげている。撃たれたのだ。

  痛みはあまりなく、ただ自分の体がもう取り返しがつかないほど破壊されてしまったこと、もうすぐやってくる死に急いで備えないといけないことがはっきりと理解されて、悲しいような呆然とするような気持ちだった。

  俺はなんだこれは、と思いながら、これまで世界中で同じように死んできた人たちがいることを、ようやく身をもって知った。

  あまりに無意味だ。なにかを後悔する時間さえない。あまりに急すぎる。女性が俺の背中に銃を向けて、またばすばすばすと撃った。

  

芸術は本当の本当にゴミなのかもしれないことについて。その1

はじめに

 いきなりで恐縮ですが、これまで31年生きてきて、けっこう小説とか戯曲とかを読んできました。ここで、俺の好きな作品の上位10作を紹介してみたいと思います(順不同)。

 

・『告白』 町田康

・『行人』 夏目漱石

・『淵の王』 舞城王太郎

・『ねじまき鳥クロニクル村上春樹

・『審判』 フランツ・カフカ

・『氷』 アンナ・カヴァン

・『カラマーゾフの兄弟フョードル・ドストエフスキー

・『ムーン・パレス』 ポール・オースター

・『マルテの手記』 ライナー・マリア・リルケ

・『マクベスウィリアム・シェイクスピア

 

 実はこれらの作品の多くにはある共通点があります。なんでしょう。

 答えを言ってしまうと、それは主人公がクズであるということです。

 彼らは社会的には害悪、マイナスの存在であるか、せいぜいいてもいなくてもどちらでもいい、まあとにかく少なくともいなくても誰も困らないような人たちです。

 例えば『告白』の城戸熊太郎はゴロツキの博打打ちで、最終的には大量殺人犯です。

 『マクベス』の主人公も自分の私欲のために朋友と君主を殺します。

 これらはさすがに極端なケースです。ただ、学問に打ち込み過ぎてまったく伴侶を大切にしない『行人』の一郎とか、周囲の人間を自分に利をもたらすかどうかでしか判断しないところのある『審判』や『氷』の主人公もたいがいクソ野郎です。

 それ以外の主人公たちもかなり視野が狭いところがあって、周りの人間を多かれ少なかれ傷つけたり不幸にしたりしています。また、彼らはかたちのあるもの、家とか製品とかを作るわけではないので、別にこの世からいなくなっても誰も困りません。

 

 彼らの特徴は、思考の中心が自分自身のことしかないという点にあります。

 彼らは自分のことしか考えません。

 自分がこう思う。自分が傷つく。自分が何かを達成する。

 彼らの意識は常にその中で動いています。そして、基本的にずっと苦しんでいるし、乾いています。

 にもかかわらず、もし誰かが彼らを救おうとしても、彼らはそのことにあまり感動しません。差し伸べた救いの手をぞんざいに扱われて相手が傷ついても、彼らはそのことにそれほど心を痛めません。

 

 この鈍感さは、個人的には、ナルシズムと厳密に区別されるべきだと思います。

 いや、実際彼らの多くはナルシストなんですが、別に自分がカッコよくて価値があり、周りはそれを大切に扱うべきなんだから、苦しんでいたら助けられて当然だと思っているわけではないと思います。

 彼らは本当に自分のことしか考えていないので、親しい人が自分を助けようとするとき、そこにどれだけの労力が必要なものか、単に想像が働かないのだと思います。

 その方が罪が重いのかもしれませんが、とにかく彼らにとって周囲の援助とは自分が特別だから与えられて当然、というものではなく、まあ酸素とか水とか、あって当然とさえ思わないそういうものの方が近いです。

 だから、何気なく受け取っていた好意の裏に本当は血のにじむような想いがあったことを知ったとき、彼らは猛烈に恐怖を覚えたり動揺したりするのですが、少し話がずれてきたので軌道修正します。

 

 話したとおり、上に挙げた作品の主人公はクズばかりなので、これらはある意味単なるクズの行動の記録です。

 しかし一方で、世間的には「文芸」というカテゴリーに入れられ、作品によっては岩波文庫とか新潮文庫とかに入って偉そうな顔をして書店の本棚に並んでいます。

 ここから、芸術は本当の本当にゴミなのかもしれないことについて話します。

 

芸術は本当の本当にゴミなのかもしれないことについて

 今日ツイッターである記事を読みました。これです。

 

www.cinra.net

 すごいショックを受けました。

 俺は荒木経惟の写真が好きで、特に『チロ愛死』という彼の愛猫の病と死を追う様子を写した写真集が大好きでした(この写真集について考えることもいつか書きます)。

 俺の好きな写真を撮るこの人の作品とその被写体の間にはちゃんと理解と納得があるはず…というか、そもそもそういうことすら考えていませんでした。

 俺は、とにかく目の前に写真を提示されて、俺はそれを美しいと感じるかどうか、そういう接し方をしてきました。

 でも実際はそうじゃなかったことがわかりました。

 

 一般に芸術家とか作家とかには変わり者が多いとされています。

 彼らは普通の人たちと比べて何かが欠けていたり、歪んでいたり、劣っていたりします。

 それによって、彼らは周りの人たちを傷つけます。これは確かな事実です。

 考える必要があるのは、彼らの作品は彼らが「そういうクズであるからこそ」生み出されるとされている点です。

 クズであるからこそ、そのクズ独自の視点によって新たな美しさが創造されたり、秘められていた世界の姿が明らかにされたりするとされています。

 また、クズであるからこそ、その作品が帯びる「クズ性」は同じようなクズを救う力を持っているとされています。

 

 しかしその背景に、製作の根底に関わった誰かの苦しみがあったのを知って、俺は個人的に二つの問題を考えないといけないと思いました。

 あらかじめ断っておくと、おそらくこれはリンク先の告白が生む色々な議論の中でもかなりおかしなものというか、飛び交う議論で形成される空間において、相当はしっこの方にある話だと思います。

 なぜかというと、そこにはこの議論の発端にある、男性による女性の搾取とか、雇用者による被雇用者の支配とかいう要素が完全に抜け落ちているからです。

 ここで主な要素になるのは、「創り手であるクズ」と「作・クズならでは作品の良さ(とされるもの)」と「受け手であるクズ」の関係性だけになります。

 

 まず問題の一つ目は、「芸術とは結局、クズの変わり者が免罪符のつもりで吐き出したものを受け手側のクズがありがたがって評価するただのゴミに過ぎないのか」というものです。

 

 これは特に芸術に関心がない人からすれば何を当たり前のことを、という話だと思います。

 なので、俺が読む本が実用書ではなくいわゆる文芸作品が多いこと、よくわからない現代作品のものも含めて年に十数回展覧会に行ったりする人間であることをふまえて、まあその問題意識の深長さを汲んで欲しいと思います。

 

 二つ目は、「芸術に感動するとき、それは作品に感動している自分が好きという感情以上のもの、要は自慰行為以上のものになりうるのか」という問題です。

 

 一つ目の問題が創り手というクズと受け手というクズの間だけの話だったのに対し、こちらは範囲がもっと広いです。

 つまり、一部の文芸作品とか荒木経惟の写真のような一種のいびつさ、危うさを含むものに限らず、何かの作品から受け手が感じるものなんて結局自己満足のクソでしかないんじゃないの?という話です。

 これはたぶん、ツイッターで「荒木の写真ってなんか気にいらないと思ってたらこういう裏があると知って納得だわ」と言ってた人たちに俺がなんかムカついたから出てきた話だと思います。

 そういう意味でもやはり俺はクズなんでしょう。

 

 長くなりすぎたのでここで一度切って、続きはいつか書きます。

 なお、鋭い人は気づくかもしれませんが、俺がこの記事のはじめに書いた10の作品と、荒木経惟が撮った作品とは、厳密には別のものとして区別する必要があると思います。

 「クズによって創られたクズを題材にした作品」と、「クズが創った作品」は別のものです(漱石荒木経惟がクズだという前提で話しています。すみません)。

 この辺は次回以降整理しますので、以上、よろしくお願いいたします。

異界とはどこにあるもののことか。『全滅領域(サザーン・リーチ1)』の感想について

はじめに

 最初にことわっておかないといけないことがあって、実はこの記事、作品を強くおすすめする記事ではないのである。
 もちろん面白い本ではあって、良かった点もちゃんと紹介する。
 しかし、一方で、最後までぬぐえない違和感もあって、興味を持っている人、特に俺と同じようなかたちで関心を持った人向けに伝えておきたいなあ、と思ったので、その違和感についてもあわせて言及する。
 そういうわけで、なんか陰気なねちねちした感じの話になっているかもしれないので、容赦して欲しいと思う。
 

あらすじ

 世界に突如出現し、人類が暮らす世界とは〈境界〉で隔てられたその領域は、〈エリアX〉という名で呼ばれている。
 内部がどうなっているかはほとんど解明されていない。調査隊が何度か派遣されているが無事に帰ってきた者はおらず、その正体については怪しい都市伝説だけが伝聞として一人歩きしている状態だった。
 かつて衛生兵として〈エリアX〉に挑んだ夫を持つ女性生物学者は、今度は自らが、心理学者、測量技師、人類学者の仲間とともに、〈エリアX〉に入ることになるのだった。
 

感想

 興味を持ったきっかけはというと、映画『アナイアレイション』の宣伝を観て面白そうだと思ったからであった。
 で、ネガティブなことから話し始めてしまうのだが、読む上での注意点というか、まず、一大スペクタクルとかアドベンチャーとかの要素をこの原作小説に期待してはいけないと思う。
 映画版のトレイラーを観てそういうスリリングな冒険譚としての期待を小説にも向けてしまった。でも、そういう需要はあまり満たされないのである。
 なぜか。それは、この小説が主人公の手記という体裁で物語が進んでいくことが大きい原因であると思う。
 つまり、行動も知識も制限された、あくまでいち個人の視点で書かれる手記なので、良くも悪くも書かれていることが一人の人間の主観、視野以上の大きさで描写されることがない。主人公が見聞きした範囲でしか、世界の謎も解明されない。
 要するに、読んでいてもどかしいのである。
 「つまり、〈エリアX〉ってのはなんなのよ?」「結局、ここで見つかる謎の生命の正体はなんなのよ?」
 そういう疑問が、個人の思考の速度でしか解き明かされないし、その思考も色々な雑念に邪魔されるので、なおさら先に進まない。読んでいてあまり爽快感がないのはそういう理由による。
 この、なんかすごいことが世界に起こっているはずなのに視点が個人以上のものにひろがらないために地味な印象が最後までついて回る感覚、どこかで覚えがあるな、と思ったら、スタニスワフ・レムの『ソラリスの陽のもとに』だった(ファンに聞かれたらぶっ飛ばされそうなことを言っているな)。
 
 一方、物語の進行をいち個人の視点に委ねたことで見えてくるものもあった。
 例えば、未知の領域に集団で踏み入っていくので、当然というべきか、ある程度話が進むと仲間うちで不和が発生する。
 その際、主人公の思考が詳細に書かれることになるため、不和による混乱の増大と探索計画が破綻していく過程はすごくリアルで緊張感がある。
 もしもこの作品が、個人の主観にしばられないもっと自由な語り口を採用していた場合、メンバー間の不和からこの苦しいぐらいに張り詰めた雰囲気が漂ってくることはななく、あくまでよくあるイベントとしてしか消化されなかったのではないかな、と思う。
 もう一つ。主人公は実は〈エリアX〉先遣隊であった夫との間にすれ違いを生じていて、その傷を抱えたまま今回の探索に臨んでいるのだが、この辛い過去と向き合い、立ち直っていく過程がしっかり描かれることになったのも、物語が主観による進行という形式をとった結果であると思う。
 異界を探索する中で、主人公は夫がこの地に残したある物を発見する。
 彼女はこの発見をきっかけにして、自分の夫の心にようやく寄り添えるようになる。これは、主観に制限された鈍重な展開を取ることによって見えてきたものだと思う(あ、考えてみれば、これも『ソラリスの陽のもとに』で抱いた感想の一つだったな)。
 作者の狙いなんてわからないので、結果として、ということなんだけど、『全滅領域』における〈エリアX〉の扱いは、攻略されるべき物語の焦点ではないんじゃねえかな?
 その本当の役割は、人の心の動きとか機微を明確に描き出すための一つのヒントに過ぎないのかもしれない。探索されるべき本当の異界とは〈エリアX〉のことではなく、我々の心の中にあるんじゃないかな、とか知ったようなことを書いておく。
 

おわりに

 そういうわけで、映像版の印象を期待して原作を読むのはあまりよろしくないかもしらんよ、と思ってこの記事を書いたのである。
 ただ、ひとえにこれは俺の動機というか入り口が間違っている気もして、「個人による手記のていで書かれた気持ち悪いけどなんか面白い異界探索ものがあるらしいぜ」というきっかけで読んだんだったらもっと楽しく読めたかもな、とも思ったのだった。
 
 映画はたぶん観にいくでしょう。小説の続編は…Amazonのレビューで見たらなんかすごい地味っぽいのでどうしましょうかね。考えます。
 
 最後に。上記で悪口書きついでに言うのだが、この小説によるとどうやら心理学を習得することは死神の落としたノートを拾うことに同義なのでもしいつか心理学を修めたと語る人に出会ったらダッシュで逃げた方が良いなと思ったので、以上、よろしくお願いします。

 

全滅領域 サザーン・リーチ?

全滅領域 サザーン・リーチ?