『海流のなかの島々』の感想、もしくは自分に「殺される」ことについて

 人生で自分のことしか考えてこなかった。

 いまも自分のことしか考えていない。

 

 さすがにそれを表に出してはいないけれど、俺のそういう自意識が放っている、一種悪臭のようなものに、周りの人は気がつくものなのだろうか。

 少なくとも、家族や親しい友人や勘付くし、恋人だった人たちも勘付いていたようだ。姿勢を改めさせたいような言葉も受けた。

 一方で、勤め先で多少接点を持つ程度の人たちは、いちいち俺を注視する必要なんてないから、気づいていないのかもしれない。自分で言うのもバカバカしいけど、俺は能はないが優しい人間として通用しているような気もする。

 でも俺が他の人に優しくするのは、嫌われる勇気というやつがないか、あるいは人に好かれていた方が何かと助かる場面が多いからで、別に俺が人を心底思いやれるからではない。俺は人のことなんてどうでもいい。自分が一番大切…というより、自分以外に大切なものがないのだ。

 

 先日、ヘミングウェイの『海流のなかの島々』を読んだ。

 画家であり船乗りでもある男の生涯を、彼と周囲の人々との交流をとおして描くこの小説は、全篇とおして海やそこに住まう生き物たちが美しく描かれ、登場する酒と食べ物の描写が読んでいて楽しい作品だが、後半から文中の端々に、作者であるヘミングウェイの自我をめぐる苦しみの気配が色濃く漂うようになる。

 主人公トマス・ハドソンは、画家としても船乗りとしても、軍人としても才能に恵まれ、家族や友人など周りの人間には慕われて、きらめくような世界で生きている。

 しかし、この素晴らしい環境に対する満足感がハドソンから読みとれる場面は、あまり多くない。それは、彼が根っこの部分で自分のことしか考えていないからだと思う。

 自分、自分、どこまで行っても自分のことばっかり。単に自分が好きとか可愛いとかだけではなく、俺はもっとできるはずなのに、なんで実際には上手くいかないんだろうという自責の感情も含めて、ハドソンは自分のことしか考えない。そして、自我をめぐる自身のそういう生き方を自分でも憎んでいながら、いつまでもそこを抜け出ることができないせいで、こんなにも恵まれた世界に生きていながら、彼のこころからはむなしさと息苦しさがなくならない。

 

 家族が苦しんでいるとき、友人たちが悩んでいるとき、ハドソンは彼らをとてもスマートに気遣ってみせる。ハドソンは、「こういうときにはこうするべき」「人にはこういう言葉をかけ、こう接するべき」ということを知り尽くした名人だ。

 しかしその振る舞いにはどこか形式的というか、情熱がぽっかりと抜けた無機的なところもある。まるで、解答の出力を期待して、機械に決められた信号を打ち込んでいるようなところが。

 別にハドソンが周りの人々をモノや自分を満足させる手段として見ている、というわけではない。ただ彼は他人に対して、「この人にはこうすればこうなる」という冷静な判断から一歩踏み出して、ひたすらバカのようになってその人のことを思うということができないのだ。あるいは逆に、自分をこの閉塞から連れ出してくれと、恥も外聞もなくSOSを発信することが。

 

  そのイビツさに、周囲の人たちも当然気がつく。

「あんたって人は、自分に惚れてくれる人間のことは、何一つ分かりゃしねえ人だよ」(p.371)

 誰かが傷を負えば、それを癒してやろうとするけれど、自分の傷を誰かが癒そうとすることは絶対に許さない。たとえそれが、どれだけ親しい間柄の相手であったとしても。

 優しさを示すけれど、自分が示される側に立ったときにそれを受け入れないことは、ときとして、敵意を向けられることよりも相手のことを傷つける。一体自分たちがこれまで築き上げてきたものはなんだったのかと、相手を途方にくれさせる。そのことを知りながら、それでもハドソンは最後まで変わることができない。

 

 自我をめぐる苦闘とあわせて物語からもう一つ漂うのは、死への意識である。

自分を罰する運命を求めるようにして、ハドソンは死地へ、死地へと、ストーリーが進むにつれて自分を追い込んでいく。そして、物語の最後に戦闘の中で被弾し、おそらく致命傷を負ったところで作品は終わっている。

 ヘミングウェイが自殺していることをふまえて、俺は、自ら死を選んだ作家が自身の作品でここまで死を見つめている事実がショックだった。これまでまったくなんの兆候も見かった人がある日急に死んでしまうことに比べたら、当然といえば当然なのかもしれないが、なんというか、「ああ、結局逃げられなかったんだな」というやるせなさのようなものを強く持った。

 『海流のなかの島々』は、別に自死の決意表明や予行演習ではなかったはずだ。勝手な想像だけど、あくまで自分の中に存在するある衝動を冷静に見つめた結果だし、少なくとも本人はそう思っていたはずだし、どちらかといえばその感覚を結晶化させてコントロールするつもりのものだったのだ、と信じている。

 それでも、作家は最後に死に喰われてしまった。なすすべなく呑みこまれたのか、内的な協議の結果だったのか、そのこころの中は絶望だったのか、平穏だったのか、わからない。

 俺はただ、自分の中に死を目指す芽が生えていることに気がついた人が、それを客体化し抑制してやるつもりで一つの小説を書き、残したにもかかわらず、最終的に自死から逃げられなかったという事実に、言いようのない気持ちになるのだった。

 

 ヘミングウェイというと欧米でマッチョでアウトドアなイメージがあるが、島国の根暗なひきこもりにもけっこう響いたぜ、という話。

 ちなみに、「どこまでいっても自分のことばっか問題」については舞城王太郎の『暗闇の中で子供』という作品でも扱われているので、興味のある方は一読を(このブログで記事も書いてる。恥ずかしめのやつ)。以上。

 

海流のなかの島々 上巻 (新潮文庫 ヘ 2-8)

海流のなかの島々 上巻 (新潮文庫 ヘ 2-8)

 

 

 

海流のなかの島々 (下巻) (新潮文庫)

海流のなかの島々 (下巻) (新潮文庫)

 

 

心地よい場所を目指してゴー。『動物たち』の感想について

 幻想紀行、とでも言ったらいいんだろうか、不可思議な世界を旅することをテーマとするジャンルが俺の中にある。

 それフツウのファンタジーじゃん…というと違くて、このジャンルの特徴は、作中で描かれる異界の理屈、常識を、こちらの常識と近づけようとする処理をまったく行わず、おかしなものがおかしなものとしてそのまま提供されている、というところである。

 その世界の理屈を説明しだしたり、攻略する対象として認識するとこのジャンルとしては除外されてしまうので、例えば『ダンジョン飯』とか面白いし不思議世界の探索を行ってるけど、幻想紀行には入らない。

 

 夢で考えると、このおかしさはわかりやすい。

 例えば、夢を見ているときは、どれだけ変なことが起こっても夢の世界ではありなので、夢を見ている俺らはそのことにいちいちツッコミを入れたりしなし、いちいちマジメに対応する。でも、目を覚ましてしまうと、「よく考えるとあれとかあれとか色々変だったし、それにとり合う俺も変だなー」と思う。起こっている出来事も変だし、そこにツッコミが入らないも変な、そういう感じである。

 

 で、個人的に、このジャンルのマンガ作品で極致と思う作家が二人いる。

 一人は逆柱いみりで、この人が描くのはグロテスクでバイオレンスありの文字通りの『異界』が多い。もう一人はpanpanyaで、こちらは、日常が、少しだけど決定的にズレている、やや不安で珍妙な世界であることが多い。

 作風は違っても、夢をのぞき見して感じるような違和感が楽しいのは一緒で、マンガのコマの隅っこにいかにも思わせぶりなヒトやモノが配置されているのにまったく触れられないのでもやもやさせられたり、今いる状況に対してヒントが少なすぎるか、かえって過多なので処理できなくて混乱しているうちに陶酔していて、ってのは共通しており…

 …ながなが書いたけど、いざ説明しようするとむつかしいわ。実際買って読んでください(ダイマ)。

 

 さて、そのpanpanyaの新作『動物たち』の感想である。

 上でさんざん幻想幻想言っといてなんだけども、今回は不思議成分少なめ。作品内でよくわからない異物と接点を持つと言っても、主人公が引っ越ししたばかりだからそれも当然だったり、相手が言葉の通じない動物なのでしょーがなかったりする。

 なので、過去作品のように異国や海、果ては冥界まで行ってしまうアドベンチャーを想像すると、「ありゃ?」となるかもしれない。

 それでも『動物たち』は面白い。それは、この人の作品で繰り返し描かれている、異物と接触してそれが少しだけ理解できたり、理解できないなりにその結果をポジティブに受け入れられたり、といったことが、この『動物たち』でも引き継がれているからだと思う。

 自発的にか、やむにやまれずか、慣れた場所を離れたりよく知らないものを理解せざるを得ないことがある。生き死にってほどセッパ詰まってるわけじゃないが、より心地いい場所、心地いい落としドコロを求めている。そして、過去の作品と同じように、それはちゃんと見つかるか、見つからなくても同じくらい大事なものが見つかったりする。大事なことだ。

 というわけで、作者のファンにはあいかわらず楽しいし、知らない人にとってはクセがないので入門編にもなるだろう作品である(偉そうですんません。ご笑納。すっげえ乱暴な薦め方すると、サブカルクソ野郎にはなりたくない人でもここなら入れる裏口って感じかもしれません)。

 また、作品の合間合間にご本人が書いた小文がはさんであって、これがとてもいい味出してます。日々のたいしたことないこと、あえて分類するならメモリ1mm分だけ「良いこと」よりの出来事について、淡々と書いておられる。こちらのファンも多いんじゃないか、と思う。以上。

 

 おまけ。ぼくのかんがえたげんそうきこうさくひんいちらん。この辺のことまだ書き足りないので、あらためて記事に起こすかもしんない。

 

逆柱いみりpanpanya

(異界探索そのものがテーマの壁)

『BLAME!』(弐瓶勉)、『殻都市の夢』(鬼頭莫宏)、『カクレンボ』、『ブレード・ランナー』、『氷』(アンナ・カヴァン)、『審判』・『城』(カフカ)、『バベルの図書館』(ボルヘス)、『武装島田倉庫』・『みるなの木』など初期椎名誠SF

(異界探索が重要な要素になる壁)

ドロヘドロ』(林田球)、『よるくも』(漆原ミチ)、押切蓮介作品

(描いてる方に異界嗜好が感じられる壁)

 

別格:内田百閒神

(クソジジイの壁)

 

 作品をくくって一覧化すること自体がある意味不遜だとも思うので、ご容赦+参考程度に。あと、ゲームだとどうしても攻略対象になっちゃうから、『LSD』とか『ゆめにっき』とか『mother』のムーンサイドとかタネヒネリ島とか惜しいけどちがうんだよな…。

 なお、俺の需要に対して供給がまったく足りてないので、詳しい人は「こういう作品があります」っての教えてください。喜びます。俺が。

 

動物たち

動物たち

 

 

不時着…「航空機が故障・燃料不足・悪天候などのため運航不能となり、目的地以外の場所に着陸すること」について

 今日こちらに来ると言っていた知り合いから電話があったので出てみると、来る途中で乗っていた飛行機が不時着してしまったのだという。

 「え?マジですか。大丈夫すか」

 「うん、大丈夫大丈夫。でさ、見に来る?飛行機」

 「え、不時着したやつですか?」

 「そう」

 「見に行けるんすか?」

 「来れるよ。まあ警察とか海上保安庁とかいるからね、適当によけてきてね」

 「じゃあ行きますわ。…もしもし、いま着きました」

 「ああ、こっちこっち」

 「お疲れす。って、ええ?これですか?」

 「うん、これ」

 「…これって、ははっ。ぶっ壊れちゃってんじゃないすか」

 「うん、まあねえ」

 「不時着ってもっとこう…。不時着って言いますか?これ」

 「言うんじゃない?」

 「そうすかね?どっちかっつーと墜落じゃないすか?」

 「不時着だよ」

 「こだわりますねえ」

 「ところで今日の夜何食べたい?」

 「おお…この流れで飯の話します?普通」

 「なんにも決めてなかったからさ、そっちで考えてくれる?」

 「俺魚食いたいっす」

 

 墜落ではなくて不時着なんだそうだ。

 

 朝のNHKでは「不時着して」「大破」という言い方をしていた。それぞれの言葉が噛み合っていない、という印象はあった。

 「『墜落』とは絶対言わないようにしような!」。番組前に円陣でも組み、スタッフ一同気合いを入れたりしたんだろうか、とか朝飯を食いながら思った。

 怒るか、戦慄するか、「ん?自分の『不時着』って言葉の定義が誤ってるのか?」と辞書を引くか、普通…というか望ましい反応というのはまあそんなところなんだろう。でも、俺に起こったのは、ただ「ははっ」という軽い笑いを洩らすことだけだった。それは、コケにされてんな、という自虐ではなく、面白い冗談言うね、という皮肉でもなかった。どこから来たのかよくわからない笑いだった。

 

 今年の9月に行った沖縄の海は美しくて、そのことを思い出す。

 海水は体が浮きやすいので、たっぷり肺に空気を吸い込んでおくと、仰向けになって水に浮かんだまま、空を見上げることができる。夕方になって空の色が変わり始めるまで、アホのように息を吐いては吸い込み、ずっと海から空を見上げていた。

 美しい、という形容詞で、あの土地を自然に飾っている。けれど、その見方はもしかするとそこに住む人々と俺の間に溝を作っているのだろうか。

 美しい、からなんだというのか。

 美しくなかったら、どうなるというのか。

 どう見るべきで、どうすべきで、どうして欲しいのか知らないから、免罪符のように美しいと表して、無関心さをごまかしている。

 

 ははっ、と笑う。不時着だか墜落だかなんだかしてオスプレイは大破したが、その後事態がどこに向かうのかあまり想像が働かないし正直働かせる気もなくて、近所にある魚が美味い沖縄料理屋に年内にもう一度行きたいなあとかだけ考えている。俺のあの笑い声は、あるいは、「土人」という言葉よりあそこに住む人たちを傷つけるのかもしれない。

 

 同じ国の国民としてともに解決に臨むべきなのか。

 もう放っておいて欲しいのか。

 そもそも何が問題なのか。どこから何が間違っていてどこを目指すと誰が喜ぶのか。

 よくわからないし、正直知る気もないし、暗闇の中に差し出した手が誰かがいつか流した血で血塗れになって返ってきそうで怖いなあ、と思っている。そんな風にへらへらしていてそれでいつかバチが当たったら…それが正義だなあ、とか思っている。以上

クズの地平から見えることについて

 twitterを見ていたら、最近の社会人に仕事でありがちなことについて意見が交わされていて面白かった。

 簡単に言うと、

 社会人A「最近の社会人(部下、もしくは取引先など業務上接点のある人)は、仕事を頼んでも言われたことしかやらず、自分でその先を考え、その業務における最終的な着地点まで遂行することができない」

 社会人B「↑は、『業務の着地点』について説明をはしょるAの指示が悪いから動けないか、勝手に着地点を想定して自分で動こうものならそれが正しかろうとAが騒ぎだしてうぜーからやんないだけ」

 として、AとBで対立する構図になっている。

 

 なぜこれが俺から見て興味を引いたかというと、AとBは「そんくらい言わねーでもわかれや」という陣営と「言われもしねーでわかるわけねえし、仮にわかっててもやんねえわ」という陣営とで仕事に関する論陣を張り合っているわけだが、双方、結局、「仕事のできる人」同士が、互いに想像力かコミュ力をもっと持とうぜ、と主張し合っているだけで(もともとお互いに十分高いステータスを持ってるだろうに)、そこには「何を言われようが自分の仕事に対してピンとこないし、そのせいで当然何も上手くいかないんだけど、とにかく能力が低すぎるせいで汗水だけは人一倍かいちゃうバカ」の存在がまったく考慮されていないからである。

 

 AとBとは、人間は、想像力を働かせるか指示を出す方がちゃんと説明してあげれば、最低限の業務をこなすことができると考えている。要は、こなせないやつは、本当はこなせるはずなのに本人の努力が足りないだけだと思っている。

 もちろん、そういう人間もいる。それを、社会人Cとする。

 しかし、中には、上や取引先がどれだけ心を砕いて説明しようがまったく理解できず、発奮はするのだが、実際それを実行するとなると途方に暮れる人種が存在する。それを社会人Dとする。

 

 なぜそんな者(D)が存在するとわかるのか? それは俺がDだからである。

 

 D本人にまるでやる気がないなら関係者はそういうつもりで扱う(接点を持たない、閑職においやる)のがいいんだろうが、なまじっかマジメだったりするとDを含めて周り全体が地獄を見る。

 そして、おそらくAやBにはDという存在が理解できない。それは、自分が優秀で、誰かに指示を出されれば、指示の向こうにあるものも含めてすべて理解できるし(やるかどうかは別として)、自分が指示を出せば相手もだいたいそのとおりに動いてきたからである。

 そういうとき自分の理解できない相手とぶつかるとき、AやBはどう思うか。おそらくこう思う。「こいつは社会人Cだ」と。

 そして、Aは「考えりゃわかるだろ、自分で考えてどんどん動けや」と思うし、Bは「Aの指示が悪い。あれではCにはわからないし、仮にわかってるとしたら(本当は自分と同じBだとしたら)先行して叱られるのが嫌でやらないだろう」と思う。

 しかし、本当のところは? 本当に彼/彼女がCなのか、もしくはDではないのか…誰にもわからない。本人を除いては。

 

 

 もし、AやBが自分以外の社会人の在り方を意識することができたら、何が起こるだろうか。

 たとえばAが、なぜBが(昔はAであったかもしれないBが)、いまはそう考えるようになったのか考えてみたら。

 たとえばBが、いままでのやり方でずっとうまくやれてきたせいでああいう発言をしてしまうAの「しかたなさ」を想像してみたら。

 そして、Dという存在のどうしようもなさを双方が意識してみたら。

 たぶん、AとBとはもっとうまくやれるんじゃないかと思う。つまり、「言わねーでもわかれやボケvs言われもしねーでわかるかバカ」論争が、もうちょっとソフトに現実的なところで解決するような気がする。

 お互いにあるべきかたちに落ち着いてそうなったんだし、双方の主張ではすくいとれない領域の意味不明な存在もいる、という共通項を持ったら、仕事の効率ももっとよくなるんじゃないかな、と思う。こうして世の中はよくなるんじゃないか? 多少は。

 

 ただ、おそらくAとBは和解しないだろう。

 ここからがクズの地平から見える景色なのだが、AとBはSNSで仕事の話をして別に業務を効率化したいわけではない。他人がどうなるか、ましてや世の中が良くなるかどうかなんてどうでもいい。twitterのfavやリツイートの数字を増やして、対立陣営よりも稼いで、間接的に相手を打倒して自分の正しさを証明したいだけである。

 そこに手をとりあう余地はない。

 そして、Cはともかく、Dの存在が彼らに認識されることもないだろう。仕事のできない何者かはずっと、優秀なAから罵倒され、優秀なBから片手間の優しさを投げられたまま、結局「できるはずなのにやらない」という誤解を押し着せられたままだろう。

 Dでありクズである俺は、別にそれに不平もない。しかたがない。ただ、くだらねーな、と思うだけである。それでいいのかというと、わからない。おそらくよくはないだろうが、どうしようもない。以上。

アメリカ大統領選でフツーにアホのように驚いただけのことについて

 ドナルド・トランプが次期アメリカ大統領だという。職場で昼休みに点いていたテレビで「優勢」のニュースを観て、夜帰宅したら決着していた。

 

 驚いた。

 

 俺は30になったが、世間の人がちょっと引くぐらいものを知らないので、俺の中でアメリカ大統領選とはメールのおばさんと頭髪の怪しいセクハラおじさんとが繰り広げる口ゲンカだった。そして、おばさんが勝つと世の中がどうなり、おじさんだとどうなるのかなど、まったく考えないし考える気もなかった。twitterなど見ていると、みんな円がどうとか国防がどうとか言ってて、すげーな、と思った。 

 それでも、俺はメールのおばさんが勝つと思っていた。おばさんのメールがどれだけまずい行為だったのか、また、おばさんが嫌われる他の要因がなんなのか俺は知らないが、対する頭髪の怪しいおじさんは猥談垂れ流されちゃってて、p---y言ってる音声がダダ漏れちゃう人に誰が票を入れるんだと思っていた。

 おじさんはスキャンダル流された割りに善戦しているという。でもなんだかんだ言っておばさんが勝つでしょ、そういうもんでしょ。知ってるんだぼかぁ。だてに30年生きてないからね。

 

 結果どうなったか。

 

 おじさんが勝った。

 

 そもそも、おじさんはただのおじさんではない。不動産王(このキャッチも報道の受け売りで俺の知識のつたなさを物語るが)で富豪になる時点で並のおじさんではないし、大統領選で並みいるライバルを蹴落とし、最有力候補の一角となり、最大の強敵であるおばさんとの優劣は開票直前になっても不明、とされているおじさんが普通のおじさんであるはずがない。

 事実を、事実だけを拾えばおじさんが大統領になることはありえる。というか本当にそうなった。俺の、「結局おばさん勝つでしょ」とか関係なかった。そういうもんでしょ、とか全然関係なかった。そういうもんじゃなかった。

 

 繰り返すが、それでも俺は驚いた。

 

 確信を持って出した解答にペケがついて返却されたとき、おおげさなことを言うと、それはただの誤答や減点だけを意味しない。解答者の、そいつの人生におけるルール自体が間違っていたのである。

 

 俺と同じように自分のルールが間違っていたことを知った人は、今日この世界に何人ぐらいいるのだろうか? 多いのだろうか? 少ないのだろうか? それは誤答を発する前に気づきようのない誤りだったのだろうか? 彼らに情報をもたらすメディアに一因があるのか? それとも、単に彼らの勉強不足のせいなのだろうか?

 

 とりあえず俺の答案用紙にはでっかいバツがついて返ってきた。俺はクズなので、以降はがんばって勉強しよう、という風には思わない。おじさんが大統領になって世の中が、日本が、俺の生活がどう変わるかにも想像を働かせる気は起きない。

 また、どう知識を集めようと世界はそれをすり抜けていくものだから、という悟ったような結論まで進む気もない。

 ただ驚いた。そんな感想で終わっとくのが俺にはお似合いだと思う。p---y。

イモムシ、もしくは世の中はちゃんと気持ち悪いことについて

 今朝歩いていたら、歩道のわきにイモムシがいた。

 サツマイモのような色としっぽのトゲが毒々しいやつが、ずんぐりしながらそこでじっとしていた。

 俺は、うわー、などと言いつつ歩くのをやめ、かがみこんでその姿をしばらく眺めていた。

 

 虫が好きだがイモムシは嫌いである。その一方で、外で見かけたりするとついじっと見てしまう。

 つくづく気味の悪い生き物だ。もしその存在を知らない人がいたら、俺がその生態について説明して聞かせてそれを信じるだろうか。

 「子どもの頃は棒に足がついたみたいなかたちなんだ。でも、成長したら殻を作ってその中で一度体をどろどろに溶かして、それから、羽を生やした姿になって殻から出てくる」。

 きっと信じないんじゃないだろうか。

 そしてあの遠慮なく張りつめたような体ときたら。今朝見たやつも少し大きすぎるんじゃないですか? と言ってやりたいような立派な姿をしていた。大人になったときに羽になる部分に使うための肉体も含めてあの姿で、ひたすら、いつか空を飛ぶときのために力を蓄えるためのかたちなのだと感じる。そのヒタムキさも生理的に気持ち悪い。

 

 ただ、俺はそんな気持ち悪いイモムシを見るたびにある一つの感覚をいつも抱く。それは、「世の中はちゃんと気持ち悪い」という安心感である。

 

 俺は人間としてのキャパシティがとても小さい。そんな俺は、しんどくなると生活の色々なものを遮断していくという行動をとる。

 親しい人とも話をしなくなり、どこかの店にもよらず自宅と会社だけで日々を完結させる。テレビも見ない。雑誌も見ない。

 そうすると、世の中というのはだんだん、「やるべきこととやらなくてよいこと」、「気持ちいいことと苦しいこと」という風に、すとんすとんと最低限の箱におさめられるようになっていく。

 これはきっと、俺が子どもも嫁さんもおらず両親も健康…と周囲に心配のない環境であることも大きい。が、ともかくそんな生き方をすることが一応許されている。課題と解決、快楽と苦痛の生活。そこには、大変なことはあっても、正体不明の気持ち悪さというものはない。

 

 オタクなのでまあ一応…つってどういう生活時期だろうとマンガと小説は読む。

 最近だと『ワールドトリガー』16巻、『BLUE GIANT』9巻、『惑星9の休日』、『海流のなかの島々』がよかった。

 そこに描かれたものはどれも熱く、もの悲しく、美しい。

 これらの作品内で、人間が対するモノは別の人間だったり、自分自身だったりする。世界とは自分を試す場所、もしくは希望と絶望を万華鏡のように鮮やかに振りまく玉手箱である。

 ここにも気持ち悪さはない。正体不明なものは、せいぜい人のこころぐらいである。

 

 俺はまったく断じてこれらの作品を貶めるつもりはない。でも、単純化した日々の中でこれらの作品を手にとった俺は、それを読んで読み終えて「ああ、良かったな」と思い、「あ、そういえば」とやりたくないことを思い出し、「まあしょうがねえな」とかなんとか言ってなんとなく家を出て、たまたま道で見かける一匹のイモムシにきっとガツンとやられずにいられない。

 

 俺が世の中をどう単純化しようと俺の勝手で、そうすることで楽になること、そうすることで得られる強さがあるから別にいい。

 でも、その中で処理できない圧倒的に気持ち悪いものをいきなり現させてみせるのは世界の勝手で、そしてその方が正しいんだからしかたがない。イモムシはいなくならない。イモムシはイモムシの勝手で蛾になるために頑張って葉っぱとかを食う。

 俺は彼らを目にしたときの気持ち悪さが嫌いじゃないのだ。結局。いや、嫌いだけど。

 なんとなく自分がちゃんと正しいものに接続されたような安心感があって、それで、できればその存在を受け入れたい。でも、なかなかそうもいかないんですよ、って変な恥ずかしさというかむずがゆさがわいてきて、これは俺にとっていい気持ち悪さなのだ、と地面に転がった生き物を見ながら思うのである(悪い気持ち悪さについてはいつか機会があったら書こうと思う)。

サマーソニック2016の感想について(サカナクション編)

はじめに

 ソニックマニア2015最高! perfumeかわいい! マンソン、プロディジーカッコいい! 2016年も最高のアーティストの演奏で夜通し踊りたい!

 

 って、あれ…?

 

 「2016年ソニックマニア中止のお知らせ」

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 でも行ってきた。
 
 レディオヘッド観たい友人の同行と、サカナクション観たい、あとやっぱ俺もついでにレディへ観てえ、の合わせ技一本による決心。6月のことであった。
 というわけで、以下サマーソニック2016、東京はサカナクションレディオヘッドのステージレビューです。
 
開演まで

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 8月21日14時頃、東京会場の公演を見るべく海浜幕張に到着。知人と合流し、他のお客さんたちの流れに乗って幕張メッセに向かう。
 日差しがものすごい。来るときに買ったポカリを早くも空けて、水を追い買いする。
 前夜祭であるソニックマニアは過去3回参戦(笑)したことがあるけど、日中開催のサマーソニックははじめて。メッセに入り、トイレの行列、空いてるスペースで横になって体力を回復させてる人たちの光景にフェスの空気を感じつつ、場内右手の通路から屋外へ。いざ、未知の戦場マリンステージに突入したのだった。
 
サカナクション…エンターテイナー。そして、けっこう汗くさくロックバンド。つまり、カッコよし
 前回サカナクションを観たのは2014年のソニックマニア。そのときと同じ、「ラップトップコンピューターの前にメンバーが集結するかたちで開演→そこから展開してバンド形態にフォルムチェンジ」というスタイルが今回もとられる。
 
 この日は、後半の怒涛の攻勢がイカす『ミュージック』で開戦。その後、『アルクアラウンド』、『Aoi』とアガる曲が三連続。
 いきなり沸かせに来た印象が強く感じられたのは、おそらく会場内に一定数いるだろう「サカナではなくレディへの位置取りが目的でいまから会場内にいる勢」まで楽しませる作戦…かどうか知らないけど、いきなり体揺すぶり続けられる十数分。
 
 『蓮の花』からしばらくスローな曲が続いた後、舞妓さん?もステージに交えて再度攻撃態勢。『夜の踊り子』、『アイデンティティ』、『ルーキー』と、陽が落ち始めた場内を疾走。最後は『新宝島』で〆。PVでもやってたサビ前の「オゥ!」ダンスが観られた。
 全体的に縦ノリできる曲が多く、俺ぐらいの「体動かせるサカナクションが好きなライトなファン」がけっこう得するセットリストかなあ、とか勝手に思いました。
 
 感じたのは、この人たちはやっぱりロックバンドで、汗くさくてカッコいい、ということ。
 開演時のラップトップ形態が示すように、電子的でスマートな部分も確かにこの人たちの一面だと思うけど、それはあくまで一つの表れに過ぎなくて、最初つけていたロボメガネを外した一郎さん(山口)は喉にスジを浮かべて叫び汗を散らせ、踊って煽って踊る激情と身体のヒトだった。
 途中でなぜか和太鼓をぶっ叩くパートがあったんだけど、他のメンバーの人もなぜか獅子舞を従えて楽しそうにドコドコやってたりとかギターの人の『新宝島』のソロとか、みんな体使っててバンドしてていいなあ、とか思った。
 
 屋内会場であるソニックマニアからサカナクションを知った俺としては、実は室内の音響と照明で観た方が没入できるバンドだと勝手に思っていて、それは正直この日のサマソニを体験した後もそうなんだけど、覆うもののない空の下で体から吹き上がる熱気もあらわにロックしてる一郎さんたちは、これはこれでなかなかよかったと感じた次第です。ちなみにセットリストはコチラのサイトに詳しい。
 
 長くなったので続きは分載。後半はレディオヘッドの感想。です。