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惨状と説教

誰か山から降りてきてほたえてから山に帰っていく記事。ブログ

『双亡亭壊すべし』3巻の感想について(?)

■目次

      1. (太ももの)はじめに
      2. まとめ(太ももの)

 はじめに~3巻のあらすじ…?~

 お化け屋敷破壊漫画『双亡亭壊すべし』第3巻。

  建物に潜入した霊能力者に絵描き、役人の破壊者チームも館の魔の手によって順調に(?)無力化されていく。しかし、悪化し続ける事態の中で、絵描きの青年 凧葉がついに館の突破口をつかむ。

 一方、館の外では作中最強火力でありながらまだ現場に合流していない謎の少年 青一と、その友人であり館に父親を殺された少年 緑朗が、現職総理大臣に連れられて国会議事堂に。二人はそこで、あの「双亡亭」がただのお化け屋敷ではなく日本国が以前から恐れ続けた究極の事故物件であることを知る。

 館の中で、外で、状況が動き始める。攻略法の判明もあればさらに絶望感をあおる事実の判明もあるのだが…すみません、白状する。今巻はね、主に太ももしか見ていませんでした。

 

 さすがに太ももの話ばっかりするわけにいかないので、それ以外の話をもう少しくわしく。

 潜入者たちが館の中で目にしたもの、それは封鎖されたお化け屋敷にあるはずのない、彼ら自身を描いた人物画だった。そして、それを目にした者は画の中に引きずり込まれてしまうのだが、絵描きの凧葉だけがこの攻撃を攻略することに成功する。

 画の中は奇妙な空間になっていて、正体不明の男が一人、そこに座って抽象画のような妙な画を描いている。凧葉は同じ絵描きとしてこの男に興味を持ち、会話をすることで、今後重要になると思われるある能力を授けられる。

 館を破壊しに来た者の中で直接の攻撃力を持たないのは凧葉だけだったので、ここで彼に役割が与えらた感じ。

 凧葉はこの力を使い、仲間である戦闘巫女 紅のところへ。彼女を救出し、フラグをさらに太くするのだった。

 青一、緑朗組は、自らも双亡亭に因縁を持つ総理大臣と防衛大臣に連れられて国会議事堂へ。建物内の、部屋はあるが扉はない、いわゆる「開かずの間」を見せられ、「双亡亭」の瘴気は町内どころか国全体を覆うものであることを示唆される。そして、彼らを追って議事堂に参集するのは…。藤田和日郎女の子とオッサンとジジイがうめえよな。

 

 あと、お化けがあらためて怖い、という話。『双亡亭壊すべし』で出てくるお化けは前から怖かったけど、今巻もおっかないお化けがいっぱい出てくる。

 俺は漫画は絵が上手くなくても成立するものだと思ってるけど、当然絵が上手いことによって描けるようになるものはあるわけで…、藤田和日郎の描くオバケ、超コワい。

 人体を絶妙にゆがめて描かれる、知ってるものが既知と未知の混ぜ合わせになって現れる不快感。怖いとか気持ち悪いという感覚は、既知の部分の名残があって最高に高まるものだとわかる。少しネタばらしすると「双亡亭」による潜入者への攻撃は恐怖が重要なファクターになっており、この設定に対して作者の力量が示す説得力、すげえぞ、と思う。

 

 で、太ももの話なんですけど。戦闘巫女の紅さんが火で衣服を焼かれた。火、GJ。3巻のMVPは火。

 

まとめ

 館の潜入者たちは徐々に脱落。紅含め、他の霊能力者では館の中で生存するのが精いっぱい。直接ダメージを与えられるのは青一だけっぽいので、はよ現場へ。疾く。疾く。

  でもこのままだと紅さん含め霊能力者の方々がバカみたいなので、どこかでちゃんと戦力としてカウントできるような展開にして欲しい。好色山伏とか良いキャラしてるし。

 務が絵の中で会った謎の絵描きがやっぱり坂巻 泥土なのかしらん?

  空間転送という、ある意味青一よりすごい能力を持つキャラクターが出てきますが、紅のためにズボンなりなんなり持ってこれるだろうに…。さすが、わかってるな。

 まあ何が言いたいかというと戦闘巫女の太もも最高だぜ、ということでしょうか。私はもしかするといま『スプリンガルド』の変態のような顔をしているのではないでしょうか。(おわり)

 

双亡亭壊すべし 3 (少年サンデーコミックス)

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死線に挑む、『LIMBO THE KING』の感想について

はじめに~俺が思う田中相について~

 田中相さんは「越境」を描く漫画家さんだと思っている。勝手に。
 自分と他人。
 人間と動物。
 人と神。
 自分の知らないどこか、自分とは違う何者かに向かって一歩踏み出すことを描く作家さんだと思う。
 新作、『LIMBO THE KING』も越境の物語である。ただし、今作で主人公が超えようとするのはそんじょそこらの境界ではない。死線である。ある意味神様のものになるよりも危険な(前前作『千年万年りんごの子』)、残酷でシンプルな死地に主人公は挑む。

■目次

    1. はじめに(上記)
    2. あらすじ
    3. 『LIMBO THE KING』のみどころ
    4. 謎と今後について
 
 

あらすじ

 ときは近未来、2086年。かつて世界は「眠り病」と呼ばれる奇病に襲われ多数の犠牲者を出したが、「ダイバー」と「コンパニオン」というスペシャリストによる治療法が確立され、病はすでに根絶されて8年が経過していた。
 海兵 アダム・ガーフィールドは、任務中に事故に巻き込まれ、片足を失った状態で病院で目を覚ます。退役を考える彼だったが、上官によってある提案を聞かされる。それは、彼が眠り病治療の専門家「コンパニオン」としてきわめて高い素質を示したこと、コンパニオンになれば高い給与が得られること、そして、一般に撲滅されたと言われている眠り病の被害者が、再び発生しているということだった。それも、かつては一度罹患すれば再発しないと思われていたはずが、回復後も発病する「新型」となって。
 はじめは渋っていたアダムだったが、家族の生活費を稼ぐためにコンパニオンとなることを決意する。相棒となる「ダイバー」は、なんと眠り病を根絶した英雄として『キング』の異名を持つ男 ルネ・ウィンター。過去にいわくありげな変わり者であるルネとともに、アダムは新型眠り病へと戦いを挑む。
 

LIMBO THE KING』のみどころ

「…何人死ぬんだ 今回は」
「さあ… まだ始まったばかりだ」

  前前作『千年万年りんごの子』のときもそうだったけど、事態をぎりぎりと絶望的にしぼる描写が上手い。ただし今回は、神様にとられるという抽象的な話でなく、主人公たちは病による現実的な死と戦うことになる。

 この死の描写の強烈さが印象的だった。「ダイバー」や「コンパニオン」は眠り病の患者の精神と同調することで治療を行うのだが、失敗すると自分たちの肉体がクラッシュしてしまう。この描写がすごくて、顔の穴という穴から血を噴き出して歯を食いしばり、文字どおり「ぶっ壊れて」しまうのだが、田中さんこういうのも上手く描けるんだ…という感じだった。
 
 一方、相変わらずの良さがあるなあと思わされたのはセリフ回し。田中さんの漫画は、以前から人と人とが交わす会話という行為への慈しみみたいなものが感じられて、とても良い。
 そういう作風と、『LIMBO THE KING』に出てくる軍人や眠り病と戦うサイエンティストたちの描写は、歯車ががっちりかみ合ってる感じがする。生死の最前線で奮闘しつつ、なかばプロの義務として常に余裕を見せるため軽口を叩き事態を的確にまとめることが求められる彼らの存在が、セリフの使い方によって生き生きと伝わってくる。
 
 あとは、作品世界を支える設定も細かいとこで凝ってていいですね。
「君は毎回明晰夢を見るのだろう?」
「今じゃサプリで明晰夢なんて見られるし珍しかないでしょ」
「ダイブの技術が生まれてから51年 今のところ我々にわかっているのは天然は何にも勝るということ なぜなのかは不明だがニセの明晰夢は4.2%の確率でダイバーをキックアウトできない」

  俺はアホなので、その作品でしか通用しないこういう細かい話が出てくると簡単に萌えます。キャーッとなります。ちょろいもんです。

 

謎と今後について

 作中に大小いくつかの伏線が張られていて、そこがどう明かされていくかも楽しみのひとつ。具体的には、
 
・アダムと眠り病患者であったらしい彼の父との確執
・ルネの妻の身に起こったこと
・そもそも眠り病とはなんなのかということ
・ルネがアダムの上官に言った「自らの作った地獄で助けを乞うて果てろ」という言葉は、眠り病の発生原因がアメリカ軍にあるということか、という疑問
 
 など。すごい細かいところだと、作中で一度だけ出てきた「ゾエ」という名詞も。人名? ルネとは違う凄腕のダイバー? こういうの、中二心くすぐられる…。
 
 行動派の楽天家と頭脳派の変わり者とのバディが挑む謎解き活劇、という現時点の構造だけで十分期待して楽しめてるところだけど、個人的には「人間はなぜ眠る必要があるのか」「夢を見るのはなんのためなのか」というでかいテーマまで描いてもらえると、うれしいなあ、とか思います。
 アダムが夢の中で会う謎の女の子がいて、たぶん眠り病と強い関係があるこの女の子が、なぜか患者でないアダムに見えるということが、作品が今後全人類的な話に展開していくことを示唆しているような。そうでもないような。
 ともかく、田中相ファンはもちろん、SFサスペンスとしても質が高い作品だと思う。次巻も楽しみです(次は2017年7月だって。遠い!)。

「最強」の定義、映画『オアシス:スーパーソニック』の感想について

はじめに

自分を変えることのできる特別な人たちが、いったいどれだけいるのだろう?

変わった生き方を許される人生が、いったいどれだけあるというのだろう?…『Champagne Supernova

どうすれば生きている実感が手に入るのか、見当もつかない

いったいどうすれば、自分の中に眠っているものの目を覚めさせることができるのかが…『Acquiesce』

 

 知らない人が見たら、自分に自信のない、悩みと苛立ちを抱えた世界中どこにでもいる若者の言葉に聞こえるだろう。

 わかる人だけがわかる。これが、20代で全世界1000万枚以上のCDを売り上げ、2日間で25万人を動員する超ド級のライブ公演を実現した怪物のようなバンドの歌詞だということが。

 

 (ときどきよその曲をパクるけど)稀代のソングライターであるノエル・ギャラガーと、基本チンピラなんだけどステータスの割り振りをカリスマ性に全振りしたようなフロントマン リアム・ギャラガーの兄弟を中心としたバンド、oasis

 ある時代、確かに世界の頂点に君臨し、やがて失速し、そして自壊したoasis

 そのドキュメンタリー映画、『オアシス:スーパーソニック』が公開されたので観てきた。以下、未見の人向けに見どころと感想を書いてみます。

■目次

    1. はじめに
    2. ライブ映像~小さいハコからネブワースまで~
    3. インタビュー~母ちゃんの語り、名曲誕生の秘話~
    4. おわりに~最強の定義とoasisの今後~

 

ライブ映像

 上で書いたとおり、曲は初期のものがほとんどです。筋金入りのファンはもちろん、初期の曲しか知らない、という人でも楽しめます。

 演奏はどれもエネルギーと確信に満ち溢れていて、リアムは「歌い上げる」という表現がぴったりの王様っぷりで、聴いてて妙に泣きそうになった。思わず合唱して映画館で不審者になるところだった。危なかった。

 それほど大きくないハコから音楽番組のスタジオ、そしてなんといってもネブワースまで色んなとこで演っている映像が観られる。

 特筆すべきはやっぱりネブワース。『オアシス:スーパーソニック』は、このネブワースにぎっしりとどこまでも、果てしなく人々がひしめている様子を空撮で映すところから始まっていて、もうライブ会場というより難民キャンプみたいな規模に見えて、正直怖くなるレベルだった。

 これだけの数の人たちが、ただoasisの曲を聴くために集まったのだ。それを前にしたノエルは、そしてリアムは何を感じたんだろうか。

 珍しい音源も聴ける。兄貴の『wonderwall』とか、兄貴加入前にバンドが作った曲とか、あとはリアムがシャブでラリラリになってたアメリカの音楽番組の映像とか…。

 

インタビュー

 音源についてはすでにつべとかで漁っていた人もいただろうから、ディープなファンは、むしろ映画の製作にあたって関係者に行われた、最新インタビューとしての内容の方が気になるかもしれない。

 

 まず驚いたのは、ノエルがoasisに加入する経緯について、実は兄貴はリアムにお願いして「加入させてもらって」いたとノエル本人が語るくだり。

 「お前たちはどうしようもないクズバンドだ。だがリアムのパフォーマンスには少しだけ光るものがある。俺の曲を演ってビッグになるか、このままマンチェのクズバンドで終わるか、どっちだ?」

 兄貴のこのハートウォーミングな挨拶がきっかけでノエルはoasisに加入した、というのが定説だったはずなので、これは意外だった。まあ、時間が経って当時大げさに言っていたことをいまはむしろひかえめに表現している、ということかもしれないけど。

 他にも兄貴の発言で意外だったのは、フロントマンとしてのリアムをイケメンとか身長高いとか言って素直にほめているところ。でも、二人の大ゲンカでバンドが解散を迎えたことを考えると、なんか心温まるというよりは「冷静に過去を振り返っちゃってる」感じで、少し寂しい気がした。

 

 『Talk Tonight』という曲の誕生をめぐる逸話は、兄貴のロックスターとしての面目躍如と言ったところ。

 アメリカでのライブ中にリアムにムカついてバンドから失踪してしまったノエルは、そのまま現地で出会った女性のもとへと、彼女が暮らすサンフランシスコへと行ってしまう。そして、その後の数日間という短い期間でこの名曲を作り上げてみせる。

 

朝が来るまで、今夜はあなたと話していたいんだ。あなたが、どうやって俺を救いだしてくれたかについて…『Talk Tonight』

 

 ノエルは最後に付け足す。あっさりと。「今では彼女の顔も覚えていないけど」。

 でもその一方で、とても大切な記憶なんだろう、ということも伝わってくる。しびれる。

 

 兄弟の母親ペギー・ギャラガーのインタビューも印象に残っている。

 夫のDVに悩まされながら、ノエルたちを育て上げた苦労人のペギー。彼女の言葉には、あのもの静かなノエルとやんちゃなリアムが、大人になってずいぶん遠いところにいってしまったものだという驚きがある。

 でも、そこに世界で最大級に有名な兄弟の母親としての特別な語り口みたいなところはなくて、本当にどこにでもいる普通のお母さんのようで、それはつまり彼女からすればあの兄弟も普通の、でも自分の大切な息子、という感じで、とてもよかった。

 

おわりに

 観終わってもっとも考えさせられたものは、リアム・ギャラガーというフロントマンの存在感と、こいつを表現するにはもう「最強」の2文字しかねえな、という感嘆である。

 リアムの映像を観ていると、自然にある印象を抱く。それは、リアムが常に「観客VS俺」、「世の中VS俺」という対決の構図の中で生きていること、そしてその戦いを勝ち抜くために、常に自分の方が相手よりも強いのを疑っていないということである。

 リアムはバンドが始動してわずか数年で膨大な数のアルバムを売り、ネブワースで怪物のような規模のライブを行ったときに最大の「戦果」を得たわけだけど、リアムがそうした大きなサクセスを夢見て戦い続けてきたとは、あまり俺には思えない。

 映像を観ていると、リアムの戦いはただひたすら「今」「目の前」にあったのだと感じる。目の前の観客、自分を取り巻いている環境…それが誰で、ステージはどこで、どんなタイミングであろうと、リアムはそれを一回こっきりのタイマンだと認識して、そしてすべての勝負を等価として扱った。

 ネブワースはその戦いの果てにたどり着いた新たな敵というだけであって、立ち向かう相手として強大ではあったけれど、自分を信じて一対一で戦わざるを得ないという意味では、これまでの戦いとなんら変わるものではなかったのでは、とさえ思う。

 で、俺は思う。その戦い方こそが、oasisが世界中で受け入れられ、それこそ俺みたいな極東のひきこもりのこころまで奪った理由なんじゃないか、と。

 なぜなら、そうやって自分自身を超えないといけない場面は誰の人生にも存在するはずだからだ。

 1000万枚CDを売って大観衆の前で歌う必要はなくても、ここ一番を「この世の全てVS俺」という構図で戦わざるを得ない場面は、きっと誰の人生にもある。そしてそのとき、俺たちは「俺は相手より強い」と信じずにはいられない。なぜなら、その狂信こそが俺たちを勝負のリングに上げてくれるからだ。

 oasisが、そしてリアムの歌が世界中のハートをわしづかみにしたのは、きわめて自己本位的に歌っているにもかかわらず、誰もが戦う大勝負を支える一つの応援歌として認識されたから、だと思う。

 さて、リアムのすごいところは、普通そういう戦いは人生の節目で何回かくぐり抜ければいいはずのところを、いちステージいちステージそういう気概で戦っているところだ。そして、おそらく誰が相手だろうと自分の方が強いことを信じて疑わないところだ。

 敵が何人もいる中で一番強い、のではない。正確には、いま目の前にいる相手より自分の方が強くありさえすればいい。ただしその結論は、相手が誰であろうと、戦いがどのタイミングで起ころうと、揺らぐことはない…。

 その意志が目に見えるから、だからこの頃のリアムは「最強」なのだ。誰にでも似ていながら、誰にもマネできない、リアムだけが体現できる「最強」さなのだ。

 

 不満点もあるけど(3rd以降の曲がかからないところや、そして後の兄弟二人の決定的な大ゲンカによるバンド解散についてまったく触れていないところなど)、ファンの人は絶対観て後悔しない内容のはず。

 兄貴はそろそろ弟許してやろうぜ? またoasisやろうぜ? と外野で勝手に思う。インタビューでノエルがバンドとリアムについて語る言葉は妙に冷静なところがあって、それはもうoasisに未練がないことのあらわれなのかな、と思わないでもないんだけど。

 でも、いいじゃないか。ペギー母さんの息子二人、悪童ノエルとリアム。たまたま両方ともミュージシャンになって、たまたま二人とも同じバンドに入って、もうどうしようもなく離れられない因縁があって、一度は解散したけどモトサヤになって、性懲りもなくケンカは繰り返すけどぎゃあぎゃあやりながらカッコよくおっさん二人で歌う。

 それでいいじゃないか、と勝手に思う。思いながら、『オアシス:スーパーソニック』をお勧めする。以上。

貴重な「野蛮」漫画、『トリコ』43巻の感想と完結に寄せることについて

はじめに

 少年ジャンプでやっていた『トリコ』が、先日最終巻となる43巻を発売し完結を迎えた。まあ週刊連載では数ヶ月前に終わっていたけど、単行本派なので、「あ、終わった」という気持ちを抱いたのは本屋で43巻の表紙を見たときだった。

 『トリコ』には色々と勝手に思うことがあって、だからそれが完結して感慨・感想がたくさんあって、だから、ここでまとめておきたいと思う(長くなります)。

 簡単に言うと、

 

・面白い作品だったけど途中でわけわかんなくなってたけどやっぱおもしれーぞ、ということ

・ついでに少年漫画自体についての望みと、とにかくお疲れさまでした、ということ

 

 そんな話になると思う。

■目次

    1. はじめに(上記)
    2. 『トリコ』のいいとこ凄いとこ
    3. 「あれ? なんかおかしくなってきたな?」の時期
    4. 見事に盛り返した最終決戦
    5. 少しだけ、少年ジャンプに思うこととあらためてお疲れさまでしたということ

 

『トリコ』のいいとこ凄いとこ

 未読の人のため説明しておくと、『トリコ』は「美食家」という密林だの火山だのの危険なとこに冒険に行って、その地でしか獲れない美味い動植物を狩って食う人を題材にした漫画である。

 

 最初に考えを述べると、俺は『トリコ』の良さの中心って『HUNTER×HUNTER』+『刃牙』なところだと思う。

 つまり、ハンタの冒険成分と、バキの格闘・食事成分、生物や人体に関する雑学、そしてなにより、双方に共通する「倫理とか良心とか関係ねえ、勝ったやつが正義だぜ」という野蛮な思想を『トリコ』も持っているところが俺がハマった理由で、世間的にウケたのもそこだったんじゃないかな? と思う。

 なので、一つ勝手に考えているのは、同じジャンプで連載してもいるこのハンタがあの連載状況であることは、トリコにとってある意味追い風だったんじゃないかな、ということである。「ジャンプ買ってもハンタ載ってないけどハンタ読みてえ」という需要に対して、びたっと応えてみせたのが『トリコ』だったんじゃないかな、ということだ。

 もちろん島袋光年さんの技量があって描けた作品であること、『トリコ』そのもののオリジナリティがしっかり存在していることは言うまでもない。とにかく、ハンタみたいに未開世界を探検して、バキみたいにスカッと肉弾戦でぶん殴り合って、合間合間でもにゅもにゅ肉を食い、雑学満載でなんとなく勉強した気にもなる、で、サニーが初登場したときマンサム所長をボロクソに言う場面とかドドリアン・ボムを採集しにいく回とかでヘラヘラ笑える漫画が『トリコ』で、俺はそこが好きだったのである。

 

「あれ? なんかおかしくなってきたな?」の時期

 そういうわけで、俺は『トリコ』のマッチョであることがそれなりに重んじられていてそれでバチバチ殴り合う泥臭いところ、細身のイケメンが異能で華麗に敵を倒したりしないところを愛していた。

 

 なんだけど、巻が進むにつれて「あれ?」と思うことが増えてくる。

 まず、作中の攻撃手段に飛び道具や超能力が増えた。

 俺らが過去に人を殴ったり殴られたりした記憶や経験…。トリコの強みの一つは、そこに訴えて痛みや爽快感をイメージしやすくしたことにあったと思う。

 おおげさに言うと、トリコにおける飛び道具の頻出は、作中の戦闘を追体験するものから淡々と眺めるものに変えてしまった。

 そして、それと無関係ではないと思うんだけど、メシの場面の魅力が激減した。

 すごく運動した後に美味い肉を食う、甘いものを食う、その快感は実体験からイメージできる。でもエネルギー波出した後って…まあ疲れるんだろうけど、メシは美味いんだろうか? ということだ。メシ自体も、単に美味いものから回復アイテムやステータスアップの道具のような扱いになってきていた気がするなあ。

 

 最後に漫画の技法的な話。作中で「強さ」を説明する要素が頻出して、何がなんだかわからなくなった、というのがある。

 ドラゴンボールの気、ハンタにおける念など、戦闘漫画にはキャラクターの強さを数値化、あるいか個性化するための要素が登場することがある。

 で、トリコなんだけど、「食没」、「ルーティーン」、「猿武」、「裏の世界」、「食運」など、ハンタの念がその体系内で修行したり応用したりで全ての戦闘を説明できるのに対して、ちょっと出てくるものが多すぎる気がする。これは読者の忍耐にもよるのかもしれないけど、俺は読んでて「あ、めんどくせーな」と思うことがあった。

 

見事に盛り返した最終決戦

 上記のような理由で少し冷めてしまい、しばらく惰性で読んでいたのだが…世間でも同じ意見が多いみたいだけど、最終決戦で本当に見事に盛り返した、と思う。

 

 最後の戦いで、以前は偉人とされていた美食家の頂点アカシアが、実はすごい悪人でした、ということが判明し、トリコたちはこのアカシアと戦うことになる。

 主人公側と敵側と、主役級の実力者が勢ぞろいして乱闘する、という展開のアツさもあるけど、俺はこの終盤での面白さってアカシアのキャラによるところがすごいでかかったと思う。

 アカシアはラスボスなんだけど、『ダイの大冒険』のバーンみたいな大物感はまったくない。ネットでもネタにされてるけど、ただのキレやすいチンピラだ。

 でも、アカシアにはその程度の低さゆえの怖さがあった。欲するのは世界征服みたいなでかい話じゃなくただメシを独占したいという獣じみたものだが、アタマの沸点が低くてきわめて暴力的、ガタイがでかくて強い、というのが、怖さをあたえる存在としてリアルだったのだと思う。

 そんなキレやすいアカシアとトリコたちが交わす悪口合戦(バカにしてるわけじゃなく、このへんの言葉のセンスは島袋さんってほんと上手いと思う)と拳の応酬は本当に爽快感あった。

 最終回とその前の回も、大団円として見事にまとまってる。あらためて良い終わり方をした漫画だな、と思う。

 

少しだけ、少年ジャンプに思うこととあらためてお疲れさまでしたということ

 『トリコ』が終わって、ジャンプでトリコより前から読んでいていまでも読んでいる漫画はハンタだけになった(ちなみにトリコより後に読み始めた漫画はワートリだけ)。

 俺はもうジャンプで新連載が始まっても最初の一回目さえ読まなくなって久しいので、まあモノを知らない老害がなんか言ってるわ、ぐらいに思われてもしかたがないんだけど、なんというか、ハンタとかトリコみたいに肉体を生かした冒険で、かつ知識を駆使するサバイバルで、何よりも戦って生き残ることが最大の正義である「野蛮」な漫画って、ジャンプは今後送り出す気があるのかなあ、とすごく勝手に思っている。で、あんまり期待できる姿勢を感じないなあ、とか思って勝手に残念がっている。

 人間というものを、いわば「ものすごく頭の良い野生生物」として描いているこういう漫画って、なんなら漫画界全体でも少ないような気がする(最近だと『ゴールデンカムイ』かなあ)。実は需要がすごく高いんだけど。

 トリコはこのジャンルの貴重なひと枠、そしてもちろん金字塔だと思います。あらためてお疲れさまでした、とネットの片隅でお伝えする次第です。以上。

 

トリコ 1 (ジャンプコミックス)

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トリコ 43 (ジャンプコミックス)

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バカですみません、『へうげもの』23巻の感想について

 (はじめに。非常に不遜な記事です。『へうげもの』ファンの方は、どうかご勘弁願います…)

 

 「最近の『へうげもの』、まあ面白いんだけどさ…」

 「登場人物が前より増えすぎたというか…」

 「誰に注目していいかわからないというか…」

 「なんつーか、昔はもっと単純だったよね?」

 

 そうお思いのそこの貴方、というか俺。

 お待たせしました。織田信長千利休、そして豊臣秀吉時代の寵児の生き様と死に様を描き続けた後、しばらく群雄割拠の感のあった『へうげもの』、23巻で再び話の焦点がごついほど明確になり、そしていよいよ最終章に向かって動き始めた気配があります。

 

 日本史の素養にきわめて乏しい俺の理解だけど、大阪冬の陣を終えて、現在の登場人物たちの思惑はこんな感じ。

 

 古田織部…主人公。数寄の世を存続させるため、徳川と豊臣に仲良くして欲しい。そのために公家とか薩摩の鬼島津とかとなんかごにょごにょ工作をしている。

 徳川家康…豊臣とか鬱陶しいんでとっととまつりごとの表舞台から消えて欲しい。そのためには戦も辞さない。あと侘び数寄とか言ってる他の連中もなんか頭良いぶっててうぜーから全員いなくなりゃいいのに、と思っている。

 他の人…織部と同じで、なんとか徳川と豊臣仲良くさせらんねーかなー、とか、徳川調子こきすぎ、ムカつくからぶっ飛ばしてえ、とか、なんか色々。

 

 なんて浅い認識なんだ、と思われる方もいるだろう。確かに俺のバカなオツムではこのぐらいのフレームでお話を理解するのが限界だった。

 ただ言い訳させてもらうと、俺のこの足りない頭でも余裕でめちゃくちゃ興奮できた昔の『へうげもの』の方が、俺は好きだった。

 以前は、お話の中でどこに注目すればいいのか、バカでもわかりやすかった。要は、千利休が大輪の朝顔の首を全て落として、ただ一輪だけを茶室に飾ったという逸話のように、見るべき「華」がはっきりしていたのだ。つまり、信長や利休、秀吉といった、人という華が。

 で、『へうげもの』はいま再び、前の単純な構造に戻ってきていると思う。別に山田芳裕さんが頭悪い人用に方向を変えてくれたわけではなくて、準備が終わった、ということなんじゃないかと考える。

 

 きっかけは、徳川ムカつくからやっちゃおうぜ、という反幕府側の狙いが家康にバレて豊臣との融和の道が決定的にポシャり、いざ戦を実行に移さんとする家康が、たまたま死んだ明智光秀の遺物をあらためたときに起こる。

 この作品で家康と光秀とは精神的に深い交流を持っており、家康が政治を行うモチベーションは、光秀のような偉人が目指し果たせなかった太平の世の実現を、自身が代わりに達成する、ということにあって、家康が故・光秀の遺物に触れることになったのもそういう理由による。

 しかし、自らのこころの中で特大の精神的支柱として据えていた光秀の遺品の中に家康が見つけたのは、侘び数寄とかわけのわかんないことをほざいているあの古田織部を光秀が深く評価していたことを示す、「あるもの」だった。

 家康からすれば織部は、いずれは消えてもらいたいものの茶道の頂点として各武将に大きな影響力を持つためおいそれとはイケズにできない相手、という感じだったと思うが…ここで明確に、家康は織部を敵と認識して、織部を滅ぼそうとする。

 

 これで、織部と家康との間にくっきりと対立構造が生まれた。

 主人公の相手が家康であり、その家康の方から織部を宿敵と認識したということが、ジャンプ漫画のようにアツい。

 身分の貴賎ではなく生き方が美しいかどうか、価値を維持するのではなく新たに塗り替えられるかどうかを重んじるという点で、美術が反権力的な要素と切り離せないとすれば、ときの最高権力者である家康から「敵」と断ぜられるほど、ある意味数寄者として名誉なことはないと思う。

 正直、茶道の頂点まで登りつめて以降政治のフィクサーとして暗躍する織部には俺はそんなに魅力を感じなくて、やっぱり縄文時代を模した穴ぐらの中で茶たててたら利休に一刀両断されて白目になったりして試行錯誤七転八倒してる頃の織部が一番好きだった。

 ついに見えてきた、「死」という誰もが初心者として向き合わざるを得ない舞台を前に、織部はどうするんだろう。あの愉快な昔の織部に戻るのか。老練ないまの自分としての味を見せるのか。本当に残酷だけど、あらためて強く「見たい」と思わさせられている。以上。

 

 

『鬱ごはん』1巻の感想、もしくは自意識とかいう煮ても焼いても食えないものについて

 「2m?」

 旅行先の青森で入った寿司屋で、勘定に出てきた店のおばさんが言う。一瞬意味がわからなかったが、 俺の身長のことを言われたのだと気がつく。

 「そんなにないですよ。そのー、雪道でも平気なように底が高い靴を履いてるんで」

 「あ、それがプラスされてるわけね。すごく大きく見えたから」

 「僕、今朝東京から出てきて…。こっちは雪、積もってるんですね」

 「東京から。こっち、寒いでしょう」

 「寒いです」

 「東京は?」

 「東京はあったかいですね」

 帰り際、上着を腕にぶら下げたまま店を出ようとしたら、「外寒いから、中で着ていっちゃった方がいいよ」とご主人に声をかけられる。

 

 旅館行きのバスを待つ間、近くの商業ビルに入ろうとすると、ちょうどビルから出てくるところだった十代ぐらいの女の子が、中から扉を引いてそのまま俺が入るのを待ってくれる。「お先にどうぞ」だとすぐにわからず、またもや少し混乱してから「すみません」とかもごもご言って中に入る。

 

 30歳になって、いまだに地方で走っているワンマン電車の仕組みがよくわからない。

 料金のシステムとして、乗るときに整理券をとり、降りるときは列車先頭の運転手さんに一番近いドアで精算してから出て…ということをやらないといけないらしい。

 ただ、今回は青森まで行くのに八戸駅から切符を買ったからか一日乗車券みたいなものをもらっていて(言い訳はじまってます)、じゃあ整理券も精算もいらんね、つって電車の真ん中あたりのドアから降りようとしたら車掌さんに注意される。「次から、前のドアから降りてくださいね」

 めんどいんじゃ、地方ルール、とか思いながら駅の階段を降りていて、でも運転する側からしたら俺が一日乗車券の人かどうかなんてわからんし、そりゃ先頭ドア以外で確認できないんじゃそこで降りるしかないわな、と思う。

 

 人との触れ合いで、劇的な喜びなんていらなくて、ちょっと優しさを受けるだけでそれなりに満たされる。一方、激しい批判どころかささいな注意でさえ、もらうとけっこう根に持ってしまう。

 おかしいのは自分の方だとわかる分別は残っていて、自分でも自分に説教する。そんな状態。いまのところ。そんな前置きをふまえ、『鬱ごはん』の感想である(ようやく)。

 

 『鬱ごはん』は就職浪人である主人公 鬱野たけしが色んなところで色んなものを食うマンガである。主人公が飯を食うことを作品の中心に据えたマンガはたくさんあるが、その中で『鬱ごはん』の特異なところは、飯を食うという行為がまったくハッピーなものとして描かれておらず、それどころか飯を食うことによって最後は鬱野が基本的に地獄に落ちるという点である。

 

 なぜ鬱野は飯を食うことで地獄に落ちてしまうのか。運が悪いから?

 

 それもある。鬱野は、家で鍋を食おうとすれば停電になり、ざるそばを食おうとすればメンツユにセミが飛び込んでくるし、よさそうな花火スポットを見つたのでそこでカップ焼きそばを食おうとすればカップルに邪魔され暗い橋架下に逃げ込んでそこで焼きそばを食うはめになる。

 

 しかし、鬱野が地獄に落ちる最大の理由は、実は鬱野本人のこころにあるのだ。鬱野自身が、ある意味はじめから地獄にいるのである。

 鬱野がいるその地獄の名は、自意識という。

 

 人前でこうしたら笑われるのではないか。ここでこうしないと世間に負けたことになるのではないか。

 本当は誰も気にしていない、気にもとめない些細なことに鬱野はやっきになり、それが結果として、最初は単なる不幸と笑い飛ばせたはずのものが引き返しようのない地獄に変わって、きっちり自らを破滅させることになる。

 じゃあ極端に自意識過剰なこの男をあざ笑うのが『鬱ごはん』の正しい読み方かというとそうでもないのがこの作品のおそろしいところで、鬱野ほどではないにせよこの自意識という地獄に同じく落ちている同類にとっては、鬱野の戦いは非常にバカバカしい一方で、あるあるネタにもなりうるのである。

 松屋で飯を食い終わって「ごちそうさま」を言うタイミングであるとか、ミスタードーナツでなんとなく入り口からレジに向かってドーナツを取りながら流れていく感じになってるせいで流れの後半になって前半の(入り口近辺の)ドーナツをとりづらくなる感じとか、同じく自意識に苦しむ同属として、俺は鬱野の苦闘に共感するしかない。

 そして、そんな鬱野が幸運にも飯に関して人の好意にあずかれたときには心底「よかったな」と言いたくなる(本作中でいうと鯛焼きの「バリ」を勇気を出してもらう場面がそれにあたる。鬱野本人はそんなに幸せそうじゃないが)。

 

 飯を食うのは基本的に楽しい。しかし、それが生きるために欠かすことができないということを考えると、一部の人間には繰り返し訪れる避けようのない業苦と化す。

 『鬱ごはん』は、グルメ漫画が本来メインとする「食」をあえて副菜に転倒させ、この特定の苦しみを主菜としてもりもり読んでいく作品であると言えるだろう(うまくまとめようとしたけどたぶんまとまってないな)。

 鬱野ほど深くまでは落ちていないけど、同じ地獄の浅い階層でもそもそやっている者として、今作をおすすめしつつ、鬱野の今後を見守ることとする。以上。

 

 

『海流のなかの島々』の感想、もしくは自分に「殺される」ことについて

 人生で自分のことしか考えてこなかった。

 いまも自分のことしか考えていない。

 

 さすがにそれを表に出してはいないけれど、俺のそういう自意識が放っている、一種悪臭のようなものに、周りの人は気がつくものなのだろうか。

 少なくとも、家族や親しい友人や勘付くし、恋人だった人たちも勘付いていたようだ。姿勢を改めさせたいような言葉も受けた。

 一方で、勤め先で多少接点を持つ程度の人たちは、いちいち俺を注視する必要なんてないから、気づいていないのかもしれない。自分で言うのもバカバカしいけど、俺は能はないが優しい人間として通用しているような気もする。

 でも俺が他の人に優しくするのは、嫌われる勇気というやつがないか、あるいは人に好かれていた方が何かと助かる場面が多いからで、別に俺が人を心底思いやれるからではない。俺は人のことなんてどうでもいい。自分が一番大切…というより、自分以外に大切なものがないのだ。

 

 先日、ヘミングウェイの『海流のなかの島々』を読んだ。

 画家であり船乗りでもある男の生涯を、彼と周囲の人々との交流をとおして描くこの小説は、全篇とおして海やそこに住まう生き物たちが美しく描かれ、登場する酒と食べ物の描写が読んでいて楽しい作品だが、後半から文中の端々に、作者であるヘミングウェイの自我をめぐる苦しみの気配が色濃く漂うようになる。

 主人公トマス・ハドソンは、画家としても船乗りとしても、軍人としても才能に恵まれ、家族や友人など周りの人間には慕われて、きらめくような世界で生きている。

 しかし、この素晴らしい環境に対する満足感がハドソンから読みとれる場面は、あまり多くない。それは、彼が根っこの部分で自分のことしか考えていないからだと思う。

 自分、自分、どこまで行っても自分のことばっかり。単に自分が好きとか可愛いとかだけではなく、俺はもっとできるはずなのに、なんで実際には上手くいかないんだろうという自責の感情も含めて、ハドソンは自分のことしか考えない。そして、自我をめぐる自身のそういう生き方を自分でも憎んでいながら、いつまでもそこを抜け出ることができないせいで、こんなにも恵まれた世界に生きていながら、彼のこころからはむなしさと息苦しさがなくならない。

 

 家族が苦しんでいるとき、友人たちが悩んでいるとき、ハドソンは彼らをとてもスマートに気遣ってみせる。ハドソンは、「こういうときにはこうするべき」「人にはこういう言葉をかけ、こう接するべき」ということを知り尽くした名人だ。

 しかしその振る舞いにはどこか形式的というか、情熱がぽっかりと抜けた無機的なところもある。まるで、解答の出力を期待して、機械に決められた信号を打ち込んでいるようなところが。

 別にハドソンが周りの人々をモノや自分を満足させる手段として見ている、というわけではない。ただ彼は他人に対して、「この人にはこうすればこうなる」という冷静な判断から一歩踏み出して、ひたすらバカのようになってその人のことを思うということができないのだ。あるいは逆に、自分をこの閉塞から連れ出してくれと、恥も外聞もなくSOSを発信することが。

 

  そのイビツさに、周囲の人たちも当然気がつく。

「あんたって人は、自分に惚れてくれる人間のことは、何一つ分かりゃしねえ人だよ」(p.371)

 誰かが傷を負えば、それを癒してやろうとするけれど、自分の傷を誰かが癒そうとすることは絶対に許さない。たとえそれが、どれだけ親しい間柄の相手であったとしても。

 優しさを示すけれど、自分が示される側に立ったときにそれを受け入れないことは、ときとして、敵意を向けられることよりも相手のことを傷つける。一体自分たちがこれまで築き上げてきたものはなんだったのかと、相手を途方にくれさせる。そのことを知りながら、それでもハドソンは最後まで変わることができない。

 

 自我をめぐる苦闘とあわせて物語からもう一つ漂うのは、死への意識である。

自分を罰する運命を求めるようにして、ハドソンは死地へ、死地へと、ストーリーが進むにつれて自分を追い込んでいく。そして、物語の最後に戦闘の中で被弾し、おそらく致命傷を負ったところで作品は終わっている。

 ヘミングウェイが自殺していることをふまえて、俺は、自ら死を選んだ作家が自身の作品でここまで死を見つめている事実がショックだった。これまでまったくなんの兆候も見かった人がある日急に死んでしまうことに比べたら、当然といえば当然なのかもしれないが、なんというか、「ああ、結局逃げられなかったんだな」というやるせなさのようなものを強く持った。

 『海流のなかの島々』は、別に自死の決意表明や予行演習ではなかったはずだ。勝手な想像だけど、あくまで自分の中に存在するある衝動を冷静に見つめた結果だし、少なくとも本人はそう思っていたはずだし、どちらかといえばその感覚を結晶化させてコントロールするつもりのものだったのだ、と信じている。

 それでも、作家は最後に死に喰われてしまった。なすすべなく呑みこまれたのか、内的な協議の結果だったのか、そのこころの中は絶望だったのか、平穏だったのか、わからない。

 俺はただ、自分の中に死を目指す芽が生えていることに気がついた人が、それを客体化し抑制してやるつもりで一つの小説を書き、残したにもかかわらず、最終的に自死から逃げられなかったという事実に、言いようのない気持ちになるのだった。

 

 ヘミングウェイというと欧米でマッチョでアウトドアなイメージがあるが、島国の根暗なひきこもりにもけっこう響いたぜ、という話。

 ちなみに、「どこまでいっても自分のことばっか問題」については舞城王太郎の『暗闇の中で子供』という作品でも扱われているので、興味のある方は一読を(このブログで記事も書いてる。恥ずかしめのやつ)。以上。

 

海流のなかの島々 上巻 (新潮文庫 ヘ 2-8)

海流のなかの島々 上巻 (新潮文庫 ヘ 2-8)

 

 

 

海流のなかの島々 (下巻) (新潮文庫)

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