映画版『無限の住人』の感想について

はじめに

 正直、わりと良かったんじゃないでしょうか。
 俺は15年前に原作を読み始めて完結まで追ったファンですが、作品の内容をかなり忠実にふまえ(この忠実さには思うところもありますが、後述します)、出演者の演技も殺陣も素晴らしかったと思う。漫画が好きだった人はもちろん、メガホンをとった三池崇史の別作品である『十三人の刺客』に少数精鋭が大人数に挑んでばっさばっさ斬りまくるところとか似てるので、まああんまり深く考えずに爽快感のあるチャンバラが観てえなあという人にもお勧めします。
 

主な感想

 ここからネタバレありで、くわしい話を。
 事前に『無限の住人』という漫画自体よく知らない方に概要をお話しすると、この作品はある事情で刀で斬られても傷が再生する体質になったおかげでまあそれなりに不死に近くなったまあそれなりに強いような気がする侍が、親を殺された少女の仇討ちの用心棒となって自分より確実に強い相手に挑み、お互い変な武器で刺したり刺されたりするお話です。あえてアホみたいに書いてますが、実際は緩急の巧みな殺陣と作者・沙村広明のキレたセリフ回しが走るめちゃめちゃカッコいい漫画です。そして映画の方も、これらの要素を実写化することに成功していると言っていいと俺は思いました。
 
 映画は、お尋ね者である主人公・万次(木村拓哉)の逃亡劇から始まるんですが、画が最初は白黒で、これがなんかすごく良かった。殺気とある種のいかがわしさみたいなのがスクリーンにこもっているというか、作品の雰囲気と異常に合っていて、ずっと白黒でもよかったぐらい。
 もちろん途中からちゃんと色が入ります。原作は漫画なので当然白黒であって、この演出は原作への敬意と実写化の過程を表現したもの…というのはたぶん深読みが過ぎてるが、なんとなくそんなことを思った。
 
 その後、原作の有名どころのキャラクターがストーリーに合流し、vs.黒衣、凶、閑馬、無骸流登場ぐらいまではおおよそ原作準拠。最後は心形唐流との乱戦を吐との最終戦ミックスしたような感じに展開しますが、ここでも槇絵の扱いとか天津との決着とか、原作の内容をふんでいると思う。
 良い、と感じた一因は、この映画が基本的に変にオリジナリティ出そうとして余計なことしてないからかもしれないですが、そもそもこの映画、チャンバラがいいんです。出てくる剣客が全員達人なので剣筋はすべて鋭いですが、一方で振り回す刃物の重量も実感がともない生々しく、斬り結ぶたびにお互いちゃんと疲弊し、傷つき、血みどろになっていく。
 特にいいなあ、と思わされたものを一つ上げると、実写で見る万次の武器・四道があります。漫画ではまあそういう武器もあるよな、というぐらいの印象ですが、実写化されるとこれが明らかに普通の日本刀とは違う外道の武器感をぎらぎらさせていて、それが血まみれでひるがえる様子は要は斬り殺して生き残りゃいいんだっつってむちゃくちゃやってるのがよく表れていてよかったと思います。
 
 キャストも全員良かった。中でも、やはりというか木村拓哉に触れないわけにはいかなくて、別に俺は木村拓哉好きでも嫌いでもないですが、万次は木村拓哉でよかったと思った。
 一対多でモブの雑魚をガツガツぶった斬って無双する、その強さに説得力がある存在感。強敵との戦いではむしろ劣勢が多くなんなら腕が吹っ飛んでもなお立ち向かう泥臭さ。万次のキャラクターって歴戦の余裕と長生きしすぎた疲れみたいなのが混在するんだけど、それを誰か役者にやらせるとしたら、この人しかいないとまでは言わないが、キムタクでええよ、という感じ。ハマっていた。
 

 あえて批判を挙げるなら次のようなことでしょうか。

 俺はへそが思いっきりひん曲がってついているので、映画化作品において原作の内容を守るのって、まあ本家に対する敬意も当然あるでしょうけど、とかく実写に対してひと言言いたくなる原作派を黙らせるための方便でもあるよな、とか思うわけで、後半の大乱闘を除けばほぼ原作に忠実であったこの映画に正直その「方便」を感じないでもない。特に前に触れた槇絵の扱いは、あれをあえて取り込むのはけっこうクサいな、と思う。

 また最後の大乱闘については、物語の必然性というよりは商品を作るための力技を感じる。
 凛の仇討という本筋に無骸流と吐という第三勢力がからみ、敵方がただの悪役ではなく信念を持った別の正義となって複雑化したストーリーを決着させるのに、原作は30巻の冊数を要したが、じゃあ扱える尺がはるかにタイトな映画版でちゃんと観客を満足させるにはどうしたらいいか、と考えたときに選ばれたのが、迫力の大乱闘と300人の死屍累々なんだろう、と冷静に思う。
 で、じゃあ何か文句があるか、という話で、別にない。面白かったからいいんじゃねえ。そう思う次第です。
 

細かい話

 ここからは、もう少し細かい話を。

 

・ちょっと万次って言ってみて

 さまぁ〜ずの三村があるとき「金玉」という言葉についてふと考えてみて、「これ字義をふまえてあらためて考えてみると実はいい言葉だよなあ。全然下ネタじゃないよなあ」と思った後、ここまでの思考の流れを一切説明しないままそのとき横にいた女性に急に「ちょっと金玉って言ってみて」と声をかけた、というのは単に俺がエピソードとして大好きというだけでこの映画と全然関係ないんですが、「万次」のイントネーションって皆さんは「卍」そのまんま、例えば「漢字」とかと同じだと知っていただろうか。卍さん。俺は「三時」や「甘美」と同じだと思っていたので、映画でこれを知って少し衝撃だった。

 
・【悲報】 火瓦、なぜか年老い
 火瓦という原作では中の中の上くらいの強さの、印象に残るようなそうでもないような30代〜40代ぐらいのキャラがいるんですが、その火瓦の格好でなんか初老の役者さんが出てきて「?」となり、とりあえずこれがこの映画における火瓦ということは理解したんですが、なぜ原作と同じ年代の人ではいけなかったのか、その意味するところは不明。
 まあ、俺は火瓦が観てえんだ!火瓦を観に劇場に足を運んだんだ!という人はおそらく俺も含めてこの世にいなくて、誰もが「あ、火瓦出てんじゃん」と映画館ではじめて気がつく感じだと思いますが、「あ、火瓦出てんじゃん。…火瓦?火瓦…だよなあ」という困惑はそのとき生まれたまんま今も行き場を失ってこの胸にあるので一報入れておきます。
 
田中泯を取り合う
 田中泯が出ているのを知って俺は最初阿葉山宗介役だろうと思ってたんですが、吐でした。阿葉山には石橋蓮司が就任。作中に強ジジイが複数いると役が田中泯を取り合うことになるんだなあ、とか思った。
 田中泯の吐も、石橋蓮司の阿葉山もどちらもよかったですよ。欲を言えば、例のツキヨタケの場面で一応からむことになるので、そこでもっとがっつりチャンバラしてほしかったかな。
 
・万次の背中のヤーツ
 たぶんダメだったんでしょう。
 
・あらためて思うこと

 俺がこの映画を良いと思う理由の一つは、『無限の住人』のキャラクターは傷つき何かを失ってある意味ちょっとイッちゃってから良さを発揮するやつばっかりだな、というのに気づかされたからである。

 例えば、福士蒼汰の天津は、率直に言って最初は天津のコスプレをした福士蒼汰でしかなかったが、戦闘のさなか段々血みどろになって手にした得物の重たさが観客にも伝わるようになってきて、本当にそこに天津を感じるようになった。よく考えれば天津も敵方の大ボスにもかかわらずよくボロボロになるキャラだった。

 髪を断ち落とす戸田恵梨香の槇絵も、途中で白髪になり隻腕になる市原隼人の尸良も、見慣れた姿になって「やっぱこっちの方がしっくりくるよな」と思った。そして同時に、「そうか、無限のキャラってそんなんばっかか」と思った。

 こういう生き残るためのいたし方なさみたいなのが彼らの魅力か、というのは、映画をとおして気づかされたことである。そんな発見も含めて、まあ実写化の常ですから批判も当然あろうが、一人の原作ファンにはちゃんと楽しめたぜ、という報告であり感想でした。吐がオニギリを食ってても気にならない人は(観てないとなんのこっちゃわからないけど)、行かれたらよろしいかと思います。(おしまい)

 

 

 原作未読の方は↓。映画よりももっと残酷で、あらすじも複雑で、漫画ならではの美しさ。おすすめです。

新装版 無限の住人(1) (KCデラックス アフタヌーン)

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悪夢について

  何をしていたのかわからないが職場にいたら、隣で役員と話をしていた会計課の課長が突然、「はい!  はい!  少々お待ちください!」と叫ぶと、命令された、というより社会人としての義務感、といったような切迫さをあふれさせながらこちらに飛んできて、俺の頭を何か重いもので思いっきりぶっ叩いた。床に倒れながら、自分が何か重大なミスを犯したことを悟った。絨毯の柔らかなざらざらした感じの上に倒れながら、口の中が妙に気持ち悪いと思ったら、半端な量のゲロがあふれてきた。
  せめて盛大に吐ければよかったのに、と思う。これで少しは周りも同情してくれるだろうか、と考えたとき、そう思っている自分に気がついて、たまらなく悲しくなった。

   気がついたら社内の飲み会の席にいた。先ほどの失態の記憶は生々しく頭に残っている。
  隣には同じ課のいつも物静かで優しい先輩が座っていて、その表情がいつもとどこか違うので、この違和感の正体はなんだろうな、と思っていたら、その人が唐突に「君は私がいつも何を考えてるかわかるかな?」とたずねてきた。
  実は常日頃からちょっと真意をつかみかねるところがある人なので、なんだか安心したような気がして、「正直よくわからないこともあります」と照れ笑いしながら答えたところ、その人は「私も君が何を考えてるかまったくわからないんだよ!」と言って、狂ったように笑い始めた。そのとき、先ほどからあった違和感の正体は、普段あまり笑わないこの人が今日だけ笑みを浮かべていたせいだと気づいた。

  結局会社を辞めることになって、世話になった先輩二人とのんびりとした飲み会を開いた。
  「ちょうどいいから、何かこれまで言えなかったことがあったら教えてよ」
  そう言われたので、「言えなかったことっていうか…あのとき俺はなんで殴られたんですかね?」と尋ねたところ、二人は同時に無表情になって、片方が「それは君がこれから考えることだよ」と言った。それから二人一緒ににやにや笑い始めた。
  俺は少し考えてみたが、やはり答えはわからなかった。二人はいつまでもにやにや笑っていて、気がつくと俺も一緒になって笑っていた。

アレクサンドロス、この圧倒的捕食者。『ヒストリエ』10巻の感想について

※以下、作品の内容について激しくネタバレしています。注意。

はじめに

 表紙をめくって現れた絵を見て、思わずそのまま見入ってしまった。

 顔と体に敵兵の血を浴びたアレクサンドロス。その表情が、もうなんか凄い。こいつとはもう話が通じないというか、こいつの前に立たされた時点で死亡確定感がハンパじゃない。

 感想について、って記事の題名に書いたけど、あんまりストーリーの内容とか触れない。ただもう王子がヤベェ。そういう話。

 

アレクサンドロス、この圧倒的捕食者。

  新刊が出るたびに「あれ、俺どこまで話追ってたっけ?」となる恒例行事を無事済ませ、いざ『ヒストリエ』10巻。

 ストーリーは主人公・エウメネス属するマケドニア軍と、敵軍であるアテネ・テーベ連合とが激突するカイロネイアの戦いにて、マケドニア王子・アレクサンドロスが一番槍で敵陣に突っ込んでいくところから始まる。

 王子は王子なので周りは当然そのケアに気を遣うんだけど、王子は父親であるマケドニア王からも病気呼ばわりされる…端的に言うとイっちゃってる人なので、愛馬を駆って文字通り先駆けし、そのままなんと敵の列をぶち抜いてしまう。

 

 そしていわゆる無双が始まる。アレクサンドロス無双であり、岩明均的強キャラ無双である。

 戦闘シーンを描く漫画においてその作品世界における強キャラの強さを、ヤバさをどう表現するかは大きな問題で、多くの作家さんたちがその方法を試行錯誤してきたわけで、それで俺はその中でも、岩明均は強キャラを描くのがめちゃくちゃ上手い作家だと思っている。

 この人の漫画の強キャラは、別の作家・森川ジョージの表現を借りると、他のキャラクターと「流れている時間が違う」気がする。

 たとえば狩る側が狩られる側をロックオンする。攻撃する。体を武器で撃ち抜いたり、首を落としたりする。

 このとき、狩られる側には自分が標的にされているという意識が表情にない。別に狩られる側がノロマなわけではなくて、意識が追い付いていないのだ。岩明均の描く「怪物」の動く速度に、狩られる側の弱者はまったく対応できない。

 ヤバいと思った時には相手のモーションが終わっている。もうやられていて致命的な損壊を体に負っているのだが、まだ痛覚が追い付かないのでなんだかポカンとしている。そして、痛みがやってくる前に絶命している。

 狩られる側が本来持っている命の時間の流れというか、ある種の尊厳みたいなものが、戦場において強キャラにあっけなく蹂躙される。圧倒的な速度を持つ強者に生殺与奪の全権限が集約され、弱者は自分の命の扱いについてさえ主権をとれないというか、バカみたいな感じになってしまう。

 その理不尽さ。にもかかわらず、これはフィクションの中だけではなくて、なんとなく実際の戦争も殺人もそういうものかもな、と思わせる説得力が岩明均の殺陣にはある。

 

 というわけで王子は思うがまま馬上から敵兵の首を狩って落とす。上で口絵の表情ヤバすぎ、と描いたけど、本編で剣を振りかぶってるときの顔も同じくらいヤバい。すごく静かで、でももう間違いなく話し合いとか絶対成立しない。

 黙って殺しまわってるから怖いのかというと喋っても怖くて、王子は敵陣ではしゃぎすぎて携行していた剣をすべて折ってしまう。なのでしかたなく馬を降りて、まだ大勢生き残っている他の敵兵の前で、淡々と自分が殺した敵兵の武器を集め始める。

 自分を見てヒイている敵の顔を見て、王子は自分の行為を弁解する。

 敵兵、もっとヒく。

 敵兵の気持ちがよくわかる気がする。王子の口上の内容がおかしいのではなくて、単騎でこちらに突っ込んできて相手を殺しまわった奴が、敵に包囲された状態で悠然と自分の行為を説明していることがおかしい。

 だけど、これが相手の中ではちゃんと理屈が通っているらしくて、そして忘れてはならないことに、生物の格として、どうやら相手は圧倒的な捕食者、こちらはこれから喰われるのを待つだけの存在である。

 これは恐怖しかないだろう。で、なんかマゾっぽいけど、俺はこの際この殺される側の恐怖に共感して楽しんだ。俺も王子に強襲され、なで斬りにされ、王子の演説にヒいた。

 要は、読者にも殺られる覚悟を嫌でも決めさせる迫力が今巻の王子にはあったということだと思う。

 

 あとは巻の後半でエウメネスのロマンスとか。

 ちょっと王子の余韻がすごすぎたんでその話ばっかりしちゃったけど、「私のため」「俺のため」と、お互いあり余る感情を、相手を試すかのように短い言葉に表してみせ、1コマずつ刻まれるその表情とか、なんとかなるようでならないのか、本当にならないのか、と揺れ動く心情とか、とてもよかったと思います。

 

おわりに

 月並みな感想だけど、とても面白かった。他方、死ぬほど面白いものを作るのにはやっぱり時間がかかるのかなあ、とかも思った。

 マケドニア軍の軍人たちとか王子の学友たちにも魅力的なキャラクターがたくさんいて、あ、この人らとエウメネスとまだ絡ますんすか、楽しそうだけどもっと話進まなくなりませんか、という、ワクワクと「マジで完結前に作者死ぬんじゃねえ?」な危惧がごっちゃになった複雑な気持ちになったりした。

 とりあえず、以上、王子ヤベェの話でした。2年後にまた会いましょう。(おわり)

 

 

『BLUE GIANT』10巻の感想と、破壊されるために生まれてくる者たちについて

※以下、作品の内容について激しくネタバレしています。注意。

 

追記:これはマンガの無印『BLUE GIANT』10巻の感想になります。

映画版『BLUE GIANT』の感想はこちら。

 

はじめに

 いきなり『BLUE GIANT』と関係ない話から入って恐縮なんですが、以前、鬼頭莫宏の作品の感想を読んでいてこんな意見を見かけたことがある。「鬼頭作品に登場するキャラクターは、作者にもてあそばれるために生み出された人形である」と。

 

 そういうことを言いたくなる気持ちはなんとなくわかって、ネットでもよくネタにされるとおり、鬼頭莫宏は自分の作った登場人物に対してまったく容赦というものがない。線の細い少年少女が世の中≒それを作っている作者の手によってことごとくひどい目に遭わされ、再起不能の重傷を負ったり死んだりする。

 そういうとき確かに、悲劇の発生に驚いたり傷ついたりするだけでなく、その悲劇の背景にすべてを司っている作者の存在が感じられて、醒めてしまうことがあったりする。

 

 ただですね。一方で、そういう感想を抱くこと自体不思議だよなあとも思う。そうでもないですか?

 だって、鬼頭莫宏マンガに限らずすべてのフィクションのすべてのキャラクターはいわば作者の生んだ人形だし、彼らの身に降りかかった無数の災難は、基本的に作者の手のひらの上で起こされてきたものなわけで。

 なぜその中で、造物主の意図が透けてしまうものとそうでないもの、登場人物たちが操り糸にぶら下がったがらんどうに感じられるものとそうでないものがあるんでしょうか? その違いはどこにあるんだろーか、とか思う。

 

 『BLUE GIANT』10巻の感想と、破壊されるために生まれてくる者たちについて

 本題。『BLUE GIANT』10巻を読み終えたので、その感想を書く。

 『BLUE GIANT』は、ジャズを題材に若きサックス吹き宮本 大の成長と躍進を描く漫画。

 俺は、このマンガを読んでいてこれまで幾度となく震えさせられた。主人公である大の活躍もそうだけど、天賦の才とそれゆえの傲慢さ、脆さを併せ持つピアノ弾き沢辺 雪祈、ドのつく素人だったにもかかわらず大と雪祈に触発されてゼロ地点から進化と覚醒を繰り返すドラマー玉田 俊二、19歳男子三人の織りなす青春が死ぬほどアツかった。

 

 この10巻は作品の一つの区切りとなることが匂わされていたから、その分何が起こるのか期待がものすごかったんだけど…あかんかった。完全にはストーリーに没入できなかった。

 もっとも、単にあかんかっただけでなくて、心が動かされるところももちろんあったし、上で愚駄愚駄書いたような「物語の裏手にいる作者の存在」についてあらためて考えさせられたという意味で、とても印象に残る巻でもあった。

 

 そういう感想を抱いたのはやはり作中で雪祈が事故に遭う展開のせい。

 日本におけるジャズステージの聖地「So Blue」でヘルプに入り成功に貢献した雪祈は、その対価として大、玉田と組むトリオが同じステージで演奏する権利を勝ち取る。しかし、本番を翌々日にひかえた日の夜、雪祈は道路整備のバイト中にトラックにはねられ、明後日のステージに出ることはおろかピアニストとして致命的な損傷を右腕に負う。

 雪祈を欠いた状態で大と玉田はSo Blueでライブを行い、それは彼らと顔見知りの人々を含め観客のこころに訴えるステージとなったが、トリオは後日解散、大は自分の夢を叶えるため単身ヨーロッパに発つことになる。

 

 俺がこれを読んで感じたのは、雪祈が事故に遭うのははじめから決められていたことだったのだろうか、ということだった。大という主人公を日本国内では安易に大成させないために、一介の無冠のチャレンジャーとして欧州に向かわせるために、雪祈はステージに参加できず、それは最初からそう「設計」されていたのだろうか、と。

 もしそうだとしたら、もう本当に傲慢な話だけど、ちょっと許せないな、と思った。そしてそれと同時に、上で書いたような「作者とその人形であるキャラクター」という問題について考えさせられた(大好きな作品に対してヒドいことを言ってる。すみません)。

 

 上で不思議だねーと書いたとおり、作中で誰かが悲劇に見舞われても、それを不幸に「なった」、と感じる場合と、作者によって不幸に「させられた」と感じる場合がある。

 おそらくポイントは、読者が自分の想定・期待していた展開と作者が描きたい展開のズレを自覚したとき、そしてそのズレをはっきりさせるきっかけとしてキャラクターが「利用された」と感じ取ったかどうか、にあると思う。

 『BLUE GIANT』の例でいうと、俺は大たちトリオの活躍はまだ描かれるものだと思っていたし、聖地「So Blue」で派手に暴れるものだと考えていた。

 しかし実際は、雪祈の欠場によりステージは不完全なものになり、これをきっかけに大の物語は次の段階に進むことになる。

 これは、『BLUE GIANT』は最初から、もしくはすくなくとも現在はもう「大の物語」でしかないということだ。

 作中で事故から目覚めた雪祈が大に、「自分はSo Blue でプレイしたときこれが最後かもと思って臨んだが、お前はこれから何度もあるステージの一回目だと思って演奏したろ」と言ったように、そして玉田が「俺はもう十分できたがお前は違う」と言ったように、はっきりと先にすすむことが許されるのは大だけであって、もうバンドとそのメンバーの描写を期待するべきではない、ということだと思う。

 このとき俺は、自分の認識がズレていた、要は作品が目指している地点を誤解していたことを知る…んだけど、その責任が自分の勝手な期待にあるとすぐには受け入れられない。作者の誘導が思わせぶりなんが悪い、となる(この辺恋愛にも似ている)。

 と同時に、ダマされてムカついた読み手の中であることが起きる。それは、自分がこれまで接してきたものがあくまでフィクションであって現実ではないというどうしようもない真実について目を覚める、こころが一瞬作品から離れるということである。

 このとき物語の背後に作者の影がちらつく。そして、こうして醒めてしまうきっかけがキャラクターの不幸や死であった場合、読者はキャラクターの上に彼らを吊るす糸を見つける。そしてこう思うわけだ。「ああ、こいつは物語のために壊された」と。

 俺の中で、雪祈の身に起こったこととそれをきっかけに展開されたいまのストーリーは、その一例だった。肝心なことは、これはあくまで不幸の内容ではなくその見せ方の問題であって、雪祈が事故に遭おうと死のうと、うまく俺を納得させてだましてくれたのなら、それはそれでよかったんだけども、ってことだ(めちゃくちゃ言ってんな)。

 

おわりに

 長々文句を書いたけど、もっと、もっと、とバンド全体と雪祈と玉田の活躍とを求めざるを得なかったのは、これまでも十分彼らの描写に時間が割かれたからこそだし、冒頭ヘルプで入った雪祈の演奏が炸裂するシーンや、雪祈を欠いたバンドが悲愴な登場から始まって自分たちのプレイングを徹すシーンはやっぱりすげかった。

 雪祈と玉田はここで退場、なんだろうな。次巻からは『BLUE GIANT SUPREME』と改題して、大の欧州武者修行編。続きも楽しみで目が離せない。結局ね。(おわり)

 

BLUE GIANT 10 (ビッグコミックススペシャル)

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『極楽とんぼの吠え魂』復活に寄せることについて~放送当日編~

 目の前の相手を「こいつ人として終わってんな」といつ思うかというと、ギャンブルで借金があることを知ったときでも家族や恋人に暴力を振るってることを知ったときでもなくて、そいつが自分の笑いのルーツを語り始めたときに思う。

 「俺が面白さを感じるもののルーツは〜〜にあってさ…」。相手がそう口にした瞬間、それがどんなに尊敬している相手であろうと俺の中でなんかのゲージが基準を超えたところに到達し、今すぐお前の真下に深い穴が空いて、落ちて先で地獄の火で焼かれるといいぜ、と思う。

 

 話はがらっと変わるが、高校生から大学生のはじめにかけてtbsラジオの深夜枠をよく聴いていた。

 月曜日の伊集院光、火曜日の爆笑問題とまんべんなく聴いていたんだけど、特に金曜日の極楽とんぼがやっていた『極楽とんぼの吠え魂』という番組の記憶が強く残っている。

 『吠え魂』はおかしな番組で(まあ、どんなラジオ番組もその番組のリスナーからすればおかしいのだろうけど)、山本なんかリスナーが嫌いだと番組内で公言していたし、加藤が番組中になぜか突然マラカスのモノマネを始めたり、悪ふざけ一辺倒かと思いきや学究的な方向にも振れたり、かと思いきや講師として招いたつもりの医者が医者の皮をかぶったただのおっさんだったりなどした(挙げ句の果てにこのおっさんに歌を歌わせて番組のエンディングテーマにする)。

 いま俺が好きな笑いのタイプは、悪ノリとやけくそから生まれるものを面白いと感じるところに落ち着いている。

 その、追い詰められた者、人として拭い去れない薄汚れた部分を抱えた者の逆ギレに面白さを感じる感覚をはっきりと固定させたものは、放送番組としては『吠え魂』であると思ぅ。←これは足元に急に空いた穴に落ちた描写。

 

 その吠え魂が今夜復活する。

 もちろん楽しみは楽しみなのだが、なんか悲しい気持ちもある。それは、番組に一夜限りという前置きがついていて、これが、山本が淫行事件を起こして不完全に終わってしまった番組を介錯する宣告であるかもしれないからである。

 山本が淫行事件を起こしたのは2006年の夏のことで、俺はそれを知ったとき「おいおい、吠え魂どうなんだ?」と思いながらなぜか夕方に外に出て近所を歩きまわったことをまだ覚えている。アホな話だが事実だからしかたがない。

 その後山本自身から釈明する機会はなく、加藤が一人で最後の放送を行って極楽とんぼとしての吠え魂は終わった。

 そんな風に中途半端なところで打ち切られて宙ぶらりんになった吠え魂が、当時の美しい思い出として保存されていたのが、今夜いよいよ本当に終わりを告げるのかもしれない。時計は先に進んで、夢は覚めるのかもしれない、とも思う(おっさん二人のバカ話とお互いの醜い追い込み合いで構成されていた番組に対して俺は何を言っているのか)。

 

 最初に自分で口にした地獄の火にじりじり自分自身が焼かれていて、うるせえカンケーねえ、俺はまだこの番組について語りたいことがあるんだ。でも、それは今夜の放送を受けての後日の記事に回す。とりあえず10年分のタメがきいた喧嘩コント頼むぞ。以前学園祭で山本が下半身出したときの放送の比じゃないやつ。頼む。

  まあ翌日は仕事でもあるので、これから仮眠しつつ番組を待ちたいと思います。(おわり)

奈良の室生口大野駅から室生寺まで徒歩でいくと何分かかるかについて(別手段との比較あり)

はじめに~いいから歩きでいったらどんだけかかるのか教えろよ、という方に~

 まず前提として、室生口大野駅から室生寺まで行くのには、車道を行くルートと東海自然歩道という未舗装のルートがあります。
 以下を読んでいただくとわかるのですが、この記事を主にあてて書いているのは、室生口大野駅で本数の少ない室生寺行きバスを逃してしまい、時間を気にしている方です。よって、所要時間のかかる東海自然道については、はじめから選択肢から除いてしまっているので、そのことをふまえて読んでいただければと思います。
 
 本題。奈良の室生口大野から室生寺までは約6〜7km、道はほぼ平坦、ところどころ緩い坂道。徒歩で歩くと成人男性が寄り道なしで早足で歩いて約60〜70分かかります(確認済み)。
 室生口大野から室生寺までは、60分間隔でバスが出ています(11時20分のバスのみ、次のバスが13時00分となり100分間隔が空く。くわしくはお寺の公式サイト参照)。
 バスに乗ると約15分ほどで室生寺に着きます。
 
 東海自然歩道を行った場合ほどではないですが、車道を行っても豊かな自然を満喫できます。よって、あえて歩くことで途中の景色を楽しみたい、もしくはよほどお金が惜しい、などの事情があれば、室生寺まで歩くのは有りです。
 一方、バスを待つ時間が惜しい、という理由で歩くのは、上記した所要時間の関係で、やめた方が賢明です。バスを待たずに歩き始めてもそれほど時間は稼げず、最悪途中でバスに追い抜かれます(上記の100分間隔の時間帯を除く)。俺はまずこのことを伝えたかった。
 
 ちなみにバスは逃したが次のバスをどうしても待ちたくない、という場合は、駅前でタクシーを拾う選択肢もあります。タクシー代は2000円超と思われ(2017年2月現在。推計)、時間と出費との天秤になります。
 

つづいて~複数の選択肢を比較したい方に~

 いまこの記事を読んでいる方はこれから室生口大野に向かうところでしょうか。それとも、室生口大野で降りたはいいが、俺と同じように一時間に一本しか来ないバスを運悪く逃したところでしょうか。
 室生口大野で降りた方、そちらはいま春でしょうか。夏でしょうか。それとも、俺と同じように分厚い雪片舞い落ちる極寒の真冬でしょうか。
 「歩いて室生寺までいったら果たしてどのくらい?」そんな疑問をお持ちだとしたら、結論は上に書いたとおりですが、まだ時間はありますか。俺と同じように、携帯電話の電池が切れかかっていたりしませんか
 室生口大野から室生寺に向かうには、大まかに言って5つの手段があります。もしまだ時間があれば、読んでください。
 

1.バス

 片道430円支払うのに抵抗がなく、特に室生寺までの道中に興味がない場合、バスがおすすめです。所要時間は約15分です。
 欠点は上記したとおり一時間に一本しか来ないことですが、それを除けば、早く着きそれほどお金もそれほどかかりません。
 

2.タクシー

 片道2000円以上支払うことに抵抗がなく、またバスを待つ気がない場合の選択肢です。所要時間はバスと同じく約15分です。
 欠点はやはり高いこと、また、駅前にいるかどうか確証がないことです。
 

3.自転車(レンタサイクル)

 実は、室生口大野駅前から歩いて5分の室生地域事務所で、4時間以内1000円で自転車を借りることができます(2017年2月現在)。室生寺までは、片道30分程度と思われます。
 バスを待つ気がなく、タクシーも高いと感じる場合の選択肢です。
 欠点は、天候が荒れた場合は向かないこと、また、当然帰りも乗って帰って返さないといけないことです。
 ただ、室生寺までの道のりはそこまで厳しくないため、弱虫ペダルばりに激コギするつもりでなければきつくないと思います。
 道中の景色を楽しめるのもそれなりの利点です。道に沿うかたちで川が一本走って室生寺までついて来てくれて、チャリの速度で一緒に山を走るのはけっこう爽快で気持ちいいと思います。
 

4.徒歩

 上記したとおりです。室生寺に早く着くためバスを待たずに室生口大野から歩く」という判断はまず成立しません。
 バスに乗り損ねた者として、もう歩いた方が早く着くんじゃねえか?(金もかからないし)、と考えてしまうのがおそらく人情だと思いますが、本当に早く行きたいなら潔くタクシー、ムリならチャリ、もしくは次のバスを待つ、が、おそらく正解の選択肢です。
 強引に歩き始めても、途中で後ろから来たバスにつかまる可能性が高いです。ただ、早く着けるわけではないですが、あえてこの後から来るバスを利用するルートはあります(次の項)。
 

5.徒歩→バス

 室生寺までの道中には、いくつかバス停があります。また、途中からバスの自由乗降制区間に入るため、バス停でない路上でも手を挙げて運転手さんに知らせればバスに乗せてもらえます。
 これを利用し、道中の道のりを楽しみつつ、歩くのがダルくなったらバスに乗ることも可能です(もちろん室生寺に着く時間は室生口大野でバスに乗った場合と一緒)。
 欠点は、最低でもバス停や自由乗降区間までは徒歩で行かないといけないことです。
 タイミングの取り方を失敗するとバスをつかまえられず、全て歩くことになるため、現在時刻と現在地点に注意しましょう。個人的には、室生口大野駅に次のバスが来るまで30分を切っていたら、歩き始めるのは危険な気がします。
 

おわりに~美しき五重塔を目指して~

 この記事は、過日室生寺に行くときにバスを逃してうかうかと駅から歩き始めて後悔した経験を原動力に書かれました。

 室生寺までの道のりは自然が多くて美しく、それをゆっくりと堪能できたことはいい思い出ですが、この感想は93%ほどの負け惜しみを含んでおり、おそらく普通にバスを待って乗った方がよかったものと思われます。

 ここに書いたものが、室生寺への旅行をひかえてどこかでのんびり情報を集めている方の参考となれば、それはそれでとてもありがたいことですが、俺は誰よりも、室生寺大野の駅前でバスを逃し途方に暮れているあなた、そこのあなたにアドバイスをしたかった。

 室生寺への徒歩は覚悟の道、修羅の道です。いさぎよく何か乗り物を使うべきです。それでも一歩を踏み出すなら、それはそれで得るものがあることを、けして否定はしませんが。

 この記事があなたの判断の一助になればそれにまさる幸いはありません。

 

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 たどりついた室生寺五重塔は、想像よりも小さく、しかしおそろしく精緻な、緋色が美しい建物でした。

予告編に偽りなし(良くも悪くも)。映画『ドクター・ストレンジ』の感想について

■目次

        1. はじめに
        2. あらすじ
        3. 感想~映像がすげーというそれ以上でもそれ以下でもない話~
        4. その他雑多な感想~モルドdisとヒロインを褒めたりとか~
        5. おわりに

はじめに

 ビルや地面という本来動かないはずのものが、複雑に交差してうねり倒れかかる。鮮やかな炎が空中を走り、美しい紋章を描いて燃え盛る。「え、何これ、すげえ。なんて映画?」

 どこかで目にした予告編で少しでもこんな興味を持った方。観ましょう。

 

 アメリカのヒーロー映画に整合性とか期待しねえ、ヒーローがカッコよくてド派手で敵味方で全力でドつきあってて変に湿っぽくなければそれでいい、という方。ぜひ観ましょう。

 

 そういう映画です。

 

あらすじ

 優秀だが傲慢な性格の外科医であるベネディクト・カンバーバッチは、ある日不注意で起こした自動車事故により生命線である両手の機能を失う。

 躍起になって治療法を探すも功を奏さず、看病してくれた同僚の女性にも八つ当たりして愛想を尽かされたカンバーバッチは、失意の中で、カトマンズにある「カマー・タージ」という場所を訪れれば、とても治る見込みのない大ケガであっても治癒するという噂を耳にする。

 一縷の望みを託し雑踏うごめくカトマンズに飛んだカンバーバッチ。たどり着いた「カマー・タージ」でエンシェント・ワンと名乗る高僧から彼が見せられたのは、これまでの世界の見方を一変させるような強烈なビジョンを伴う神秘体験だった。

 これを機に、カンバーバッチは精神世界に生きる魔術師の道を歩むことになる。優秀な理解力と記憶力を武器に急速に魔術師として成長していく彼は、やがて闇の魔術をめぐる巨大な戦いへと巻き込まれていく。

 

感想

 上に書いたとおり、予告編を観て気になった方は観に行きましょう。すげえです。

 人間、予告編を観ると無意識のうちに何かしらの期待を抱くもんで、この作品の場合ハンパねえ超現実的なビジュアルと派手なアクションってとこだと思いますが、約束しましょう。その期待は完全に満たされる、と。(他のことは期待すべきでないとも言える)。

 できれば、なるべくでかいスクリーンで観たいところです。俺は日本橋のTOHOシネマズで見ていて、予告編でも使われていた天地がひっくり返ってビル群がぐわあーっとうねっている場面と、カンバーバッチが師匠にトリップさせられて曼荼羅のような幻想世界にぶっ込まれた場面で口をぽかんとあけて完全にバカと化しましたが、やっぱり巨大スクリーンの迫力がひと役買ってたところはあると思う。大きくなくても間違いなく楽しめるけど、なるべく大きい方がいいです。

 トリップの場面はマジですごくて、本当に薬物体験者に取材したのかも、とか思った。

 極彩色の映像が美しさと禍々しさをめまぐるしく反転させながら延々流れて、観ていて脳内がぐにゃぐにゃになりながら「うぉーっ」という感じ。これだけのためでも1,800円…はさすがに言い過ぎだけど、一見の価値ありなのは確かだと思う。

 

 ビジュアル以外に褒めるところというと、変なこと言うようだけど、ラブロマンスがあまりないのが俺はよかった。すごく。

 俺はヒーロー作品におけるロマンスの扱いには一家言あって、ヒーローってのは悪と戦って悪から人々を守るんだけども、この守るべき人々の中で順位付けができない、死ぬほど大切なあの娘も知らないその辺のおっさんも守るべきものとして等価、大切な誰かが守るべき無名の群衆の中に回収されてしまうというのがヒーローの苦しみ、悲哀であって、これで人は守る、ラブも成就させる、となるとこれは虫が良すぎる。二兎を追うなバカ、と思う。

 その点、『ドクター・ストレンジ』にはそういう甘ったるさがあんまりない。けっこうドライである。良いと思う。余計なことしないでひたすら魔術でドつきあってるだけとも言う。まあ、良いと思う。

 

その他、雑多な感想

 ・燃え要素を足しあわせたらなぜかパッとしないおっさんになった話

 モルド(キウェテル・イジョフォー)のことです。

 ①主人公の先輩弟子で高い実力を持つ 

 ②主人公とは性格的に足りないところをお互いに補完し合っている

 ③やがて師の教えに疑いを抱き、主人公とたもとを分かつ

 ④しかし悪に染まったわけではなく、客観的に見れば彼には彼の正義がある

 

 もうね、これは個人的には燃え要素のカタマリなわけです。うにいくら丼にぼたん海老乗っけたようなもんで(発想が貧困)、これでキャラクターが立たないわけがない。

 にもかかわらず、なんなんでしょうか。モルドのこの圧倒的な雑魚キャラ感、ぬぐい去れない三下臭は。

 特に批判しているわけではないんです。なんか、ここまでパッとしねえと逆にすげえな、という話。エンディングにも登場して次回作に含みを残してるけど、お前ごときがはしゃいだからなんなんだ、今のカンバーバッチだったらお前なんかワンパンだぞ、と思ってしまう…が、なんかパワーアップとかするんでしょうかね。

 

・ヒロイン(レイチェル・マクアダムス)超かわいい

 ロマンスあんまりないと書いたばっかりですが、あることはあって、カンバーバッチの医者時代の同僚がヒロイン。超かわいい。

 このかわいさはなんだ?と考えると、たぶん普通の人として描かれているからだと思う。話の中盤戦で自然にフェードアウトしてストーリーが超常化して以降は妙にからんでこなくて、それでいてかすかにカンバーバッチの中に存在感を残す。こういうのでいいんだよ、と思う。

 女優さんのことはウィキペディアではじめて知りました。38歳ですって。

 へえ。38歳。

 

 38歳?

 

 軽い衝撃でした(失礼)。

 

・意外と笑える

 標題どおりで、けっこうクスッとくる場面が多かったです。ラスボス戦に至っては「あれ、俺が観てんのはコメディだったのか?」と思ったぐらい。

 特に主役のカンバーバッチがよかった。俺はひねくれ者なので、海外映画でネアカなマッチョがところどころではさんでくる小粋なジョークに毎回眉根を寄せている。で、今作のカンバーバッチも、実際中身的にはそういうキャラクターと大差ないとは思う。

 ただ、この人の場合、見た目は神経質そうな細おもて、というのがたぶん大きくて、その彼がキメるべき場面でうまくはまらなかったり、理不尽な暴力でズタボロになるのはけっこう面白かった。

 一番笑ったのは、カンバーバッチが修行という名の嫌がらせでエベレストに置き去りにされ、氷まみれになって気合いで帰ってきた場面でした(ここは笑うところではなかったかもしれないが)。

 

おわりに

 細かいことを言うと、どうにも設定で詰め切れていないところがいくつかある気もする。

 「ミラー次元でのダメージは現実にフィードバックされるの?」とか(されなかったらあんなに頑張って走り回ってバカみたいだけど)。

 「アストラル体の現実への干渉の法則がよくわからん」とか。

 エンシェント・ワンの未来視能力、医者だったにも関わらず人を殺めたカンバーバッチの苦悩など、もうちょっと深掘りしてもよかったんじゃ?という部分も散見される。

 ただ、幸か不幸か結局その点の要素にあんまり注目する時間は割かれず、そのせいで集中をさまたげるノイズにもならなかったため、結果としてこの作品は徹底的に圧巻の大迫力光景の中で起こる魔術師肉弾戦映画として完成した。

 これが製作の意図であったかどうかはわからないけど…結果オーライ、な気もする。

 

 上で書いたとおり、次回作を匂わせる終わり方をしている。その中心となるであろうウニいくら丼ぼたん海老乗せことモルドが前述の体たらくなので、ストーリー自体にはあんまり関心が持てないんですが、あの薬物体験をジャンキー以外にも見せつけてくれるような強烈なビジュアルがまた見られるなら、俺アメコミ全然知らないけどまた観に行きたい、そう思う作品でした。…しかし、モルドはすげえよな ←まだ言ってる。(おわり)