嗜好品2種。『紅茶スパイ―英国人プラントハンター中国をゆく』と『胡椒 暴虐の世界史』を読んで思ったことについて
どちらも1600年~1900年ごろのヨーロッパとアジア間の貿易をテーマに扱った作品である。
最初探していたのは前者だったのだが、図書館でおさめられていた棚をあらためて見ると後者も面白そうだな、ということで手にとった。こういう、本来ターゲットにしていた本と題材を共有する別の本を目で見て手に取って確認しやすい、というのは実物の本の強みであって、だから俺は生身の本が好きである。タブレットを持ってない、それもある。ネットで情報を調べるのがド下手、それもある。
本題。前者の主人公はヒトで、ロバート・フォーチュンというイギリス人。イギリス人紅茶大好き、というのは容易にイメージできるところだが、1800年中ごろまでその栽培方法と製品としての精製手段は産地中国に秘められており、意外にもイギリスはその方法をよく知らなかった。
そこで、植物学者であるフォーチュンがプラントハンターとして中国に潜入し、自国イギリスのために茶にかかる秘儀と植物それ自体を盗みだしてくる、というお話。活劇というか、冒険としての娯楽性を求めると肩すかしだけど、それは本書の良い面と裏表で、現地の中国人従者との人間関係に苦労しながら、きったねえ市街と山地の泥濘の中を大量の苗と種を抱えてよろよろ行くその地味さは、想像するとなかなかこころに訴えるものがある。
個人的には作中で登場し植物の輸送に関する観念を根底から一変させた(作中では地球の生態系を変えた、とさえ表現されている)技術、テラリウムが面白かった。要は、植物を土と一緒にガラス容器に入れておくだけで日光と植物自体が呼吸する気体によって草木が必要とするエネルギーが循環し、生きていく環境として完成するという発見である。
1800年代の時点ですでに見つかっていた技術に2000年に入ってから驚くのもとんまな話だが、個人的に植物すげえなっていうのに気づかされた時期でもあったので、面白かったです。
後者の主人公はヒトではなくモノ、胡椒である。本書で引用されている、「胡椒とは、みんながその周りで踊る花嫁である」という言葉が示すとおり、欧米の商人と政府、宣教師、船に船員として乗せられた囚人、軍人、アジアの領主、アジアの住民、はてはアジア・ヨーロッパの航路間に生息する(していた)野生動物にいたるまで、胡椒という物品を中心に、その行き来に関わった人たち、その利害をめぐってよくぞこれだけの影響を世の中に及ぼした、という顛末を書いた作品。
胡椒をかけると物が腐らなくなるしあと肉とかうまくなるんだぜ、という目的のもとヨーロッパ人がアジアに行って大儲け、というのが世界史を学ぶのを中学でやめた者の認識だったが、その辺あらためて整理し教えてもらうと、まあもちろんそんな話ではまったく済んでいなくて、行く側来られる側、画策と暴力、死屍累々の世界だった。
アメリカ政府がベトナム戦争にさきがけて東南アジアへの軍事介入をおこなった初の事例は胡椒がらみだったこと、ドードーの絶滅もこの香辛料が関係していることも、本書をとおして知った話。
この手の本を読んでいいなあと思うのは、自分の認識が色々と相対化される効果があるところである。おそらく一つの題材について総合的に、客観的に書こうとすると自然とそういう記述になる、ならざるを得ないのだと思うが、絶対的に汚いものも綺麗なものも、悪い者も良い者もあまりいないらしいことがわかる。
たとえば自然。アヘンにまみれたきったねえ市街がある同じ国の中、静かな山中の茶畑が霧の降る中に雄大に広がっていたり、マラリア蚊の徘徊する地獄のような沼沢地と熱帯の美しい大自然が同じ島に存在したりして、それぞれヨーロッパ人をドン引きさせたり楽しませたりしている。
たとえば人。来られるアジアの側も一方的に搾取されるばかりでなくて、そこにたくらみごとがあったりしてしたたかである。
もっとも、元囚人の船員による悪行、望まない胡椒栽培に縛り付けられて実質的に奴隷化した現地農民の例など、それは悪だろ、というのももちろんあって、暴力を単なる歴史的要素の一つとしてその善悪を評価せず、というのは「暴虐の世界史」と題された本の目指すところではないと思うが、まあこういうしっかり書かれた本を読むとそんなことを思う。
あとはですね、たとえばイギリス人というと紅茶、紅茶を語らせたらビンタはるまで語ってやめないというイメージがありますよね。でも、イギリスで紅茶が愛飲されるようになったのはせいぜいここ数百年の話であって、ましてやその栽培のエッセンスに到達してからは200年も経っていないし、それだって言うなれば知識財産の盗用によって現実化されたということがこの本を読むとわかる。
だからってイギリスにおける紅茶文化がおとしめられるわけではなくて、むしろその国における文化と育まれた期間の長さ、経緯とは、ある程度切り離して考える必要があるんじゃなかろうか、ということも思いました。おわり。
- 作者: サラローズ,Sarah Rose,築地誠子
- 出版社/メーカー: 原書房
- 発売日: 2011/12/01
- メディア: 単行本
- 購入: 1人 クリック: 15回
- この商品を含むブログ (1件) を見る
悪夢について2
植物すごいぜと思うことについて
昨年末に植物の鉢を一つ買った。
きっかけは、BRUTUSで植物の特集をやっていて、アホのようにそれに影響されたからである。ちなみに、この特集自体はしゃれおつな写真とわかりづらい専門用語ばかりの解説とあたりさわりのない紀行文とが寄せ集められた、いかにも編集者が手クセで仕立てましたというようなろくでもない出来だった。少なくとも俺にはそう感じられた。猛省されたい。
にもかかわらず、ともかく俺は植物の鉢を買った。そして、ほどなくして植物は枯れた。というか、生えていた葉にどうも元気がないな、と思って観ているうちに一枚落ち二枚落ち、最後は幹だけ丸はだかになって、枯れているとしか見えなくなった。
俺はあきらめ悪く、日があたって湿気が多いところに行けばもしかしてと思って、地獄の底のような俺の部屋から日があたる風呂場の窓辺へと植物を移した。植物はしばらくじっとしたまま黙っていた。
これに再び葉が生えることがあったら、それは元気になるという次元の話ではない、文字どおりの復活という言葉がふさわしいと感じられた。
植物が吸っているのか、単に蒸発しているだけなのか、土だけはちゃんと乾いて白くなるのでその度に水はやっていたが、それ以外は何もない日が続いた。あるとき、俺はこれで枯れているのがわかったら諦めて捨てようと思い、鼻毛を切るための小バサミで植物の幹の頭を薄く切って落とした。
すると、固く乾いた表皮の内側に緑色の芯が広がっているのがわかった。死んではいないのである。やがてその芯は徐々に鮮やかさを失い、他の部分と同じく茶色に乾いてしまったが、ともかく死んではいない。
ただ、一方で生きていると言えるかというと、それは動物や草木と言えば青々と茂ったものばかりイメージする俺にとって、「生」という言葉の意味を見直す必要があるというか、多少戸惑うところがあるというか、要は考えるのがめんどくさい部分だった。
植物は俺の考えなど意にとめず、ある日幹の頂点に薄い緑色の点を二つ、唐突にぼやけたように浮かべた。俺はおっ、と思いつつ、まあ気のせいかも知らんし、とも思った。それでも無意識に植物を眺める頻度は増してしまい、そしてその目の前で、緑の点は徐々に濃さを増していった。そして唐突に(すべてが唐突なのである)、音を立てるくらい力強く、二つの若葉がにょきにょき生えてきた。
死んだと思っていたものが芽を吹いたのだからこれは地方版タンホイザーと言ってはばかるつもりもないが、その驚きもさめてあらためて植物を見てみると、こいつらはどうも変である。
というのは、芽が生えたということは植物自体の体積も当然増加したということだが、俺が植物に与えたものというと水と日光だけであって、たとえば俺ら人間が成長したり太ったりするときに関係するとイメージされるところの固形物など一切与えていないからである。
要は、こいつはどうやってでかくなり、そもそも一体何でできているのだ?
そう思って調べたところ、インターネッツというのは本当に便利で、植物も俺らと同じように細胞はたんぱく質、繊維質は炭水化物からできていて、それぞれ地中から吸い上げたり光合成により吸収した二酸化炭素を使っていることがわかった。
光合成の方はまあなんとなくわかるが、地中の窒素?
じゃあ土が俺も気づかんけどその分微妙に減ってんのか? それとも量自体はそんなに必要じゃないのか? とあんまり腑に落ちていないが、まあ事実として、人や動物でいうところのメシ、他の生き物の肉も他の植物も食わないで成長するメカニズムなのである。知識としては中学生の理科の範囲なのだろうが、この体験をとおしてはじめて実感として理解できた。
そういうわけで植物はいま4~5cmほどの葉を二つ、勝手に生やかしている。
勝手に、と感じられるのは、植物というのはどうもおかしなもので、育てられているとか俺の庇護下にあるという感じがまったくしないで、平然として俺から切り離されているように思えるからで、これは残酷な想像をして俺が世話を放棄したり鉢を叩き割って中身を土ごと踏みにじっても、そこに動物的な意味での感情の揺れ動きはまったくないように思える。
ただ、俺が感知できない、言葉にできないところで何かが起きる気はする。それがなんなのかよくわからないが。
また、例えば俺が植物を踏み潰して火をつけて徹底的に破壊してしまうとき、俺や動物や虫の命がぽっと消えるのとはまた違う意味で、何かしらの消失がこの世界で起きる気がするのだが、それがなんなのかも、なぜそう感じるのかもよくわからない。それは文中で書いた「生」の意味の見直しをするとわかる…かもしれない。おわり。
カブトなし。クワガタほぼなし。それでよし。『きらめく甲虫』の感想について
昆虫が好きなのだが子供の頃はもう今の比ではなくて、狂ったように山野を網を振って走り、即席のヒシャクのような道具をこしらえて水中をかき回したりしていた。
昆虫にも色んな種類がいるわけだが、そんな当時、甲虫の特別さときたらすごかった。花の中に全身を突っ込んでむぐむぐやっているハナムグリだとか田んぼをすいすいやっているゲンゴロウだとか、その流線型の体、つややかな表皮など、「生き物は美しい」という感慨を俺に最初に与えたチャンネルは甲虫であった気がするし、日本のカブトムシのサイズを鼻で笑って圧倒的な海外カブト勢など、「どうも世の中ってのは俺の想像を超えて広いらしいぞ」と小学校低学年のクソガキに思わせた最初のきっかけも、これまた甲虫であった気がする。
という前置きをふまえて『きらめく甲虫』の感想である。
表題のとおり、甲虫と題しているがカブトムシは出てこないしクワガタムシもほぼ出てこないのだが、将棋で言う飛車角を落としてそれでも満ち足りた読後感があるのがすごい。タマムシだけどなんか毛みたいなん生えてるやつとか、ハムシの後ろ足の主張がえぐいやつとか、わりと甲虫について知っているつもりの俺でもなんじゃこいつっていうのがけっこう出てくる。
表紙を見てもらうとわかるとおり、写真も美しくて見ていて飽きない…だけでなく、種別の拡大写真を載っけられて肉眼だと同じキラキラだけど顕微鏡レベルだと質感が全然違っていてその理由は一体、みたいな疑問もわいてきて楽しい。
本書によると、甲虫は地上で最も繁栄している生き物であるという。これも本書で得た知識だが、あのきらめく硬い羽が外気の温度から内臓を守ったり空気を溜めるのにひと役買ったりするおかげで色んなところで生活できるようになった。
昆虫全体が地上に約100万種いるそうだが、うち37万種は甲虫によって占められるそうだ。地球は昆虫の星、という言説はよく聞かれるが、そのうちの最大勢力ということになる。つまり音楽業界の頂点をスピッツだとするとその最高傑作は三日月ロックであるから、甲虫≒三日月ロックのファン、というようなことである。なお、この例えはわかりにくい上におそらく敵しか生まない。自覚はある。
そういうわけで、もうヘラクレスとかネプチューンとかゴライアスとか横目で見て終わり、という中級者以降に、ぜひ読んでほしい本であった。もちろん昆虫ビギナーにもすすめます。おわり。
友人同士のお笑いコンビについて
友人同士で結成されたお笑いコンビが好きで、コンビ仲など良いと大変ほほえましい。ダウンタウンとか。さまぁ~ずとか。
実際のところはそうずっと仲良くもしていられないと思うのである(さまぁ~ずは本当に仲よさそうだけど)。
ファンの人に具体的な仲良しエピソードを挙げられて、「だから二人はずっと友達の延長線上でお笑いやってるんですよ!」と力説されたらあ、そうっすか…と尻尾を巻くしかないんだけども、大人になってそれぞれ付き合いも複雑になってどんどん新しい遊びを覚えて、新しい恋人も家族もできて…ってそりゃ自分と隣に立ってる男だけ前と同じあり方のまんま、友達のまんまとはいかんだろう、と思う。
ただ、友達由来のコンビがきっと強い特定の瞬間というのがあるだろうなあとも勝手に想像していて、そこはやっぱり相手との関係の起点が好きという感情から始まっているということ、こういうのがいざというとき強いんじゃないかと思う。
例えばお互い忙しい時期が続いて殺伐とするとき、もしくは舞台の上でとっさの機転が要求されるとき、相手との関係性の根幹が損得勘定や理屈ではなく友情である(友情であった)というのはある意味お互いの弱みと命綱を握りあっているようなもので、こういうのが強いんじゃないかしらん。危機でかえってヒビが入ってしまうこともあろうが、そうじゃないかしらん、とダウンタウンが二人でへらへらしながら浜田が松本をどついているのを見ながら思うのであった。
映画版『無限の住人』の感想について
はじめに
主な感想
あえて批判を挙げるなら次のようなことでしょうか。
俺はへそが思いっきりひん曲がってついているので、映画化作品において原作の内容を守るのって、まあ本家に対する敬意も当然あるでしょうけど、とかく実写に対してひと言言いたくなる原作派を黙らせるための方便でもあるよな、とか思うわけで、後半の大乱闘を除けばほぼ原作に忠実であったこの映画に正直その「方便」を感じないでもない。特に前に触れた槇絵の扱いは、あれをあえて取り込むのはけっこうクサいな、と思う。
細かい話
さまぁ〜ずの三村があるとき「金玉」という言葉についてふと考えてみて、「これ字義をふまえてあらためて考えてみると実はいい言葉だよなあ。全然下ネタじゃないよなあ」と思った後、ここまでの思考の流れを一切説明しないままそのとき横にいた女性に急に「ちょっと金玉って言ってみて」と声をかけた、というのは単に俺がエピソードとして大好きというだけでこの映画と全然関係ないんですが、「万次」のイントネーションって皆さんは「卍」そのまんま、例えば「漢字」とかと同じだと知っていただろうか。卍さん。俺は「三時」や「甘美」と同じだと思っていたので、映画でこれを知って少し衝撃だった。
俺がこの映画を良いと思う理由の一つは、『無限の住人』のキャラクターは傷つき何かを失ってある意味ちょっとイッちゃってから良さを発揮するやつばっかりだな、というのに気づかされたからである。
例えば、福士蒼汰の天津は、率直に言って最初は天津のコスプレをした福士蒼汰でしかなかったが、戦闘のさなか段々血みどろになって手にした得物の重たさが観客にも伝わるようになってきて、本当にそこに天津を感じるようになった。よく考えれば天津も敵方の大ボスにもかかわらずよくボロボロになるキャラだった。
髪を断ち落とす戸田恵梨香の槇絵も、途中で白髪になり隻腕になる市原隼人の尸良も、見慣れた姿になって「やっぱこっちの方がしっくりくるよな」と思った。そして同時に、「そうか、無限のキャラってそんなんばっかか」と思った。
こういう生き残るためのいたし方なさみたいなのが彼らの魅力か、というのは、映画をとおして気づかされたことである。そんな発見も含めて、まあ実写化の常ですから批判も当然あろうが、一人の原作ファンにはちゃんと楽しめたぜ、という報告であり感想でした。吐がオニギリを食ってても気にならない人は(観てないとなんのこっちゃわからないけど)、行かれたらよろしいかと思います。(おしまい)
原作未読の方は↓。映画よりももっと残酷で、あらすじも複雑で、漫画ならではの美しさ。おすすめです。