Go レイリ Go! 『レイリ』4巻の感想について

はじめに

 豚カツが好きで、カレーも言わずもがな好きで、果たしてこの二つを一緒に食ったらどれだけ美味くなるのかしらん、なってしまうのかしらん、と思ってカツカレーを頼んで食うと意外とそうでもない。

 せいぜいが、まあカレーとカツ一緒に食ったらそれはそうなるよな、という域を出ていないというか、なんならカレーを純粋にルーと米の配分に気をつかいつつ食ったり、カツをソースとカラシつけて合い間にキャベツはさんで食ったりした方が美味いよな、ということになったりする。

 

 いや、美味いけどね。カツカレー。

 

『レイリ』4巻の感想

 というわけで、『レイリ』、戦国の世で一人の少女が家族を戦禍で失い、自らも敵を殺して殺して最後に死ぬべく戦う漫画の第4巻である。

 原作の岩明均は『寄生獣』はもちろんのこと、『ヒストリエ』で新刊が出るたび「ああ、月日が経つのは早いなあ」と毎回実感させられながら買わざるを得ない作家であり、作画の室井大資知名度こそ岩明均には劣るだろうけども、『ブラステッド』から入って『海岸列車』も『秋津』も素晴らしい、最近では自身が原作となった『バイオレンスアクション』も最高な、好きかどうかで言ったら俺の場合室井さんの方が好きなくらいの漫画家で、じゃあその二人が組んで漫画描いたらどうなってしまうの、俺はどうなってしまうの、というのが『レイリ』だった。だったんだけれども。

 

 正直に言う。1巻、2巻と「あれ?」というのがあった。

 

 こんなこと言うのは分をわきまえていないかもしれなくて、これはもう自分の子供の肉食わされたり殺されて死体処理の槽の中に落とされて石灰ぶっ込まれたりしないと許してもらえないかもしれないけど、正直そこまで面白くなかった。単につまらないというより、ハードルが上がりすぎてて、それを超えるには至らなかった。

 

 まず『レイリ』は展開が遅い。

 戦地に赴いて派手に死にたいはずのレイリなのになかなか肝心の戦闘が始まらない。また、家族を殺されて虚無的になった戦闘少女というキャラについて、これを短篇ですぱっとまとめるわけではなく変に尺をたっぷりとって描き始めると、まあ戦国時代だからそういうヤツもそこそこいるんじゃないの、という凡庸さが目立ってくるというか、レイリとは果たして注目する価値があるキャラなんだかそうでもないんだかよくわからないことになってしまう。

 あと、これは俺が日本史音痴だからというのもあるんだけど、レイリが所属する陣営である武田家について、信玄亡き後の戦国時代におけるポジションがどうもよくわからず、仮にレイリというキャラを抜きにして、歴史的に見た大きな物語としても、作中で何が起きているのかもよくわからない。

 レイリ個人に注目しても、あるいは史実に焦点を当てても、結局なにが起きてるのかよくわからないまま2巻まで来てしまった。3巻でようやく血戦がはじまって、少し面白くなったけども。

 

 で、4巻である。端的に言う。4巻、面白かった。

 

 徳川家康とその背後にいる織田信長にらまれ、レイリの命の恩人である岡部丹波守が窮地にいる状況。レイリがその影武者を務め、自らの主君ともするところの武田信勝は岡部守を救わないと決断するが、レイリはこの考えに反し、独断、丹波守が籠城する高天神に向かう。

 信勝に顔立ちが似ていて、剣の腕が立つ。それだけが、レイリが信勝の影武者を務められる理由であって、それはそのまま、俺のような読者がレイリの物語に付き合う理由でもあった。そして、その理由はこう言ってはなんだがそれほど心に訴えてくるものではなかった。

  しかし。到着した高天神にて、並み居る武将を前に信勝顔負けの戦略論をぶったシーン、これがとてもよかった。死にたがりのレイリの性格と、彼女が示した能力の高さと、物語的にようやく天秤が釣り合って、自分では死にたいのに周りを力づけることもできるようになって、この娘はこの後どうなるんだろう、と久しぶりに物語のこの先が読みたくなった(偉そうなこと書いていすぎる。スミマセン、スミマセン)。

 

 さらによかったのは、レイリが独断で高天神に向かおうとするところを、信勝の側近でありレイリ自らひそかに思いを寄せる? 相手でもある土屋惣三に止められ対峙する場面で、勝手に行ったら死罪、と宣告する土屋に対し、だったら斬れ、とレイリは言う。

 二人は一度剣を交わしたことがあって、土屋の方が強いのだが、いまのレイリにはそういう実力とはまた別の凄味がある。もちろんお互い憎しみあってはいないけど、それぞれが戦国時代の一介の兵士として、自らの恩人や主君に対し軽んじることのできない忠義を抱えている。向き合いながら徐々に緊張感を増す二人の表情を、ひとコマひとコマ切って画面に落としている。 

 以前だったら、ただでさえ展開が遅いのにここで時間かけないで…と思っていたはずのシーンで、それが評価が逆転してしまったのは、俺の中で『レイリ』の見方自体が大きく転回させられたからだと思う。この二人が組んだのに、あんまりだな? という以前の評価が完全にひっくり返った。ちなみに、ここはレイリの表情の画もすごく良かった…。

 

 その後レイリは高天神に到着、さらに、どん詰まりになっていた戦局に突破口を開いてみせ、さらなる活躍を見せる予感とともに4巻は終わっている。さあここから、あらためて死にたがりの部分をどう取り込んでくるかが見たいと思う。4巻にしてついに、いいぞ、『レイリ』、と思う。以上。

 

 

よいこのみんな、映画館で綾野剛のガンアクションと半ケツを観よう! 実写版映画『亜人』の感想について

はじめに

 100点。

 

 まあ、どこを採点の基準に据えるか、観に行った動機は何か、というのももちろん関係あると思う。

 だから言いなおす。「ほーん、『亜人』実写化すんのか。綾野剛が肉体改造して佐藤役で、『るろ剣』で評判良かった佐藤健が永井圭でドンパチか。じゃあいっちょ冷やかしてくるか」、が理由の人、その人なら100点。絶対満足します。

 

あらすじ

 何やっても死なない。

 

登場人物紹介

綾野剛 as 佐藤

 何やっても死なない亜人の一人で本作のボスキャラ。この映画に100点をあげざるを得なくなった、今作最大の立役者。

 以前から綾野剛についてはスピードワゴンの小沢が俳優をやるときの芸名が綾野剛と言ってはばからなかった私ですが、この映画で確信したので白状する。

 

 俺はあなたのファンです。

 

 自動小銃、アーミーナイフを武器に多人数相手に大立ち回り。撃って、走って、ぶった切って、また撃つ(ときどき自分自身も。なぜかというと、亜人にとっては死亡≒ベホマだから)。

 この映画では戦闘シーンでアッパーな電子音楽がかかるんですが、その曲がガンガンかかってるなかでドンパチやって無双するその存在感はもう本来の主人公を食いかけてるというか、元々原作からして「敵」ではなくあくまで別の勢力という描き方をされている役どころだと思いますが、まさにこの実写版でももう一人の主人公と言ってよいと思います。

 中盤で破れた服から鍛え上げられた二の腕がのぞく場面があって、すげー、と思ってたら、さらにすごい、上半身マッパで登場するシーンが後半に用意されていた。というか若干ケツも出ていた。

 細マッチョよりいくらか厚めに盛った、欲張り筋肉。隣で観ていた女性が息を呑んでいた。こういうのが好きな女性と男性の方はこれだけでも観に行った方がよいと思います。

 原作キャラクターのイメージどおり、かというと個人的にはそうでもなく、ちょっと若すぎる気もするし声が低すぎる気もするし、漫画版ではただの戦闘狂の遊び人なのが、映画では亜人として普通の人間に復讐するみたいな動機もあるのかな? とわからない部分もあったけど、とにかく綾野剛、最高にハマっていました。素晴らしい。

 ちなみに、今作のエンドロールにはライザップのロゴがクレジットされてました。あの肉体は結果にコミットした結果だったのでしょうか?

 

佐藤健 as 永井圭

 何やっても死なない亜人で本作の主人公。原作とは違い、成人男性として設定されていますが、ムキムキの綾野剛と正面からの肉弾バトルが続くので、この翻案は成功でしょう。

 年齢以外にも、亜人だと判明するまでの過程がごっそり省略されていきなり人体実験されてたり、原作の友人である海斗にいたっては存在さえしなかったりと色々相違点がありますし、ただの研修医のはずがいつの間にか頭がキレて格闘もできるステゴロ軍師になったりしてますが、そんなのカンケーねー、本作の綾野剛とがっぷり四つで組めてそれが観ていて面白ければ、この永井圭もこのストーリーも、全然ありです。

 上では綾野剛に存在感で食われかけてると書きましたが、完全に食われなかったのはこれがむしろすごくて、まあ本当にスタントなしでこれやったんですか、というアクションを負けじと連発する(手すりの上走るやつとかすごかった)。

 ちなみに彼も作品の最終盤で、「綾野さん、あんただけにケツを見せさせたりしませんよ!」と言わんばかりに半ケツを披露しているので、やっぱりそういうのが好きな女性と男性は行った方がいいと思いますよ。

 

城田優 as 田中功次

 俺は実は城田優のお芝居をちゃんと観たことがありませんでした。ただ、ここまで男前でガタイもよいと、かえって役者として何かの役にハマるのは難しいのではないか、などと大変失礼なことを勝手に思っていました。

 結論から言うと、今作の田中役は非常によかったと思います。綾野剛の右腕として高い作戦遂行能力を持ちながら、どこか芯がぶれている(これは原作どおり)。しかし、完全無欠でなく適度にボロボロになっていく姿にものすごい色気がある(これはたぶん城田優本人の資質)。

 大ボスに綾野剛、主人公に佐藤健をあてたのは配役として誰でも思いつくというか、まあ安全なところ行ってる感じがしますが、田中に城田優をキャスティングしたのは相当ファインプレイだと思いました。

 

玉山鉄二 as 戸崎優

 老舗の名店が創業以来継ぎ足し続けた秘伝の無能のタレに骨の髄まで漬けられた無能の中の無能、映画版戸崎。

 

 切った啖呵がことごとく裏切られ、張った策がことごとく綾野剛にブチ壊されていく様は圧巻であり、冷徹というより単に自分で直接手を汚せない見かけ倒しの人、という印象にしあがっています。途中、あまりにふがいないので政治家の先生方に説教される場面がありますが、期待されてる内容が映画版戸崎には荷が重いというか、原作では敵に翻弄されつつもスマートさが損なわれないキャラクターのに、映画、特に物語の前半は完全にポンコツです。

 ただ、ストーリー後半で自分も直接戦闘に参加しだしてからはそれまでの汚点を挽回してかなりよかった。もっと初期から戦闘官僚として描かれていれば全然印象違ったのになあ。

 演じる玉山鉄二、僕はファンなんですが、今作では可もなく不可もなく、です。原作ではもっと線が細いイメージなので。ちなみに病気の恋人についてはほんの少し焦点が当たったぐらいでした。

 

川栄李奈 as 下村泉

 原作どおりの髪形にして失敗したパターン。どうしても川栄ちゃんによるコスプレ感にとどまってしまったというか。

 アクションはすごく頑張ってますが、かえってこの頑張ってる感が、少し興が冷めるところもありました。激しい動き見せるにはタッパも低すぎるかな。

 ボロクソ言ったけど、後半になるにつれて観る側の目にもなじんできて、けっして悪くはありませんでした。むしろしり上がりによくなった感じ。普通に考えるとあの体格で城田優とドツキあうとかおかしいんですが、しっかり迫力ある格闘になってたのがその証拠です。まあ何が言いたいかというと、とりあえず俺にも腕ひしぎをかけてくれないか。

 

浜辺美波 as 永井慧理子

 原作どおりの髪形にして成功したパターン。はじめて観た女優さんですが、かわいかった。でも、病気で入院していたという設定なのに病室出てきた後もピンピンしてるのはどうなのか。

 ちなみに彼女以外の圭の家族について、映画版でも母親の存在が言及されていますが、結局出てきませんでした。

 

千葉雄大 as 奥山

 元々フォージの社員という設定だったんでしょうか? 原作読んだけど忘れてしまった。

 

その他の感想

IBMの戦闘シーン、カッコよすぎ。

 亜人は、IBMと呼ばれるジョジョのスタンドのようなものを操作して、自分と一緒に戦闘に参加させることができるのですが、このシーンがすごいカッコよかった。

 黒い粒子がぶわっとふきあがって人型に固まり、敵のIBMと殴り合う。人間同士が展開する銃撃戦と並行してこの格闘戦が行われ、双方入り乱れることで、戦闘全体にものすごくメリハリが出る。

 基本的にこの映画における戦闘って、やってることは毎回そんなに変わらないのですが、まったく飽きが来なかったのは、IBMの描き方によって一切単調になることがなかったからなのは間違いないです。

 

・フォージ重工

 何をやってる会社なんでしょうか。簡単にセキュリティ突破されてたのでまさか危険物を取り扱ってるってこともないでしょうけど、バファリンの優しさの方とかを作ってんですかね。

 

・続編は?

 物語の最終盤、佐藤健との長い戦闘の末一時的に無力化された綾野剛が奇策で復帰したとき、「あれ、これもしかして綾野剛勝つんじゃねーの? これだけで完結しないんじゃねーの?」と思った。

 付け加えると、このときの俺の気持ちは「まあそれならそれでいいけどよ…」というものだった。なぜか。それは、映画版『亜人』が面白かったから。

 結局、ネタバレをしてしまうと最後は佐藤健が勝ち、作品も〆られるのだが、続けようと思えば続けられる終わり方でもあった。エンドロール直前の映像もちょっと気になるし…。

 続編あるとしたら観に行きます。今作で亜人×実写版として思いつける描写はひととおりやってる感はあるし、二作目を撮ってまったく新しい要素を描くって相当難しいと思うけど、仮に焼き直しになっててもいいや。それくらいよかった、ってことで。次があったら中野くんの登場を希望します。

 

 そういうわけで、長くなったけどあらためて100点。気になる人はぜひ行った方がよいです。おすすめ。以上。

『ジョジョリオン』の悪口を言うコーナーについて

 ジャンルに限らず、とかく世間で名作とされているものの悪口を言うのはなかなか勇気のいることで、作品によっては信仰の域にまで高まった愛情を捧げる熱狂的なファンもいるくらいであるから、これはもう下手をすれば身に危険が及ぶ可能性さえあると言ってもよいくらいだが、もう思っていたことが抑えられないので言う。

 

 だいたいジョジョリオンは戦闘がまったく面白くない。

 それはまず、「こいつのスタンドには何ができるのか」が読んでいて全然わからないことによる。ジョジョにおける特殊能力がストーリーが進むにつれて拡大解釈されていくのはお約束だが、ジョジョリオンにおいてはこれが拡大されすぎて意味がわからなくなっている。

 例えばつるぎのペーパー・ムーン・キングが相手の認識能力を誤作動させる能力なのか、スマートフォンを折り曲げてカエルを作ったように、ものを紙として扱える能力なのかわからない。

 康穂のペイズリー・パークもよくわからなくて、ネットワークに潜入して情報を探知できる能力なのか、康穂自身や味方を正しい目的地や選択肢に導く能力なのかわからない。

 後者だとすると、康穂はよく自身のスタンドにどちらを選ぶか、という質問を出されていて、スタンドが自動的に正解に誘導してくれるわけではなく本体にこうして考えさせるのなら、それは単に本体自身が状況を熟考して何かを判断するのと何が違うんだよ、と思う。

 あとボーン・ディス・ウェイの何かを開閉する行為がスイッチになってるところとか、なんでそういう設計になってるんだかいまいちよくわからないところもよくないし、本体の人と能力の内容といまいち関連性がわからないところもよくない。

 直近ではブルー・ハワイという人をゾンビにしてしまうスタンドと戦っていて、ゾンビって、過去にもうジャスティスでもリンプ・ビズキットでもやったじゃねーかと思う。まあ開戦直前の、一度遠くに離れたはずの子供がこっちにもどってくる間の使い方はよかったけど。すごいよかった。

 

 だいたいジョジョリオンには作品として卑怯なところがあって、作品の序盤で、さあここでいったん仕切り直し、物語は始めからです、というところで唐突に脈絡なく「吉良吉影」の名前を出してきたりする。

 この名前は、作中のキャラクターたちにとっては単にはじめて聞く人名に過ぎなくても、読者からしたら絶対に無視できない名前である。「おっ?」と思う。

 こういうのはずるくないですか? 大御所が自分のキャリアを濫用しているというかね。もう、きったねえなあ、と思いつつ、「え? 吉良? どういうこと?」つって食いついてしまうよね。

 

 そうだ、あと憲助オヤジのキャラがすぐ変わったのも気になっていた。

 憲助は最初は裏のある感じのオッサンだったのに、一度主人公と共闘して以来いつの間にかいい感じの頼れる味方みたいな雰囲気になっていて、いい加減なんだよ、という。それにしても、田最戦で憲助が定助に対する心情を吐露する場面はよかったなあ。正直ぐっときた。ポーク・パイ・ハット戦のジョニィもそうだけど、男の悔し泣き描くのが上手いんだよなあ。

 

 他にも常秀のミラグロマンのエピソードとか、ただでさえ本編の展開が遅いと言われてるのに、それをなんで脇道にそれてさらに遅らせるようなことをやるのか。自覚があるのか。このエピソードはとても不気味で、かつ悪党同士の醜い小競り合いなのに人間として最低限の矜持が垣間見えるところもあって、とてもよかった。

 

 あとは虹村さんがレモンとみかんを混ぜるシーンとか、混ざるにしてもこうはならんだろ、と思うと同時に、こうなるしかないんだよな、だってこの混ざり方、見た目が強烈すぎるもん、とも思う。ケレンミというか、ジョジョでしかできないことをやってる感がやっぱりすごい。

 とりあえず、上に挙げたような理由で俺はジョジョリオンを俺は批判する次第で、今後もどうせこんなような感じだと思いますから、何が言いたいかというとみんな読んだ方がいいと思いますよ。以上。

 

ジョジョリオン 15 (ジャンプコミックス)

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深い緑と青い春。『猿神のロスト・シティ―地上最後の秘境に眠る謎の文明を探せ』の感想について

はじめに

 青春小説のフォーマットの一つに「探して、見つけて、そして失う」というものがあって、村上春樹とかポール・オースターとかよくこういう構成を使うのだが、逆に言うとこのフォーマットにならっているとその作品はぐっと青春小説らしくなるのである。

 本当に? 仮にその舞台が猛獣ひしめく密林でも?

 イエス。密林でもそうなる。なるったらなる。この『猿神のロスト・シティ』を読めばわかる。

 

感想

 地球上のあらゆる土地が踏破され、まだ発見されていない未知の文明などとうていありそうもないこの21世紀。

 しかし、南米はホンジュラスの密林――かねてより『シウダー・ブランカ(白い都市)』と呼ばれる幻の街の伝説がささやかれるこの地に、時代の進歩がもたらした技術が遺跡らしきものの観測に成功した。真実を確かめるべく、ジャガー、毒蛇、凶暴なアリが跋扈し、麻薬組織の勢力圏でもあるこの土地に、科学者、ジャーナリスト、元軍人たちの混合チームが挑む…

 という本。

 

 面白かった。先に不満な点を挙げると、本書の解説を担当された方が文中でも述べているとおり、仰々しく期待をあおる導入に比べて、実際の「探検」部分はかなり少ないこと。

 この土地をめぐる歴史と筆者たちが今回の探索にこぎつけるまでの労苦はかなりページを割かれて語られるのだが、それが終わってさあいよいよ探検、と思って始まったジャングル内での生活や冒険にかかる部分は、わりとすぐに終わってしまう。

 結局、調査を経て『シウダー・ブランカ』らしきものは見つかるのだが、以降は「あれ、もう帰っちゃうの?」というくらいあっさりと密林をあとに。つまんないわけじゃないんですけどね。あやうく毒蛇に噛まれそうになる話とか。でももうちょい期待してた。

 

 ただ、実は面白いのはみんなが帰国してから。

 チームのメンバーがそれぞれの国に帰った後、彼らは各国で同時多発的に謎の病気を発症する。

 診断の結果、病気の正体は一種の寄生原虫だということがわかるのだが、この病気への罹患がひとつの重みを伴ってくるのは、彼らが現地での調査をとおして得た仮説に、「『シウダー・ブランカ』はどうやら病の流行が原因で遺棄された場所であるらしい」というものがあることによる。

 500年ほど前、まさに彼らと同じ欧米人によって、天然痘チフスといった病原体がこの地に持ち込まれた。欧米人自身は抗体を持っているが、現地の人々は免疫がなく、これらに感染してなすすべく死んでいく。『シウダー・ブランカ』もおそらくはそうした経緯の中で生活の場として機能しなくなり、葬られた。

 それがときを経て、今度は欧米人の方が、吸血性の虫を媒介に感染する別の病に苦しめられる側になったわけで、ここにはつい報復という言葉が浮かんでしまう(筆者自身もそう書いている)。もちろん科学的にみればこれが呪いとかではないのはわかるんだけど、何か教訓的な話でもある。

 

 作品の終盤、『シウダー・ブランカ』の探索から一年後、筆者はもう一度現地を訪れる。

 自分たちの行いは、考古学的な「発見」であるが、それと同時にひとつの「破壊」なのではないか、貴重な自然環境を不可逆的なかたちで開拓してしまったのではないか、といううしろめたさが彼の中にあったことが、文中では語られている。

 はたして彼の不安どおり、一年ぶりに訪れた密林は人の手によって開発され、前年訪れたときよりも生活しやすい環境へと変じていた。

 この描写が妙にいい。毒蛇と吸血昆虫うようよで夜はまったくの闇が降りる野蛮な世界。そういうものでも、いざ変わってしまうと自分のなかに愛着があったこと、もう取り戻せないことへの寂しさがあることがわかるらしい。

 作者はここでかつてのチームメイトと再会するんだけど、そこにも少しよそよそしさが感じられて、人と場所というのはやっぱりセットで、場所の方が変わってしまえば人と人との関係性も以前のようにはいかないという、ここにも不思議な悲しさがあってよかった。

 

 胸躍る冒険、というには少し活劇の要素が少ないが(実際、考古学とアドベンチャーとを区別しなくてはいけない、という意見が本書には散見される)、深緑と泥沼の死地を舞台にするわりに妙にせつない読後感があり、なかなかよい本でした。

 

猿神のロスト・シティ―地上最後の秘境に眠る謎の文明を探せ

猿神のロスト・シティ―地上最後の秘境に眠る謎の文明を探せ

 

 

ソニックマニア2017の感想について~Kasabian編~

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  2017ソニックマニア、邦楽テクノUKロック行脚。後半はKasabian編(前篇はこちらソニックマニア2017の感想について~Perfume、Liam Gallagher編~ - 惨状と説教)。 

Kasabian…『異次元』。
 リアムのステージが終わってフロアの観客が動き、次のKasabianのために最前列よりやや後ろあたりに移動。リアムとKasabianは客層がかぶっていると読んだのでそれほど場内の変動はないかな?  と思っていたんだけど、けっこう動く。
 ステージセットが始まって、ときどき前の人たちがざわつくな、と思ったら、新作『For Crying Out Loud』のジャケットにもなったローディーのおじさんが出てきて機材の準備をしていた。そんな場面もありつつ、時刻は1時20分。ついに本命kasabian、そのステージの火蓋が切られる。
 
 開演の気配とともに、後方から押し寄せる人の圧を受けて場内が詰まる。「お?」と思っているうちはまだ余裕があったが、さらに詰まる。どんどん詰まる。正直ちょっとヤバくないか?  と思うと同時に鳴らされる、新作の一曲目『Ill Ray(The King)』。
 観客、爆発。わけわかんないぐらい動いてるやつとか、体ごとぶつかってくるようなやつもいる。こっちのモードが追い付かないまま、出現した混沌に呑まれる。
 一曲目からそんなテンションで大丈夫? と自分も観客なのに思う…間もなく、揺さぶられぶつかり合いながら、二曲目『Bumblebeee』に突入し、場内の熱量がまったく落ちないままこれも完走。
 続いて『Eez-Eh』、『Underdog』、『Shoot the Runner』、そして新作から『You’re in Love With a Psycho』へ。
 このあたりから最初の危険ささえあった無秩序は少し消化され、演奏に集中できるようになるが、場内の熱気自体はまったくなくなっておらず、あくまで吹き出る衝動が最低限の方向を見つけただけ。なんとかケガをしないで済む空間を無意識に計算し、残りの意識はなにもかも叫び、踊って、手を突き上げることに全振りする俺らは、もう漫画に出てくる野蛮人に近い。
 続く曲、『Club Foot』で再び混沌出現。
 1stの一曲目にして作中最大の攻撃力の『Club Foot』。このイントロは暗黙のうちに「暴れる曲」という符号なんだろう、鳴ると同時に場内がまたもや荒れる。ただ、今回は俺も含め前方はみんな覚悟ができていたようで、なんというか、うまく乗り切った。楽しくさえあった。ヤバい。
 その後は、『Treat』、『Switchblade Smiles』、『Bless This Acid House』、『Stevie』、最後はダウナーなのになぜか踊れる『L.S.F. (Lost Souls Forever)』で〆…だったが、メンバーが去って暗転した後も続く『L.S.F』のコーラス部分の合唱が止まない中、再びライトアップ、新作より『Comeback Kid』でアンコールパートに突入。『Vlad the Impaler』へと続き、全員狼のように吠える『Fire』で本当の閉演となった。
 Kasabianの曲はそれこそ原始人が叫んでいるようなコーラスが多く(『Bumblebee』のラララ・ラーラー、『Club Foot』のアーアアアーアアー、『Fire』のウーウウウーウーウウウウー…)、気分はもうマンモス肉片手に暗やみの中焚火の周り。それを束ねて煽って床にしゃがませ→ジャンプさせる酋長、トムとサージ。
 トムは特に男前でもないんですが、野蛮人たちを統率する族長には大切な素晴らしい声をお持ち。朗々とフロアを渡っていく歌声には、熱狂を一瞬忘れて感動させられてしまう場面があった。
 サージは無人島で10年生活したアンガールズみたいな体系・風貌だけど、チャーミングで目が離せない。ベースのクリスもステージ上で不思議な存在感があったな。ドラムのイアンもそうですが、この二人のリズム隊でバランスとって成立してる部分が絶対にあるのでしょう。
 UKの酋長が作った幕張の未開地。異次元。最高のアクトでした。
 

 おわりに

 全体として、非常に楽しめました。今回Kasabianかぶったため電気グル―ヴが見られなかったのだけが残念。ライブのタイムテーブルはおそらく運営が一番頭悩ませる部分で、その上で組まれたものだろうから文句も言えないですが。 
 
 日付も深夜を過ぎると、会場内後方では座ったり横になったりしてくたばってる人がけっこういます。運営的にすすめられる方法かはわからないですが(防犯的な意味も含む)、俺はこの体勢、わりと好きです。始めて聞く音楽を他の人たちと一緒にゆるく聴いてる、大規模でオールナイトのイベントだけたぶん現れる、弛緩と緊張の混じった独特の時間帯。
 
  最後に、Kasabianを前方で観ていて抱いた感想で、批判というのとはちょっと違う、でもまあネガティブな話で、これ最前列で見るのはちょっと覚悟がいるな、と思いました。体の小さい人、女性は怖いと思うし、注意しても防ぎようのないケガや痴漢など、不快な思いをさせられておかしくない、そういうレベルの混み方と荒れ方でした。おいお前、知らない人に体当たりしてくんのマジでやめろ。
 だから規制してくれ、とも言えなくて、こういう空間でないと生みだせない、体験できない恍惚があって、うーん難しいなあと思いました。ガタイのいいジャイアン的なやつを伴っていくなど、自衛がいるかもしれません。面倒な話ですが。
 なお俺の被害を報告すると、Kasabianの演奏中、なぜか知らない外人に急に持ち上げられました。意味がわからなかったですが、なんとなく俺も彼を持ち上げ返しました。俺の行動も意味がわかりません。その後彼とは握手しました。 
 
 幕張メッセを去って、海浜幕張駅から東京駅、中央線へ。車内にぎゅう詰めの乗客のリストにはほぼ参加者証となるバンドが巻かれている。それが少しずつ減っていって、最後、中央線ではもう俺だけになった中、寝過ごさないことだけ祈りながら目を閉じる。
 去年は急に休んだけど、来年も、今後も、きっとあるよね。またソニマニで。次回も行きます。

ソニックマニア2017の感想について~Perfume、Liam Gallagher編~

はじめに

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 音楽イベント観に行くのを「参戦」とか言いだしたら人間もう終わりである、というのは以前書いたとおりである。

 なんかわざわざ人に言って聞かせてる感じがするじゃないか。うるっせーつぅんだよ、というのも以前書いたとおりである。

 

 というわけでソニックマニア幕張メッセで開催されているサマーソニックの前夜祭的なやつ)2017に参戦してきた。なお、このツカミも以前書いたとおりである。

  流れはPerfume、元OASISフロントマン・Liam Gallegher、そしてKasabianの邦楽テクノ→UKロックコースです。

 

 Perfume…眼福。影法師さえ美しい。

 ソニックマニアは昨年開催されなかったので、来場は2年ぶり。

 夜の東京駅を、おそらく他の参加者と思われる人たちと方向を同じにしながら京葉線に向かう。降りた海浜幕張駅には、もうはっきりと幕張メッセに向かう人の流れができている。

 22時、Perfume開演。俺の位置はフロアほぼ真ん中あたり。

 詳細なセットリストは他に譲るとして(そこまで熱心なファンじゃないので、知らない曲があったというのもありますが…)、GLITTER、ポリリズム、Spring Of Life、ワンルームディスコなど踊れる曲をつなげながら演じられた約50分。

 俺はソニックマニアで過去2回Perfumeのステージを観ていて、まあ毎回思うことなんですが、三人がとにかくかわいい&美しい。

 電子的な音楽と汗を浮かべて踊る身体性との絶妙な協調。幕張メッセの無機質な壁に、踊る彼女たちの影がステージの光で投げられているんですが、もうそれさえ美しい。

 一方、最前列ではまた違ったと思うけど、フェスとして熱狂が俺のいる位置まで波及していたかというと微妙かな?という気がしました。

 観ているだけで楽しいのでついじっと見いっちゃうのもあるし、「ややファン」ぐらいの立ち位置だと、周りが静かだったりするとなかなか忘我で踊りにくいのもあるし、という感じ。このあたり、単純に集客数が上がって全員バカになれる空気を大勢で共有できると違ってくるんだろうな、と思います。

 

 Liam Gallegher…残光。なれど力強く。

 日付もそろそろ変わる23時35分、Perfumeと同じステージを引き継いで登場するのは、かのOASISのフロントマン・Liam Gallegher。

 ビッグネームの面目躍如でフロアはかなり人が入っており、OASISを解散→Beady Eye結成するもこちらも解散→本格的にソロシンガーへ、と進んできたリアムがいまどんなステージを見せてくれるのか、いわばその現在地に対する注目度の高さが現れたのかもしれない。

 予定時刻にほぼ遅れなく開演(リアムのことだから時間なんか守んねーんじゃねーの、とか思ってたんですが)。のっけからOASIS1stアルバムの第1曲『Rock ’N’ Roll Star』で始まり、続いた曲も同じくOASISの『Morning Glory』。

 3曲目は先日公開のソロ曲『Wall Of Glass』。そこからOASIS時代、OASIS解散以後を混ぜながら、最後は『Live Forever』、そしてなんと『Wonderwall』で〆。

 リアムと言えばその声質が「ジョン・レノンジョン・ライドンを足したような声」というものから「ゲロ声」まで、通常ありえないレベルの毀誉褒貶があることで有名で、じゃあ今回はというと正直あまり安定はしていなかったと思う。

 OASIS時代の曲の方がひどく、『Live Forever』サビの「You and I are gonna live forever」なんててめえ自分が声出ねえから客に歌わせてねえか、という。一方、OASIS後の曲は美しく声が出ていたような。まあ、あまり聞き慣れていない分評価が甘くなるのかもしれませんが。

 

 リアムのステージには観る前に思ったことがいっぱいあったし、観た後にもある。

 率直に言うと俺が好きなのはあくまでOASISのボーカルであるリアムであり、その後の活動で発表された曲にはあまりピンと来ていない部分があって、たぶんリアムの方もそういうやつが何人かはいることは理解していて。

 その上でどうやってステージを作ってくるのだろう、というのが最初に思ったことだった。リアムがいまの自分はソロのシンガーだから、という理由で最近の曲だけをやってもそれは当然の判断だけど、正直、それは俺が求めているのとは別だな、と思った。

 結果、リアムはOASIS時代の曲を演奏の皮きりに選び、最後にも『Wonderwall』を持ってきた。その背景はわからない。

 観客の反応は、やはりOASIS時代のものの方が大きかったと思う。解散以後の曲として選ばれたものに縦ノリするタイプのものがないから、というのも影響はしたかもしれないが、「聞かせる系」の歌であってもすべてが合唱可能だったOASIS時代と比べると、残酷な言い方をすれば落差があったはずだ。

 でも、かえって明らかになったと感じるものもあった。それは、リアム・ギャラガーというミュージシャンが、曲や観客の反応に左右されない部分を持つ、やはりすさまじい存在感の持ち主であるということ。

 不安定でもやはり耳を奪われてしまう声。ふてぶてしく、余裕満々でありながら全力でもあるという不思議な雰囲気。40代も半ばに入ったオッサンなのに、ステージ上の一挙手一投足から、子供を見るような気持ちで目が離せない。

 もちろん以前に比べて年は食った。変わらないけど変わり続けるリアム。そんなリアムの現在地を知ろうとすると、どうしても過去の思い出と未来の観測が混じってしまって(例えばOASIS再結成とか…)よくわからなくなる。でも、稀代のロックスターってそういうものかもしれないな。100点満点とは言わないけど、観てよかったと思うステージでした。

 

 長くなったので続きは後編で。後編はKasabianです。

sanjou.hatenablog.jp

異次元でした。

『ジョン・ウィック2』の感想と『サマーウォーズ』と物語の作り方について

はじめに

 『ジョン・ウィック2』を観る人間はだいたい2種類に大別される。ジョン・ウィックが劇中で最初に銃を撃ったとき、「お前銃撃つのかよ!」とツッコむ人間とツッコまない人間である。

 

 と言っても観ていない人にはなんのこっちゃわからないと思うので説明する。

 

 『ジョン・ウィック』の世界ではアウトローとしてランクが低い人間は銃を持つことができない。また、敵であっても意外とみんないいやつが多いので、例えば冒頭でマフィアのアジトに車で乗り込んできたジョン・ウィックが車がオシャカになったので降りてきたとき、誰もジョン・ウィックを遠距離から銃でハジいたり自分の車で轢き殺そうとはせず、一人ずつジョン・ウィックに素手で襲いかかっていく。

 それに対するジョン、打撃と組み技、投げ技を駆使して相手を次々に返り討ちにする。「なんでこいつらお互いに銃使わないんだろ?」という最初の疑問が解決されないまま延々とステゴロが続くので、お、そうか、つまりそういう肉弾的な方向でやっていくんですね、と思ったあたりでジョンが普通かつ唐突に銃を撃つ。なのでツッコむ。「お前銃撃つのかよ!」

 

あらためて『ジョン・ウィック2』の感想と『サマーウォーズ』との対比について

 ここまででおそらくわかるとおり、この映画に対する好意的な感想は俺にはない。ちなみに上でアウトローとしてランクが低いと銃が持てないとかなんとか書いたが嘘である。

 この映画には一つの約束がある。それは、この映画における敵役は単にジョンにスタイリッシュに殺されるための小道具であり、基本的にバカであるということである。

 俺はそれがなかなか理解できず、また、それが理解できるまでに「なんで○○しないの?」というのをずいぶん繰り返した。だいぶ時間と体力がかかった。

 フォローすると、逆にこの約束を把握してからはそれなりに楽しめて、チートで攻撃力と防御力をMAXにしたシューティングゲームのキャラのようなジョンが周囲全員敵と化した街の中で無双していくのは確かに爽快だった。

 ただ、かなしいかなジョンの攻撃のパターンはゲームのプレイヤーでいうと中の下くらいの感じで、そんなにバリエーションが無いので、チートしてなかったらお前わりとすぐ死んでるよな、とかも思った。暗がり行くのに暗視ゴーグルも持ってねえし、そりゃゴーグルかけたらキアヌの男前ぶりは映えなくなるけど、そんなにカッコつけるのが大事か?

 

 細かいこと言うなよ、それは言うだけ野暮なんだよ、という人がたぶんいて、うるせえな細かくねえよ、と言いかけて、俺にはある別の映画にまつわる思い出がよみがえる。

 『サマーウォーズ』である。

 

 『サマーウォーズ』も色々と批判のある映画で、そのうちの一つにご都合主義というものがあって、例えばラスボスとの戦いで味方の一人が相手の鉄壁の防御をわりとあっさり無効化してくれるんだけど、それが「いや、お前何を好き勝手反則技使ってんだよ」という。

 かくいう俺はどうか。…俺は実は『サマーウォーズ』が好きで、なのでそういう批判をする人にたぶん言ってしまうだろう、この言葉を。「細かいこと言うなよ、それは言うだけ野暮なんだよ」。

 ありゃ…?

 

物語における約束ごとについて

 そういうわけで、物語における言うだけ野暮について、俺は『ジョン・ウィック2』と『サマーウォーズ』という二つの映画でできた鏡を境に、自分自身と対立することになってしまった。困った。

 これはどういうことなんだろうか、と考えて、おそらくポイントは、「この物語はなんであるか(何を楽しむものか)」という創作としてのメッセージと、「この物語においてはこういうことが起きる(もしくは起きない)」という約束事という、二つの要素にあると思う。

 例えば『ジョン・ウィック2』において、俺は「この映画はジョン・ウィックがひたすら近接格闘でスタイリッシュに敵を倒していくのが最優先の映画」というメッセージを序盤で受け取ることに失敗した。そして、それを受信するより先に「敵がジョンを倒すために効率という概念を持つことはありません。敵は単にジョンのにぎやかしです」という約束を押し付けられたのでムカついた。

 一方、『サマーウォーズ』では俺は「これは美麗かつ迫力のアニメーションを使ったボーイとガールのひと夏の甘酸っぱいやつで曲を効果的に使ってドーンでスカッとする映画」というメッセージを早々に理解しており、最後のスカッはもう決められていたようなものなので、そこに至る過程は、ある意味なんだろうと正直どうでもよかった。

 要約すると、「この映画は○○です」というメッセージが観客に伝わる前に約束事を押し付けるのは避けるべきで、これが許容値を超えるとその劇は破綻してしまう。逆に初期にメッセージさえ伝わってしまえば、あとはわりと無茶な約束でも容認される、ということである。

 

おわりに。しかし、そもそもメッセージが伝わるとはどういうことなのか?

 要約すると、とか上で気楽にのたまった。だが、よく考えるとここには二つの大きな問題が潜んでいる。

 一つ目。メッセージが伝わるかどうかが作品の成否に大きく関与するとして、果たして作成者はそのことをどこまで気にするべきなのだろうか?

 それが作品の出来を左右するんなら最優先事項じゃん、ってなもんだ。でも、おそらくそう簡単ではない。

 例えばこのメッセージを伝えることに気をとられる、それこそ観客全員に平等に理解させることに作品の持ち時間を過剰に割きすぎるのは本末転倒だ。だいたい観ている奴にも作品と波長の合う奴合わない奴、頭の回転が速い奴遅い奴がいるのだ。

 そうなると、波長が合いにくい、もしくは単に頭の回転が鈍い奴は放っておいて、ターゲットを「メッセージの理解が早い奴」に絞り、結果として多くの人に高い満足を与える、という判断は成立する。早々に作品の骨子を理解できる奴にとっては、作品はちゃんとメッセージ→約束事の追加という順番を踏んでいるので、何の問題もない。たとえグズの少数派が辺境で不平を言うことになったとしても。

 それこそ『ジョン・ウィック2』に同じことが言えて、世の中的にはこの映画の評価は割と高く、俺は冒頭で偉そうに能書きたれたけど、要は大多数が早々にメッセージを受理するのに成功したのに対し、それに失敗した、能力がなかったのである。そんなやつは無視することにしていたのかハナから存在を想定されていなかったのか、ともかく作品としての『ジョン・ウィック2』は成功していたとも言える。

 

 二つ目。俺は物語としてのメッセージが伝わる前に約束事を増やすな、と書いたが、これは意外と難しいのではないか、とも思う。

 『ジョン・ウィック2』の例で考えてみる。この映画のメッセージは「これはジョンが近接格闘中心に無双する映画です」、約束事は「敵はジョンを攻撃するうえで効率という概念のないデクであり、ジョンを目立たせるためだけに存在します」である。

 俺は後者の方が先に来たのでムカついたわけだけど、こういう事態が発生するにはある種のいたしかたなさがある。

 なぜか。それは、敵がまったく頭を使わないこと(約束事)が、俺にこの映画はジョンの近接格闘を見せるのが目的の映画なんだな、ということ(メッセージ)を理解させてくれたからである。

 つまり、順番としてはメッセージが先にあるべきなのだが、皮肉にも約束事がメッセージを明確化するのにとても優秀な役割を果たす…というか表裏と言える関係にあるので、順番が転倒してしまう、ということである。

 創作物を紹介する広告には、ある意味この転倒が起きさせない役割があるのだろう。約束事は秘めつつ、メッセージだけを先に伝え、作品と観客とが不幸な出会い方をしないようにするという。

 また、前作の流れを受けて、というのもメッセージと約束事の関係をふまえたひとつの作品の作り方だと思う。『ジョン・ウィック1』を観た人は2に対しきっと俺のようなツッコみをしないし、最初からまったく別の見方をしているはずだ。

 そういう作品外部の助けを借りず、創作物が何を訴え、何を気にするべきで何を無視するべきかは単体で完結しているべきじゃないですか、そういう美学がないですか…と俺は思うんだけど、それはけっこうイバラの道なのかもしれない。

 そういうわけで、作品そのものについては好みじゃないですが、色々考える機会になった『ジョン・ウィック2』でした。俺はおとなしく『サマーウォーズ』観てきゃっきゃします。以上。

 

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