乙でした。『へうげもの』最終巻、25巻の感想について

はじめに

 第1話で、松永久秀という武将が平蜘蛛という家宝の平たい釜を抱えて自爆して、城ごと釜が爆散。主人公・古田織部は飛散した破片を鎧を着たままダッシュで追いかけて空中キャッチしていた。
 なんだこれは…すげえと思うしかなかった。
 その後、信長が自分の血で茶を淹れたりとか、千利休が最期の瞬間まで茶の鬼だったりとか、秀吉が狂った王様になって悲しくて恐ろしくって愛おしかったりした。
 あと、明智光秀石田三成。それまで俺は光秀は単なる裏切り者で、三成は関ヶ原で負けただけの人だと思っていた。
 本当はこんな魅力的な人たちだったのか…。いや、実際はどうか知らないが、漫画のキャラクターとしてこうも目が離せなくなる人物が次々出てくるのはなんなんだ。
 すごくあり続けた『へうげもの』が終わりました。お疲れ様でした。
 

最終巻の感想について。

 大阪の陣で豊臣が崩壊し、清廉を大正義とする徳川一強の世になる。そこにいくらかの侘びと楽を残そうとする織部と、清き世を固めるべく織部に腹を切らせようとする家康の因縁がこの巻で決着する。
 いろんな人物が出てくるが、織部憎しの執念の鬼となった家康を説得するべく、三浦按針や息子である秀忠、家康の密かな想い人であるねねが登場するくだりがすごくいい。
 結局、親子の関係でも恋情でも家康を翻意させることはできない。織部と家康の対立は、かの有名な風神雷神図屏風にもなぞらえて、最高潮に緊張したところで織部の切腹を迎える。
 
 二人の決着は、これはすごい答えの出し方だと思った。
 笑ったら負け、という秀吉の名言どおり、まずは主人公である織部が一本取っているけど、その勝利のきっかけになるところに、ライバルであり一本取られた側である家康の影響をからめてくるのがすごかった。
 織部の洒脱と家康の無粋と、互いに互いを超えようとし続けてのあのラストなのか?  と深読みしたくなる。
 
 芸術家である織部と為政者である家康が最後に戦わせる問答もすごかった。
 家康は、人間とは単に知恵のついた猿であるという。
 好きにさせればいつまた戦乱の世のように互いに傷つけあうかわからないから、清い理念のもとで厳格かつ一元的に管理するしかないという。
 ちなみに、知恵がついた猿云々というのは元々は秀吉の発言で、自分より先に王になった男に、家康が密かに影響されているのがわかる。
 家康は他にも光秀も多大にリスペしているのだが、一方の織部も、秀吉、信長、利休の多大な影響のもとに、当世最大の反逆者としてのいまの自分をつくっている。
 二人が、ひとつのオリジナルな個人であると同時に、偉大な先人たちのハイブリッドとしてもここに立っていることがわかるのが、この漫画のすげえとこであると思う。
 で、家康の主張に対して、織部は猿のように好き勝手生きられる自由さからは世の中を面白くするもの、楽しく生きていけるようにするものも生まれるだろう、面白さを欠いた世の中に生きる理由などあるのか、という。
 ここには、「安全に」生きることと「自由に」生きることの両立の難しさがあると思う。
 一方が勝ちすぎた世界はきっとどこかで破綻するので、バランスを取らないといけない。
 悲劇なのは、双方を代表する立場である家康、織部たち自身は、軽々に相手サイドに理解を示すことができないということである。相手の主張もわかる、と気軽に言ってしまうと、自分たちサイド全体の覇気、パワーが落ちるから。
 そういう、一つの立場の急先鋒に立ってしまった者の運命はどうしても苦しいものになると思うけど、それで言ったらあのラストは救いがあった。よかった。
 あと、もちろん『へうげもの』はフィクションなのだが、日本史に実際に、質実と享楽にそれぞれ殉じてきた人たちがいたからこそ、いまの日本は間違いなく安全で、かつそれなりに楽しい国でいられているのかな? とも思ったりする(ここは異論があるかもしれないけど…)。
 

おわりに

 ちなみにネタバレをすると、最終回には織部が出てこない。しかし、存在がすこんと抜けているために、かえって世の中に及ぼしたその影響がしのべる気がする。
 
 そういうわけで、最終巻、とてもよろしかったです。これまで単行本はすべて単一色のカラーリングだったのが、はじめて緑と白の二つの色が使われています。大変よい調和かと思います。あらためて、長期連載、本当にお疲れさまでした。
 完結記念に、個人的な名場面集の記事とか書こうかな?

夢について

  自殺した有名なミュージシャンが作ったある曲がリバイバルされて、最近いたるところでかかっている。

  曲はCMや映画のタイアップに使われたり、今のアーティストにカバーされたりして、耳にしない日がない。

  俺は死んだミュージシャンのこともその曲のことも好きだったので最初はなにか嬉しい気持ちだったが、度を越していつまでも聴かされ続けるので、段々いらいらしてきていた。

  曲はずっと止まずに誰かによって歌われ続けた。それで、もう俺は、しばらく耳聴こえなくていいかなあ、と誰かに言われたのか、それとも自分で思いついたのか、とにかくそれもそうだなあ、と思い、気づいたら細長い紐にとげが生えたような器具を自分の耳に入れていた。

  くるくるやっているうちに鼓膜が破れたようで辺りから音がすうっと抜けていくのがわかったが、どうも耳のさらに奥にある三半規管まで傷つけてしまったらしい。方向感覚を失って倒れ、その場でもがいている間に視界が歪んで、やがてぐにゅうと床に引き込まれるような感覚があった。

  箱や荷物が狭いところにたくさん置かれて山のようになった、倉庫のようなところで目を覚ました。荷物の山の真ん中にはぽっかりとスペースが空いていて、そこに俺ともう一人、あの自殺したミュージシャンが、木箱の上に座って俺のことを見ていた。

  よう、と彼が言った。

  あなたはもう死んでるはずですよね、と俺は聞いた。

  そうだよ。死んでるよ。と彼は答えた。  「でもそんな細かいことどうだっていいだろ?」

  ここはどこですか?と俺は続けて尋ねたが、ミュージシャンは笑ったまま何も答えなかった。

  彼は、やがて手にしたギターで一つの曲を演奏した。それはこれまでに一度も聴いたことのない曲だった。なかなか良いと思ったが、不思議なのは、曲が終わって、その余韻の中でそれがどんなメロディだったか思い返そうとしても、何も思い出せないことだった。

  「新しい曲を作っても、ここでは誰も覚えていられないんだぜ」

  ミュージシャンはそう言った。「録音することもできない。もちろん、それを売り物にすることも」

  だから、俺もここでなら音楽を嫌いにならずにすむんだ。彼はそう続けて、また新しい曲を、おそらくいまはじめて生まれた曲を演奏した。

  それは、とても良い曲だったはずだ。なので、いまそのメロディを覚えていないことをとても残念に思っている。

『池の水ぜんぶ抜く』第5弾の感想と、炎天の下、稲穂の海を行けるところまで行くことについて

はじめに
  高校生の夏休みに、帰省先の山梨で、突き抜けたような青空の下をひたすらチャリンコで行けるところまで行ったことがある。
  そういうイベントは小学生の頃か、せいぜい中学生までにすませておくべきだと思うけども、ともかくそういうことがあったのである。
  俺が走っているのは青々とした稲穂の揺れる田んぼの中をまっすぐに貫いている一本の道だった。道路のコンクリートは太陽に照らされて真っ白に灼けていて、ときおり田んぼに向かうための細い道を脇に左右に生やしつつ、ひたすらどこまでも遠く道が伸びているのは、まるで途方もなく巨大な獣が死んで残した背骨のようだった。
  俺がなんでそんなことをしようと思いついたのかというと、あまりはっきりと言葉にならない。ただ、そうしたらどうなるだろうと思ったから、としか言えない。


池の水ぜんぶ抜く』第5弾の感想について。「この水が全部抜けたらどうなるんだろうな」
  俺がこの番組に強い関心を持ったのは、番組が作られる前に、番組のプロデューサーが抱いた疑問にとても共感したのがきっかけだった。
  wikipediaによると、プロデューサーはあるとき警察が事件の捜査のために池の水を抜いて水位を下げているというニュースを見たときにこう思ったという。

 

  「この水がぜんぶ抜けたらどうなるんだろうな」


  確かに、と俺は強烈に思った。どうなるんだろう?
  そもそもなんのために抜くのか、とは考えなかった。警察が水を抜くのは捜査のためだが、バラエティ番組はなんのために水を抜くのか…。

  でも、俺にはそこまで意識が回らなかった。俺はただ漠然と、しかし強烈に、池の水がぜんぶ抜けたらどうなるんだろう、という疑問に共感し、興味がわいたのである。

  興味がわいたところ、26日に番組の第5弾をやるらしい。渡りに船である。観るしかねえ、ということで26日を待った。

 

感想① ぜんぶ抜くというならぜんぶ抜いて欲しい。

  以下は感想である。感想であり、基本的に悪口であり、勝手な妄言である。だから、番組のファンの方は読まないで欲しい。もしくは読んでも許して水に流して欲しい。水だけに。

 

  俺は過去の回を観ていないのでこの回に限って批判するのだけど、まず、「ぜんぶ抜く」と番組タイトルで言うのであれば、ちゃんとぜんぶ抜いて欲しい。

  今回は合計四つの池に挑んでいたが、ちゃんとぜんぶ抜いたのは俺の好きなココリコ田中が挑んだやつだけだったと思う。これでは俺が抱いた「ぜんぶ抜けたらどうなるんだろうな?」という気持ちは全然満足していない。

  ぜんぶ抜かなかった3回中、トラブルで抜けなかったのが2回あったけど、予想外とはいえ日程(+予算?)を追加したら最後まで抜けたんじゃなかろうか?  もちろん、簡単に延長やリテイクできるものでもないんだろうが。

  個人的にもっと罪深かったのは、トラブルではなく池の環境を急に変えないために段階的にやる、という理由でぜんぶ抜ききらなかった1回で、それは単に抜ききるまで追いかけて放送時間なんかは編集で詰めたらいいんじゃないの?と思う。

  自治体との調整、もしかしたら水道関係や道路交通関係なんかにも協力してもらってるのかもしれないから、長く徹底的にやってよ、つって気楽に言うなや、色々大変なんじゃという話かもしれないが、俺はぜんぶ抜けたところが観てえんだよ!と思った。勝手だけど。

 

感想② 外来種を駆除するのはいいが、別に外来種を駆除するのが観たかったわけではない。

  ここからはもっと勝手な願望の話をする。

  番組名自体、「駆除」とか「全滅」とかサブタイトルがついてるので、しょうがないんですけども、池の水を抜いていくと、まあこれでもかというぐらい、人為的に持ち込まれたり遺棄された生物、いわゆる外来種が出てきて、日本の本来の生態系を壊す、ということで番組はこれらを駆除していく。

  ただ、俺は駆除とかどうでもいいんだよな。池の水をぜんぶ抜いたらどうなるかが単に知りたいだけで、もっとなんか普段見られない池の底の泥とか水が干上がって魚が跳ねてるところとか、(水を抜いたら)もうこんなになってるじゃないか…というか、「おお、抜いたなあ…」感のあるものが見てえんだよな。駆除は抜いた結果外来種が出たからやりました、ぐらいのノリでいいんだよな。

  もちろん勝手な意見である。でも、その勝手を重ねて想像させてもらえば、番組のきっかけになったのも、別に駆除とかでなくて、もっとシンプルな単なる疑問だったんじゃなかろうか、というのも思うところなんであるな。

 

初期衝動を商品にするのは難しいという話と、結局正月も池の水をぜんぶ抜くのを観るだろうという話。

  冒頭で俺が夏休みにチャリンコで田野を走った話をして、このときの俺は別に田んぼの向こうに何があるんだろうとか何が建ってるんだろうとか特に考えていなくて、単に真夏の空の下で田んぼを行けるとこまで行ったらどうなるんかな、としか思ってなかったし、なんならそれよりもっと漠然と、「とりあえずやりてえ」としか思っていなかった。

  『池の水ぜんぶ抜く』にもそういう特に見通しのない欲求を前面に出したところを期待していて、実際、本来はそういうのが出発地点にあったんじゃないの?と思う。

  でもそんなものはきっと作品にはならないだろう。それは、そういう衝動を映像化する必要性を人に説明するのが難しいし、制作費もたぶん出ないから。

  例えば、もし会議で番組のコンセプトを説明したり上司を説得するとき、「いや、単に俺は水をぜんぶ抜きたいだけなんです」と言っても、きっと頭のおかしい奴扱いされるだけだと思う。

  「うん、抜いてどうするの?」「いや、その先は考えてません」「ふーん。…えっ!?  考えてないの?」となるだろう。

  そこはやっぱり、「抜いて外来種を駆除するんですよ!」なり、「埋まっていたけど除去できなかったゴミを見つけるんですよ!  もしかするとお宝が出るかもしれませんよ!」なり、そういう見通し、筋書きが必要になるのだと思う。

 

  さんざん悪口言ったけど、俺はたぶん正月の特番を観ると思う。なぜなら、やっぱり池の水をぜんぶ抜いたらどうなるかが観たいから。

  抜いて、「ふーん、こうなってたのか」つってそのまま何食わぬ顔で水を戻す。それが俺の理想。

  もちろん、ありえないだろう。ただ一方で、その単なる「やってみてえ」という衝動のところ、それを素材のまま出してきたって観るやつは観るぜ、と思う。

  衝動ってやつは個人的なものでありつつ、なんだかんだみんなに共通してあるもんだと信じていて、だから誰しも(もしくは少なくとも男子は)、夏のある日にどうしようもなくかつ意味もなく、チャリンコで炎天下を行けるところまで行こうとしたりするんじゃないのか?  そうだろう?  と思ったので、ここに記しておく。 

貴志祐介作『ダークゾーン』の感想と、デスゲームを面白く描くことの難しさについて

はじめに。『ダークゾーン』の感想。

 なかなか良かったのではないでしょうか。

 と言っても、前半が最高に面白くて、途中相当中だるみして、最後盛り返す、というアップダウンがあったので、「平均すると」なかなか良かった、という感想が正確なところです。

 

 物語は軍艦島をモデルにした正体不明の世界を舞台に繰り広げられる、元々は人間だった者たちが特殊能力を持つ怪物となって殺し合いをする将棋とチェスをベースにしたゲームを描くもの。

 

 先に悪かった点を言うと、将棋の七番勝負を土台に同じルールのゲームが七回繰り返されるので、どうしても各勝負の展開がワンパターンになりがちで退屈する、というところ。

 主人公が勝負のセオリーをつかんできた四戦目、五戦目あたりにこれが顕著で、かつ、両軍探り合いの序盤から、敵の奇策で主人公たちが慌てふためく、という流れまで毎回一緒なので(もちろん、どう混乱させられるか、という内容はそのつど違うけど)、「このくだり何回やんだよ」、と思う。

 一方、「駒」が昇格するなど将棋のルールをベースとしつつ、オリジナル要素も取り入れたゲーム自体の面白さもあって、まだ話の正体が見えない前半は素晴らしく面白かった。また、このオリジナル要素が全面的に解放され、いったん理解したこのゲームのルールがまったく別の様相を見せる終盤も良かった。

 この小説、ゲームを通じた戦争の部分と並行して、まだ主人公が人間だった頃の話が挿入され、なぜゲームが始まったのか、この世界の正体はなんなのかがわかる構造になっており、ゲームの方がマンネリ化してもこちらの方の流れが終盤盛り上がって来て、これに引っ張られてぐんぐん読み進めてしまう、というのも、いまいちだった中盤が終わってから盛り返せた大きな要因だと思う。

 元ネタが将棋なのでしかたないかもしれないけど、たぶん勝負が七回は長すぎたのだと思う。この中盤の中だるみが個人的にはものすごく大きく感じられる。一方で、前半と後半は素晴らしいという、そんな作品だった。

 

デスゲームを面白く描くことの難しさについて。ゲームのルールなんかは「それなりにもつ燃料」に過ぎない。

 ところで、そもそもデスゲームとはなんであるか。

 wikipedia先生いわく、「登場人物が死を伴う危険な娯楽に巻き込まれる様相を描くようなフィクション作品、およびそのようなフィクションの劇中で描かれる、参加者の生死をチップにした架空の娯楽である。」とある。

 漫画、小説、映画と世の中にひしめくこのジャンルについて思うことがあるのだけど、それは、「消費者を興奮させつつ作品に付き合わせる上で、それがどういうルールのどんなゲームであるかは、あくまでそれなりに持つ燃料に過ぎない」ということである。

 たとえばすごく奥深いゲームを作り、消費者を飽きさせないために、ゲームを理解することにより見えてくる戦法やいわゆる裏ルールのようなものを持ちこむとする。それでも、失敗すると何が起こるか、どうすれば勝てるか、などのいわゆるゲーム性によって消費者を楽しませられる時間やページ数には限りがある。

 そして、ゲームに敗れれば人間があっけなく死ぬというきわめて刺激的なことにすら、おそろしいかな、消費者はすぐに慣れてしまう。

 そういう興奮と飽きるのの関係って、デスゲームものに限らずほとんどのフィクションにも適用できることじゃん、という指摘はごもっともで、ただ、この燃料が切れたときの減速が特に明らかなのがこのジャンルだと思っている。『ダークゾーン』の例で言えばたぶん五番勝負ぐらいがゲーム性で楽しませられたベストの長さだったんでないかな、と思うし、この「燃料」が切れた中盤は読み進めるのがそれだけ難しかった気がする。

 

ゲームを通して何を描くかが結局は大切なんだろう、ということ

 デスゲームもので俺が一番好きな作品に漫画の『今際の国のアリス』がある。

 この作品は生死を賭けた多くのゲームが出てくるので、上で書いたゲームのルール自体がもたらす「燃料」が切れる前に、読み手は興奮しっぱなしで完走してしまうのだけど、なにより素晴らしいのは、ゲーム自体が仮にもう読み手を楽しませてくれなくなっても、その向こうで展開する物語自体がものすごく読ませるところである。

 『カイジ』にも似て(作者の福本伸行もこの漫画を褒めてる)、『今際の国のアリス』は殺伐とした殺し合いがどこまでも続くのに、人情や信頼というウエットな感情が最後まで大きな存在感を持ち続ける。

 裏切りも落胆ももちろん描かれるし、冷徹な論理の力が決定打になることもあるけど、ロジックの裏で勝利を支えているのは、必ずと言っていいぐらい、誰かを信じる、誰かに託す、というある意味甘っちょろい感情で、でも俺はそこが良いと思う。

 ゲーム自体の面白さが効力を失ったとき、その先に読者を引っ張っていけるのは結局その後に何が起きるかであって、それはつまり、ゲームを通して作者が何を描きたかったかが存在するか、ということでもあって、そんなのまあ当たり前のような結論だけども、一定以上の長さを持つデスゲームが面白く描かれうる正解は、そこにしかたぶんないのだと思う。

 

おわりに。再び『ダークゾーン』について。

 難しいのは、ゲームそのものがちゃんと面白くないと「燃料」をもらっていない消費者は走りだせない、ということで、その点『ダークゾーン』はちゃんとゲームは面白い。

 特に終盤の描写は圧巻で、「駒」という概念を持つ将棋・チェスベースのゲームを題材にしたたくさんの作品がたぶんやりたかったこと、今後やりたがりそうなことを、素晴らしいかたちで表現している。

 ってことで、色々言ったけど面白い。それでいてまあ上のようなことも勝手ながら考えてここに書いておくので、以上、よろしくお願いいたします。

 

まずは上巻からどうぞ。

ダークゾーン(上) (祥伝社文庫)

ダークゾーン(上) (祥伝社文庫)

 

 

俺の中のデスゲームナンバー1。

 

欲望、決壊前夜。『ゴールデンゴールド』3巻までの感想について

はじめに

  「登場人物が全員全力で頑張ってるモノ」というジャンルがある。それは俺の中で。

  意味はそのままで、出てくるキャラクターが敵も味方も、強いやつも弱いやつも、全員現況の打開のために知恵を絞って全力で頑張っていて、その苦闘が伝わってくる作品を指す。

 

  実は、自分で言いだしておきながら、「ジャンル」という言い方はあまり的確ではない気もしている。

  なぜか。それは、この区分に分類できる作品があまりに少ないから。

  んなアホな、と読んでいる方は思うだろうし、自分でも思う。

  たいていの創作物に出てくるキャラクターたちはみんな頑張っているのに。特にバトル漫画なんかで敵味方が複数ヶ所で乱戦状態になるのはよくあることで、そういう作品はたくさんあるのに。

  にもかかわらず、敵も味方も、みんながみんな複数ヶ所で同時に頭をフル回転させていることで生まれる緊張と波乱を、そのまま読み手に伝えられる人間は、たぶんとても少ない。

  戦局が一つ一つただ消化されていくのではなく、互いに作用しあって思いもよらない事態になったり、本来のパワーバランスでは弱者である存在が意外なキーとなったりするような複雑な状況を、わかりやすく整理しつつ、先が読めない混沌としても表現できる作家は、それだけ、おそろしく少ないのだと思う。

  そういうことができる作家を「上手い」と呼ぶのか「頭が良い」と呼ぶのか…、まあ簡単に言うなら、「天才」と表現するべきなんだろうと思う。

 

あらためて、堀尾省太作・『ゴールデンゴールド』について

  瀬戸内海の離島で暮らす中学生・瑠花は、ある日海岸で人形のような干物のような、人型のおかしなものを拾う。

  瑠花はそれをなぜか「福の神」だと直観し、このおかしなものに「島にアニメイトを建ててくれ」と願をかけたところ、そのおかしなものが息を吹き返したように動きだし、そればかりかまるで瑠花に福を呼び込むようにして、民宿兼商店を営む家には客が次々と押し寄せるようになる。

  店は事業を拡大していくが、店主である祖母の様子はまるで福の神に憑かれたように変貌していき、島内の経済状況を一変させてしまったことによる混乱はついに傷害事件に発展する。

  果たして「福の神」は善か悪か。江戸時代に姿を現したこともあるらしいが、なぜか力を失った。目的はなんなのか。そもそも何者であって、再び封じる方法はあるのか。

  たまたま島に取材旅行に来ていた女性作家、傷害事件の捜査を通して「福の神」の存在に肉薄しつつある刑事などもからんで、新たに明らかになる事実はありつつも、混沌がひたすら拡大していく。

 

  『ゴールデンゴールド』を何かのジャンルに分類するのは難しい。

  例えば、「福の神」という謎の生命体の正体に迫るという意味では和風SFっぽい。過去に出現したときの記録を追うところなんか歴史物っぽいし、福の神を事件の犯人とすると、それに刑事が迫るという図式はミステリっぽい。

  急に混乱した島内経済にいろんな人がばたばたする様子など、群像劇の要素もある。どうもなかなかまとめられない。

  なので、話は冒頭に戻る。

 これは、中学生、作家、編集者、商店店主、史学者、地元スーパー経営者、半グレ、刑事などが福の神を中心に苦闘する、「登場人物が全員全力で頑張ってるモノ」である。俺がいまそう決めた。

  ちなみに、この作品以外で「登場人物が全員全力で頑張ってるモノ」は三作しかない。一つは同じ作者による『刻刻』、あとは『HUNTER×HUNTER』のキメラアント編、それから中島らもの『ガダラの豚』だけである。

  『HUNTER×HUNTER』という超有名作品が出てくるあたりなんか俺の馬脚を現した感があるが、気にしない。むしろ、こういう結論につなげたい。つまり、蟻編に匹敵するぐらい『ゴールデンゴールド』はすげえし、『刻刻』に続いてこれを描いている堀尾省太は間違いなく天才だということである。

 

  『ゴールデンゴールド』を読んでいてすげえな、と他にも思うことがある。

  それは、人と金をひたすら引き寄せる存在である福の神が、いまのように離島の商店でひっそり活動している段階を超えて、政府や警察など公的権力によって意図的に悪用されたらそれはやべえということを、物語早々に、しかもなんてことない会話の中でぽんと言及してしまうところである。

 

  俺が作者だったらこれは絶対やらない。できない。

  理由は二つある。

  まず、福の神の力は確かに国家レベルの問題に発展する可能性を秘めているが、そういう規格外にすさまじいものとして取り扱う必要を示してしまうと、登場人物たちに色々考えさせないといけなくて面倒くさいのがある。

  なんとなくすごいもの、というぐらいならまだ気楽だが、世界の命運を左右しうる、となると当然キャラクターたちはあらゆることを考える。というか、考えないと不自然なので読み手が冷める。

  これは、キャラクターの思考を通して作者自身の想像力、頭の良さが作中にモロにあからさまになるということでもあって、かなりおそろしい。福の神はなんとなくすごいもの、ぐらいの扱いでしばらくだらだら話を続けた方が、明らかに楽なはずである。

  絶対やらないもう一つ理由は、「福の神にはこういう利用のされ方もありえますよ」と早々と宣言することで、作品の展開にシバリがかかってしまうからである。

  もし、福の神の国家的活用について一切触れられないまま『ゴールデンゴールド』の連載が何年も続いて、終盤ようやくそういう展開になったとしたら、読者には「ほう、こう来るか」という驚きがある。麻雀風に言えば、「ビックリさせた」という役が一つ作品の評価に乗ることになる。

  でも実際にはこの作品はもうその可能性に言及してしまったので、いつかそういう展開に仮になったとしても、それだけでは驚かされない。読み手を驚かせるためにさらに何かを演出してくるか、もしくは、単に話を世界規模にする以外のとんでもない方法をエンディングにもってくるしかない。

  そんな理由で『ゴールデンゴールド』をすごいと思う。意図的にやってるなら覚悟があるし、天然でやってるなら怖いもの知らずだけど、なんとなく堀尾省太が自分自身で作品に異様に高いハードルを課していること、そして、それを毎回越えていることはわかるので、すごいと思う。

  

  3巻の最後で、twitterリツイートというとても現代的な方法で、福の神の存在は離島の外にも知られることになる。超自然的かつ正体不明の存在に、情報を爆発的に拡大するツールが掛け合わされたとき、何が起きるのか、何が無事ですまなくなってしまうのか、怖くて楽しみでしかたない。

 

  長々書きましたが、ちなみに3巻の感想で一番強く思ったのは「少女時代のばあちゃん超かわいくね?」ということなので、以上、よろしくお願いいたします。

 

 

 

  

  

セカイ系よ、30年後のディストピアで凱歌をあげろ。『ブレードランナー2049』の感想について(後編)

はじめに

 ハリソンが溺れる話をしていたら長くなりすぎた。ここから後編。

 

セカイ系のひとつの勝利としての『ブレードランナー2049』について

 なんか怒られそうなことから書き始めるんだけど、俺は『ブレードランナー2049』ってセカイ系作品の一種だと思う。

 この場合のセカイ系の定義は、「いち個人の行動や判断が、政治や経済というファクターよりも大きな影響力を持って、そのまま世界全体の命運に直結する作品」です。

 『2049』の中盤でライアン・ゴズリング演じる主人公がレプリカントから生まれた存在かも、と示唆される。

 レプリカントは子供を持つことができず人間に完全に支配された存在であるというのがこの世界の骨子であり前提なので、ゴズリングの存在は世界を根底から破壊する可能性を秘めており、彼の行動が世界の構造にそのまま作用しうる、という点でグッとセカイ系感が増してきます。

 で、俺の勝手なイメージですが、セカイ系って用語はたいがいその後に(笑)がついてバカにされがちというか、自意識過剰な若者の幼い世界観、として捉えられていると思う。

 その意見もまあ的を射ていて、一人の人間の判断が世界を大きく変えてしまうなんていうのは、実際の世の中が抱えている(とされる)複雑さを無視しないと成り立たないはずではある。
 じゃあ、セカイ系なのにちゃんと「現実」をとらえたものとして成立していて、批判する人たちを黙らせるようなつくりにするにはどうしたらいいか。

 これはたぶんひとつしか方法がなくて、それは、複雑であるはずの世界とその枠組みが実はまったく単純できわめてショボいということを明らかにし、こんなもの個人の選択であっさり変わったりぶっ壊れたりして当然でむしろどこがおかしいのか、ということを示すしかないのだと思います。
 『2049』は意図したかしなかったか(たぶんしてねえな)この方法に成功していて、人間がレプリカントを支配することで成立しているこの世界が、この支配関係の一点だけにあまりに頼りきった、どれだけ危うく、かつ複雑さとは程遠い世界であるかを作中を通して描いてきた。だから、一人の個人に過ぎないはずなのに出自だけは特別なゴズリングが世界を大きく揺るがしうる可能性が、ちゃんとリアルに観客に伝わるんですね。

 そういうわけで、とかく分別ある大人からはバカにされがちなセカイ系について、アメリカ映画という思わぬ方角から凱歌があげられたというか、ありがとうリドリー・スコットとドゥニ・ヴィルヌーブ、俺のような日本のオタクのために一矢報いてくれて、と彼らに抱きつきに行くんですが、向こうからしたらいきなり何を言ってるんだこのジャパニーは、という感じでしょうね。

 

主人公Kことライアン・ゴズリングについて

 前項の内容の続きになるんですけど、『2049』が本当にすごいのは、ゴズリングに一度は与えかけたセカイ系における唯一無二のヒーローという立ち位置を、結局奪い去ってしまうことだと思います。

 ストーリーが進むと、ゴズリングは実は特別な存在でもなんでもなく、彼自身はただの一体のレプリカントに過ぎないことが判明する。レプリカントから生まれた子供は別にいて、ゴズリングは世界の命運を巡る大きな物語の中心からは脱落してしまう。

 ここはすごくショックだった。ゴズリング自身がショックを受けるのは当然として、俺もショックだった。

 例えば廃墟に隠遁していたハリソンのところにゴズリングが訪ねていったとき、俺はその場面を「ハリソンは途中から薄々、目の前にいる男が自分の息子なのではないかということに気づいている」ものとして観ているわけですね。「ハリソンったらせっかく息子らしき男が訪ねてきたのに強がっちゃってもう」とか思って観ている。

 それが完璧にひっくり返される。ゴズリングもひとり相撲だったけど、観ている俺もひとり相撲だったことがわかる。作品の中と外で状況が共有されて、結果として、ゴズリングにすごく感情移入してしまう。

 その後も、作品としての焦点はゴズリングに当たり続ける。

 ゴズリングはヒーローではなくなったけど、この展開の方が俺には面白かった。誰にも替えがきかない英雄の活躍には感情移入できなくても、自分がそれまで持っていた大きな目的をいきなり失ってしまい、どこの誰でもなくなったまま世の中に放り出されてしまった気持ちは、理解できるから。

 一方、ゴズリングの最後については賛否両論ある。俺の中で。

 自分で新しい目的を見つけてそれに殉じて、降りしきる雪の中でその冷たさと美しさを感じながら死んでいく。素晴らしい。逆に言うと、素晴らし「すぎる」気もする。

 レプリカントが持っている心は、人間と同じく希望や未来を描くことができるのと同時に、人間と同じく迷ったり怠けたりしてしまうものでもあるはずで、そう考えるとあのエンディングはちょっとこころを美しく描きすぎている気もする。生き残って、もっと次の目的を求めてぶらぶらさまよう感じを匂わせて終わりでもよかったんじゃないかなー、とか思いました。

 

で、結局デッカードはレプ

 これはですね、俺には最後までわかりませんでした。

 正確に言うと、ハリソンがウォレス社の社長と会って、ハリソンがレプリカントと恋に落ちたのは彼が操作されていたからではないか、という発言が出たときは、ハリソンはレプリカントだったのだと思いました。

 ただ、後から考えるに別にこれといって決定的な証拠が出たわけではないので、結局よくわからないんですね。

 たぶん答えは『ブレードランナー』というシリーズをどうとらえるかによって変わってくると思う。

 例えば、人もレプリカントも「ジョイ」も、束縛と不自由さを抱えながらそれでも希望を目指すというこころのあり方については同じかたちをしている、というのが作品のメッセージであるなら、ハリソンは人間であり、本来異種であるはずのレプリカントと交わって次の世代をもうける、という方がなんとなくすわりはいいような気がする。

 一方、作品の主眼が人間という存在に対する戒めと警告であり、種族間の下剋上を描いたものととるなら、ハリソンはレプリカントであって、レプリカント同士で子供をつくったのだと見た方がいい気がする。

 ただ、作品のメッセージをどうとらえるにせよ、それはハリソンが何者であろうと成立する気もするし、何者であるかという問い自体を無効にするのが作品の狙いな気もするので、要はわかりません。あえて言うなら、俺はレプリカントだった方が面白いかな、とは思います。

 

おわりに

 そういうわけで、あらためて非常によかったです。俺は知らなかったんですが、どうやら『ブレードランナー』と『2049』の間を補完する作品がいくつかあるらしいので、次はそれを観てみようかな。

 最後に、ハリソンの嫁さんのレイチェルですが、前作のいかがわしい雰囲気の中だとあんまり目立たなかったんですが、今作の中では髪形が完全に浮いていて、「こわいなー、こわいなー、クレイジー・ダイヤモンド使ってきそうだなー」と思いながら観ていました。おしまい。

 

 

なくさなければ何も残らない。『ブレードランナー2049』の感想について(前篇)

はじめに

 100点満点で1,200点あげます。それぐらいよかった。すごかった。
 
 以下、ネタバレ全開で感想を書きます。すでに観た方の意見のすり合わせにつかっていただければ幸いです。
 
 もしまだご覧になってない方がいたら、先に劇場で観てきては、と勧めます。
 これは、俺の中では『2049』が数十本に一本あるかないかぐらいの傑作だったからで、ネタバレで先回りしてしまうよりは、やっぱり観ながら体験したほうがいいよな、と勝手に思うからです。
 その際、もしまだ前作『ブレードランナー』を観ていなければ、先にそちらを観ましょう。1,200点という点数も、続編としての評価というところが大きくて、3時間弱の長い尺をハラハラしどおしで観終えたのは、前作をふまえたセリフや演出こそがよかったからです。
 前作の記憶がないと、最悪この映画は無駄に長い上にやたら陰気で、ときどき人が溺れたりしているだけの作品になる恐れがあります。というか、そんな気はかなりします。
 

束縛された持たざる者たちの映画、『ブレードランナー

 『ブレードランナー』のテーマは、不自由かつ何かを大きく欠いた存在でも希望を持つことができるのか、という問題にあると思う。
 例えば、作中に出てくるレプリカントという人造人間は、身体的には普通の人間とそんなに変わらないけども、創造主である人間の望むとおりの仕事、生き方しか許されない。子供を作る機能もないし、人為的に寿命を設定されて早死にする個体もいる。
 それでも、何かを望んだり感動したりする「こころ」というものは持っていて、単なる人間のための道具ではなくて、じゃあそこにはどんな救いや希望がありうるのか。
 一方、支配者である人間について
 人間はレプリカントを従える立場で、本来彼らよりはるかに自由で幸福なはずなのに、物語を追っていくとそうでもないのがわかる。
 これが『ブレードランナー』のいいところで、むしろ「自由であるはず」という前提がある分だけ、生活のために任務に縛られてレプリカントと殺し合い、望んだはずもない退廃した世界で暮らしているおかしさがはっきりしてくる。
 レプリカント側こそが心という概念のポジティブな面を代表する、という見方もできるでしょうし、人間もレプリカントも楽観的な未来を想像できず、様々な束縛を受けつつも生きていくしかない点で共通しており、互いの差は大きな問題ではない、という見方もできようかと思います。
 
 で、続編の『2049』でもこうした思想は引き継がれている。
 それを表すのが、作中で「ジョイ」と呼ばれる、独り者の恋人用に開発されたプログラム人格である。
 ジョイはプログラムだが感情を持ち、相手を好きだと伝えることはできるが、その姿は基本的にホログラムで表示されており、その体に触れることはできない。後付けの機能でようやく肉体「らしきもの」を与えることができるだけだ。
 つまりジョイは、生殖能力はなくても行為自体はおそらく可能だったレプリカントより、さらに多くのものを始めから奪われている。
 作中で、主人公を演じるライアン・ゴズリング(実はレプリカントであることが前半で判明する)とジョイとのラブシーンがあるんだけど、ジョイは本当の肉体を持たないため、一人の娼婦の助けを借りその体を仲介することで、ようやくゴズリングと関係を持つことができる。
 相手が求めているものを与えるため、自分が欲しいものを受け取るためにそこまでしなくては、ジョイは人間はおろかレプリカントにさえ並ぶことができない。
 でも、綺麗ごとのようだけど、好きな相手のためにそこまでできる愛情の深さにおいては、ジョイは作中の他のすべての生命と同列に立っているとも言える。
 ジョイ自身が言うように彼女のすべては0と1の二進法で設計されていて、意地の悪い考えをすれば彼女の「愛情」が果たして本当に人間やレプリカントと同じかたちをしているのかはわからない。
 でも、ジョイ自身はそれを同じだと思っており、ゴズリングの方もそれを信じるのなら、そこにあるものが愛とは違うと言うこともまた、誰にもできないのだと思う。ジョイが自分のデータを保存している媒体を破壊されたとき、「愛している」という言葉を最後のメッセージに選んで消滅したのを「死んだ」と感じた俺は、作品の術中にまんまとハマっていると言える。
 このように、色んなものをはじめから制限されて、奪われながら、それでも最後に残るものこそが「心」や「命」の本質であるということ、それが確かに存在することを知るためには、それ以外の余計なものをなくしていくことでしかたどり着けないということ、それが『ブレードランナー』が前作から一貫して示してきた方法論なのだと思う。
 なおこの映画、けっこう暴力要素が強いところがあって、人間もレプリカントもみんな、ぶん殴ったりガラス片を思いっきり握らされたり水に溺れさせられたりするんですが、これもすべての生命は同列であるということを、愛情や希望といった面とは別の、苦痛というネガティヴな方向から描こうとしたんでないかな、と思います。
 

SF的小道具とか巨大建築とか

 こういうことを書くととても思想的というか、要はめんどくせえ映画なのかな、という気がしてきますが、SF的なグッズとかハッタリのきいた巨大建築の「画」の力がいい仕事をしていて、純粋に観ていて楽しい作品でもあったと思いました。
 個人的には、レプリカントのデータを格納した棚が延々と並んでいる画が厨二くさくてよかったかな。他には、前作の舞台だった建物が完全に廃墟と化して再登場したときに感じたノスタルジーとか、溺れてるハリソンをバックに夜の海で殴り合ってる場面も緊張感と悲しさがあって美しかった。
 

リック・デッカードことハリソン・フォードについて

 で、そのハリソンについて。
 ハリソン・フォードというと金曜ロードショーハン・ソロインディ・ジョーンズ役で出てくるおっさんという認識なんですが、『2049』のハリソン、すごくよかった。前作のファンからの『2049』に対する意見は様々だと思うけど、それでもハリソンが登場するシーン、デッカードブラスターを構えながら闇の中から姿を現す、という演出は、誰の目から見ても満点なんじゃないでしょうか。
 ハリソンは前作と同じくあんまり強くなくて、体も年相応に丸くなっちゃってるんだけど、不思議と緊張感は残っていて、ハリソンが『2049』の役柄にうまくハマったのも、今作の勝因の一つかと思います。
 あと溺れるシーンね。これは素晴らしかったですね。この人ガチで溺れてるんじゃねえの、と思ったもんね。
 アカデミー賞に溺れ男優賞があったら今年はまあハリソンが獲るだろうなというか、このシーン撮ってて監督がカット!OK!つった後ADが「フォードさんお疲れ様っす!すごかったっすよ!」ってタオル渡しに行ったらもう息してなかったみたいな、なんかそういうのを感じましたね。ええ(ハリソンが溺れる話してたら長くなりすぎたので、後編に続く)。