レベル100の「あんたすごいの憑けてきたね…」にありがちなこと。『ぼぎわんが、来る』の感想について

はじめに

 妻一人子一人、平穏で幸せな家庭を築いた男性を襲う、正体不明の怪異「ぼぎわん」の恐怖を描くホラー小説。

 バカにしたようなタイトルを記事につけてしまったが、すごく面白かった。

 この小説は基本的にネット怪談でよく見るフォーマットに見事にのっとっている(地元の伝承である謎のオバケ、そのオバケに妙に詳しい実家の爺さん、ひょんなことでその怪異に魅入られる主人公、主人公からオバケを祓うために霊能者が執り行う儀式、など…)。

 しかし、文章がすごく上手くて、怪談パート以外の主人公の生活描写もリアリティがあって、チープな印象はまったくない。

 中でもすげーな、と嘆息したのは、「ぼぎわん」という一見すると由来がよくわからないオバケの名前に関する伝説が紹介されたときで、もちろんこの伝説は作者の創作によるデタラメなんだけど、これがすごく真に迫っていてマジっぽくて感心した。ここでもうこの作品にのめり込んでしまった。

 しかもこの小説、おっかないホラー作品というだけでなくミステリーの部分もあるのだな。

 読み進めるうちに、「怖がらせようとする部分」とは別のところで話が思わぬ方向に展開し、秘められていた出来事がどんどん明るみに出てきて、それがストーリーに厚みを持たせる。物語が骨太になると、ホラーとしての完成度も上がる。物語の構造としてすごくよくできているのである。

 まとめサイトで有名な怪談…というと思い当たるものがいくつかある人、俺は、ああいうのをけっこう熱心に読んだクチなんですが、同じような経験をお持ちの方は読んだらきっと満足すると思います。

 ネタバレつきの感想を下に書いています。でも、その前にまず読んじゃって、と言いたい。あらためて、とても面白かった。おすすめです。

ネタバレありの感想について

 ここからネタバレありです。未読の方は、できれば読了後に読んでください。

 

 面白いからネタバレを見る前に本作を読んじゃって…と書いておきながら、罠にかけたようで恐縮なんですが、第三章からの展開はちょっとガッカリであった。

 第二章までは本当にすごく面白かった。

 なにしろ、オバケ「ぼぎわん」がもたらす絶望感はマジすごかった。

 余裕こいてた歴戦の霊能者がクソびびらされた挙げ句あっさり血祭りにあげられるところ、展開としてありがちなのは間違いないけど、描写が優れているため、「ベタだなー」とか思うこともなく、しっかりちゃんと恐ろしかった。

 また、第一章、第二章の締め方には驚かされた。

 各章の終わりの衝撃に、あれ? この小説は単にネットの怪談に肉付けしてブラッシュアップしただけの作品じゃねえぞ、と思った。これはもう話がどこに転がっていくかわからんぞ、と。

 第二章が終わった時点では、この作品はよくある怪談のパターンをあくまで最初のフックにしつつ、それを飛び越えてまったく新しい物語を書こうとしているのではないかと、そういう可能性を感じていた。

 それだけに、第三章で霊能者 琴子が出てきてからのストーリーは少し残念だった。

 琴子、出たときからもう強キャラ感がハンパなかったもの。噛ませにするためにあえて立ててるとかでなくて、もう出たときから勝ち確なのがわかってしまったもの。

 この時点で「ぼぎわん」が、完全に正体不明なおそろしい異物ではなく、怖いけど最後に負けることがわかるただのオバケになってしまった。

 最終決戦も、第一章、第二章にあったような非力な人間が理不尽に蹂躙される不気味さを失い、よくあるバトルアクションになってしまった。

 もったいない、と思う。

 途中までは、よくある「あんたすごいの憑けてきたね…」ものにおさまらない、何かとんでもないことが起こっている、と思っていたのに、最後はありがちなパターンの中に結局回収されてしまった。

 それでもめっちゃ面白かったけども。だから、「あんたすごいの憑けてきたね…」レベル100。記事のタイトルはそういうことです。同じ作者の次の作品も読んでみようかな、と思いました。

 あと、映画化するんですね。中島さんは小松菜奈松たか子と妻夫木くん好きなんでしょうか。

 面白そうだけど実写で「ぼぎわん」観たらたぶんしょんべん漏らすので観るかどうかは検討します。以上、よろしくお願いいたします。

 

ぼぎわんが、来る (角川ホラー文庫)

ぼぎわんが、来る (角川ホラー文庫)

 

 

シャチの挨拶と菩薩の拳、あるいは0.9でもいいじゃないかと思うことについて

はじめに

www.cnn.co.jp

 シャチがハローと言ったようである。

 本人は自分が何を言ったのかわかっていないらしい。しかし、人間にハローと言うと人間もハローと返してくること、人間が遠くにいるときにハローと言うと人間がこっちにやってくることがわかったら、自分が何を言ってるのか、なんとなくわかってくるのではないかと思う。

 人と人がしているように、ハロー、ハローで人とシャチが挨拶ぐらいはできる日がいずれ来ると思う。

 

0.999…を求める愚地独歩と俺たち

 愚地独歩が小さいときに、自分の書いているものがいつか「1」になると思って、ひたすら紙をつなげて0の後ろに999…と書き続けていた。

 それはお前、ならないって気づけよ、と思う。思うが笑えないのは、俺もいつか「1」になると思って、あることを続けている。というか、俺だけじゃなくてみんな続けていると思う。

 俺と俺以外の人間の間に一枚の膜があって、この膜は相手との関係によって薄かったり厚かったりするが、ともかく誰との間にもあって俺と俺以外を隔てている。

  例えば俺が俺の思っていることを相手に伝えようとするとき、俺はそれをできるだけうまく伝えるためにいろんな表現や方法を使う。

 できるだけ、というのは実は謙遜で、方法がうまくハマって相手がそれをうまく受信できれば、俺の思っていることは完全に伝わる、つまり「1」になると心のどこかで信じている。だから頑張って伝えようとする。0.999…。

 実際、説明のしかたがうまくいったり、話を聞いてくれる相手が俺と興味や知識を共有している場合、俺は自分の思っていることが限りなく完璧に近い内容で伝わったことを実感することがある。

 じゃあそれはいつか「1」になることがあるのか?

 俺はたぶんないだろうと思う。

 どれだけうまく伝わっても、たぶんどこかが欠損しているのだろうし、というか、本当に「1」伝わったのか相手の心を切り開いて確認することができないというだけでも、その時点でそれはもう「1」ではないのだろう。

 俺は愚直に0.999…を繰り返して、いつか「1」になると信じている。でも、その一方でそれが果たされることがないのも知っているのである。

 

シャチと挨拶を交わすとき

 シャチにハローと言われたら俺はたぶんビビる。ビビるが、そんなに悪い気はしないと思う。

 俺にハローと言うときシャチは機嫌がいいのだろうか。それとも俺のことを心配してくれたのか。あるいは単に暇だっただけなのか。

 わからないが、とりあえず俺もハローと返すだろうと思う。何かが伝わることなんか期待しないで、単にシャチと言葉を交わした愉快さだけが残る。

 そこは0.9の先がない、0.9で終わりの世界である。そして、それでいい世界である。

 人間は0.9を1にしようとして言葉や音楽や宗教を作って、その営みは大事であるしたぶんやめることができないのだが、0.9でも別にいいじゃないか、と思う。

 0.9を受け入れることが本当の「1」なのか。そうかもしれないな。

 でも別に上手くまとまらなくってもいいんだ。今後も0.999…を続ける。続けながら、0.9だって別にいいじゃないかと思っている。

 

加入したまま忘れていたAmazonプライムの年会費を返してくれた件について

はじめに

  今日クレジットカードの請求書を見ていたらAmazonプライム年会費3,900円という項目があって、「ありゃ?」と思う。

  記憶を懸命にほじくり返した結果思い出したのは、以前Amazonで買い物をしたときに、プライム会員のひと月無料キャンペーン中で加入を提案されたことと、確か試しでそれに加入していたことだった。

  やっべえ。完全に忘れてた。

  あれ以降買い物もしていないし、プライムビデオも観ていない。入った意味がまるでないまま、マネーが発生してしまった。

  ひとつ言い訳をさせてもらうと、「そろそろ無料期間が終わりですよ〜」とか、「ここから料金が発生する期間ですよ〜」とか、そういう連絡がAmazonからなかったのである(たぶん)。

  それはだから思い出すわけねーよ、と思う。思う一方、じゃあお前がAmazonだったらその言い訳聞くか?  と考えると、たぶん聞かねーな、と思う。

  加入したの忘れてた?  知らねーよそんなこと。ごろついてねーでとっとと金払えや、となるだろう。

  少し考えた結果、ダメ元で照会をかけることに。「忘れちゃってたんすよぉ、なんとかなんないすかねぇ」つって。

 

Amazon、返金に応じてくれる。

  驚くべきことだ。その日のうちに連絡があって(この早さにも驚いた)、返金してくれるという。

  Amazonすげえ、と単純にも思ってしまった。

  クレームの対応は逆にファンを増やすチャンスだという(俺の注文はクレーム以下のポンコツぶりだけど)。

  俺なんか、仕事でクレームを受けるときなど「うるせえんだよこの野郎、早く死ね」というのを社会通念に照らして翻訳した言葉で伝えるだけだが、Amazonは違った。人や資金にそれだけ余裕があるからこそできること、なのかもしれないが、あっさり感動させられてしまった。すごいぞAmazon

 

  というわけで、感動すると同時に同じことで困っている他の人がいるかもしれないから、参考としてここに記して残しておく。

  注意、この記事の主意は「そういうことがありましたよ」という報告だけであって、他の事例でも同様の結果になることを約束するものではない。

  また、Amazonに対して、今後も他のカスタマーに同じような対応をしろよ、と圧をかけるつもりもない。

  単に、特に客単価も高くないいちユーザーとして感激することがあったから、同じ状況の人は気軽に聞いてみたらどうっすかね、ということなので、以上、よろしくお願い申し上げます。

乙でした。『へうげもの』最終巻、25巻の感想について

はじめに

 第1話で、松永久秀という武将が平蜘蛛という家宝の平たい釜を抱えて自爆して、城ごと釜が爆散。主人公・古田織部は飛散した破片を鎧を着たままダッシュで追いかけて空中キャッチしていた。
 なんだこれは…すげえと思うしかなかった。
 その後、信長が自分の血で茶を淹れたりとか、千利休が最期の瞬間まで茶の鬼だったりとか、秀吉が狂った王様になって悲しくて恐ろしくって愛おしかったりした。
 あと、明智光秀石田三成。それまで俺は光秀は単なる裏切り者で、三成は関ヶ原で負けただけの人だと思っていた。
 本当はこんな魅力的な人たちだったのか…。いや、実際はどうか知らないが、漫画のキャラクターとしてこうも目が離せなくなる人物が次々出てくるのはなんなんだ。
 すごくあり続けた『へうげもの』が終わりました。お疲れ様でした。
 

最終巻の感想について。

 大阪の陣で豊臣が崩壊し、清廉を大正義とする徳川一強の世になる。そこにいくらかの侘びと楽を残そうとする織部と、清き世を固めるべく織部に腹を切らせようとする家康の因縁がこの巻で決着する。
 いろんな人物が出てくるが、織部憎しの執念の鬼となった家康を説得するべく、三浦按針や息子である秀忠、家康の密かな想い人であるねねが登場するくだりがすごくいい。
 結局、親子の関係でも恋情でも家康を翻意させることはできない。織部と家康の対立は、かの有名な風神雷神図屏風にもなぞらえて、最高潮に緊張したところで織部の切腹を迎える。
 
 二人の決着は、これはすごい答えの出し方だと思った。
 笑ったら負け、という秀吉の名言どおり、まずは主人公である織部が一本取っているけど、その勝利のきっかけになるところに、ライバルであり一本取られた側である家康の影響をからめてくるのがすごかった。
 織部の洒脱と家康の無粋と、互いに互いを超えようとし続けてのあのラストなのか?  と深読みしたくなる。
 
 芸術家である織部と為政者である家康が最後に戦わせる問答もすごかった。
 家康は、人間とは単に知恵のついた猿であるという。
 好きにさせればいつまた戦乱の世のように互いに傷つけあうかわからないから、清い理念のもとで厳格かつ一元的に管理するしかないという。
 ちなみに、知恵がついた猿云々というのは元々は秀吉の発言で、自分より先に王になった男に、家康が密かに影響されているのがわかる。
 家康は他にも光秀も多大にリスペしているのだが、一方の織部も、秀吉、信長、利休の多大な影響のもとに、当世最大の反逆者としてのいまの自分をつくっている。
 二人が、ひとつのオリジナルな個人であると同時に、偉大な先人たちのハイブリッドとしてもここに立っていることがわかるのが、この漫画のすげえとこであると思う。
 で、家康の主張に対して、織部は猿のように好き勝手生きられる自由さからは世の中を面白くするもの、楽しく生きていけるようにするものも生まれるだろう、面白さを欠いた世の中に生きる理由などあるのか、という。
 ここには、「安全に」生きることと「自由に」生きることの両立の難しさがあると思う。
 一方が勝ちすぎた世界はきっとどこかで破綻するので、バランスを取らないといけない。
 悲劇なのは、双方を代表する立場である家康、織部たち自身は、軽々に相手サイドに理解を示すことができないということである。相手の主張もわかる、と気軽に言ってしまうと、自分たちサイド全体の覇気、パワーが落ちるから。
 そういう、一つの立場の急先鋒に立ってしまった者の運命はどうしても苦しいものになると思うけど、それで言ったらあのラストは救いがあった。よかった。
 あと、もちろん『へうげもの』はフィクションなのだが、日本史に実際に、質実と享楽にそれぞれ殉じてきた人たちがいたからこそ、いまの日本は間違いなく安全で、かつそれなりに楽しい国でいられているのかな? とも思ったりする(ここは異論があるかもしれないけど…)。
 

おわりに

 ちなみにネタバレをすると、最終回には織部が出てこない。しかし、存在がすこんと抜けているために、かえって世の中に及ぼしたその影響がしのべる気がする。
 
 そういうわけで、最終巻、とてもよろしかったです。これまで単行本はすべて単一色のカラーリングだったのが、はじめて緑と白の二つの色が使われています。大変よい調和かと思います。あらためて、長期連載、本当にお疲れさまでした。
 完結記念に、個人的な名場面集の記事とか書こうかな?

夢について

  自殺した有名なミュージシャンが作ったある曲がリバイバルされて、最近いたるところでかかっている。

  曲はCMや映画のタイアップに使われたり、今のアーティストにカバーされたりして、耳にしない日がない。

  俺は死んだミュージシャンのこともその曲のことも好きだったので最初はなにか嬉しい気持ちだったが、度を越していつまでも聴かされ続けるので、段々いらいらしてきていた。

  曲はずっと止まずに誰かによって歌われ続けた。それで、もう俺は、しばらく耳聴こえなくていいかなあ、と誰かに言われたのか、それとも自分で思いついたのか、とにかくそれもそうだなあ、と思い、気づいたら細長い紐にとげが生えたような器具を自分の耳に入れていた。

  くるくるやっているうちに鼓膜が破れたようで辺りから音がすうっと抜けていくのがわかったが、どうも耳のさらに奥にある三半規管まで傷つけてしまったらしい。方向感覚を失って倒れ、その場でもがいている間に視界が歪んで、やがてぐにゅうと床に引き込まれるような感覚があった。

  箱や荷物が狭いところにたくさん置かれて山のようになった、倉庫のようなところで目を覚ました。荷物の山の真ん中にはぽっかりとスペースが空いていて、そこに俺ともう一人、あの自殺したミュージシャンが、木箱の上に座って俺のことを見ていた。

  よう、と彼が言った。

  あなたはもう死んでるはずですよね、と俺は聞いた。

  そうだよ。死んでるよ。と彼は答えた。  「でもそんな細かいことどうだっていいだろ?」

  ここはどこですか?と俺は続けて尋ねたが、ミュージシャンは笑ったまま何も答えなかった。

  彼は、やがて手にしたギターで一つの曲を演奏した。それはこれまでに一度も聴いたことのない曲だった。なかなか良いと思ったが、不思議なのは、曲が終わって、その余韻の中でそれがどんなメロディだったか思い返そうとしても、何も思い出せないことだった。

  「新しい曲を作っても、ここでは誰も覚えていられないんだぜ」

  ミュージシャンはそう言った。「録音することもできない。もちろん、それを売り物にすることも」

  だから、俺もここでなら音楽を嫌いにならずにすむんだ。彼はそう続けて、また新しい曲を、おそらくいまはじめて生まれた曲を演奏した。

  それは、とても良い曲だったはずだ。なので、いまそのメロディを覚えていないことをとても残念に思っている。

『池の水ぜんぶ抜く』第5弾の感想と、炎天の下、稲穂の海を行けるところまで行くことについて

はじめに
  高校生の夏休みに、帰省先の山梨で、突き抜けたような青空の下をひたすらチャリンコで行けるところまで行ったことがある。
  そういうイベントは小学生の頃か、せいぜい中学生までにすませておくべきだと思うけども、ともかくそういうことがあったのである。
  俺が走っているのは青々とした稲穂の揺れる田んぼの中をまっすぐに貫いている一本の道だった。道路のコンクリートは太陽に照らされて真っ白に灼けていて、ときおり田んぼに向かうための細い道を脇に左右に生やしつつ、ひたすらどこまでも遠く道が伸びているのは、まるで途方もなく巨大な獣が死んで残した背骨のようだった。
  俺がなんでそんなことをしようと思いついたのかというと、あまりはっきりと言葉にならない。ただ、そうしたらどうなるだろうと思ったから、としか言えない。


池の水ぜんぶ抜く』第5弾の感想について。「この水が全部抜けたらどうなるんだろうな」
  俺がこの番組に強い関心を持ったのは、番組が作られる前に、番組のプロデューサーが抱いた疑問にとても共感したのがきっかけだった。
  wikipediaによると、プロデューサーはあるとき警察が事件の捜査のために池の水を抜いて水位を下げているというニュースを見たときにこう思ったという。

 

  「この水がぜんぶ抜けたらどうなるんだろうな」


  確かに、と俺は強烈に思った。どうなるんだろう?
  そもそもなんのために抜くのか、とは考えなかった。警察が水を抜くのは捜査のためだが、バラエティ番組はなんのために水を抜くのか…。

  でも、俺にはそこまで意識が回らなかった。俺はただ漠然と、しかし強烈に、池の水がぜんぶ抜けたらどうなるんだろう、という疑問に共感し、興味がわいたのである。

  興味がわいたところ、26日に番組の第5弾をやるらしい。渡りに船である。観るしかねえ、ということで26日を待った。

 

感想① ぜんぶ抜くというならぜんぶ抜いて欲しい。

  以下は感想である。感想であり、基本的に悪口であり、勝手な妄言である。だから、番組のファンの方は読まないで欲しい。もしくは読んでも許して水に流して欲しい。水だけに。

 

  俺は過去の回を観ていないのでこの回に限って批判するのだけど、まず、「ぜんぶ抜く」と番組タイトルで言うのであれば、ちゃんとぜんぶ抜いて欲しい。

  今回は合計四つの池に挑んでいたが、ちゃんとぜんぶ抜いたのは俺の好きなココリコ田中が挑んだやつだけだったと思う。これでは俺が抱いた「ぜんぶ抜けたらどうなるんだろうな?」という気持ちは全然満足していない。

  ぜんぶ抜かなかった3回中、トラブルで抜けなかったのが2回あったけど、予想外とはいえ日程(+予算?)を追加したら最後まで抜けたんじゃなかろうか?  もちろん、簡単に延長やリテイクできるものでもないんだろうが。

  個人的にもっと罪深かったのは、トラブルではなく池の環境を急に変えないために段階的にやる、という理由でぜんぶ抜ききらなかった1回で、それは単に抜ききるまで追いかけて放送時間なんかは編集で詰めたらいいんじゃないの?と思う。

  自治体との調整、もしかしたら水道関係や道路交通関係なんかにも協力してもらってるのかもしれないから、長く徹底的にやってよ、つって気楽に言うなや、色々大変なんじゃという話かもしれないが、俺はぜんぶ抜けたところが観てえんだよ!と思った。勝手だけど。

 

感想② 外来種を駆除するのはいいが、別に外来種を駆除するのが観たかったわけではない。

  ここからはもっと勝手な願望の話をする。

  番組名自体、「駆除」とか「全滅」とかサブタイトルがついてるので、しょうがないんですけども、池の水を抜いていくと、まあこれでもかというぐらい、人為的に持ち込まれたり遺棄された生物、いわゆる外来種が出てきて、日本の本来の生態系を壊す、ということで番組はこれらを駆除していく。

  ただ、俺は駆除とかどうでもいいんだよな。池の水をぜんぶ抜いたらどうなるかが単に知りたいだけで、もっとなんか普段見られない池の底の泥とか水が干上がって魚が跳ねてるところとか、(水を抜いたら)もうこんなになってるじゃないか…というか、「おお、抜いたなあ…」感のあるものが見てえんだよな。駆除は抜いた結果外来種が出たからやりました、ぐらいのノリでいいんだよな。

  もちろん勝手な意見である。でも、その勝手を重ねて想像させてもらえば、番組のきっかけになったのも、別に駆除とかでなくて、もっとシンプルな単なる疑問だったんじゃなかろうか、というのも思うところなんであるな。

 

初期衝動を商品にするのは難しいという話と、結局正月も池の水をぜんぶ抜くのを観るだろうという話。

  冒頭で俺が夏休みにチャリンコで田野を走った話をして、このときの俺は別に田んぼの向こうに何があるんだろうとか何が建ってるんだろうとか特に考えていなくて、単に真夏の空の下で田んぼを行けるとこまで行ったらどうなるんかな、としか思ってなかったし、なんならそれよりもっと漠然と、「とりあえずやりてえ」としか思っていなかった。

  『池の水ぜんぶ抜く』にもそういう特に見通しのない欲求を前面に出したところを期待していて、実際、本来はそういうのが出発地点にあったんじゃないの?と思う。

  でもそんなものはきっと作品にはならないだろう。それは、そういう衝動を映像化する必要性を人に説明するのが難しいし、制作費もたぶん出ないから。

  例えば、もし会議で番組のコンセプトを説明したり上司を説得するとき、「いや、単に俺は水をぜんぶ抜きたいだけなんです」と言っても、きっと頭のおかしい奴扱いされるだけだと思う。

  「うん、抜いてどうするの?」「いや、その先は考えてません」「ふーん。…えっ!?  考えてないの?」となるだろう。

  そこはやっぱり、「抜いて外来種を駆除するんですよ!」なり、「埋まっていたけど除去できなかったゴミを見つけるんですよ!  もしかするとお宝が出るかもしれませんよ!」なり、そういう見通し、筋書きが必要になるのだと思う。

 

  さんざん悪口言ったけど、俺はたぶん正月の特番を観ると思う。なぜなら、やっぱり池の水をぜんぶ抜いたらどうなるかが観たいから。

  抜いて、「ふーん、こうなってたのか」つってそのまま何食わぬ顔で水を戻す。それが俺の理想。

  もちろん、ありえないだろう。ただ一方で、その単なる「やってみてえ」という衝動のところ、それを素材のまま出してきたって観るやつは観るぜ、と思う。

  衝動ってやつは個人的なものでありつつ、なんだかんだみんなに共通してあるもんだと信じていて、だから誰しも(もしくは少なくとも男子は)、夏のある日にどうしようもなくかつ意味もなく、チャリンコで炎天下を行けるところまで行こうとしたりするんじゃないのか?  そうだろう?  と思ったので、ここに記しておく。 

貴志祐介作『ダークゾーン』の感想と、デスゲームを面白く描くことの難しさについて

はじめに。『ダークゾーン』の感想。

 なかなか良かったのではないでしょうか。

 と言っても、前半が最高に面白くて、途中相当中だるみして、最後盛り返す、というアップダウンがあったので、「平均すると」なかなか良かった、という感想が正確なところです。

 

 物語は軍艦島をモデルにした正体不明の世界を舞台に繰り広げられる、元々は人間だった者たちが特殊能力を持つ怪物となって殺し合いをする将棋とチェスをベースにしたゲームを描くもの。

 

 先に悪かった点を言うと、将棋の七番勝負を土台に同じルールのゲームが七回繰り返されるので、どうしても各勝負の展開がワンパターンになりがちで退屈する、というところ。

 主人公が勝負のセオリーをつかんできた四戦目、五戦目あたりにこれが顕著で、かつ、両軍探り合いの序盤から、敵の奇策で主人公たちが慌てふためく、という流れまで毎回一緒なので(もちろん、どう混乱させられるか、という内容はそのつど違うけど)、「このくだり何回やんだよ」、と思う。

 一方、「駒」が昇格するなど将棋のルールをベースとしつつ、オリジナル要素も取り入れたゲーム自体の面白さもあって、まだ話の正体が見えない前半は素晴らしく面白かった。また、このオリジナル要素が全面的に解放され、いったん理解したこのゲームのルールがまったく別の様相を見せる終盤も良かった。

 この小説、ゲームを通じた戦争の部分と並行して、まだ主人公が人間だった頃の話が挿入され、なぜゲームが始まったのか、この世界の正体はなんなのかがわかる構造になっており、ゲームの方がマンネリ化してもこちらの方の流れが終盤盛り上がって来て、これに引っ張られてぐんぐん読み進めてしまう、というのも、いまいちだった中盤が終わってから盛り返せた大きな要因だと思う。

 元ネタが将棋なのでしかたないかもしれないけど、たぶん勝負が七回は長すぎたのだと思う。この中盤の中だるみが個人的にはものすごく大きく感じられる。一方で、前半と後半は素晴らしいという、そんな作品だった。

 

デスゲームを面白く描くことの難しさについて。ゲームのルールなんかは「それなりにもつ燃料」に過ぎない。

 ところで、そもそもデスゲームとはなんであるか。

 wikipedia先生いわく、「登場人物が死を伴う危険な娯楽に巻き込まれる様相を描くようなフィクション作品、およびそのようなフィクションの劇中で描かれる、参加者の生死をチップにした架空の娯楽である。」とある。

 漫画、小説、映画と世の中にひしめくこのジャンルについて思うことがあるのだけど、それは、「消費者を興奮させつつ作品に付き合わせる上で、それがどういうルールのどんなゲームであるかは、あくまでそれなりに持つ燃料に過ぎない」ということである。

 たとえばすごく奥深いゲームを作り、消費者を飽きさせないために、ゲームを理解することにより見えてくる戦法やいわゆる裏ルールのようなものを持ちこむとする。それでも、失敗すると何が起こるか、どうすれば勝てるか、などのいわゆるゲーム性によって消費者を楽しませられる時間やページ数には限りがある。

 そして、ゲームに敗れれば人間があっけなく死ぬというきわめて刺激的なことにすら、おそろしいかな、消費者はすぐに慣れてしまう。

 そういう興奮と飽きるのの関係って、デスゲームものに限らずほとんどのフィクションにも適用できることじゃん、という指摘はごもっともで、ただ、この燃料が切れたときの減速が特に明らかなのがこのジャンルだと思っている。『ダークゾーン』の例で言えばたぶん五番勝負ぐらいがゲーム性で楽しませられたベストの長さだったんでないかな、と思うし、この「燃料」が切れた中盤は読み進めるのがそれだけ難しかった気がする。

 

ゲームを通して何を描くかが結局は大切なんだろう、ということ

 デスゲームもので俺が一番好きな作品に漫画の『今際の国のアリス』がある。

 この作品は生死を賭けた多くのゲームが出てくるので、上で書いたゲームのルール自体がもたらす「燃料」が切れる前に、読み手は興奮しっぱなしで完走してしまうのだけど、なにより素晴らしいのは、ゲーム自体が仮にもう読み手を楽しませてくれなくなっても、その向こうで展開する物語自体がものすごく読ませるところである。

 『カイジ』にも似て(作者の福本伸行もこの漫画を褒めてる)、『今際の国のアリス』は殺伐とした殺し合いがどこまでも続くのに、人情や信頼というウエットな感情が最後まで大きな存在感を持ち続ける。

 裏切りも落胆ももちろん描かれるし、冷徹な論理の力が決定打になることもあるけど、ロジックの裏で勝利を支えているのは、必ずと言っていいぐらい、誰かを信じる、誰かに託す、というある意味甘っちょろい感情で、でも俺はそこが良いと思う。

 ゲーム自体の面白さが効力を失ったとき、その先に読者を引っ張っていけるのは結局その後に何が起きるかであって、それはつまり、ゲームを通して作者が何を描きたかったかが存在するか、ということでもあって、そんなのまあ当たり前のような結論だけども、一定以上の長さを持つデスゲームが面白く描かれうる正解は、そこにしかたぶんないのだと思う。

 

おわりに。再び『ダークゾーン』について。

 難しいのは、ゲームそのものがちゃんと面白くないと「燃料」をもらっていない消費者は走りだせない、ということで、その点『ダークゾーン』はちゃんとゲームは面白い。

 特に終盤の描写は圧巻で、「駒」という概念を持つ将棋・チェスベースのゲームを題材にしたたくさんの作品がたぶんやりたかったこと、今後やりたがりそうなことを、素晴らしいかたちで表現している。

 ってことで、色々言ったけど面白い。それでいてまあ上のようなことも勝手ながら考えてここに書いておくので、以上、よろしくお願いいたします。

 

まずは上巻からどうぞ。

ダークゾーン(上) (祥伝社文庫)

ダークゾーン(上) (祥伝社文庫)

 

 

俺の中のデスゲームナンバー1。