主人公がズタボロになるのが好きなやつら、ヴェルーヴェン3部作を読もうぜ、ということについて

 何かを失って傷ついてズタボロになっていくことへの憧れ、ナルシシズムみたいなものがあると思っていて、『カウボーイ・ビバップ』のスパイクとか『告白』の熊次郎とか目を奪われてしまい、彼らが迎えた結末は、まるで大きな石を水の中に投げ込んだように心に長いこと居座る。最近だと『ブレードランナー2049』のライアン・ゴズリングとか。
 で、同好の士がいたら次にすすめたいものがある。
 ヴェルーヴェン3部作。
 これですよ。

 

 ベストセラーになった『その女アレックス』という題名は聞いたことがある、もしくは読んだ、という人もいましょうが、実はこの小説は主人公である刑事カミーユ・ヴェルーヴェンをめぐる長編シリーズの一作という位置付けなのですね。『その女アレックス』の前と後にそれぞれ一冊、別の長編があるわけです。
 『その女アレックス』もその前の『悲しみのイレーヌ』も優れたサスペンス、ミステリー。しかし俺はあえて、これらは最終作となる『傷だらけのカミーユ』への布石に過ぎないと主張したい。
 展開のドラマティックさや謎解きの見事さでいうと、『傷だらけのカミーユ』は3部作中比較的おとなしめだと思います。それでも、大切な人をあらゆるかたちでもぎとられ自身のキャリアもフイにし荒野の中をほうほうの体で這いずり回るカミーユの姿が一番鮮明に描かれているこの作品が、俺は最高傑作だと思う。
 『悲しみのイレーヌ』で主人公が失ったもの、『その女アレックス』の終わりまでかろうじて手元に残ったもの、これらをふまえて、最終作での更なる喪失まで追って欲しい、主人公ズタボロフェチには絶対刺さる思うので、以上、よろしくお願いいたします。

 

 余談だけど、『傷だらけのカミーユ』の彼は、心のどこかで、いつか直接に、しっかりと罰されたいという願いがあったのでは…というのは邪推だろうか。「こいつがずっと好きだった」という言葉からつい深読みしてしまう。
 最終盤のカミーユのセリフと彼らの言葉のやりとりはシリーズ全体をとおしてのハイライトです。行き着いた果ての静謐。素晴らしかった。

 

悲しみのイレーヌ (文春文庫 ル 6-3)

悲しみのイレーヌ (文春文庫 ル 6-3)

 

 

 

その女アレックス (文春文庫)

その女アレックス (文春文庫)

 

 

 

傷だらけのカミーユ (文春文庫) (文春文庫 ル 6-4)

傷だらけのカミーユ (文春文庫) (文春文庫 ル 6-4)

 

 

2019年4月6日について

 田舎に帰っている。天気がいいので、読んでいる本の続きは庭で読むことにした。
 乾いた芝と、まばらというには繁って生えすぎた青々した雑草が日の光を浴びている。庭というより、どこかの山野の風景に見えた。
 人家の一画のように見えないのは、思い出の中にある見た目と少しだけ違っているせいもあるだろう。以前は片隅を耕してわずかな野菜を育てており、その姿が目に入ってきたものだが、住んでいる家族が一人二人亡くなっていくうちに誰も手を入れなくなった。昔の耕作の名残はなく、ひときわ背の高い、名前を知らない雑草が、群れて白い花を咲かせている。
 視界の隅で、テントウムシの幼虫が芝の葉にくるくる沿うように遊んでいた。指でからかうと人差し指の動きのままにはって登ってきた。
 テントウムシの子供の見た目はおかしい。灰がかった青色に橙の点々、抜いたばかりの毛のような黒々したしっかりした足を持つ、奇怪な姿をしている。
 それにしても、爪の先ほどの卵からかえってここまで育つのに、さぞかしたらふく他の生き物を食っただろう。そう思ってから庭にテントウムシを返し、芝の上に置いていた本を再び手に取ったら、アリマキが緑色に潰れて死んでいた。テントウムシはこのアリマキを食う。
 私道沿いに植えた木蓮に、野放図に開いて鳥のようになった深い紫色の花が咲いていた。向こうに青い空が広がっている。飛行機が長く雲を引きながら飛んでいる。風が強い。少し目を離してもう一度見たら、雲は吹き流れてもう見つからなかった。

ヘドの底にいる人について

 人間は自分より幸せな者が嫌いなので、上を見上げたときに自分より幸せな者がいることに気がつくとムカついてヘドを吐く。吐かれたヘドは重力にならって下に向かって流れ落ちていく。
 他人のどこに幸せを感じて憎悪を抱くかは人によって違っていて、俺の場合は、多くの愛するべき人に恵まれているにも関わらず自分の生きることの下手くそさ、不器用さを嘆いている人を見たときに強い憎しみがわく。
 なぜなら俺にはそれらが手に入らなかったから。
 何が生きるのが下手くそなんだ、と思う。あんたは、結婚して子供までいるじゃないか。
 子供はいなくても嫁さんがいるじゃないか。
 結婚はしてなくても恋人がいるじゃないか。
 要は…何がうまくいかないのか何をしくじってきたのか知らないけど、それなりにうまくやれてるじゃないか。
 俺は何にもうまく行かねえ。あんたよりはるかに不器用でろくなことがなくて誰ひとり手に入らなかったのに、そのことに不平を言わず歯を食いしばってて、その俺の立場はどうなるんだよ?

 

 狂った犬の八つ当たりもいいところで、別に誰に周りを囲まれていようと辛いことは起きるし、それを嘆くのは当たり前なのだが、俺の憎しみは反射的に燃え上がり、うっかり俺の前で自虐を披露したその誰かを心の中で血祭りに上げずにはおかない。理屈じゃない。

 

 その俺が、今度は自分が何かを嘆く側に回ったとき、どこかで誰かがそれを見て、きっとヘドを吐いているだろう。その誰かからすれば、俺はたぶん、十分に「うまくやっている」側だから。
 恋人はいないが家族はいる。生活に困るほど貧しいわけでもない。朝起きて呪いの言葉を呟きながらもなんとか毎日家を出て出社することができる。楽しいことはひとつもないが、誰に虐げられているわけでもない。
 そんな俺は十分マジョリティ側で、「うまく行かねえ」と吠えながらそれなりにうまくやっていて、たぶんもっと不幸なマイノリティをうっかり踏みつけながら、知らない間に彼らにゲロを吐かれている。

 

 人間が、みんなが、この世のすべての人々が上を見上げてから下に向かって吐いたヘドはどんどん流れて流れ落ちて、特に根拠はないがすべてのヘドが溜まったこの世界の底に、ひとりの人間がいる気がする。
 そこから見上げるとこの世のすべての人間がヘドを吐いている姿が見えるその場所に、ひとりの人間が立っている。
 想像したその人は、しかし、上を見上げはしないし、もちろん下を見てヘドを増やすこともしない。ただ前を向いているか、あるいは目を閉じている。
 その心の中が希望なのか絶望なのか、激情なのか静寂なのかわからないが、俺はそんな誰かがいることを想像してみる。そして、たぶん本当にそんな人がいる気がしているので、以上、よろしくお願いいたします。

できるわけがないこと、もしくはできるわけがないと思わされることについて

はじめに

www.bbc.com

 何年か前、ドナルド・トランプがまだ大統領候補でしかなかった頃。自分が大統領になったらメキシコとの間に壁を作るつもりであるとこの人が言っているのを聞いたときのこと。
 俺は、このおっさんは何を言ってるんだと思っていた。
 異国民が入ってこられないように防壁を築くなんて、移動を制限する手段にしたってどう考えてもナンセンスで、なんというかあまりに前近代的で、物理的に有り得ないし、道義的にも大儀が見えないことのように思えた。

 21世紀のこの時代に建てられた、国と国とを物体としてしきる長大な壁のイメージ。頭に思い浮かべるだけで強烈に滑稽だ。
 どんなくだらない奇跡が立て続けに起きればそんなものがこの現代に現れるのか。できるはずがないと思った。そもそも、ドナルド・トランプが大統領になること自体があり得ないことだと思っていた。

 その後、壁の建造はともかくとして、かの人は大統領の椅子を見事に手中にすることになる。

 

できるわけがないこと、もしくはできるわけがないと思わされること

 「できるわけがない」。何かばかげた夢想や壮大な野望を耳にしたとき、俺は、あるいは俺たちは、反射的に、そしてきわめて無防備に、そういう感想を抱きがちだ。はいはい、おつかれさん、と。あんまり面白くないショーを見せられた後に芸人に支払う小銭のような感覚で、気軽にそういう反応をとってしまう。
 でも、今回の壁建造のニュースを聞いたとき俺は、この「できるわけがない」という感想を抱くこと、あるいは抱かされることは、実は俺たち自身にとってかなりリスクのあることなのではないかと思った。

 気軽で使い捨てなリアクションのつもりでいて、ひそかに俺たちは、ある日唐突にバカでかい負債を払うことになる爆弾を背負わされているんじゃないか?

 

 うまくいくはずがない計画、大成するはずがない人物が人々の予想を裏切る成功を収める、という展開はフィクションでもよく描かれるパターンだ。
 だからなんであえてこの例なの?というのは自分でもわからない。しかし、「できるわけがない」で俺が思い浮かべるのは、『シグルイ』の屈木頑之助のエピソードである。
 屈木頑之助はガマガエルに似た醜怪な男で、自分が想いを寄せる道場の娘を手に入れるため、この武家で行われている兜投げというならわしに挑戦する。この兜投げは若かりし頃の家長が戦場で敵兵の頭を兜ごと刀で叩き割りそこから立身していったという逸話にちなんでおり、見事兜を割ったものが娘の婿となることが認められる予定になっていた。
 さて、家長は屈木頑之助の参加を認めたが、別に屈木が本当に兜投げに成功すると信じていたわけではない。また、娘をやるつもりなど毛頭なかった。
 家長は単に、かつて自分が裸一貫から成り上がったように、出世の機会は立場に関係なく開かれているべき、という主義を貫こうとしたに過ぎない。ある意味屈木のことなどどうでもいい。自己満足だ。
 その当主は、いざ兜を前に刀を構えた屈木頑之助を見て戦慄することになる。「こいつは割る」と直感したからだ。
 嘲っていたもの、無視していたものが、自分の想定を超えるとき、その敗北感が決定的に自らに刻みつけられること、そこで成立したマウンティングは生涯消え去ることがないことを、家長は感覚的に理解したのだと思う。
 すべては、「できるわけがない」と油断したばっかりに。この思いこみさえなければ、仮に屈木が兜を割るだけの技量があることに気づいてもそこまでの衝撃はなかったと思われる(というか、そもそも屈木の危険性に気づいて屈木を参加させなかっただろう)。

 

 屈木が実際に兜を割ったかはさておいて、アメリカ大統領の話に戻る。
 俺は、この壁の件について、大統領はかつての自分の発言が大衆から招いた嘲笑、そしてそれとともに彼らの中に密かに忍ばせた爆弾の存在を計算していると見た上で、解釈するべきだと思う。
 だから俺たちも、本当に壁ができたら自分たちは何を刻み込まれることになるか覚悟した上で、その動向を追うべきだと思う。

 困ったことに俺たちは意外とマジメなので、誰かを一度小馬鹿にしたという記憶を忘れたようで忘れていないのだ。覚悟がいると思う。この負債は実は取り返しがつかない。

 次からは簡単に「できるわけがない」と思うのはよした方がよさそうだと考える。どうでしょう?
 俺は政治のことは何も知らないし、壁が本当にできる可能性も知らない。ただ、壁の完成がかつてそれを妄想だとあざ笑った世界中に刻み込むものの意義を考えると、壁ができたらうれしい人は意外と多そうだ。

 思えばこの人が大統領になったときも、俺はこんな記事を書いていたのだった。

アメリカ大統領選でフツーにアホのように驚いただけのことについて - 惨状と説教

 人物評はさておいて、色々と勉強になる方だと思う。以上、よろしくお願いいたします。

 

嫌な情報について

はじめに

 自分にとって何が嫌な情報かというと、人を傷つけるものより無駄なものより、読み手のことを明らかにナメているものが嫌いである。
 ただ、読み手のことを明らかにナメている情報のたいていは人を傷つけるか無駄かのどちらか、もしくは両方なので、そういう情報も結局嫌いだったりする。
 以前、週刊SPA!をめぐる小田嶋隆の記事に我が意を得て以来、こういう性格はさらに強くなったようだ(加害者に「親密」な人たち (5ページ目):日経ビジネス電子版)。

 

嫌な情報について

早大スーパーフリー事件の「和田サン」独占手記 懲役14年を経て昨年出所 | デイリー新潮

 なんでこういう記事がでかでかとしたフォントで電車の中吊りに登場するのかわからない…というのは嘘で、実はよくわかる。
 要は読み手をナメているからだ。
 卑劣な重罪人がどんな謝罪を述べるのか、それがどれだけ空疎で耳を傾けるに値しないものか卑しい好奇心で確かめたい、そして、その懺悔を一笑に付して、「許されるわけがないだろう」と高みから言い捨てて足蹴にしたい。
 出版社は、この見出しが読み手に呼び起こす欲望をだいたいそんなところだと想像しながら、「どうだ、読みたいだろう?」と思いつつ実際にこのフレーズを世に送り出したのだ。はっきりとわかる。
 はっきりわかるよ。ゴミ野郎。

 

 話をややこしくして恐縮だが、俺は、情報というのはどこかでわずかに受け手をナメていないと発信できないものだとも思っている。自分の中に尊大な部分が皆無のまま、思っていることや知っていることをかたちにするなんて不遜なことができるわけがないからだ。
 また、情報というのはどこかの点で暴力的だとも思う。内容に関わらず。どんな方法で伝わろうとも。

 情報が伝わる過程にあるのは一種の支配関係と言っていい。なにしろ情報というのは持っている側から持っていない側へと、心の隙間に一方的に流れ込むものかたちで押し付けられるものであり、場合によってはその結果、受け手の世の中の見方さえ変質させるものだからだ(それこそ上記の小田嶋隆の文章が俺の人格の一部をブーストしたように)。
 だからこそ、発信する側の傲慢さはできる限り縮められるべきものでもある。そして何より礼節として、陰に隠されるべきものだと思うんだ。

 

 この記事が世に出ることで、出版社以外で誰が得をするんだろう。
 読み手は自分の知らないうちに欲望を利用されて、大げさに言えば知らないうちに自らを卑しめている。

 手記を書いた加害者本人について考えてみれば、罪の意識の表明とはこういうことじゃないはずだ。
 俺は、加害者が許しを乞うこと自体を批判しているのじゃない。こういう意見が誰かを傷つけうることを承知で言うと、許して欲しいと願う権利はどんな犯罪にもあると思っている。
 自分自身や親しい誰かの心や身体が酷く損なわれればとてもそんなことは言えなくなるだろう。しかし、逆に言えば近しい誰かが大きな傷を負うまで、俺は加害者が許しを乞う権利を認める。俺の信条だ。
 それでもこの方法が適切だとは思えない。何かしらの汚い打算などなしで記された手記という可能性だってあるから、この文章を記した背景を悪意を持って勘ぐらないけれど、これが謝罪の目的にかなうとは思えない。
 被害者、あるいはその周囲の人への影響についても、絶対に状況を好転させるものではないだろう。

 

 手記を記した加害者よりも、それを世に出した出版社の方に、上記の理由でムカついている。

 相手を思いのままにできると思いこんでいるクズが、「これからお前のことを好きなだけ殴るよ。でもお前はそういうのが好きなんだから別にいいよな」と臆面もなく言いながらにやにやしている。
 あるいは自分をイケてると勘違いしたバカが下半身を膨らませながら聞くに耐えない言葉を猫なで声でほざいている。
 俺はこの記事のことをそういうイメージでとらえているし、ふざけるな馬鹿野郎と思っているから、二度とこの雑誌を読むことはないので、以上、よろしくお願いします(文春も似たようなものだけど、こっちは『日々我人間』が載っているのだなあ…)。

外道とあなたは言うけれど。『外道クライマー』の感想について

はじめに

 ロックでもアートでもなんでもいいが、「反体制的」な成り立ち、あるいは要素を持つものにはものすごく重大な弱点がある。

 それはこれらが、自分たちが反発している体制なくしては存在することさえできないということだ。

 反体制芸術は、体制が間違っていると糾弾することではじめて意味が認められる。

 そういう意味で、これらがどれだけカッコよく、どれだけ意義があろうとも、反体制芸術とは自分たちを抑圧し、縛りつけるものによってはじめて価値を持つような仕組みに、絶対的に逃れようもなくできあがっている。それは、いつか体制が正しく修正されたときには必然的に解体される運命にあるということでもある。

 もちろん、間違ったかたちでまかり通ってしまっている常識や強い圧力に対して死に物狂いで発信されるメッセージでしか表せないもの、変えられないものがあることは知っている。その価値自体を否定することはできない。

 あるいは、社会を変えて役目を終えたら消えてなくなる、それならそれでいいんだ、という達観をもってやっている人たちもいるだろう。

 でも俺は、上で挙げた反体制的なものが根本的に抱えている弱点を、これらを称揚する人たちは忘れてはいけないんじゃないかな、と思う。

 というかね、ちょっと言い方を変えるよ。

 「圧力に屈しない」「時代の流れに異議を唱える」…もちろん大事なことだけど、なんかしゃらくせえな、と思うんだよな。

 それこそ、「みんなと仲良くしましょう」「悪いことをするのはやめましょう」、そういう反体制とは真逆のメッセージと同じように、真逆のはずなのにまったく同じように、なんかすげえしゃらくせえんだよな。同じように空疎なんだよ。

 批判する、暴き出すカッコよさじゃなくて、何よりも楽しいから、美しいからそうするんだ、って、芸術はまず何よりも最初にそういう点で評価されたっていいはずだろう?

 

モラリストの俺が『外道クライマー』に共感するということ

 モラリストというのか小心者というのか、基本的に俺は世の中のルールを守る。

 昨今話題の駅のエスカレーターは歩いて降りないようにしている。深夜の横断歩道で車がくる気配が全くなくても赤信号で待ったりする。

 そういう人間なので、ルールを守らない人間のことは白い目で見ることが多く、電車内の携帯通話、路上喫煙禁止の地区での歩きタバコ…、ルールなんてどうでもいいと思っているのか、ルールを破っていることをあえて声高に主張したいのか、なんにせよウットウシイな、と思いながら横目で見ている。

 

 で、『外道クライマー』である。

 筆者の宮城公博さんは法律違反上等の人である。

 例えば、景勝地として名高い法律的に侵入NGの滝。「登りたいから」つってどんどん登っちゃう。

 外国の未開地に現地の許可とかとらないでぐんぐん入っちゃう。

 本来俺の判断基準でいえば顔をしかめて無視したくなっておかしくない人であって、その法規違反の行動録なんて…となるはずが、これが面白かった。すごくよかった。

 本の題材への興味と、それを描き出す文章力に打たれたというのはある。

 渓谷、沢の中の淀みと流れ、藪を漕いでいくという、一般的には冬山の登山より格が劣るとされ、あまり認知もされていない3Kそのものの世界。葉っぱで切られて流血し虫に刺され雨にやられながら焚き火をたく様子の臨場感(文章、本当に上手いのだ)。

 素晴らしかった。ただ、そういう要素だけで俺の「常識人フィルター」をくぐり抜けて、この本いいな、とはならないと思うのだ。

 俺は、宮城公博さんが結局、やりたいからやってる感がストレートだと思ったから、美しいものをとにかく見たいと思っていたから、その探検を楽しんで追うことができたんだと思う。

 「体制? 正義? クソ喰らえだな」という思想を文中から感じることはある。本のタイトルにも外道とついてるし。

 ただ、違反しているからこそ燃えました、という感じかというと、そうでもないんだよな。

 ルール違反は、「後から来る」。それより何より、未知の領域に苦しいほど恋い焦がれる感情、水路の奥の怪物じみた滝や高さ1000mを超える断崖の狭間を流れる深い沢に寄せる真っ直ぐな気持ちがわかったから、読んでいてまったく不快感はなかった。

 違反があっても、この冒険は素晴らしいと思う。ルールを犯したことに対するペナルティはあって当然…というか、むしろ常識の側からの罰が適用されないといけないが、でも俺はこの物語が読めてよかったなあと感じる。

 

おわりに

 あなたのやってることの反体制性は認めない。でも、美しいものが見たくてそこに行きたい、というその動機には心を打たれた…。

 そういう評価は、社会のルールに違反してるからクソ、と単に切って捨てるより、宮城公博さんには気に入らないのかもしれないな、と思う。

 でも俺は、良識に反した行動をその側面から過剰に評価することも、同じくらいこの人の冒険を損なうものだと思うんだよ。仮にこの人自身がそう見られることを望んでいてさえ。

 そういう意味でこの本の解説は正直クソだと思う。冒険を良識の観点から良しとすることがつまらないのと同じくらい、反社会性という面からほめるのもくだらない見方だと感じる。

 それは一番最初に書いたようなことが理由であって、俺は、「ルールなんてクソ喰らえ」と「ルールを守ろう」とは反対だけど同じくらいクソで、退屈で、ある意味結局同じものだと思っているから。

 反社会的だろうとそうでなかろうと、『外道クライマー』は面白く、そこにルールという存在が絡もうがそうでなかろうが、この人が冒険の果てに見たこの人だけのものはきっと美しかっただろう。

 良い本です。そしてルールを守る・破るという行為についても整理するきっかけになったので、ここにまとめておく。以上、よろしくお願いいたします。

 

外道クライマー

外道クライマー

 

 

豚コレラと日記について

www.asahi.com

 きわめて極私的なうえに混乱した話。

 

 豚コレラの被害が広がっていて、感染した豚の殺処分が始まったらしい。

 一般的な反応はわからないが、俺の場合報道に触れながら胃が絞られるように苦しい。農家を営んでいるわけでも食品を仕事で扱っているわけでもなく、ただやるせない。

 いま見たNHKのニュースでは豚舎のケージで飼育されている豚の映像が出てきて、こういう生き物が殺されているんだ、口に入るわけでもないのに、とか思って、ぐううとかおかしな息が口から漏れる。

 

 どんな立場からこのたくさんの死を悲しみ、どうなって欲しいと思っているのか、自分でもわからない。言葉にならない。

 まったくベジタリアンではない。なんなら先週も一人で焼き肉食いに行って、豚レバーとハツ食べて美味いとか思っていたのだ。動物を糧にすることそのものを悼んでいるのではないのだ。

 じゃあ豚に対して、口にすることもせずいたずらに死なせたことを悲しんでいるのだろうか。

 しかし、豚からしてみれば、病気で命を落とそうと殺処分されようと人に食われて死のうと、望まない死には違いないのだ。

 俺のこの感情が食べられなくてごめんなさいなのだとしたら、殺される側からしたらトンチンカンな話だろう。食べられなくてごめんなさいも、美味しくいただきましたありがとうも、豚からしたらなにが違うのだろうか、と考えるとわからない。

 

 なにに悲しんでいるのか、それがまったく見当はずれで、一種の病気としていずれ治すべきナイーブさなのか、それとも何かしらの意味があるのかわからないまま、報道を見ながら唸っている(オチなし)。