2019年4月29日について

 天気がいいので野川公園に遊びに行った。
 短い橋をわたり、川べりからわずかにあがったところで腰をおろした。ファストフードをかじっていたら、散歩中らしい色素のうすい日本犬が近づいてきて、俺の靴の匂いを嗅ぎ、それから肛門を見せながら去っていった。
 公園でのんびりしているとこんな風に、ときどき犬がちょっかいをかけてくる。なぜかのうてんきな顔をしたやつが多い。犬にも忙しそうなやつとなんだかへらへらしたやつがいて、近づいてくるのはだいたい後者である気がする。
 犬は今度は橋の欄干が気になるようで、その辺りの匂いを真剣に嗅いでいた。飼い主の人もゆっくりしたもので、犬の気の済むまでそうさせるつもりらしかった。
 それから、今度は川沿いを右手から若い女性がやってきて、腰ぐらいの高さまで葦が繁った足元をときどき気にかけるようなので、もしかしたらと思ったら、その人も犬を連れていた。
 ハスキーらしいその犬はかなり大きい。のしっのしっと踏み締めるような歩き方は、中型犬とも違ったリズムをとっていて面白い。
 その犬も橋の欄干を気にしているのが興味深かった。欄干大人気だ。観察しつづけていたからわかることだな、と思ったが、俺はいったい何をやってんだろうな、という気もした。
 足元を見たら、1cmほどの甲虫が芝の間をはい回っているのに気づいた。濃い緑色をした光沢のある羽が、なぜか角度によっては紫色に変わって輝く。
 つまみあげてから、「あ、フンチュウかもしんねえな」と思ったが、俺も頭のどこかの機能が働かなくなっていたのか、特に汚いと思わなかった。もしこのあたりを散歩している犬の落とし物を食べているなら、やはり汚いのである。
 甲虫はあまり力がなく、はい上がるようにして指先を登りながら、途中で力尽きて芝の上に落ちた。よく見たら芝のところどころに同じ虫の死骸が転がっていたので驚いた。
 驚いたというのは、生き物のひとつの種類がいっせいに死ぬ季節の中から春だけを、どうも無意識に除いていたからで、そうか、種によっては春が死の時期であることもあるのか。
 最初の甲虫とは別につまんでみたもう一匹はすでに死んでいて、文字通り紙のように軽かった。
 後ろの方から柔らかい声で何やら言っているのが近づいて来ると思ったら、小さい女の子がてってっと小走りで通りすぎていって、泥遊びでもしたのかその両手が真っ黒けなのでまた驚いた。
 女の子は泥まみれの両手をたかだかとあげて、口をぽかんと開けている俺の方を見てから、犬たちが一生懸命に匂いを嗅いでいたあの橋をわたって向こう岸に行って、対岸からもう一度こちらを見た。
 不審者だと思ったのかもしれない。外れているのか当たっているのか、自分でもよくわからない。

 

同じくする者、違える者。『オオカミライズ』1巻の感想について

 伊藤悠の漫画は好きなところがいっぱいあって、そのうちの一つに、本来立場が違う者同士の共感や、反対に元々は近しい者同士の精神的な離別がある。
 『皇国の守護者』の新城とバルクホルンとの友軍敵軍の壁を超えた友情のようなものだとか。
 『シュトヘル』でジルグスという敵将が、当初は政治的に利用するただの道具のつもりで扱っていたユルールを次代の王の器と認める場面とか。
 優れた相手は立場にこだわらず評価する合理性と、立場の垣根がありながら相手に惚れ込んでしまう人情の部分が溶け合っている。とてもよいです。
 逆に、親しみを失わないまま、譲ることのできないものによって別れて行くこともある。
 親しい兄弟でありながら、文字という文化をめぐって決定的な相いれなさを抱えるユルールとハラバルとか。
 かけがえのない双子でありながらある事件で決裂するトルイとナランとか。
 相手が自分にとって価値をなくしたわけではなくて、何よりも重要なもののために、相手の不在を飲み込んで先に進む覚悟。これもいいですね。

 

 そして新作の『オオカミライズ』。
 日本、中国、ロシアを舞台に、人間に不死性を与え怪物へと変貌させる生体兵器をめぐるこの物語も、異分子同士の出会いと、心かよってから訪れる別離が、引き続きテーマの一つになりそうで、すごく期待している。

 

 作中ではすでに日本という国家は過去のものとなっている。日本列島は中国とロシアによって分割統治されており、日本人は中国国内56番目の少数民族という扱い。
 まず登場するのは、上記の生体兵器の影響で完全に人の姿を失った男、ケン。
 そして、その生体兵器討伐部隊として登場する中国軍の一員、アキラ。
 二人はかつて親しい仲だったようだが、何かの因縁で現在は対立している。アキラは中国軍から逃れ陰棲していたケンを殺しに来たようだが、怪物と化したケンの圧倒的な存在感を前に敗走する。
 そこに、ケンとアキラ共通の友人で、不死身の生体兵器を圧倒するほど強い謎の優男イサクがからむ。
 三人はかつて、中国統治下の日本人コミュニティで出会った友人同士だった。
 正義漢だがリアリストでもあるアキラ、良くも悪くも純朴でコミュニティ内では軽んじられているケン、そして、同じく純粋で友人思いだが敵には容赦のない暴力を振るうイサク。
 過去のエピソードで描かれる三者の性格は、時代を経て姿かたちと立場が変わっても本質的に同じのように見える。
 それでも、いまはお互い違う道を歩むことになったようだ。
 友人同士だった彼らは、何があったために道を違えることになったのか。それは、どうしても譲れない何かのためなのか。その背景が語られるのを待つ。

 

 正直に言うと、万人に絶対にすすめられる作品ではないような気がするのだな。
 キャラクターたちの行動の動機は個人的で複雑だし、戦闘も泥臭くて、大変失礼だけど、たくさんの読者がひっかかるフックの多い漫画じゃなさそうだ。
 でも伊藤悠作品に期待するものとしては申し分ない。従来からのファン含め、キャラクター同士の太くて重い因縁が好きな人には刺さる内容だと思うので、以上、よろしくお願いいたします。

 余談ですが、相変わらず無邪気さとそこ知れなさの同居を描くのがマジうまいです。現在のケンがほんと怖いです。

明滅する蛍光灯の鋭いほどの闇。怪談作家・我妻俊樹を読もうぜ、ということについて

 怪談やオカルトの類が好きだ。しかし、性格的に難儀なところがあって、怪現象でもUMAでもできるだけ科学的検証に耐えうるものであって欲しいという願望から、かえって批判的な態度で接してしまうことがある。
 例えば、「実話」というテイで書かれた話を読んだとする。
 それで、話の中でお化けや呪いが大暴れ、物理的な現象を起こしたり人が何人も死んでいたりするともうダメだ。

 「え…それだけ大事になっててあんまりニュースになってないのっておかしくね?」とか、「現場に何か痕跡が残ってるなら何で写真のひとつも撮って来ないん?」と思ってしまう。
 この話、ツジツマが合わないところがあるぞ、とか。
 この話、単なる偶然や勘違いを都合よく解釈してるぞ、とか。
 こんな具合で、本来はおかしなもの、おかしなことが好きなはずが、まるで、おかしなものやことが嫌いな人のように接してしまう。困ったことだが、けっこうそういう人いるんじゃないか、と思う。フィクションだけど、『巷説百物語』シリーズの山岡百介もこういう難儀な人物として描かれている。


 さて、どんな話であれば、こうした面倒くさいフィルターさえ貫通してゾッとさせることができるだろうか?
 まずは語り口や文章が巧みなもの。現実的な目線から強く叩かれても揺らがないぐらい設定(実話怪談では禁句かもしれないけど)がしっかりしているのも大事なポイントだ。そしてもう一つ、ジャンルとして好き…というか、弱いものがある。
 それは、話の中で何が起きているんだか最後までわからないが、なぜか怖ろしいと感じさせる、曲芸のようなことをやっている作品。
 これである。


 我ながら無責任な言い方で、何も説明したことになってない。なので、もう少しくわしく書いてみる。
 俺は内田百閒という大正・昭和時代の作家が好きで、世間では百閒は「文学」というハコに堂々とおさまっている文豪という扱いだと思うんだけど、この人が正体のよくわからない気味の悪い話をたくさん書いている。
 うっかり道で財布を拾ったばかりに必死で逃げ回ることになり、道中でなぜか何度も財布の中身を確認してみる話とか。
 山を歩いていたらなぜか訪ねるつもりのない寺の境内にたどり着き、人混みをかき分けて走っていたらあたりの人間がいつのまにか無数のトウモロコシに変わっていた話とか。
 知らない男と一緒になって坂道を歩いていたら坂の下の方に自分たちとそっくりの二人組がいて、いきなり身動きがとれなくなったと思ったら下にいた二人の片方が後ろを向いてこちらに駆けてくる話とか。
 何が起きているのか、なんでそうなるのか、読んでいる最中はもちろん、読み終わってもほとんどわからない。それでいて、ほんのかすかに、どこか心当たりがあるような気もする。
 薄暗い闇が作品の中を漂っていて、いつか何かがつかめそうでいて、おそらく永遠に判明しない。
 このわからなさが怖い。正確に言うなら、一瞬だけわかりそうで、絶対にわからないこの闇が怖い。
 前置きが長くなったけど、だから読もうぜ、ということなのだ。
 我妻俊樹である。


 百閒の小説における闇が行灯とか蝋燭のちらちらした暗さだとしたら、我妻俊樹の怪談は蛍光灯をせわしなく点滅させるような、バキバキに鋭い闇だと思う。しかし、話の中で何が起きているのかほとんどわからない怖さを扱っている点では、どちらもよく似ている。

 我妻俊樹の怪談で出てくるフォーマットは次のようなものだ。
 まず、おかしなことその①が起きる。続いてその②が起きる。
 ①と②それぞれはささいな違和感であったり、怪奇現象であってもそれほど劇的なものでないことが多い。
 肝心なことは①と②の間に何かしらの関係性が感じられるところだ。それでいて、この隙間にわだかまっている、電灯が一瞬だけバツン、と完全に落ちたときの手の切れそうな闇の中から、答えが現れることは絶対にないこともなんとなくわかっている。
 この加減が絶妙なのだ。上の方で曲芸という言葉を使ったけど、まさに芸術だ。
 妙な出来事が単に二度続いた、だけでは済まないところ、気のせいとは片づけられない限界のところ。
 ただの意味不明ではなく、何か重大なことなのに理解不能というか、そこにおそらく何かがあるのに、こちらの認識では決定的に届かない。このギリギリの線は我妻俊樹にしか書けない。


 少しつっこんだことを書くと、俺は、我妻俊樹の怪談が本当に怖いのは、我妻俊樹の書く怪奇が、俺たち人間にあまり興味がないからだと思う。
 他の怪談作家が書くお化けは、悪意にせよ害意にせよ、もう少し人間に関心がある。積極的にどうにかしてやろうと思っている。
 しかし、我妻俊樹の書く闇は人間にそれほど関心がない。気まぐれで、無機的で、もしもここに描かれているものこそ世界の本当の姿だとしたら、それに対して勝手に混乱し、きりきり舞いしている人間は、なんというか、なんて滑稽で無意味な存在なんだろう。
 俺はそのことがものすごく怖い。凶器を持った殺人鬼に追い回されるよりも。多くの犠牲者を生む凶暴な呪いよりも。
 怪談好きが誰しもはまる作風ではないと思うけど、唯一無二だ。ものすごく怖いと思うので、以上、よろしくお願いいたします。

 

冥途・旅順入城式 (岩波文庫)

冥途・旅順入城式 (岩波文庫)

 

 

 

2019年4月23日について

 ゾウムシはゆっくり歩いていた。
 俺はそれを眺めている。場所は電車の中で、ゾウムシが歩いているのは目の前に立っている女性の後頭部だった。
 声をかけた方がいいのかな? 俺は少し考えてから、それはないなと思い直す。
 まったく自慢にならないが、風体から頭の中まで、ろくでもない高純度の不審者なのだ。見ず知らずのそんな男から声をかけられても、ありがたいどころか気色悪いだけに決まっている。
 あ、と思う。というか、このゾウムシ取りましょうか問題が女性に突きつけるのは、面識のない不審者にゾウムシを取ってもらう or 薄気味悪いから断る の二択だと思い込んでいたけど、女性の立場で考えればもっとうがった見方もあるのだ。
 万が一、女性が「取ってください」と頼んだとする。それで俺が、「はい取りました」とつまんだゾウムシを見せたところで、それは俺が本当に頭の上にいたゾウムシを取った証拠にはならないのだ。
 マジシャンよろしく俺が手のひらの中に最初からゾウムシを隠していて、後からさもそれを取ったかのように見せる、本当は目的は女性の髪を触ることにこそあった犯罪者…そんな可能性というか、誤解をされることもありうるのだ。
 つまり俺はゾウムシを取るためにはまず何も隠していない手のひらを開いてみせる必要があって…あれ? でもそもそも女性はまず見ず知らずの男にゾウムシを取ってくれとは頼まないだろうから、この苦悩自体が無意味なのか…。
 俺はひとりで考える。ゾウムシは歩き続ける。何事もなく、女性は先に電車を降りていった。

コンビニで働いていた外国の人に思ったことについて

 夜食を買いに行ったコンビニで店に入ったときにかけられた「いらっしゃいませ」という言葉のイントネーションが、一回目に言われたやつもその後に続けて言われたやつもなんとなく耳に残る感じで、レジに行ったら果たして店員さんが二人とも外国の人だった。

 実際の数字はわからないが、体感的にはもう外国人が店員やってるケースの方が多いんじゃないの? という気がする。

 企業の教育として、お客が来たら全員で挨拶するように、どっちか片方、客に気づいた方がやるのではダメだよ、と教えるのだろうか。

 そんなことやらなくていいのになあ、と感じるのだが、人手が不足した日本で働いてもらっている上で、「でも、別にこれはやらなくていいから」と要求するのがなんだか屈折した傲慢さのようで、あんまり強くも思えないでいる。

 ただひとつ、その後ショックだったのは、会計の後に俺がレシートを断ったときに、その男性が「すみません」と片言で謝ったことで、おいおい、その「すみません」がなんとなく口をついて出てきてしまうのは、日本の、俺みたいな、精神が錯綜して疲弊して、物事のどこからどこまでが自分の責任じゃないのかもうわからなくなっちゃったやつだけじゃないのか? なんで君みたいな人までそうなってしまっているんだよ、と思った。

 別に日本人としての自分や環境を卑下しきっているわけではなくて、日本には日本で教えてあげられること、学んでいって欲しいことがあるはずだと俺は信じているけど、それは少なくともこういうことじゃねえはずで。じゃあ何かって言われても困るけど、そんなことを考えたので、以上、よろしくお願いいたします。

 

主人公がズタボロになるのが好きなやつら、ヴェルーヴェン3部作を読もうぜ、ということについて

 何かを失って傷ついてズタボロになっていくことへの憧れ、ナルシシズムみたいなものがあると思っていて、『カウボーイ・ビバップ』のスパイクとか『告白』の熊次郎とか目を奪われてしまい、彼らが迎えた結末は、まるで大きな石を水の中に投げ込んだように心に長いこと居座る。最近だと『ブレードランナー2049』のライアン・ゴズリングとか。
 で、同好の士がいたら次にすすめたいものがある。
 ヴェルーヴェン3部作。
 これですよ。

 

 ベストセラーになった『その女アレックス』という題名は聞いたことがある、もしくは読んだ、という人もいましょうが、実はこの小説は主人公である刑事カミーユ・ヴェルーヴェンをめぐる長編シリーズの一作という位置付けなのですね。『その女アレックス』の前と後にそれぞれ一冊、別の長編があるわけです。
 『その女アレックス』もその前の『悲しみのイレーヌ』も優れたサスペンス、ミステリー。しかし俺はあえて、これらは最終作となる『傷だらけのカミーユ』への布石に過ぎないと主張したい。
 展開のドラマティックさや謎解きの見事さでいうと、『傷だらけのカミーユ』は3部作中比較的おとなしめだと思います。それでも、大切な人をあらゆるかたちでもぎとられ自身のキャリアもフイにし荒野の中をほうほうの体で這いずり回るカミーユの姿が一番鮮明に描かれているこの作品が、俺は最高傑作だと思う。
 『悲しみのイレーヌ』で主人公が失ったもの、『その女アレックス』の終わりまでかろうじて手元に残ったもの、これらをふまえて、最終作での更なる喪失まで追って欲しい、主人公ズタボロフェチには絶対刺さる思うので、以上、よろしくお願いいたします。

 

 余談だけど、『傷だらけのカミーユ』の彼は、心のどこかで、いつか直接に、しっかりと罰されたいという願いがあったのでは…というのは邪推だろうか。「こいつがずっと好きだった」という言葉からつい深読みしてしまう。
 最終盤のカミーユのセリフと彼らの言葉のやりとりはシリーズ全体をとおしてのハイライトです。行き着いた果ての静謐。素晴らしかった。

 

悲しみのイレーヌ (文春文庫 ル 6-3)

悲しみのイレーヌ (文春文庫 ル 6-3)

 

 

 

その女アレックス (文春文庫)

その女アレックス (文春文庫)

 

 

 

傷だらけのカミーユ (文春文庫) (文春文庫 ル 6-4)

傷だらけのカミーユ (文春文庫) (文春文庫 ル 6-4)

 

 

2019年4月6日について

 田舎に帰っている。天気がいいので、読んでいる本の続きは庭で読むことにした。
 乾いた芝と、まばらというには繁って生えすぎた青々した雑草が日の光を浴びている。庭というより、どこかの山野の風景に見えた。
 人家の一画のように見えないのは、思い出の中にある見た目と少しだけ違っているせいもあるだろう。以前は片隅を耕してわずかな野菜を育てており、その姿が目に入ってきたものだが、住んでいる家族が一人二人亡くなっていくうちに誰も手を入れなくなった。昔の耕作の名残はなく、ひときわ背の高い、名前を知らない雑草が、群れて白い花を咲かせている。
 視界の隅で、テントウムシの幼虫が芝の葉にくるくる沿うように遊んでいた。指でからかうと人差し指の動きのままにはって登ってきた。
 テントウムシの子供の見た目はおかしい。灰がかった青色に橙の点々、抜いたばかりの毛のような黒々したしっかりした足を持つ、奇怪な姿をしている。
 それにしても、爪の先ほどの卵からかえってここまで育つのに、さぞかしたらふく他の生き物を食っただろう。そう思ってから庭にテントウムシを返し、芝の上に置いていた本を再び手に取ったら、アリマキが緑色に潰れて死んでいた。テントウムシはこのアリマキを食う。
 私道沿いに植えた木蓮に、野放図に開いて鳥のようになった深い紫色の花が咲いていた。向こうに青い空が広がっている。飛行機が長く雲を引きながら飛んでいる。風が強い。少し目を離してもう一度見たら、雲は吹き流れてもう見つからなかった。