『ID:INVADED』10話までの疑問と感想を整理することについて

はじめに

 文字通り、謎が謎を呼ぶアニメ『id:INVADED』。

 10話まで視聴して気になった点を整理する…前に、まず、現在の作品世界の構造から。


現実世界

>砂漠の世界=雷の世界=鳴瓢のイド(酒井田=鳴瓢と穴井戸=富久田が滞在中。鳴瓢のドグマ落ちとともにジョン・ウォーカー出現)
>鳴瓢のイド内の飛鳥井木記のイド(本堂町が滞在中。ジョン・ウォーカーの謎を追う)
>鳴瓢のイド内の飛鳥井木記のイド?内の飛鳥井木記の夢(鳴瓢が一度訪れ、顔剥ぎをボコった後排出)


という入れ子になっている。


鳴瓢は百貴宅で誰を殺そうとしたのか?

 10話終盤で、百貴宅に残っていた残留思念から生成された砂漠の世界=雷の世界=鳴瓢のイドということが明らかになった。
 「全部罠だ」と言った百貴は、それが鳴瓢のものだということを知っていたのだろう。


 問題は、百貴宅から検出されたのが鳴瓢の殺意であるにも関わらず、鳴瓢に百貴宅での殺人に関する記憶がなさそうな点だ。
 鳴瓢は誰に殺意を向けたのだろうか?


 順当に考えれば、現場から死体が見つかっている白駒二四男なんだけど、俺は、現時点で行方不明の飛鳥井木記なんじゃないか、という気がする。
 悪夢に苛まれ続ける飛鳥井木記も、自らの死を望むような発言をしていた。鳴瓢はその願望に協力して飛鳥井木記の殺害を試み、そのショックで記憶を封印してしまった、というのはどうだろう(じゃあ飛鳥井木記はどこにいったのか、となるが、それは後述する)。


鳴瓢、ドグマ落ち

 砂漠の世界=雷の世界=自らのイド、であることを穴井戸から伝えられ、酒井田は鳴瓢としての自覚を取り戻してドグマ落ちしてしまう。
 以前から禁忌として語られていたドグマ落ちが10話でついに発生した。

 
 どうやら、ただ自分のイドに潜るだけではドグマ落ちには至らず(もしそうなら砂漠の世界に潜った時点で異常が起きているはずなので)、現実世界の自身を思い出すことが条件になっているらしい。


 百貴の「罠」発言もあるので、鳴瓢のドグマ落ちは始めから狙われていたらしい。
 問題は、誰がこれを仕組んだか。
 現実世界の記憶を持ち越し、かつ高い推理能力を持つ穴井戸がいなければこの事態は起きなかった。ただ、富久田自身は、どうもたまたま真相に気付いたので愉快犯的に鳴瓢に真実を告げている感がある。


 鳴瓢をハメたい何者かが2名同時の投入を手配、富久田=穴井戸は砂漠の世界で自身の役割を理解し、相手の期待通り鳴瓢を陥れたのだと思う。
 で、いまの時点でもっとも怪しいのは…まあ、どうしても局長ということにはなる。


飛鳥井木記の能力とミヅハノメの関係

 本作のキーパーソン、飛鳥井木記には、自身の強い感情を映像として別の人間に伝えられる能力があることがわかった。
 一方、ミヅハノメの機能は、おおざっぱに言うと「残留思念=強い感情から世界を生成するもの」であって、両者はかなり近い(ちなみに、飛鳥井木記の能力が極大化すると他者や世界がこれに侵食されるらしく(INVADED)、俺は作品のタイトルはこの異能にかかったものだと思う)。


 ミヅハノメが飛鳥井木記の能力をベースにしているのは間違いないが、ミヅハノメはいま、飛鳥井木記から完全に独立して動いているんだろうか?


 ほとんど憶測だが、ああいうシステムを機械単独で稼働させる、というのは、フィクションとしても非現実的、な気もする。
 俺は、飛鳥井木記がどこかで生存しており、ワクムスビで回収した殺意を飛鳥井木記にぶつけることで殺人犯に関連した世界=イドを生成させ、同時に、殺意にさらされた飛鳥井木記のイメージを「カエルちゃん」としてその世界に残すシステムこそがミヅハノメの正体なんじゃないかと思う。


 上で、鳴瓢が飛鳥井木記を殺そうとしたのでは、と書いたけれど、富久田と本堂町のケースのように、殺意にさらされた被害者が死ぬとは限らない。
 なので、なんらかの理由で鳴瓢が飛鳥井木記の殺害を試み、思念は残ったものの(+鳴瓢は記憶を忘却)、飛鳥井木記自身は運良く生存し、現在進行形でミヅハノメを稼働させている…と推測する。

 

ジョン・ウォーカーは何者か? ①

 いまの時点では早瀬浦局長が一番怪しい。怪しすぎて、局長じゃないという理由は「だって、これでまんま局長だったらズッコケるだろ?」というぐらいしかない。

 俺としてはここはちゃんと視聴者を裏切って(?)、局長以外を正体に持ってきて欲しい。

 

 そこで提唱するのが、「ジョン・ウォーカーはみんなの心にいるよ」説である。「みんな」は正確にはイドに潜る名探偵のことだ。

 10話の最後、ドグマ落ちした鳴瓢の前にジョン・ウォーカーが出現した。これが単なる偶然ではなく、ドグマ落ちしたからこそジョン・ウォーカーと対峙することになった、と仮定して整理してみる。 

 ドグマ落ちは、名探偵が自らのイドの中で現実の自分について認識することで発生する。名探偵は、現実では名探偵ではない。名探偵と表裏一体の存在、殺人犯だ。

つまり、ドグマ落ちとは殺人犯が自らのイド=深層心理で自身の殺人願望と向き合ってしまうことであり、その殺人願望を擬人化したものこそ、ジョン・ウォーカーなんじゃないだろうか。

 

ジョン・ウォーカーは何者か? ②

 名探偵が最後に向き合うのが、秘めていた自らの殺人衝動、というのはなかなか皮肉がきいていて、メタミステリ作家である舞城のひとつの結論かもな、という気がする。

 一方で、ちゃんと特定の何者かが犯人であって欲しい、という気持ちもある。

 

 俺は、『id:INVADED』には二つの異能が登場していると思う。

 一つは飛鳥井木記の自己のイメージを他者に伝える能力で、もう一つはジョン・ウォーカーの他者の夢の中に侵入する能力である。

 「INVADED」にかかる能力を持つ飛鳥井木記が被害者であるためにうやむやになっている感があるが(俺だけ?)、ジョン・ウォーカーの夢への侵入は、ジョン・ウォーカー自身の独立した異能であり、これも立派な「INVADED」である。

  

 実は、ジョン・ウォーカーと似たようなことをやった人物が一人いる。鳴瓢だ。

 鳴瓢は、飛鳥井木記の夢の中に脈絡なく登場してみせた。俺はこの類似から、もしジョン・ウォーカーが特定の何者かだとしたら、鳴瓢ではないかと思う。

 

 ただこの推測は、「鳴瓢がジョン・ウォーカーだったらすげえな」という、よく言えばメタ視点、悪く言って単なる当てずっぽうで、真相はもちろんわからない。

 とにかく、10話まで観てここまで整理した。アニメでここまで夢中になったのは久しぶりで、残り3話、本当に楽しみにしている。以上、よろしくお願いします。

舞城王太郎脚本、シリーズ構成。『ID:INVADED』を観ようぜ、ということについて

 アニメ『id:INVADED』にハマっている。


 俺の大好きな舞城王太郎がシリーズ構成(ってなんなのかよくわからないけど)と脚本を担当しているということで視聴して、あっさりハマった。舞城ファンで、あんまりアニメを観る習慣がない人にもおすすめ。


 いま10話を観終わったんだけど、感想としては、「思った以上に舞城全部乗せ」。
 集大成という表現を使うのは、小説家・舞城王太郎を愛するファンとして複雑なものがあるけれど、ものすごく重層的に「舞城」を感じる。


 正直最初は、「名探偵」が超常世界の殺人事件を解く、っていうアイデア一本で勝負する作品だと思っていた。
 殺人犯と名探偵の表裏一体性っていう発想は舞城っぽいけど(正確には舞城に大きな影響を与えたと思われるトマス・ハリスハンニバル・レクター)、すごく独自ってわけでもないしなあ。


 と思っていたのが、おお、舞城だ!となったのが、本堂町小春と井波七星の口喧嘩。
 この、表面上は普通に会話しながら、お互いに敵意をちらつかせ、徐々に緊張感が臨界に向かう感じ。舞城のセリフ回しとアニメーションってこんなに相性よかったんだ、と感じた。
 あとは、10話の鳴瓢の「本当に悔しいよ」の感じ。これもめちゃ舞城。
 言葉の選び方もだし、大切なセリフが、相手だけでなく自分自身にも言い聞かせるような感じになるのがマジ舞城。津田健次郎さんの演技も最高ですね。


 物語の核が絶対悪(ジョン・ウォーカー)との対峙にあるのは『ディスコ探偵水曜日』を思わせる。
 また、あらゆる殺人犯に入れ替わり夢の中で苛まれる飛鳥井木記の存在も、何かを代表するように世界の悪意にさらされ続ける少女(『ソマリア、サッチ・ア・スウィートハート』)を彷彿とさせる。
 『id:INVADED』には、こんな具合に多くの舞城要素が盛り込まれている。未見の人は今からでも観ようぜ。


 で、作中にはまだ多くの謎が残っている。個人的に気になった部分については別の記事で整理してみるので、以上、よろしくお願いします。

俺が父親を嫌いなことについて

 俺には子供がいないが、自分の血を受けたこの小さいものが側にいるというのが、どういうことなのか、ときどき考えてみることがある。

 俺がそいつを色々なところに連れて行くとき、そいつは俺の後ろから一生懸命についてくるのか、目の前の世界に誘われて俺を追い越して駆けていってしばらく呆然としてから俺の方に振り返るのか。

 わからないが、そのときの子供の顔を想像すると無性に泣きたくなってしまう。

 

 俺は父親が嫌いだ。

 俺は30過ぎて実家にいてそれもどうかしているのかもしれないし、それで父親をどうこう言うのも異常かもしれないが、とにかく嫌いだ。

 本も映画も俺とまるで趣味が合わない、その違いが際立っているところも、どこか自堕落で時間を無為に潰し続ける、そんな俺と同じところも、嫌っている。憎んでいると言っていい。

 家にいるときの父親は、たいていテレビを観ている。本当に一日中観ている。

 家の前に野放しにされた犬のクソといい勝負の情報番組やバラエティだ。ゲロを水で薄めてこね回したみたいなその代物を観ながら酒を飲んで、居間のソファで寝てしまう。

 0時間際に起き出し、ぶつぶつ言いながら自分の部屋に戻る。それを毎日繰り返す。毎日。毎日毎日…

 家で他にやることねえのかよ、と思う俺も自堕落さではいい勝負で、他にやらなきゃならないことは山のようにあるのに、家にいると怠けて何もできない。しかたなく表に出て作業や勉強をする。

 情けない、怠惰でグズな俺。俺の苛立ちは自分に向かったあと外側に溢れ出て、自分と同じ姿の父親に吸い寄せられたあと、俺と親父の間を反射し続けながら鋭くなっていく。

 

 俺は父親を憎んでいる。そして、そのことに苦しんでもいる。

 俺がいつか俺の子供(想像の存在だが)をどこか遠くに連れて行って、そいつが俺の顔を見上げるとき、俺はそのときのことを考えて、いまこの瞬間に泣きそうになる。

 その子の思っていることがわかるから。「こんな色んな場所を知っているお父さんはすごいな」とそいつはきっと思っているから。俺も昔そう思っていたから。

 

 父親に、俺は色んな場所に連れて行ってもらった。

 それはなぜか、雨や雪、闇の思い出と結びついている。

 どこだかもわからない雪の街で、天候はすでに落ち着いていたが、路面に厚く積もった雪が小さかった俺には難敵で、ふうふう息を吐きながら父親と一緒に懸命に歩いたこと。

 雨の夜、車の助手席に座ってどこかの街道を走ったこと。道はいくらか混み合っていて、俺は退屈でうとうとしかけていて、ふと目を開けたときに、雨に濡れたウィンドウに周りの車の明かりと路面店のネオンが色とりどりににじんで美しかったこと。

 小学生の夏のある日、最寄り駅を反対側にまたいだ公園の樹に蜜を塗った後、早朝一緒にカブトムシが来るか観に行ったこと。

 山にも海にも連れて行ってもらった。俺は父親を尊敬していた。そして今でもしている。憎みながら。

 

 どこの家でも父親というのはそんなものだろうか。それを横目で見ながら、痛いような軽蔑を覚える俺は異常だろうか。

 俺は父親をいつか受け入れることができるんだろうか(それよりも家を出た方が良さそうだが)。

 たぶん、子供を持てば俺は父親のことを受け入れられるんだと思う。ということは、どうもなかなか、望みは薄いということでもあるのだが。

 

 以上、よろしくお願いいたします。

俺と#KuTooについて

はじめに

 俺が#KuToo運動について最初に耳にしたのは、観ることなく垂れ流しにしていたテレビのニュースからだったと思う。

 「じゃあ、そんなにイヤなら履かなきゃいいじゃねえか」

 これが、反射的にとった俺のリアクションだった。

 俺の愚かなところは、仕事柄、脱ぎたくても脱げない環境もあるからこその運動なのだということ、一つの主義主張が起こるまでには慣習化された弊害との対立があり、それをふまえての今回のムーブメントなのだということに、想像がまったく働かず、「履きたくなきゃ履かなきゃいい」みたいなことを直情的にのたまう部分だ。

 それからニュースをちゃんと観て、ああいう靴を履き続けないとならない、そういう職場もあることを知った。

 ただ、続けて顔を出したのは、「自分と直接関係のない他人の苦しみには、同情はしても具体的な支援はしない」という第二の愚かさなのであった。

 まあ、その…頑張ってくれよな。

 つって、#KuToo運動については、俺の記憶の深海の暗闇に葬られていったのである。

 

 さて、その俺が昨年末から水虫を患った(ここから生理的に不快な文章が続きます)。

 はじめ小指の薬指の間に白いヒビのようなものが入り、「?」と思っているうちに、親指以外の4本の指の皮が、爪の生えた第一関節の部分を除いてめろめろとまくり上がったきた。

 医者行けよ、というものだがそうしなかったのは、赤裸になった4本の指がふしぎと痛くも痒くもなかったからで、俺は「困ったナ困ったナ」なんて言いながらへらへらしていたのである。

 

 異変は唐突に起きた。

 皮がめくれてバリアーがなくなったところに雑菌が入ったのだろう、ある日、4本の指が真っ赤に腫れる激烈な炎症を起こした。

 それはほとんど赤いキャッチャーミットのようであり、強い痛痒を訴えながら、触れると熱湯に浸けたような熱を放っているのがわかった。

 

 しかたねえ。俺は観念し、市販の水虫薬を塗って出勤した。

 

 午前中も痛みと痒みが続いた。昼、患部の様子を見るために靴下をめくって、俺は文字通り絶句した。

 公序良俗に反するためくわしくは記載しないが、俺の指は明らかに壊れつつあった。そして、それは朝方塗った水虫薬のせいと、なんとなくだが思われた。

 俺は急いでお医者に診てもらった。そして、市販の水虫薬が、成分によっては患部と相性が悪くかえって事態を面倒にすることがあるとそのとき教えてもらったのである。

 

 俺が安納芋のようになった自分の指を見て確信したことがある。

 例えば、これから指が回復するまでずっと、今まで通り革靴を履いて出勤し続けないとしたらどうだろうか。そういう職場なので革靴以外認められないとしたら。

 無理だ。

 これで革靴を履き続けたら、俺の指は間違いなく腐って落ちていただろう。

 

 俺はいま、仕方なくゾウリで出社している。

 社会人が革靴でいないのは…という抵抗感が自分の中にあったことは我ながら意外だったが、それと同時に、ようやく、深い記憶の底に沈めた#KuTooのことを思い出した。

 俺は結局いまゾウリを履いているが、同じように足のトラブルに襲われた人で、仕事柄、ゾウリとはいかない人もいるだろう。

 ゾウリは履けない、しかし靴を履いたら指が腐って落ちる、となれば治るまで休むしかない。しかし、これは俺のイメージだけど、従業員のクツにうるさい企業が、社員が有休を続けて取ることにいい顔をするとは、なんだか思えない。

 

 じゃあ困っちゃうじゃん、つって俺は#KuTooに思いを馳せている。

 思いを馳せても、じゃあ何を目指していったらいいのか、TPOとそれに合わせた服装、って通念の根本的な解体までが目的なのか、さすがにそれは賛同できねえ。

 …と思うけども、誰がどんな靴を履いてるとかは正直別にどうでもいい。結婚式だろうが葬儀だろうが、ゾウリでもなんでも好きなものを履いたらいい、とは思う。

 百貨店務めだろうが宿泊業だろうが冠婚葬祭業だろうが、好きなもん履いたらいい。俺はそんなん気にしないぜ。

 なんなら俺も革靴履きたくねえ。履かなくていいなら毎日ゾウリだ、なんて言いつついま足に軟膏塗ってる。

 以上、よろしくお願いいたします。

やべーエッセイ三度。『ひみつのしつもん』の感想について

 げらげら笑いながら読んだので感想を書こう、と思ったら困った。

 なぜかというと、言うべきことがあまりないからである。

 世の中にはドラマチックな物語、意義に富む物語、というものがたくさんあり、そういうものの感想を書くのはこれは簡単なわけである。

 だって起きてることがすごいんだから、それをそのまま書けば読む側も、ほう、そりゃすげえな、と素直に思ってくれるし。

 まあ中にはそのすごさがわかりにくい、もしかしてこの作品の事件性にきづいたのは俺だけなんじゃねえか? なんて(見当違いの)使命感を抱かせるような一見地味な作品もあるが、それはそれで、そのすごさを丹念に言語化していく作業で必然的に言うべきことが決まるので、書くのは楽なんである。

 

 ところが、この『ひみつのしつもん』の感想はかなり難しい。

 ただひたすらバカバカしいだけだからだ。

 前作、前々作とこの人のエッセイはひたすらバカバカしいだけだったが、今回もひたすらバカバカしかった。

 言ってみれば、岸本佐知子という翻訳家の奇行や愚行の記録と言えそうだが、何も起きていないという表現の方が近いだろう。

 なんというか、「出来事として文章に書き起こしされるべき基準値」みたいなものがあるとする。10点を超えたら文にしていいとしよう。

 『ひみつのしつもん』に載っている岸本佐知子の行動録は、いいところ1〜2点、中には1点未満のものもある。家でなんに付属しているのかわからないネジを拾ったとか、風呂場で足の裏をこすると思った以上に垢が出るとか、そんなものは本来文章にしなくてよい。

 エッセイなんだからそりゃそんなもんだろう、と言ったどこかのあなた、あなたの想像を軽く下回るかたちでどうでもよくバカバカしいのだ。

 

 すごいのは、それが面白いということである。困るのは、その面白さの説明がつけられないということである。

 よくまあそんなこと思いつくな、とか、よくこの人これで生活できてるな、とか、感想らしきものを言って言えないこともないが、エッセイの面白さを伝えたいなら、そんなことを言うよりも作中の一編を丸挙げしまった方が早く、しかしそれでは、俺の、「なんかめちゃめちゃくだらない割にすごいものを読んだぞ」という衝撃のやりどころはどこ? という感じで途方に暮れる。

 

 まあ、近いところで言うと町田康とかに近いんじゃねーかな。『テースト・オブ・苦虫』みてえな。

 とかって投げやりになっちゃう。でももっと何言ってんだこいつ?感があるというか、やっぱりもうみんな読んでください、ってことで。

 以上、よろしくお願いいたします。あ、あと、岸本さんが翻訳した『拳闘士の休息』は全舞城王太郎ファン必読だから、必ず読もうな。じゃ。

 

ひみつのしつもん (単行本)

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拳闘士の休息 (河出文庫 シ 7-1)

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2月14日について

 心の具合がよくないので、せめて体ぐらいは健康でいようと、サウナに通っている。

 向かう電車の中で、『CRISPR 究極の遺伝子編集技術の発見』という本を読んでいた。
 細菌は自分に害をなすウィルスを迎撃するために、ウィルスのDNAを特定してそれを破壊する「CRISPR(クリスパー)-casシステム」という仕組みを備えている。
 この「DNAの識別→攻撃」という仕組みに科学者が注目し、「攻撃」を「改変」に軌道修正することで、将来的には農作物や家畜の遺伝子を改良したり、人間の遺伝病に対する治療にも生かせるのではないか、というのが本の主旨だ。


 遺伝子編集に関する技術自体はCRISPR-casシステムの研究が深まる以前から存在したらしいが、このシステムはそれらよりはるかに簡単で、高校生でさえ扱えるものだという。
 そして、難病の代名詞である癌を根治させるポテンシャルを持ち、DNAという生命の設計図に干渉することで、人間という存在そのものを変えてしまう可能性さえあるようだ(もちろん、そこには倫理的な問題が発生することも、著者は触れている)。


 おいおいすげーな、と思いながら読む。
 もちろんいまのところ癌が完全に克服された気配はなく、また、こんな記事もネットにはあるので、研究が本当に実を結んだわけではなさそうだが、とにかく、「人間ってのはここまで来たのか」感がある。


 でも、と言うかじゃあ、と言うか、ここまで来た人間は、これからどこに行くんだろう?

 

 病気にならない方がそりゃ幸せだし、前にもこんな記事を書いたわけだから、こうして世界は平穏にまた近づくのだろう。
 でも、その行き着いた世界で暮らしている人間の光景が、俺にはあまり上手く描けない。
 単に想像力がないだけかもしれないし、未来の世界が無理でもいまの世界ならわかるのか? と言われたらそれもわからないのだが。


 そうだ、つまり、俺は世界のことがわからないのだ。俺がいま暮らしているこの世界のことも、いつか訪れる未来の世界のことも。


 サウナがある風呂屋の前まで来たら、ビルの1階をくり抜いた屋内駐車場の前に、警官が二人立っていた。
 なんだろう、と思って中を覗き込んだら、椅子に老齢の女性が一人座り込んでいて、それに、もう一人別の若い女性が何か声をかけていた。
 椅子に座った老人は、感情のうまく見つからない表情を浮かべながら、手にはビニール袋を下げていた。
 その姿は、なんというか、「てるてる坊主」を思わせた。
 物体をヒトガタにくくっていい加減に布切れを被せた何か、残酷な言い方になるが、俺たちが普段、実はかなり苦労して繕っている人間のかたちを半分放棄してしまったような、かろうじて保っているような、そんな雰囲気があった。
 痴呆かな、徘徊かな。お巡りさんの一人が無線でどこかとやり取りをしていて、「うんちを持っちゃってるみたいで…」というのが聞こえた。老人が手にしていた白いビニール袋が脳裏に浮かんだ。


 俺には世界と人間のことがわからない。
 世界と人間の、いまも、未来も、どうあるべきかわからない。
 何が幸せで何はなくなるべきで、何がどうなれば救われたことになるんだろうか。
どういう技術がもたらされたら、それでこの世界と人間がどうなれば、それがなんなのだろうか。


 以上、よろしくお願いします。

2月2日について

  俺が喫茶店で朝飯を食っている横に母親と子供の二人連れがいて、やっぱり朝ごはんを食べている。

  小さい子供。あの、何かするたびに「あう、あ」と声がぽこぽここぼれてくるような時期だ。

 

  普通の椅子ではテーブルに届かないので、飲食店が小児用に備えている、高さを補助する器具に座っている。

  小さい子供にとって、食べ物とおもちゃ、食べることと遊ぶことの境界は曖昧なんだと思う。そして、食べることと真剣に考えることの境目も。

  別に行儀が悪いというわけではなく、小さい両手をわしわしさせて、ああ、うう、と言いながら、目の前の食べ物(プレートに色々な料理が少しずつ盛られている)をじっと見つめる。そうやって、ひと口ひと口、くちに運ぶ。母親がそれを見守っている。

 

  弱い。こういうのに。

  美しいと思う。胸がいっぱいになる。

  この二人で調和し、あまりに完結しているように見えてしまう世界に、感嘆する一方で怖いとも思う。

  ここでは、父親の存在なんて果てしなく遠い彼方に消え去っている。

  それぐらい、母と子の情景は美しい。そして、美しさを感じるほど、お父さんごめんなさい、父子家庭のお父さんごめんなさい、と思う。

 

  こういう無条件の強烈な美しさ(俺だけならいいけど)がどこか別の家庭の苦しさにつながっているのか。それを強めているのか。

  感動したがり、美しさにやられたがりの者が俺の中にいて、綺麗なものを浴びて俺は幸福だが、それが世の中全体をときに息苦しくするのか。

  そう思うと、ごめんなさい、と思い、感動しながら俺も苦しい。

 

(追記)

  こうやって、「母と子供」の美しさを謳うほど、その理想像は父親を疎外するだけでなく、母親への重圧としてもかかっていくんだろう。

  やはりちゃんと考えなくてはいけない。すみません…

 

  以上、よろしくお願いします。