惨状と説教

誰か山から降りてきてほたえてから山に帰っていく記事。ブログ

『淵の王』の感想の続き、もしくは俺らが今いるべき場所について

小さな白い光が闇の渦の中に一本すうっと光線を伸ばしている。

私たちはその光の道を進まなくてはならない。

 

 舞城王太郎の『淵の王』について、前の記事で紹介した。

sanjou.hatenablog.jp

  

 今回は、前回触れなかった『淵の王』の三つ目のよさ、「人間が生きて、何かを決め、行動することについてのこの本としての解答(だと俺が思うもの)」について書いてみたい。

 

 ここからネタバレを含む。

 

 各章で主人公たちを見つめている、三人の語り手たち、彼らはどうも、それぞれ別の章の主人公たちであるっぽい。

 第1章の中島さおりを見守るのは堀江果歩。

 第2章の堀江果歩には中村悟堂。

 そして、第3章の中村悟堂には第1章の中島さおり。

 

 そう考えられる理由は二つ。

 まず、語り手たちの一人称から推測すると、彼らは男性一人女性二人の三人であり、これは各3章の主人公たちの性別と一致するということ。

 そして第二には、各章の語り手たちがそれぞれ別の章の主人公たちだと仮定すると、語り手であったときの彼らの感情や決意が、いざ自身が主人公を務めたときの行動とリンクしているらしき場面が多いことである。

 

 第二の理由についてもう少しくわしく書く。

 例えば第2章。堀江果歩の守護霊を担う誰か(中村悟堂?)は、2章の最後に果歩が闇の穴に喰われて消滅したとき、怒りながら、自分が果歩の意志を継いで「穴」との戦いに勝利することを誓う。

 悟堂は第3章で主人公を務め、完全なかたちではないが、一応穴に挑んで勝利し、その戦いを生き延びる。

 あるいは、このとき悟堂の守護霊だった者(中島さおり?)について。語り手は、悟堂と一緒に穴に飲まれながら、悟堂を守るために光の道を進まなくてはならないと決心する。

 そして、第1章で主人公となったさおりは友人の窮地を救うために自分の身を呈して友人を救い、「光の道を通る」(この表現はこのときさおりの守護霊だった者≒堀江果歩?の表現を借りている)。

 

 仮に語り手=主人公だとすると、なぜ舞城王太郎は主人公たち三人に、外部への干渉がほぼできない歯がゆいポジションを与えたんだろうか?

 

 第3章の最後をあらためて見てみる。第3章の主人公は中村悟堂だが、最後を締めくくるのはあくまで語り手の中島さおり(らしき者の意識)だ。意識だけのさおりが、悟堂への愛情を自覚し、「今、ここにいること」に満足してお話を締めるのだ。

 

 俺たちが自分自身を意識するとき、それは普通、「20○○年○月○日」的な意味での「今」にあり、地図上で示せるような「ここ」にしかない。

 この場合、意識のいわば中心地にあたるものは俺たち自身の肉体になる。肉体を持って行動する…。『淵の王』で言えば語り手ではなく主人公のポジションだ。

 自分の体を使えば、外の世界に働きかけ、誰かを助けることができる。一方、体を使って何ができるか。あるいはできないかを中心に考えるとき、行動までに至る思考や悩みはあくまで中心からズレた辺境の話となり、いざというときまでの準備、助走と見なされることになる。最悪、意識さえされない。

 

 「守護霊」でしかないさおりにも「今」と「ここ」とが自覚できたこと、自分を幸せだと感じられたことは、しかし、人間は自分の「中心地」をもっと自由にとらえてもいい、という可能性を示している気がする。

 自分の中心を、いま肉体がある時間とその場所の外に置いてみたらどうなるか。それを、舞城王太郎は書きたかった気がする。

 

 自分の肉体以外が中心になるってどういうことだ?

 例えば物語に触れるという行為がそうだと思う。堀江果歩の守護霊(中村悟堂?)は、果歩が穴に喰われて消滅するまでの彼女の人生を「物語」「筋書き」と表現した。

 このときの悟堂(?)には肉体がない。だから、果歩の歩みをその隣で見守るのは、確かに物語を読んでいるようなものだろう。

 でも、だからといって悟堂が目の前で起きていることに真剣でなかったわけじゃない。悟堂は果歩の傍らで果歩のトンデモぶりに笑わせられ、彼女を本気で心配し、最後は心の底から怒っていた。

 自分が主人公を務めたとき、この経験ゆえに悟堂は穴に挑み勝利することができたんだろう。もしも悟堂にとって自分の人生とは自身の肉体に起こったことしか意味しなかったのなら、もしも「挑む」ことの意味や価値を自分の人生の範囲でしか肥やせられなかったなら、悟堂はたぶん戦わずして負けていたんじゃないだろうか(こうして書くと、あくまで実際の行動にフィードバックされるという意味でしか「あえて中心を肉体からズラす」ことの価値を説明できていないようだけど、極端な話なんのアクションも生まなくたって、自分の身を離れて他者に心底共感できること自体が尊いと俺は思う)。

 

 もちろん、悟堂が見つめた果歩の人生のような、すべてがすべて面白いストーリーばかりじゃない。触れてみた物語が全然ピンとこなくって、中心をそっちに移す気にどうもならないことだってある。

 でも、『淵の王』の中でとあるキャラクターが言っているように、「本を読んでなんにも残らないことなんてない」のだとしたら、俺たちの中心を自由に動かせるようにしておくことで、いつか思いもよらないかたちで、何かの物語が俺たちを「穴」に立ち向かわせるのを助けてくれるかもしれない。

 

 物語をつうじて中心を自分の肉体から他者へとズラす。それ以外にも、焦点をあてるべき領域がある。俺たち自身の無意識がそうだ。

 

 ポール・オースターの『記憶の書』という中編に(『孤独の発明』収録)、あることを思い出した物語の語り手が、「自分の意識しないところで自分の記憶はこれを思い出そうとしてずっと働き続けていたのだろうか」と想像する場面がある。

 

 今の自分に不満があるとき、俺たちはどうしても、進めない「今」、できない「今」、やってはいけないのにやってしまう「今」を中心にして考えてしまう。できない体、やってしまう体のことに気が行ってしまう。

 でも、実は俺たちはけっしてサボっているわけではなくって、行動に表れないところで静かに考え、色々な情報や物語にあたり、悩み、暗闘しているのかもしれない。答えを全力で検索している俺たちの無意識を、俺たちはもっと評価して、自身に期待してもいいのかもしれない(じゃあいつまでも結果が出ないままでいいかっていうとわかんないけど)。

 

 …本当は、この「中心」という考え方について色々言い過ぎるも違うかな、という気もするのだ。こころだけの存在である中島さおりが「今、ここ」を感じハッピーだと言い切ること、それがなんかすごくねえ?っていうので終わらせて、そのすごさは口の中でなめ溶かすみたいに言葉にならないところでじっくり理解していくべきなのかもしれないとも思う。

 

 この本には謎も多い。果歩は主人公のときも守護霊のときもお化けに喰われちゃってるけど、これは単にかわいそうってことで理解していいんだろうか、とか。

 各章のお化けはみんな同じものが違う見え方をしてたってことなのか、とか。

 もし時間の流れとして守護霊時代を経て主人公時代に移るなら、作品内の時間がループしちゃわない?とか(第1章 主人公さおり、守護霊果歩→第2章 主人公果歩、守護霊悟堂→第3章主人公悟堂、守護霊さおり、でループしてしまう)。

 整理がついてから、感想を書くべきだったのかもしれない。

 

 でも、『淵の王』を手にとって一気に読ませられた体験は、ともかく色々書き連ねないとならないものだった。長々書いてしまったけど、もし誰かの目にこの文章が触れて、少しでも興味をひけたら嬉しい。

 

 おまけ。タイトルである「淵の王」とは、悟堂の章で姿を現す、人を飲む穴を使って移動し好き放題している謎の男のことを指すのだろうと思う(空間的な制限を受けない悪者という意味では同じく舞城作品の『ディスコ探偵水曜日』に登場する「黒い鳥の男」に通ずる)。

 

 しかし、俺はこのタイトルについても、もう少し勝手に考えてみたい。

 

 人の悪意や恐怖に導かれてやってくる穴は確かに「悪いもの」だが、悟堂は自身の環境を徹底的に劣悪にすることであえてこの穴を呼びそれを利用してやろうとしていたし、実際に物語の最後には自らこの穴に飛び込むことで血路を開いた。

 

 「穴」は悪いものだが、それを利用することもできる。悟堂の言葉を借りれば「中途半端」というなのかもしれないけど、その価値を把握し、勇気と見極めをもってそれを使用することは、その効果に溺れてただ楽しんでいることよりもよっぽど、自分の人生の主人たろうとする、ある意味で「王」に近い態度ではないか?

 「淵の王」とは、どんな不幸を呼ぶかわからない邪悪な穴に必然的につきまとわれながら、いざというときにそれを活かすことを見誤るまいとする、俺たち人間のことなんじゃないか…そんなことを思いながら、あらためてこの傑作をここに勧めるんであった。以上。

 

淵の王

淵の王