こま切れになったわたしたち、あるいは申し訳程度の『暗闇の中で子供』の感想

 希望がない。

 

 というとなんだか沈鬱な感じがするけど、それほど深刻な話じゃない。

 自分はこうなりたいな。

 周囲がこうだったらいいのにな。

 そういう望みがあまりないという話だ。

 

 人間の希望。俺が希望に対して抱くイメージは、希望を持つその人たち自身の姿をした、淡くて白い光のカタマリだ。

 例えば、これを自分の10cmくらい目の前、もしくは1分後の想像の世界に思い描く。「いま」の自分はこの白い光に向かって進み、自身をそこに重ねようとして努力する。光の方でも「いま」がこちらにやってこれるように手招きする。そうやって二つが結びあっている。

 世間の人たちは、どうやらこんな生き方をしているらしい。だからこそ、うまくいくとか失敗するとか、そういうことが「起こりえる」。

 俺、何かが上手くいった記憶もドジった記憶もあんまりないけど、そうか、希望がないからなんだ。29歳を迎えて、ようやくそのことがわかってきた。

 

 優秀な人。頭の良い人。大きな夢を持っている人。

 そういう人ほど、この希望の姿を遠い地点へ、未来へ、描きだすことができる。それをびっくりするぐらい遠いところにやってみせて、はたから見ていてほとんど眩しく感じられるような人さえいる。

 光に向かって歩む。光の方にたぐりよせられる。

 そうやって結びつけられた長短の線でつむがれたものを人生と呼ぶんだろうな、と最近思う。

 俺にはできなかった。俺は闇ですらないただぼんやりしただけの自分の周囲に、何も思い描くことができなかった。

 みんなが「いま」をどこかとつなげて何かを積み上げて生きているのに、俺の人生は29年分ただいたずらに過ぎ去って、何の厚みもなくこま切れになっている。

 

 もし、俺が諦観の中にいるある意味落ち着いた人間、という印象をこの文章が与えているとしたらそれは正確でないというか、なんとなくフェアでない気がするので、話は脱線するが、そうじゃないことは付記しておく。

 俺は希望はないけどプライドは高い。自分が本来そうである以上の何者かに見られたい。本当の身の丈が周囲に明らかにされないことを願ってびびりまくっている。

 それが願望といえば願望。そんな願いを抱えていつも恐々としているのが俺。

 でもその願望は、どこの未来とも展望ともつながっていないので、あくまで俺の定義として、そんなもの希望とは呼べないのだ。

 

 そんな俺が自分の中にある数少ない希望の存在を自覚する瞬間は、その希望が潰れたときとセットになっている。

 たとえば最初の大学受験に落ちたとき。前日、緊張してよく眠れないまま発表の朝を迎えて、受験票を握りしめて合格掲示の前に立って、何度も自分の数字を探して確認したとき。

 そして先日。内容は書かないが、このときも、俺は自分の中にちゃんと希望というものがあったことに、それをなくすことで気がついた。

 もっと上手くやるべきだったし、上手くやれると思っていた。

 実際はそうはいかなかった。珍しく俺が描いていたかすかな自らの希望の像は、俺の目の前であっけなく「ぺしゃっ」と潰れた。

 

 希望がちゃんと(?)消えたときに読む本がある。舞城王太郎の『暗闇の中で子供』という小説を手に取る。

 本作は、舞城のデビュー作である『煙か土か食い物』の続編だ。前作の主人公で四人兄弟の末弟だった奈津川四郎の兄、兄弟の三番目である三郎が主役を務める。

 頭脳明晰でエネルギッシュな四郎と違って、三郎はけっこうなボンクラだ。自堕落で、生業である作家業も真面目にしないで、友だちや知り合いの彼女や奥さんを寝取って暮らしている。

 それでも個人のパラメータ(知性・ルックス・社会的名声…)は高いので、俺が彼にシンパシーを抱いて作品を読み進めるのはある意味身の程をわきまえていないのだが、特に俺が強く共感してしまうのは、三郎が自分の将来やこれまでの歩みというものの扱い方をまったく理解できていないという点だ。

 「俺の人生なんてまったくの無意味だ」。そう心の底から絶望しているわけでもない。

 「俺の生きている意味はなんなんだ。これからどうやって生きていけばいいんだ」。そう悩んで呻いているわけでもない。

 いい歳をして自分のこれまでとこれからのいちいちが致命的につながらないのだ。それで、どうにかしなければと感じながら、どこか茫然としていて、焦りの感情もどこか人ごとなのだ。

 そのむなしさ。突発的に頑張ろうと思い立つこともあるが方法がわからず、周囲の人間の感情を巻き込んで彼らを不用意に疲労させながら、結局自分自身はなにも変わらないところ。

 三郎のこの自分に何も期待できず、誰も幸せにできない薄っぺらさは強烈に訴えるものがあって、個人のステータスの差を忘れて感情移入させる力があるのだ。

 

 ネタバレをすると、三郎は最後に一応自分自身に価値を認めてハッピーになる。

 きわめて風変わりでちょっとパンチが強すぎる幸福の手に入れ方だけど、三郎自身これでよいということはとにかく伝わる。

 実は本作、「作品の途中から三郎の創作であり、中盤以降はすべて嘘」という説があって、書かれていることが作品世界における事実の描写ではない可能性が高い。

 ただ、これが「本当」ではなく、三郎の手に入れたものを伝えるための手段としての「嘘」であったとしても(フィクション自体がそもそも嘘なわけだから、言うなれば二重の嘘であったとしても)、読者である俺はそれでもOKだ。

 「ある種の真実は嘘でしか伝えられない」。この作品自体そのことには言及しているが、クズ人間がどうやって自己を肯定するにいたりうるか、という一つの「真実」を題材に、本作は自分でそれを実践してみせたんだろう。

 その試みは成功している。だからこそ、俺の人生の特定の時期は他の何よりもこの本を求めることがあるんだろうと思う。

 この本を読むたびに、俺は少しだけ気持ちが軽くなる。

 抱えているものの重量自体が変わるのではなく、ちゃんとした持ち方がなんとなくわかる。そんな感じだ。

 

 本当は、俺が上で書いた人間の希望のイメージなんて、全然本当には近くないのかもな、と思うことはある。

 俺には周りの人たちが本当に立派に、頭のよい人たちに見えるけど、実は誰も、「自分の姿をした光のカタマリ」を遠いどこかに描くことなんてできていないのかもしれない。

 それでも彼らが上手くやっているように見えるのは、頭をフル回転させて、必死で歯を食いしばって、一寸先、一瞬向こうを生きようとして努力しているからなのかもしれない。

 その努力によって、彼らはかろうじて上手くいっているに過ぎない。だから、本当は誰の人生もほとんど全部こま切れで、みんな途方に暮れていて、そこに一貫した意味を見出している人なんてほとんどいないのかもしれない。

 それでも頑張れる人、へこたれる奴が生じるなら、それは能力の差ではない。ガッツの差によるところが大きい気がする。

 ふざけるなよ、甘えるなよ。お前がクソなのはお前が馬鹿だからじゃない。お前は馬鹿かもしれないがそれ自体は直接の原因じゃない。単に怠けているからだよ。それを棚にあげて人をうらやむなよ。汗をかけよ。それが無理なら黙って消えろよ。ぐちぐちブログとかに記事書かないでくれよ。目に入るとそれだけでうざったいよ。

 そういうことなのかもしれない。

 ま、それが世の中の本当の姿なら、この『暗闇の中で子供』の訴えうる範囲が広がるってことでもある。

 クズと深くシンクロしがちってだけで、本質的には、一寸先がわからなくて自分のこれまでの価値がわからなくなっちゃった一瞬に、そんな時期にあるすべての人に、きっと響く物語のはずだからだ。すっげえエログロだからそこは人を選ぶけどね(先に言うべきか)。では、以上。

 

暗闇の中で子供 (講談社ノベルス)

暗闇の中で子供 (講談社ノベルス)