独我論は嘘であるとわかったことについて

 「自分以外の人間はすべて心を持たないロボットである」。

 そんなことを考えてみたことはあるだろうか。

 

 人間の心は目で見たり手で触れたりすることができない。

 なので、自分以外の誰かが泣いていても笑っていても、そこに心があるかどうかは、実は本当にはわからない。

 誰かがケガをする。血が流れる。痛みを訴える。あるいは、彼の/彼女の胸に耳を当ててみれば、その心臓が脈を打つのが聴こえる。

 それでも、本当は自分以外の人々には、なんの意識もないのかもしれない。何かの目的で、いかにも自分と同じで心を持っているかのように見せられているだけ…実際はなんにもないがらんどうの肉の塊…なのかもしれない。

 

 そんな考え方を独我論という(たぶん。違っていたらすみません)。

 俺がこの考え方を知ったのは、永井均の『〈子ども〉のための哲学』という本が最初だったと思うのだが、そのときは「なるほどなあ」と感じた程度だった。

 しかし、この考えは実はひそかに心の奥底に息をひそめていたらしい。それはひっそりと生き続けていた。そして今日、実はあることによって死んだ。俺はそれが生きていたことを死んだことによって知ったのである。

 それは「きゅう」と言ってものの見事に死んだ。独我論は嘘である。以下はその話をする。

 

 今日俺が仕事中、お湯を汲みに給湯室に行くことがあった。途中、特に親しくない別の部署のおっさんと行き違った。

 おっさんが、ちらり、と俺に視線をよこした。「?」とこちらに違和感の残る妙な視線だった。そこには理由のわからない不安が込められているように感じられた。

 「なんだ?」と思いながら俺は給湯室に着いたのである。

 サーバーからお湯を注いでいるとき、俺はふと、くさいな、と思った。オナラの匂いなのだ。誰かがここでオナラをしていったらしいのである。

 

 そのとき俺の脳裏を二つの思考が同時に駆け抜け、それぞれの結論に同時にたどり着いた。まさにユリイカと呼んでいい体験だった。

 

 一つ。おっさんが先ほどあんな不安そうな顔で俺を見やったのは、オナラをしたからである。自分が放屁した場所に俺がやって来ることで己の屁がばれることに対する恐れによるものだったのだ。

 そしてもう一つ。

 これこそが肝要なのだけど、さて、この件について独我論的に解釈しようとするとどうなるだろうか。

 独我論には一つの特徴がある。それは、みんながロボットであることをなんらかの理由により隠すために、彼らが人間であると世界が「俺」に信じ込ませようとしている、という点である。

 つまり、自分のオナラが人にバレることに対する不安を示す、などという高度な演技を示して俺の「あれ?俺以外みんなロボットなんじゃね?」という疑いを薄めつつ、本当はおっさんはハイスペックな放屁ロボット…というのが独我論的世界観なのである。なるほどね。

 

 いったいどんなバカバカしい理由があればおっさんに屁の機能を仕込んでまで俺をハメようとしなくてはならないのだろうか?

 

 これは理屈ではない。感覚の話である。にもかかわらず独我論を貫こうとすると現れる世界のバカバカしさに俺は付き合いきれない…というか信じることができない。

 こうして、俺の中で独我論は「きゅう」と言って死んだのであった。

 

 思うに、独我論の巣食う土壌には世の中や周囲の人間がくだらなく見える、という性格が寄与している部分があるんじゃないか、と思う。

 世の中が薄っぺらく単調に感じられるから、人もロボットに見える、ってこともある気がする。

 つまり、おっさんは屁によって俺に世界の奥行きを示し、論理ではなく心情的に俺を救いだしたのであった。ありがとう。以上。

 

 もしこのブログを読んでいる人の中で独我論にとり憑かれている人がいたら(笑いごとではなく、本当にそうなったらこれはかなりしんどいはずである)、この記事についてあらためて考えてみてほしい。

 大丈夫だ。あなたの知らないところであなたの知らないおっさんがおっさんの意志でちゃんと屁をこいているし、それについて貴重な在宅時間を使って己の意志でブログを書いている愚かな男もいるからである。

 そんな連中がロボットであるはずがない。そんなことまでして世界があなたをだます意味はどこにもないはずだ。

 そんなグロテスクな世界はないはずだ。

 

 ないはずだ。

 

 ないはずだ。

 

 ないはず…だよな?

 

 といったようなことを気の利いたことを言ったつもりでぬかしてくるやつがいたら、凍ったきりたんぽで発話が不明瞭になるまでぶん殴ってやったらよいと思います。本当に以上。

 

<子ども>のための哲学 講談社現代新書―ジュネス

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