桜の木の下には何も埋まっていないことについて

 天気がいいので野川公園に『スティール・ボール・ラン』を持っていってそこで読んでいた。公園近くのコンビニで買ったポッキーと缶コーヒーを手に、どんどん読み進める。

 

 「ジャイロォォォ!」

 「ジョニィィィィ!」

 アメリカ大陸横断レースと聖人の遺体を巡る物語は佳境に入っていて、主人公二人はお互いの名を叫びながら、雪原におけるウェカピポ、マジェント・マジェントコンビの襲撃を退け、シビル・ウォー戦を切り抜け、すべての陰謀のおおもとである合衆国大統領との戦いに突入していく。長い旅を続けてきた彼らの冒険だが、もうすぐ終わりが近づいていた。

 

 野川公園にはたくさんの色んな種類の人がやって来ていた。特に子どもがいっぱいいた。子どもと呼べる年齢の、どんな時期に所属する人たちも、ここには見つけることができた。

 乗れるようになったばかりの自転車に乗って、一緒に来ている親に向かって憎まれ口を叩いている人。

 長い網を手に川に向かってとことこ坂を降りていく人。

 まだ自分の足だけでは立ち続けられないけど、手を引かれながらなら歩くことができて、足元の地面に何かを確かめるようにして一歩一歩進んでいく人。

 不審者にならない程度に俺はその様子を見ていた。

 

 川沿いに植わっている大きな桜の木から、風が吹くとゆるゆる溶けるように花びらが散って流れた。一枚一枚が精緻で美しい花びらというものが、惜しげもなく一度に吹き散らされる。大きな美しさの中で、個々の美は隠れて見つからなくなる。しかし、風の音とともに、本当に風景がかすむくらいのたくさんの白い花びらが宙を舞う光景は、もちろんそれ自体は見事なものだ。自分は何かを失っているような、手にいれたような、妙な気持ちになりながらずっと見ている。

 

 哲学者の中島義道に言わせると時間とはけして流れないものであるらしい。

 しかし、たくさんの花びらが目の前の川に沿うようにして宙を泳ぎ、一枚一枚と力を失って奔流から離れながらもほとんどはそのまま流れていく様子を見ていると、俺たちを運んでどこかに連れていく時間の流れというものを、そこに実感しないではいられなかった。

 

 芝生に寝転んでジョニィとジャイロのスタンドバトルを追いつつ、色んな年齢の子どもが近くに来るたび俺はその姿に目をやる。目を奪われてしまう。

 俺は自分が彼らだったときのことを思い出す。俺をそこから押し流してここまで連れて来て、またどこかに連れて行こうとする時間の流れの中で突っ立ちながら思い出す光景は、ほとんどかすんでいて不明瞭だが、過去の自分の満ち足りた幸せさだけはよみがえらせることができる。

 そのときの俺は不思議な気持ちだ。その感情にあえてタグをつけるなら「悲しさ」なのだが、無理に分類しようとするのは間違っている気もするし、とりあえずその気持ち自体は嫌いではないのだった。