イモムシ、もしくは世の中はちゃんと気持ち悪いことについて

 今朝歩いていたら、歩道のわきにイモムシがいた。

 サツマイモのような色としっぽのトゲが毒々しいやつが、ずんぐりしながらそこでじっとしていた。

 俺は、うわー、などと言いつつ歩くのをやめ、かがみこんでその姿をしばらく眺めていた。

 

 虫が好きだがイモムシは嫌いである。その一方で、外で見かけたりするとついじっと見てしまう。

 つくづく気味の悪い生き物だ。もしその存在を知らない人がいたら、俺がその生態について説明して聞かせてそれを信じるだろうか。

 「子どもの頃は棒に足がついたみたいなかたちなんだ。でも、成長したら殻を作ってその中で一度体をどろどろに溶かして、それから、羽を生やした姿になって殻から出てくる」。

 きっと信じないんじゃないだろうか。

 そしてあの遠慮なく張りつめたような体ときたら。今朝見たやつも少し大きすぎるんじゃないですか? と言ってやりたいような立派な姿をしていた。大人になったときに羽になる部分に使うための肉体も含めてあの姿で、ひたすら、いつか空を飛ぶときのために力を蓄えるためのかたちなのだと感じる。そのヒタムキさも生理的に気持ち悪い。

 

 ただ、俺はそんな気持ち悪いイモムシを見るたびにある一つの感覚をいつも抱く。それは、「世の中はちゃんと気持ち悪い」という安心感である。

 

 俺は人間としてのキャパシティがとても小さい。そんな俺は、しんどくなると生活の色々なものを遮断していくという行動をとる。

 親しい人とも話をしなくなり、どこかの店にもよらず自宅と会社だけで日々を完結させる。テレビも見ない。雑誌も見ない。

 そうすると、世の中というのはだんだん、「やるべきこととやらなくてよいこと」、「気持ちいいことと苦しいこと」という風に、すとんすとんと最低限の箱におさめられるようになっていく。

 これはきっと、俺が子どもも嫁さんもおらず両親も健康…と周囲に心配のない環境であることも大きい。が、ともかくそんな生き方をすることが一応許されている。課題と解決、快楽と苦痛の生活。そこには、大変なことはあっても、正体不明の気持ち悪さというものはない。

 

 オタクなのでまあ一応…つってどういう生活時期だろうとマンガと小説は読む。

 最近だと『ワールドトリガー』16巻、『BLUE GIANT』9巻、『惑星9の休日』、『海流のなかの島々』がよかった。

 そこに描かれたものはどれも熱く、もの悲しく、美しい。

 これらの作品内で、人間が対するモノは別の人間だったり、自分自身だったりする。世界とは自分を試す場所、もしくは希望と絶望を万華鏡のように鮮やかに振りまく玉手箱である。

 ここにも気持ち悪さはない。正体不明なものは、せいぜい人のこころぐらいである。

 

 俺はまったく断じてこれらの作品を貶めるつもりはない。でも、単純化した日々の中でこれらの作品を手にとった俺は、それを読んで読み終えて「ああ、良かったな」と思い、「あ、そういえば」とやりたくないことを思い出し、「まあしょうがねえな」とかなんとか言ってなんとなく家を出て、たまたま道で見かける一匹のイモムシにきっとガツンとやられずにいられない。

 

 俺が世の中をどう単純化しようと俺の勝手で、そうすることで楽になること、そうすることで得られる強さがあるから別にいい。

 でも、その中で処理できない圧倒的に気持ち悪いものをいきなり現させてみせるのは世界の勝手で、そしてその方が正しいんだからしかたがない。イモムシはいなくならない。イモムシはイモムシの勝手で蛾になるために頑張って葉っぱとかを食う。

 俺は彼らを目にしたときの気持ち悪さが嫌いじゃないのだ。結局。いや、嫌いだけど。

 なんとなく自分がちゃんと正しいものに接続されたような安心感があって、それで、できればその存在を受け入れたい。でも、なかなかそうもいかないんですよ、って変な恥ずかしさというかむずがゆさがわいてきて、これは俺にとっていい気持ち悪さなのだ、と地面に転がった生き物を見ながら思うのである(悪い気持ち悪さについてはいつか機会があったら書こうと思う)。