『ジョン・ウィック2』の感想と『サマーウォーズ』と物語の作り方について

はじめに

 『ジョン・ウィック2』を観る人間はだいたい2種類に大別される。ジョン・ウィックが劇中で最初に銃を撃ったとき、「お前銃撃つのかよ!」とツッコむ人間とツッコまない人間である。

 

 と言っても観ていない人にはなんのこっちゃわからないと思うので説明する。

 

 『ジョン・ウィック』の世界ではアウトローとしてランクが低い人間は銃を持つことができない。また、敵であっても意外とみんないいやつが多いので、例えば冒頭でマフィアのアジトに車で乗り込んできたジョン・ウィックが車がオシャカになったので降りてきたとき、誰もジョン・ウィックを遠距離から銃でハジいたり自分の車で轢き殺そうとはせず、一人ずつジョン・ウィックに素手で襲いかかっていく。

 それに対するジョン、打撃と組み技、投げ技を駆使して相手を次々に返り討ちにする。「なんでこいつらお互いに銃使わないんだろ?」という最初の疑問が解決されないまま延々とステゴロが続くので、お、そうか、つまりそういう肉弾的な方向でやっていくんですね、と思ったあたりでジョンが普通かつ唐突に銃を撃つ。なのでツッコむ。「お前銃撃つのかよ!」

 

あらためて『ジョン・ウィック2』の感想と『サマーウォーズ』との対比について

 ここまででおそらくわかるとおり、この映画に対する好意的な感想は俺にはない。ちなみに上でアウトローとしてランクが低いと銃が持てないとかなんとか書いたが嘘である。

 この映画には一つの約束がある。それは、この映画における敵役は単にジョンにスタイリッシュに殺されるための小道具であり、基本的にバカであるということである。

 俺はそれがなかなか理解できず、また、それが理解できるまでに「なんで○○しないの?」というのをずいぶん繰り返した。だいぶ時間と体力がかかった。

 フォローすると、逆にこの約束を把握してからはそれなりに楽しめて、チートで攻撃力と防御力をMAXにしたシューティングゲームのキャラのようなジョンが周囲全員敵と化した街の中で無双していくのは確かに爽快だった。

 ただ、かなしいかなジョンの攻撃のパターンはゲームのプレイヤーでいうと中の下くらいの感じで、そんなにバリエーションが無いので、チートしてなかったらお前わりとすぐ死んでるよな、とかも思った。暗がり行くのに暗視ゴーグルも持ってねえし、そりゃゴーグルかけたらキアヌの男前ぶりは映えなくなるけど、そんなにカッコつけるのが大事か?

 

 細かいこと言うなよ、それは言うだけ野暮なんだよ、という人がたぶんいて、うるせえな細かくねえよ、と言いかけて、俺にはある別の映画にまつわる思い出がよみがえる。

 『サマーウォーズ』である。

 

 『サマーウォーズ』も色々と批判のある映画で、そのうちの一つにご都合主義というものがあって、例えばラスボスとの戦いで味方の一人が相手の鉄壁の防御をわりとあっさり無効化してくれるんだけど、それが「いや、お前何を好き勝手反則技使ってんだよ」という。

 かくいう俺はどうか。…俺は実は『サマーウォーズ』が好きで、なのでそういう批判をする人にたぶん言ってしまうだろう、この言葉を。「細かいこと言うなよ、それは言うだけ野暮なんだよ」。

 ありゃ…?

 

物語における約束ごとについて

 そういうわけで、物語における言うだけ野暮について、俺は『ジョン・ウィック2』と『サマーウォーズ』という二つの映画でできた鏡を境に、自分自身と対立することになってしまった。困った。

 これはどういうことなんだろうか、と考えて、おそらくポイントは、「この物語はなんであるか(何を楽しむものか)」という創作としてのメッセージと、「この物語においてはこういうことが起きる(もしくは起きない)」という約束事という、二つの要素にあると思う。

 例えば『ジョン・ウィック2』において、俺は「この映画はジョン・ウィックがひたすら近接格闘でスタイリッシュに敵を倒していくのが最優先の映画」というメッセージを序盤で受け取ることに失敗した。そして、それを受信するより先に「敵がジョンを倒すために効率という概念を持つことはありません。敵は単にジョンのにぎやかしです」という約束を押し付けられたのでムカついた。

 一方、『サマーウォーズ』では俺は「これは美麗かつ迫力のアニメーションを使ったボーイとガールのひと夏の甘酸っぱいやつで曲を効果的に使ってドーンでスカッとする映画」というメッセージを早々に理解しており、最後のスカッはもう決められていたようなものなので、そこに至る過程は、ある意味なんだろうと正直どうでもよかった。

 要約すると、「この映画は○○です」というメッセージが観客に伝わる前に約束事を押し付けるのは避けるべきで、これが許容値を超えるとその劇は破綻してしまう。逆に初期にメッセージさえ伝わってしまえば、あとはわりと無茶な約束でも容認される、ということである。

 

おわりに。しかし、そもそもメッセージが伝わるとはどういうことなのか?

 要約すると、とか上で気楽にのたまった。だが、よく考えるとここには二つの大きな問題が潜んでいる。

 一つ目。メッセージが伝わるかどうかが作品の成否に大きく関与するとして、果たして作成者はそのことをどこまで気にするべきなのだろうか?

 それが作品の出来を左右するんなら最優先事項じゃん、ってなもんだ。でも、おそらくそう簡単ではない。

 例えばこのメッセージを伝えることに気をとられる、それこそ観客全員に平等に理解させることに作品の持ち時間を過剰に割きすぎるのは本末転倒だ。だいたい観ている奴にも作品と波長の合う奴合わない奴、頭の回転が速い奴遅い奴がいるのだ。

 そうなると、波長が合いにくい、もしくは単に頭の回転が鈍い奴は放っておいて、ターゲットを「メッセージの理解が早い奴」に絞り、結果として多くの人に高い満足を与える、という判断は成立する。早々に作品の骨子を理解できる奴にとっては、作品はちゃんとメッセージ→約束事の追加という順番を踏んでいるので、何の問題もない。たとえグズの少数派が辺境で不平を言うことになったとしても。

 それこそ『ジョン・ウィック2』に同じことが言えて、世の中的にはこの映画の評価は割と高く、俺は冒頭で偉そうに能書きたれたけど、要は大多数が早々にメッセージを受理するのに成功したのに対し、それに失敗した、能力がなかったのである。そんなやつは無視することにしていたのかハナから存在を想定されていなかったのか、ともかく作品としての『ジョン・ウィック2』は成功していたとも言える。

 

 二つ目。俺は物語としてのメッセージが伝わる前に約束事を増やすな、と書いたが、これは意外と難しいのではないか、とも思う。

 『ジョン・ウィック2』の例で考えてみる。この映画のメッセージは「これはジョンが近接格闘中心に無双する映画です」、約束事は「敵はジョンを攻撃するうえで効率という概念のないデクであり、ジョンを目立たせるためだけに存在します」である。

 俺は後者の方が先に来たのでムカついたわけだけど、こういう事態が発生するにはある種のいたしかたなさがある。

 なぜか。それは、敵がまったく頭を使わないこと(約束事)が、俺にこの映画はジョンの近接格闘を見せるのが目的の映画なんだな、ということ(メッセージ)を理解させてくれたからである。

 つまり、順番としてはメッセージが先にあるべきなのだが、皮肉にも約束事がメッセージを明確化するのにとても優秀な役割を果たす…というか表裏と言える関係にあるので、順番が転倒してしまう、ということである。

 創作物を紹介する広告には、ある意味この転倒が起きさせない役割があるのだろう。約束事は秘めつつ、メッセージだけを先に伝え、作品と観客とが不幸な出会い方をしないようにするという。

 また、前作の流れを受けて、というのもメッセージと約束事の関係をふまえたひとつの作品の作り方だと思う。『ジョン・ウィック1』を観た人は2に対しきっと俺のようなツッコみをしないし、最初からまったく別の見方をしているはずだ。

 そういう作品外部の助けを借りず、創作物が何を訴え、何を気にするべきで何を無視するべきかは単体で完結しているべきじゃないですか、そういう美学がないですか…と俺は思うんだけど、それはけっこうイバラの道なのかもしれない。

 そういうわけで、作品そのものについては好みじゃないですが、色々考える機会になった『ジョン・ウィック2』でした。俺はおとなしく『サマーウォーズ』観てきゃっきゃします。以上。

 

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