なくさなければ何も残らない。『ブレードランナー2049』の感想について(前篇)

はじめに

 100点満点で1,200点あげます。それぐらいよかった。すごかった。
 
 以下、ネタバレ全開で感想を書きます。すでに観た方の意見のすり合わせにつかっていただければ幸いです。
 
 もしまだご覧になってない方がいたら、先に劇場で観てきては、と勧めます。
 これは、俺の中では『2049』が数十本に一本あるかないかぐらいの傑作だったからで、ネタバレで先回りしてしまうよりは、やっぱり観ながら体験したほうがいいよな、と勝手に思うからです。
 その際、もしまだ前作『ブレードランナー』を観ていなければ、先にそちらを観ましょう。1,200点という点数も、続編としての評価というところが大きくて、3時間弱の長い尺をハラハラしどおしで観終えたのは、前作をふまえたセリフや演出こそがよかったからです。
 前作の記憶がないと、最悪この映画は無駄に長い上にやたら陰気で、ときどき人が溺れたりしているだけの作品になる恐れがあります。というか、そんな気はかなりします。
 

束縛された持たざる者たちの映画、『ブレードランナー

 『ブレードランナー』のテーマは、不自由かつ何かを大きく欠いた存在でも希望を持つことができるのか、という問題にあると思う。
 例えば、作中に出てくるレプリカントという人造人間は、身体的には普通の人間とそんなに変わらないけども、創造主である人間の望むとおりの仕事、生き方しか許されない。子供を作る機能もないし、人為的に寿命を設定されて早死にする個体もいる。
 それでも、何かを望んだり感動したりする「こころ」というものは持っていて、単なる人間のための道具ではなくて、じゃあそこにはどんな救いや希望がありうるのか。
 一方、支配者である人間について
 人間はレプリカントを従える立場で、本来彼らよりはるかに自由で幸福なはずなのに、物語を追っていくとそうでもないのがわかる。
 これが『ブレードランナー』のいいところで、むしろ「自由であるはず」という前提がある分だけ、生活のために任務に縛られてレプリカントと殺し合い、望んだはずもない退廃した世界で暮らしているおかしさがはっきりしてくる。
 レプリカント側こそが心という概念のポジティブな面を代表する、という見方もできるでしょうし、人間もレプリカントも楽観的な未来を想像できず、様々な束縛を受けつつも生きていくしかない点で共通しており、互いの差は大きな問題ではない、という見方もできようかと思います。
 
 で、続編の『2049』でもこうした思想は引き継がれている。
 それを表すのが、作中で「ジョイ」と呼ばれる、独り者の恋人用に開発されたプログラム人格である。
 ジョイはプログラムだが感情を持ち、相手を好きだと伝えることはできるが、その姿は基本的にホログラムで表示されており、その体に触れることはできない。後付けの機能でようやく肉体「らしきもの」を与えることができるだけだ。
 つまりジョイは、生殖能力はなくても行為自体はおそらく可能だったレプリカントより、さらに多くのものを始めから奪われている。
 作中で、主人公を演じるライアン・ゴズリング(実はレプリカントであることが前半で判明する)とジョイとのラブシーンがあるんだけど、ジョイは本当の肉体を持たないため、一人の娼婦の助けを借りその体を仲介することで、ようやくゴズリングと関係を持つことができる。
 相手が求めているものを与えるため、自分が欲しいものを受け取るためにそこまでしなくては、ジョイは人間はおろかレプリカントにさえ並ぶことができない。
 でも、綺麗ごとのようだけど、好きな相手のためにそこまでできる愛情の深さにおいては、ジョイは作中の他のすべての生命と同列に立っているとも言える。
 ジョイ自身が言うように彼女のすべては0と1の二進法で設計されていて、意地の悪い考えをすれば彼女の「愛情」が果たして本当に人間やレプリカントと同じかたちをしているのかはわからない。
 でも、ジョイ自身はそれを同じだと思っており、ゴズリングの方もそれを信じるのなら、そこにあるものが愛とは違うと言うこともまた、誰にもできないのだと思う。ジョイが自分のデータを保存している媒体を破壊されたとき、「愛している」という言葉を最後のメッセージに選んで消滅したのを「死んだ」と感じた俺は、作品の術中にまんまとハマっていると言える。
 このように、色んなものをはじめから制限されて、奪われながら、それでも最後に残るものこそが「心」や「命」の本質であるということ、それが確かに存在することを知るためには、それ以外の余計なものをなくしていくことでしかたどり着けないということ、それが『ブレードランナー』が前作から一貫して示してきた方法論なのだと思う。
 なおこの映画、けっこう暴力要素が強いところがあって、人間もレプリカントもみんな、ぶん殴ったりガラス片を思いっきり握らされたり水に溺れさせられたりするんですが、これもすべての生命は同列であるということを、愛情や希望といった面とは別の、苦痛というネガティヴな方向から描こうとしたんでないかな、と思います。
 

SF的小道具とか巨大建築とか

 こういうことを書くととても思想的というか、要はめんどくせえ映画なのかな、という気がしてきますが、SF的なグッズとかハッタリのきいた巨大建築の「画」の力がいい仕事をしていて、純粋に観ていて楽しい作品でもあったと思いました。
 個人的には、レプリカントのデータを格納した棚が延々と並んでいる画が厨二くさくてよかったかな。他には、前作の舞台だった建物が完全に廃墟と化して再登場したときに感じたノスタルジーとか、溺れてるハリソンをバックに夜の海で殴り合ってる場面も緊張感と悲しさがあって美しかった。
 

リック・デッカードことハリソン・フォードについて

 で、そのハリソンについて。
 ハリソン・フォードというと金曜ロードショーハン・ソロインディ・ジョーンズ役で出てくるおっさんという認識なんですが、『2049』のハリソン、すごくよかった。前作のファンからの『2049』に対する意見は様々だと思うけど、それでもハリソンが登場するシーン、デッカードブラスターを構えながら闇の中から姿を現す、という演出は、誰の目から見ても満点なんじゃないでしょうか。
 ハリソンは前作と同じくあんまり強くなくて、体も年相応に丸くなっちゃってるんだけど、不思議と緊張感は残っていて、ハリソンが『2049』の役柄にうまくハマったのも、今作の勝因の一つかと思います。
 あと溺れるシーンね。これは素晴らしかったですね。この人ガチで溺れてるんじゃねえの、と思ったもんね。
 アカデミー賞に溺れ男優賞があったら今年はまあハリソンが獲るだろうなというか、このシーン撮ってて監督がカット!OK!つった後ADが「フォードさんお疲れ様っす!すごかったっすよ!」ってタオル渡しに行ったらもう息してなかったみたいな、なんかそういうのを感じましたね。ええ(ハリソンが溺れる話してたら長くなりすぎたので、後編に続く)。