惨状と説教

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セカイ系よ、30年後のディストピアで凱歌をあげろ。『ブレードランナー2049』の感想について(後編)

はじめに

 ハリソンが溺れる話をしていたら長くなりすぎた。ここから後編。

 

セカイ系のひとつの勝利としての『ブレードランナー2049』について

 なんか怒られそうなことから書き始めるんだけど、俺は『ブレードランナー2049』ってセカイ系作品の一種だと思う。

 この場合のセカイ系の定義は、「いち個人の行動や判断が、政治や経済というファクターよりも大きな影響力を持って、そのまま世界全体の命運に直結する作品」です。

 『2049』の中盤でライアン・ゴズリング演じる主人公がレプリカントから生まれた存在かも、と示唆される。

 レプリカントは子供を持つことができず人間に完全に支配された存在であるというのがこの世界の骨子であり前提なので、ゴズリングの存在は世界を根底から破壊する可能性を秘めており、彼の行動が世界の構造にそのまま作用しうる、という点でグッとセカイ系感が増してきます。

 で、俺の勝手なイメージですが、セカイ系って用語はたいがいその後に(笑)がついてバカにされがちというか、自意識過剰な若者の幼い世界観、として捉えられていると思う。

 その意見もまあ的を射ていて、一人の人間の判断が世界を大きく変えてしまうなんていうのは、実際の世の中が抱えている(とされる)複雑さを無視しないと成り立たないはずではある。
 じゃあ、セカイ系なのにちゃんと「現実」をとらえたものとして成立していて、批判する人たちを黙らせるようなつくりにするにはどうしたらいいか。

 これはたぶんひとつしか方法がなくて、それは、複雑であるはずの世界とその枠組みが実はまったく単純できわめてショボいということを明らかにし、こんなもの個人の選択であっさり変わったりぶっ壊れたりして当然でむしろどこがおかしいのか、ということを示すしかないのだと思います。
 『2049』は意図したかしなかったか(たぶんしてねえな)この方法に成功していて、人間がレプリカントを支配することで成立しているこの世界が、この支配関係の一点だけにあまりに頼りきった、どれだけ危うく、かつ複雑さとは程遠い世界であるかを作中を通して描いてきた。だから、一人の個人に過ぎないはずなのに出自だけは特別なゴズリングが世界を大きく揺るがしうる可能性が、ちゃんとリアルに観客に伝わるんですね。

 そういうわけで、とかく分別ある大人からはバカにされがちなセカイ系について、アメリカ映画という思わぬ方角から凱歌があげられたというか、ありがとうリドリー・スコットとドゥニ・ヴィルヌーブ、俺のような日本のオタクのために一矢報いてくれて、と彼らに抱きつきに行くんですが、向こうからしたらいきなり何を言ってるんだこのジャパニーは、という感じでしょうね。

 

主人公Kことライアン・ゴズリングについて

 前項の内容の続きになるんですけど、『2049』が本当にすごいのは、ゴズリングに一度は与えかけたセカイ系における唯一無二のヒーローという立ち位置を、結局奪い去ってしまうことだと思います。

 ストーリーが進むと、ゴズリングは実は特別な存在でもなんでもなく、彼自身はただの一体のレプリカントに過ぎないことが判明する。レプリカントから生まれた子供は別にいて、ゴズリングは世界の命運を巡る大きな物語の中心からは脱落してしまう。

 ここはすごくショックだった。ゴズリング自身がショックを受けるのは当然として、俺もショックだった。

 例えば廃墟に隠遁していたハリソンのところにゴズリングが訪ねていったとき、俺はその場面を「ハリソンは途中から薄々、目の前にいる男が自分の息子なのではないかということに気づいている」ものとして観ているわけですね。「ハリソンったらせっかく息子らしき男が訪ねてきたのに強がっちゃってもう」とか思って観ている。

 それが完璧にひっくり返される。ゴズリングもひとり相撲だったけど、観ている俺もひとり相撲だったことがわかる。作品の中と外で状況が共有されて、結果として、ゴズリングにすごく感情移入してしまう。

 その後も、作品としての焦点はゴズリングに当たり続ける。

 ゴズリングはヒーローではなくなったけど、この展開の方が俺には面白かった。誰にも替えがきかない英雄の活躍には感情移入できなくても、自分がそれまで持っていた大きな目的をいきなり失ってしまい、どこの誰でもなくなったまま世の中に放り出されてしまった気持ちは、理解できるから。

 一方、ゴズリングの最後については賛否両論ある。俺の中で。

 自分で新しい目的を見つけてそれに殉じて、降りしきる雪の中でその冷たさと美しさを感じながら死んでいく。素晴らしい。逆に言うと、素晴らし「すぎる」気もする。

 レプリカントが持っている心は、人間と同じく希望や未来を描くことができるのと同時に、人間と同じく迷ったり怠けたりしてしまうものでもあるはずで、そう考えるとあのエンディングはちょっとこころを美しく描きすぎている気もする。生き残って、もっと次の目的を求めてぶらぶらさまよう感じを匂わせて終わりでもよかったんじゃないかなー、とか思いました。

 

で、結局デッカードはレプ

 これはですね、俺には最後までわかりませんでした。

 正確に言うと、ハリソンがウォレス社の社長と会って、ハリソンがレプリカントと恋に落ちたのは彼が操作されていたからではないか、という発言が出たときは、ハリソンはレプリカントだったのだと思いました。

 ただ、後から考えるに別にこれといって決定的な証拠が出たわけではないので、結局よくわからないんですね。

 たぶん答えは『ブレードランナー』というシリーズをどうとらえるかによって変わってくると思う。

 例えば、人もレプリカントも「ジョイ」も、束縛と不自由さを抱えながらそれでも希望を目指すというこころのあり方については同じかたちをしている、というのが作品のメッセージであるなら、ハリソンは人間であり、本来異種であるはずのレプリカントと交わって次の世代をもうける、という方がなんとなくすわりはいいような気がする。

 一方、作品の主眼が人間という存在に対する戒めと警告であり、種族間の下剋上を描いたものととるなら、ハリソンはレプリカントであって、レプリカント同士で子供をつくったのだと見た方がいい気がする。

 ただ、作品のメッセージをどうとらえるにせよ、それはハリソンが何者であろうと成立する気もするし、何者であるかという問い自体を無効にするのが作品の狙いな気もするので、要はわかりません。あえて言うなら、俺はレプリカントだった方が面白いかな、とは思います。

 

おわりに

 そういうわけで、あらためて非常によかったです。俺は知らなかったんですが、どうやら『ブレードランナー』と『2049』の間を補完する作品がいくつかあるらしいので、次はそれを観てみようかな。

 最後に、ハリソンの嫁さんのレイチェルですが、前作のいかがわしい雰囲気の中だとあんまり目立たなかったんですが、今作の中では髪形が完全に浮いていて、「こわいなー、こわいなー、クレイジー・ダイヤモンド使ってきそうだなー」と思いながら観ていました。おしまい。