乙でした。『へうげもの』最終巻、25巻の感想について

はじめに

 第1話で、松永久秀という武将が平蜘蛛という家宝の平たい釜を抱えて自爆して、城ごと釜が爆散。主人公・古田織部は飛散した破片を鎧を着たままダッシュで追いかけて空中キャッチしていた。
 なんだこれは…すげえと思うしかなかった。
 その後、信長が自分の血で茶を淹れたりとか、千利休が最期の瞬間まで茶の鬼だったりとか、秀吉が狂った王様になって悲しくて恐ろしくって愛おしかったりした。
 あと、明智光秀石田三成。それまで俺は光秀は単なる裏切り者で、三成は関ヶ原で負けただけの人だと思っていた。
 本当はこんな魅力的な人たちだったのか…。いや、実際はどうか知らないが、漫画のキャラクターとしてこうも目が離せなくなる人物が次々出てくるのはなんなんだ。
 すごくあり続けた『へうげもの』が終わりました。お疲れ様でした。
 

最終巻の感想について。

 大阪の陣で豊臣が崩壊し、清廉を大正義とする徳川一強の世になる。そこにいくらかの侘びと楽を残そうとする織部と、清き世を固めるべく織部に腹を切らせようとする家康の因縁がこの巻で決着する。
 いろんな人物が出てくるが、織部憎しの執念の鬼となった家康を説得するべく、三浦按針や息子である秀忠、家康の密かな想い人であるねねが登場するくだりがすごくいい。
 結局、親子の関係でも恋情でも家康を翻意させることはできない。織部と家康の対立は、かの有名な風神雷神図屏風にもなぞらえて、最高潮に緊張したところで織部の切腹を迎える。
 
 二人の決着は、これはすごい答えの出し方だと思った。
 笑ったら負け、という秀吉の名言どおり、まずは主人公である織部が一本取っているけど、その勝利のきっかけになるところに、ライバルであり一本取られた側である家康の影響をからめてくるのがすごかった。
 織部の洒脱と家康の無粋と、互いに互いを超えようとし続けてのあのラストなのか?  と深読みしたくなる。
 
 芸術家である織部と為政者である家康が最後に戦わせる問答もすごかった。
 家康は、人間とは単に知恵のついた猿であるという。
 好きにさせればいつまた戦乱の世のように互いに傷つけあうかわからないから、清い理念のもとで厳格かつ一元的に管理するしかないという。
 ちなみに、知恵がついた猿云々というのは元々は秀吉の発言で、自分より先に王になった男に、家康が密かに影響されているのがわかる。
 家康は他にも光秀も多大にリスペしているのだが、一方の織部も、秀吉、信長、利休の多大な影響のもとに、当世最大の反逆者としてのいまの自分をつくっている。
 二人が、ひとつのオリジナルな個人であると同時に、偉大な先人たちのハイブリッドとしてもここに立っていることがわかるのが、この漫画のすげえとこであると思う。
 で、家康の主張に対して、織部は猿のように好き勝手生きられる自由さからは世の中を面白くするもの、楽しく生きていけるようにするものも生まれるだろう、面白さを欠いた世の中に生きる理由などあるのか、という。
 ここには、「安全に」生きることと「自由に」生きることの両立の難しさがあると思う。
 一方が勝ちすぎた世界はきっとどこかで破綻するので、バランスを取らないといけない。
 悲劇なのは、双方を代表する立場である家康、織部たち自身は、軽々に相手サイドに理解を示すことができないということである。相手の主張もわかる、と気軽に言ってしまうと、自分たちサイド全体の覇気、パワーが落ちるから。
 そういう、一つの立場の急先鋒に立ってしまった者の運命はどうしても苦しいものになると思うけど、それで言ったらあのラストは救いがあった。よかった。
 あと、もちろん『へうげもの』はフィクションなのだが、日本史に実際に、質実と享楽にそれぞれ殉じてきた人たちがいたからこそ、いまの日本は間違いなく安全で、かつそれなりに楽しい国でいられているのかな? とも思ったりする(ここは異論があるかもしれないけど…)。
 

おわりに

 ちなみにネタバレをすると、最終回には織部が出てこない。しかし、存在がすこんと抜けているために、かえって世の中に及ぼしたその影響がしのべる気がする。
 
 そういうわけで、最終巻、とてもよろしかったです。これまで単行本はすべて単一色のカラーリングだったのが、はじめて緑と白の二つの色が使われています。大変よい調和かと思います。あらためて、長期連載、本当にお疲れさまでした。
 完結記念に、個人的な名場面集の記事とか書こうかな?