芸術は本当の本当にゴミなのかもしれないことについて。その1

はじめに

 いきなりで恐縮ですが、これまで31年生きてきて、けっこう小説とか戯曲とかを読んできました。ここで、俺の好きな作品の上位10作を紹介してみたいと思います(順不同)。

 

・『告白』 町田康

・『行人』 夏目漱石

・『淵の王』 舞城王太郎

・『ねじまき鳥クロニクル村上春樹

・『審判』 フランツ・カフカ

・『氷』 アンナ・カヴァン

・『カラマーゾフの兄弟フョードル・ドストエフスキー

・『ムーン・パレス』 ポール・オースター

・『マルテの手記』 ライナー・マリア・リルケ

・『マクベスウィリアム・シェイクスピア

 

 実はこれらの作品の多くにはある共通点があります。なんでしょう。

 答えを言ってしまうと、それは主人公がクズであるということです。

 彼らは社会的には害悪、マイナスの存在であるか、せいぜいいてもいなくてもどちらでもいい、まあとにかく少なくともいなくても誰も困らないような人たちです。

 例えば『告白』の城戸熊太郎はゴロツキの博打打ちで、最終的には大量殺人犯です。

 『マクベス』の主人公も自分の私欲のために朋友と君主を殺します。

 これらはさすがに極端なケースです。ただ、学問に打ち込み過ぎてまったく伴侶を大切にしない『行人』の一郎とか、周囲の人間を自分に利をもたらすかどうかでしか判断しないところのある『審判』や『氷』の主人公もたいがいクソ野郎です。

 それ以外の主人公たちもかなり視野が狭いところがあって、周りの人間を多かれ少なかれ傷つけたり不幸にしたりしています。また、彼らはかたちのあるもの、家とか製品とかを作るわけではないので、別にこの世からいなくなっても誰も困りません。

 

 彼らの特徴は、思考の中心が自分自身のことしかないという点にあります。

 彼らは自分のことしか考えません。

 自分がこう思う。自分が傷つく。自分が何かを達成する。

 彼らの意識は常にその中で動いています。そして、基本的にずっと苦しんでいるし、乾いています。

 にもかかわらず、もし誰かが彼らを救おうとしても、彼らはそのことにあまり感動しません。差し伸べた救いの手をぞんざいに扱われて相手が傷ついても、彼らはそのことにそれほど心を痛めません。

 

 この鈍感さは、個人的には、ナルシズムと厳密に区別されるべきだと思います。

 いや、実際彼らの多くはナルシストなんですが、別に自分がカッコよくて価値があり、周りはそれを大切に扱うべきなんだから、苦しんでいたら助けられて当然だと思っているわけではないと思います。

 彼らは本当に自分のことしか考えていないので、親しい人が自分を助けようとするとき、そこにどれだけの労力が必要なものか、単に想像が働かないのだと思います。

 その方が罪が重いのかもしれませんが、とにかく彼らにとって周囲の援助とは自分が特別だから与えられて当然、というものではなく、まあ酸素とか水とか、あって当然とさえ思わないそういうものの方が近いです。

 だから、何気なく受け取っていた好意の裏に本当は血のにじむような想いがあったことを知ったとき、彼らは猛烈に恐怖を覚えたり動揺したりするのですが、少し話がずれてきたので軌道修正します。

 

 話したとおり、上に挙げた作品の主人公はクズばかりなので、これらはある意味単なるクズの行動の記録です。

 しかし一方で、世間的には「文芸」というカテゴリーに入れられ、作品によっては岩波文庫とか新潮文庫とかに入って偉そうな顔をして書店の本棚に並んでいます。

 ここから、芸術は本当の本当にゴミなのかもしれないことについて話します。

 

芸術は本当の本当にゴミなのかもしれないことについて

 今日ツイッターである記事を読みました。これです。

 

www.cinra.net

 すごいショックを受けました。

 俺は荒木経惟の写真が好きで、特に『チロ愛死』という彼の愛猫の病と死を追う様子を写した写真集が大好きでした(この写真集について考えることもいつか書きます)。

 俺の好きな写真を撮るこの人の作品とその被写体の間にはちゃんと理解と納得があるはず…というか、そもそもそういうことすら考えていませんでした。

 俺は、とにかく目の前に写真を提示されて、俺はそれを美しいと感じるかどうか、そういう接し方をしてきました。

 でも実際はそうじゃなかったことがわかりました。

 

 一般に芸術家とか作家とかには変わり者が多いとされています。

 彼らは普通の人たちと比べて何かが欠けていたり、歪んでいたり、劣っていたりします。

 それによって、彼らは周りの人たちを傷つけます。これは確かな事実です。

 考える必要があるのは、彼らの作品は彼らが「そういうクズであるからこそ」生み出されるとされている点です。

 クズであるからこそ、そのクズ独自の視点によって新たな美しさが創造されたり、秘められていた世界の姿が明らかにされたりするとされています。

 また、クズであるからこそ、その作品が帯びる「クズ性」は同じようなクズを救う力を持っているとされています。

 

 しかしその背景に、製作の根底に関わった誰かの苦しみがあったのを知って、俺は個人的に二つの問題を考えないといけないと思いました。

 あらかじめ断っておくと、おそらくこれはリンク先の告白が生む色々な議論の中でもかなりおかしなものというか、飛び交う議論で形成される空間において、相当はしっこの方にある話だと思います。

 なぜかというと、そこにはこの議論の発端にある、男性による女性の搾取とか、雇用者による被雇用者の支配とかいう要素が完全に抜け落ちているからです。

 ここで主な要素になるのは、「創り手であるクズ」と「作・クズならでは作品の良さ(とされるもの)」と「受け手であるクズ」の関係性だけになります。

 

 まず問題の一つ目は、「芸術とは結局、クズの変わり者が免罪符のつもりで吐き出したものを受け手側のクズがありがたがって評価するただのゴミに過ぎないのか」というものです。

 

 これは特に芸術に関心がない人からすれば何を当たり前のことを、という話だと思います。

 なので、俺が読む本が実用書ではなくいわゆる文芸作品が多いこと、よくわからない現代作品のものも含めて年に十数回展覧会に行ったりする人間であることをふまえて、まあその問題意識の深長さを汲んで欲しいと思います。

 

 二つ目は、「芸術に感動するとき、それは作品に感動している自分が好きという感情以上のもの、要は自慰行為以上のものになりうるのか」という問題です。

 

 一つ目の問題が創り手というクズと受け手というクズの間だけの話だったのに対し、こちらは範囲がもっと広いです。

 つまり、一部の文芸作品とか荒木経惟の写真のような一種のいびつさ、危うさを含むものに限らず、何かの作品から受け手が感じるものなんて結局自己満足のクソでしかないんじゃないの?という話です。

 これはたぶん、ツイッターで「荒木の写真ってなんか気にいらないと思ってたらこういう裏があると知って納得だわ」と言ってた人たちに俺がなんかムカついたから出てきた話だと思います。

 そういう意味でもやはり俺はクズなんでしょう。

 

 長くなりすぎたのでここで一度切って、続きはいつか書きます。

 なお、鋭い人は気づくかもしれませんが、俺がこの記事のはじめに書いた10の作品と、荒木経惟が撮った作品とは、厳密には別のものとして区別する必要があると思います。

 「クズによって創られたクズを題材にした作品」と、「クズが創った作品」は別のものです(漱石荒木経惟がクズだという前提で話しています。すみません)。

 この辺は次回以降整理しますので、以上、よろしくお願いいたします。