ポジティブな虚無に立ち向かう大傑作。『トロフィーワイフ』の感想について

はじめに

 新年あけましておめでとうございます。
 本年一発目、まったく年明けと関係のない記事で恐縮なんですが、舞城王太郎の『トロフィーワイフ』の感想をまとめます。
 『トロフィーワイフ』、すげーよかったです。帰省中の列車の中で前のめりで読み込んでしまった。個人的には、舞城作品代表作の一つに挙げたいぐらいすごい作品だと思います。 

おおまかなあらすじ

 物語のフォーマットとしては、人間の関係性とか心のあやふやな部分とかをバチバチの会話と疾走感のある思弁で削りだしていく、舞城作品によくあるものです。

 

 主人公・矢吹扉子には棚子という姉がいます。棚子は美人で優しく裏表もない、まさに非の打ち所がない女性なんですが、妹の扉子はその完璧さをかえって不気味に思っており、棚子が周囲の人間まで「棚子化」していく、性格も趣味も優れた人間へと変えていくその奇妙な影響力も含めて、苦手にしています。

どうなってんの?って感じ。正直。《完璧》って天体のさらに惑星直列、みたいなのが、どうやら姉を中心に起こってる。p.15 

 その棚子がある日、自分の夫のところから家出してしまいます。
 それは、棚子が夫のある言葉にショックを受けたからなんですが、この言葉がなんなのかはおいておくとして(いわゆるひどい悪口や浮気の告白ではないところがミソ)、棚子は旧友の家に上がり込んでそこの家事手伝い兼旧友の義父母の介護福祉士みたいな立ち位置に納まってしまいます。扉子は母親から頼まれて、旧友のところまで棚子を連れ戻しにいきます。

 

ポジティブな虚無

 以下、ネタバレを含みます。未読の方はできればそちらを先にどうぞ。

 扉子はまず旧友に接触し、それまで義父母の介護と育児に忙殺されていた旧友が棚子が来たおかげで仕事を始めたことを知ります。
 扉子は、棚子がいつまでいるかもわからないのに、まるでずっとそちらにいることを前提にしたかのような友人の行動を非難し、棚子を連れ戻すことを通告しますが、友人はすべては棚子が棚子の好きでやったことだし、もうその存在を組み込んで物事を決めてしまったのだから、連れて行かれては困ると扉子をなじり返します。
 このあたりは『淵の王』にも似たようなやりとりが描かれていました。ただ、『トロフィーワイフ』がすごいのはここからで、いざ旧友宅に着いて棚子とひさしぶりに対峙した扉子は、棚子の介護を受けている友人の義父母が棚子への感謝とお詫びを口にするその様子から、老人たちが正しく、善良に、「棚子化」されてしまっていることに気がつきます。

 「何言ってるんですか。玲子さんと健吾さんのお世話は楽しいし、こうやって一緒にいられるだけで嬉しいんですから」

 「もうええんや。もうええんやで…」

 と涙を拭うおばあさんの後ろでおじいさんは黙ったままで、ただニコニコ泣いていて、……それを見て、私は何故かぞっとする。 p.68

  こうして棚子は周りの人間を自分と同じ善人に変えてしまうことで自分の心地よい環境をこの場所に作ってしまった。しかし実は、ここでは棚子のすごさと同時に、別のものも描かれています。
 それは、棚子の周囲の方がいかにいい加減で、影響されやすいかということ、棚子からの影響の受け取り手として、本来の自身の甲乙の基準を、どれだけ簡単にすり替えてしまうかということです。

 

 ここで、棚子が作中で夫から言われたある言葉が効いてきます。

 夫が棚子にしたのは、動画で観たというある心理実験の話でした。まず、被検者たちに複数枚の絵を見せ、その中で順位をつけさせる。その後、真ん中あたりに順位付けされた絵を被検者にプレゼントする。後日、あらためて同じ群の絵の中で順位をつけさせると、なんとプレゼントされた絵が順位を上げる、という結果が出た…そういう実験です。
 ここでも人間の価値判断の曖昧さがあらわれたかたちですが、棚子は夫からこの話を聞いて、もっと深刻な受け止め方をした。棚子は、仮に自分以外の人間を妻に迎えても夫は今と同じくらい幸せになった=自分が選ばれる必要は本当はどこにもなかった、という風に受け取ったわけです。

 

 肝心なことは、ある程度それは正しい、ということです(少なくとも作中ではそう扱われている)。
 ある程度の範囲で、人間は何を選んでも幸せになれる。これは一見きわめてポジティブな事実なようでいて、考えようによっては恐ろしくむなしいことでもあると思います。
 棚子が周囲の人間を変えて表面的には幸せにしたように、また、棚子自身夫から聞かされたように、もし人間が生きていく中で何を選んでも幸せになるのであれば、複数の選択肢の間で悩むことには、実は意味がなくなってしまう。悩み、ときには苦しんでまで何かを決断することには意味がなくなってしまう。俺たちの人生が苦悩と決断の連続だとしたら、実はそれらは丸ごと無意味だということになってしまう。
 では、その上で行動し、判断するとはどういうことか。『トロフィーワイフ』はそこを問う作品であり、ある意味では絶対悪(『ディスコ探偵水曜日』)より、お化け(『淵の王』)より恐ろしい、巨大な虚無に立ち向かう作品だと思います(おおげさかな? でもそういう読み方の方がスリリングなので)。

 

選ぶことのむなしさを知りながら、何かを選ぶということ

 とにかく扉子は棚子を連れ戻すべきだと思ったので、棚子に帰ってくるよう説得する。
 このとき扉子=その言葉を書く舞城王太郎は、ものすごく難しい綱渡りをしていると思います。
 まず、棚子は別に悪いことをしているわけではない。家庭内に外部の人間が闖入して環境を一変させてしまう事例は、フィクションなら『クリーピー』、現実なら北九州一家殺人事件などがありますが、棚子はこれらの犯人たちとは全く異なる。
 一応、自分の影響力をもって友人宅を変えてしまった自覚、少しの引け目は棚子にもあるようですが、表面的には棚子が来たことで好転したことばかりなので、棚子を倫理的に責めることは難しい。
 この倫理的な無欠さに、上で書いた「何を選択しても正解になってしまう」というポジティブな虚無が上乗せされます。
 扉子自身、このむなしさをある程度認めている。つまり、棚子を連れ帰ろうが連れ帰るまいが、ある意味どちらでもいい(というか、どちらでもよくなる)ことがわかっているわけです。

「そうだよ?人はどんな人生だろうと、同じくらい幸せになるよ」p.89

 もしどちらを選んでもみんなそれなりに幸せ(に自らを軌道修正してしまう)なら、棚子を連れ戻すという面倒な上に波風の立つ選択肢をあえてとる理由はなんなのか。そんな選択を貫き通すためにがんばること自体、選ぶことのむなしさを理解する者としては矛盾しているじゃないか。
 でも扉子は棚子を連れ戻そうと決意する。友達の家で周囲を感化し続ける棚子を止めようとする。
 舞城作品の主人公らしく、扉子は最後まで自分が正しいのか迷いを介在させながら、それでも、無意味なはずの決断を勇気をもって行う。それがすごくいいです。

 

おわりに。『トロフィーワイフ』はなぜ家庭内の話であったか

 俺は、この選ぶことのむなしさと選ぶことの勇気が同居した作品が、家族内のごたごたを通して描かれたのが、本当に最高だと思います。
 舞城王太郎は怪獣も書けるしお化けも書けるので、問題を扱う上でもっと規模がでかかったり生死のかかったような世界観もありえたはず。でも、家出した姉を言葉で説得して連れ戻すという、これ以上の枠組みはなかったと思います。

 だって家庭というのは、相手に言うべきかどうか微妙なことや、言う必要はあるんだろうけどそれを言う自分は意地悪じゃなく本当に相手のことをちゃんと思っているのかわからないことが、膨大に渦を巻いている空間だからです。

 

 これを言ったら傷つくだろうけど言った方がいいんだろうな、とか。
 こうアドバイスしたいけど実は理解が足りてなくて、かえって混乱させないかな、とか。
 注意したいけど、相手のことを思ってじゃなくて、いつか口論でやりこめられた仕返しになってないかな、とか。


 そんなことがひしめいていて、なおかつ重大なことに、言わなくてもまあ、なんとかそれなりになってしまう、そういう場所。だからこそ、この作品の世界観としてすばらしいと思うわけです。

 そういうわけで、すげえと思うので紹介しました。
 なお、この作品を収めているのは『されど私の可愛い檸檬』という短編集なんですが、これと同名の短編もものすごくいいので、こちらもおすすめします。『美味しいシャワーヘッド』と同じノリの、器用さと不器用さがタチの悪い感じで混在したクソ野郎にグサグサくる内容でグッドなんで、あわせて以上、よろしくお願いいたします。

 

されど私の可愛い檸檬

されど私の可愛い檸檬