週刊SPA!の『ヤレる女子大学生ランキング』の抗議運動に関して、汚い大人の男の立場から思うことについて

はじめに

 週刊SPA!で「ヤレる女子大学生ランキング」という記事が掲載され、批判を浴びている。

 批判の原動力になったのはNGOの代表も務める学生の方が発起人となった抗議署名活動で、俺はこの抗議運動とセットにして、記事の存在についても知ったかたちである。

 学生の意見に全面的に同意している。日経ビジネスオンラインの記事で小田嶋隆も書いていたが、ゴミ記事だと思う。

 この抗議運動に対して、記事を擁護する意図なのか、「火のないところに煙は立たない」という反論をする人がいる。

 実態としてそういう事実があったのが明るみに出ただけだろう、ということを言いたいのだと思う(どうもその「事実」というのも怪しいもののようだが)。ならば、この「火のないところに云々」という例えをそのまま借りて、考え直してみて欲しい。

 仮に、本当にどこかの大学の女性と記事にあるような手段を通じて「ヤレた」とする。

 それを文章にする。つまり、火をつける。火は勝手につかない。記事が火を起こす。煙が立つ。

 そのとき、燃えている火はたまたま火の元の近くにいただけの、所属を除けば本来なんの関係もない誰かまで巻き込んで燃えることになると、俺たちは考えるべきだと思う。

 そもそも、燃やせば煙が立つからといって燃やしていいかどうかもわからないが、少なくとも火の近くにいただけの無関係のものまで起こした火が巻き込めば、それは明確に悪である。

 そして、女性を大学名でくくってひとまとめにつけられた火は、同じ大学にいたというだけの誰かを必ず巻き込んで燃えるだろう。

 その誰かがどこかの家庭の大切な娘であると、大切な友人であると、恋人であると、あるいは他人との関係性以前に尊重し保護されるべきひとつの人格であると、「火のないところに云々」というとき、俺たちは考えてみるべきではないのか。

 

 批判を受けてSPA!が出した謝罪に対し、学生は謝罪よりも対話を求めるそうだ。おそらくずっと年下の若者に、醜いというだけでなく、「理解しがたい」と思われているのだろう。もの悲しいと思う。

 

本題。俺はたぶんSPA!を読む側の人間であるということ

 ここからが本題である。

 前記したとおり、俺はSPA!の件の記事を若者による批判とセットで知った。セットで知ったからこそ、その怒りや不快感に同調した。

 じゃあ仮に、批判の存在を知らず、たとえばコンビニの店頭とかでその見出しをはじめて見たのだったらどう思ったか? 

 断言する。恥ずかしい話だし、上で記事の擁護者を批判しておきながらおかしな話だが、そうしないと自分の立ち位置がはっきりしないからはっきり言う。

 

 俺はたぶん、不快だともなんとも思わなかっただろう。

 

 コンビニの棚で「ヤレる女子大学生ランキング」という文字を目にしたとき、俺は絶対なんの違和感も持たないだろう。あるいは、ラーメン屋で読むものがなくてたまたまテーブルの上のSPA!があったら、手にとって読んでみることさえするだろう。

 そのとき俺は、「へえ、○○の学生ってこうすればヤレるんだ」とは思わない。

 別にこの期に及んで良識ぶっているわけではなくて、無感覚に、本当に何も思わないだろう。

 この無感覚さはうまく言葉にできなくて、もちろん記事を実践してヤろうとも思わず、それどころか内容が正しいかどうかも考えず、とにかく空気のように、単に一時的に目を刺激する文字の列として、ラーメンと餃子が来るまで、なんの感情の変化もなくそれを消費するだろう。

 それでも、俺はたぶんこの記事を読んだ後○○出身の人にあったら、「あ、あの記事の学校と同じ人だ」と思う。必ず思う。そしてそれは、間違いなく、その人を大なり小なり卑しめているに違いない。

 

 俺は学生の運動を通してSPA!の記事を知ったことで、「記事の批判に同調し、擁護する立場には反論する回路」につながった。

 しかし、偶然そのルートを通らなければ、俺はこの記事が誰かを傷つける可能性を想像せず、記事を消費する側でもありえた。

 単に風見鶏なだけと言われればそれまでだが、俺はこういう風に分裂していて、おそらく本質的には、SPA!を読む側の人間であって、そして本当は、この学生の方の敵なのだと思う。

 

おわりに

 「ヤレる女子大学生ランキング」的なものと戦う人は、不潔でねじまがった、性的な欲求を満たすことを優先し人を支配しようとする、欲望としてある意味明確で、なんというか、ある種の熱気をもったものや人だけを相手にするのではないと思う。

 もっと目に見えない、それはそれで汚く歪んでいるのかもしれないが、ヤりたいとも思わずヤるための記事を読み、そういうものが存在する空気にもなんとなく慣れきって、醜悪なものをあえて許すという積極性もないまま、その手の文言と自由気ままに近づいたり離れたりしている者。俺のような者。

 そういうものたちと、戦うことになるのだと思う。

 

 最近、そういうもののおかしさがようやく可視化されてきたのかもしれない。

 本当は単なるクソなのに、表現の自由とか価値観の多様性とかの言説に守られたり、あるいは、あって当然のものとして議論の俎上にさえ乗らなかったもの。

 そういうものが、取り除かれるべき単に不快なゴミとして、若い人たちによって示されつつある気がする。

 30前半の俺は自分を若者の箱に入れるかどうか迷うことがあって、本当は一緒になってくだらないものをなくしたいが、上に書いたとおり俺自身がくだらないものでもあり、精神的にはたぶん汚いおっさんの方で、やっぱり迷っているが、若者のことは応援している。

 どの立場で? わからない。処分される害毒が薬や消毒液を本当に受け入れられるだろうか。

 でも俺も、昔はそういう若者だったのだ。そのまま成長はできなかったが。

 とりとめもなくなったがそういうわけなので、以上、よろしくお願いいたします。