嫌な情報について

はじめに

 自分にとって何が嫌な情報かというと、人を傷つけるものより無駄なものより、読み手のことを明らかにナメているものが嫌いである。
 ただ、読み手のことを明らかにナメている情報のたいていは人を傷つけるか無駄かのどちらか、もしくは両方なので、そういう情報も結局嫌いだったりする。
 以前、週刊SPA!をめぐる小田嶋隆の記事に我が意を得て以来、こういう性格はさらに強くなったようだ(加害者に「親密」な人たち (5ページ目):日経ビジネス電子版)。

 

嫌な情報について

早大スーパーフリー事件の「和田サン」独占手記 懲役14年を経て昨年出所 | デイリー新潮

 なんでこういう記事がでかでかとしたフォントで電車の中吊りに登場するのかわからない…というのは嘘で、実はよくわかる。
 要は読み手をナメているからだ。
 卑劣な重罪人がどんな謝罪を述べるのか、それがどれだけ空疎で耳を傾けるに値しないものか卑しい好奇心で確かめたい、そして、その懺悔を一笑に付して、「許されるわけがないだろう」と高みから言い捨てて足蹴にしたい。
 出版社は、この見出しが読み手に呼び起こす欲望をだいたいそんなところだと想像しながら、「どうだ、読みたいだろう?」と思いつつ実際にこのフレーズを世に送り出したのだ。はっきりとわかる。
 はっきりわかるよ。ゴミ野郎。

 

 話をややこしくして恐縮だが、俺は、情報というのはどこかでわずかに受け手をナメていないと発信できないものだとも思っている。自分の中に尊大な部分が皆無のまま、思っていることや知っていることをかたちにするなんて不遜なことができるわけがないからだ。
 また、情報というのはどこかの点で暴力的だとも思う。内容に関わらず。どんな方法で伝わろうとも。

 情報が伝わる過程にあるのは一種の支配関係と言っていい。なにしろ情報というのは持っている側から持っていない側へと、心の隙間に一方的に流れ込むものかたちで押し付けられるものであり、場合によってはその結果、受け手の世の中の見方さえ変質させるものだからだ(それこそ上記の小田嶋隆の文章が俺の人格の一部をブーストしたように)。
 だからこそ、発信する側の傲慢さはできる限り縮められるべきものでもある。そして何より礼節として、陰に隠されるべきものだと思うんだ。

 

 この記事が世に出ることで、出版社以外で誰が得をするんだろう。
 読み手は自分の知らないうちに欲望を利用されて、大げさに言えば知らないうちに自らを卑しめている。

 手記を書いた加害者本人について考えてみれば、罪の意識の表明とはこういうことじゃないはずだ。
 俺は、加害者が許しを乞うこと自体を批判しているのじゃない。こういう意見が誰かを傷つけうることを承知で言うと、許して欲しいと願う権利はどんな犯罪にもあると思っている。
 自分自身や親しい誰かの心や身体が酷く損なわれればとてもそんなことは言えなくなるだろう。しかし、逆に言えば近しい誰かが大きな傷を負うまで、俺は加害者が許しを乞う権利を認める。俺の信条だ。
 それでもこの方法が適切だとは思えない。何かしらの汚い打算などなしで記された手記という可能性だってあるから、この文章を記した背景を悪意を持って勘ぐらないけれど、これが謝罪の目的にかなうとは思えない。
 被害者、あるいはその周囲の人への影響についても、絶対に状況を好転させるものではないだろう。

 

 手記を記した加害者よりも、それを世に出した出版社の方に、上記の理由でムカついている。

 相手を思いのままにできると思いこんでいるクズが、「これからお前のことを好きなだけ殴るよ。でもお前はそういうのが好きなんだから別にいいよな」と臆面もなく言いながらにやにやしている。
 あるいは自分をイケてると勘違いしたバカが下半身を膨らませながら聞くに耐えない言葉を猫なで声でほざいている。
 俺はこの記事のことをそういうイメージでとらえているし、ふざけるな馬鹿野郎と思っているから、二度とこの雑誌を読むことはないので、以上、よろしくお願いします(文春も似たようなものだけど、こっちは『日々我人間』が載っているのだなあ…)。