惨状と説教

誰か山から降りてきてほたえてから山に帰っていく記事。ブログ

クマバチ、犬、知的生命体、あるいは愛の辺境の美しさについて

ムダなことがこぼれそうでも 交尾のための生じゃなく


 スピッツの『ハイファイ・ローファイ』という曲の一節で、はじめて耳にしたときの年齢が10代半ばということもあって、こころの芯を突き刺されたような衝撃を受けた。
 16~17の頃といえば基本的にエロいことしか考えておらず、1日のうち30時間はエロいことを考えているというある意味ジャック・ハンマーのような状態であったため、「交尾のための生」という言葉も、そこで歌われている心情も、聴きながらどこまでも深く身にしみるところがあった。
 交尾のための生「じゃなく」と否定してみせてはいるものの、そうやってあえて否定することがかえって、それがこころの中でどれほどの存在感を示しているかを際立たせているようで、また、さすがにそれだけでは自分の人生いけないだろうという、他人からすればこいつは一体何を悩んでいるんだという感じの、しかし切実でもある、危ういバランスがここでは歌われている気がした。


 先日、公園を散歩しているときに一匹のクマバチを見つけて、唐突にそんな過去のことを思い出したのである。
 クマバチというのは体長2cm強ほどのずんぐりした大型のハチである。穏やかな性格で、いじめたりしなければ刺されない…というか、オスの方にいたっては刺すための針さえ持っていない。
 俺が公園で見たそのクマバチは、空中でぴったりとホバリングしており、俺が完全に不審者と化してこれを観察していると、どうやらハチの近くを他の昆虫が飛んで通りすぎるたびにすごい速度で飛空してそのあとを追いかけ、また元の位置に戻るのを繰り返しているのだった。
 何をしているとかというと、つがいになる相手を探しているのだ。
 観察するほど、その異次元の運動能力に驚かされる。
 糸で吊ったように長時間空中で制止しつづける制空力、体力、同族を見つけたと思うやいなや瞬時に最高速度に達する加速力。
 いったいどういう体構造と筋肉をしているのか…。
 また、別にずっと飛んでいないで、どこかに止まって相手を探せばよさそうなものだとつい思ってしまうが、そういうことでもないらしい。
 感心する。と同時に、たぶんここで大切なのは、あくまでクマバチとはそういう生き物であるということを、ちゃんと承知しておくことなんじゃないかな、と思う。
 どういうことかというと、こういうときに俺達はついつい、「自分はそこまで熱心じゃない」とか、「一途じゃない」とか、自分を基準に考え、相手をまるで一生懸命な性格であるかのように擬人化してしまう。
 しかし、そもそもクマバチというのはそういう「種」なのだ。まあ中にはナマケモノの個体もいるかもしれないけど、交尾のための生として、命のすべてをそこに注力すべくつくられ、生きているのだ。
 人間とは根本的にそこが異なっていて(10代男子は別とする)、この生き物に敬意を抱くときも、この決定的な違いを忘れてはいけないような気がする。


 

秋田犬わさおの妻「つばき」が死ぬ 「人間の夫婦のようだった」 - ライブドアニュース

 なんだか違和感のある題名だな、と思ったのだが、後から考えるに、要は「関係ねえだろ」ということなのだと思う。
 別に、人間のようであることが高尚であったり、犬の愛情としての価値であるわけではないし、犬には犬の世界なりの良い「愛」があるんじゃないか、と思うので。
 記事を読んだら、世話をなさっていた方の感想から取ったタイトルのようでかなり罪悪感が…。でも、思ったことは事実なのだ。


 人間以外の生き物に接するとき、そこに人間らしさを感じるかどうかで、どうしてもその種族に感じる親近感とか、可愛いと感じる気持ちとかが左右される。それは当然のことだし、興味や愛着を持つ理由としてはなんの問題もない。
 ただ、先ほどのクマバチの例でも書いたように、それだけだと目の前の生き物を、人間に似た何かではなく、その種族そのものとして観察する視点がずっと抜け落ちたままになる。
 俺はそれはまずいと思うんだよな。特に明確な根拠はないけどまずいと思う。だって結局相手は人間じゃねえんだもの。


 最近、『深海のYrr』という小説を読んで、フィクションの中の話ではあるけれども、意志を持った相手と接するとき、人間を基準に相手の心情を想像すると大きな過ちを犯す可能性があることが書かれていた。人間と同じように考え、学ぶことができる生物でも、「愛」が意味すること、生きる目的、死の重ささえ、まったく異なっていることがありうると思うし、そのうえで相手を尊重したり敬ったりする方法とか、あってもいいんじゃないの? と思う。


 例えば動物の殺処分に関する情報に触れ、檻の中で死を待つ犬や猫の写真に心を打たれるとき、また、それが我々の何かの行動につながるとき、そこで大きな役割を果たすものとして「擬人化」の効果を無視することはできない。
 それが難しいところで、彼らのことを完全に別物として理解しようとしろというつもりもないし、そもそも動物と長いこと接している方はいちいち言われるまでもないことなのかもしれないが、俺は、自分とは違う生き物のことを、人間に寄せて想うだけではなく、俺たち自身からできる限り離れたところでその愛情について考えてみることも想像力って言うんじゃないか? って最近けっこう思うので、以上、よろしくお願いいたします。