汚物について

 一週間のうちほとんど感情を動かさず表情も変えることなく生きているが、たまに飲み会に行くとたくさん愛想笑いをすることになるのでなんとなく帳尻が合うようになっている。
 救いがたいのは、興味もなく噛み合うこともない会話の中に自分なりに寂しさが埋まる部分もあることで、なんだかなあ。もう少し上等に生きられるつもりでいた。
 飲み会がハケて東京駅から、始発の中央線に乗る。俺も交えて、乗客たちはみな多かれ少なかれアルコールを呼気に溶かして、ぐったりと、あるいは同乗者とげらげら笑いながら発車を待っている。
 みんな消えてくれ、と思う。消えてくれ。一人残らず。その中に俺のことも含めて。全員この世から消えてくれ、と思う。
 目の前の座席に、誰かが何時間か前に吐いたのだろうゲロが固まっていて、不快感はありながらも、俺は酔いが回った頭なりに、わずかに残った冷静さのかけらみたいなものでそれを眺めていた。
 若い女性、サラリーマン、若くない女性、一人一人その座席の前までやってきて座ろうとしては、たぶんゲロに気づいてうっ、となり、たじろいでその場を離れていく。俺はそれを見ている。性格が悪いのだ。座ろうとしてゲロを見て慌てる人たちをじっと見ている。


 アーシュラ・K・ルグウィンの小説に、『オメラスから歩み去る人々』という作品がある。
 あるところにオメラスという町がある。オメラスは理想を体現したような素晴らしいところだが、そこに暮らす住民たちはみな、自分たちの住む理想郷のある秘密を知っている。
 オメラスの奥深く、そこに、あまりにも不潔な狭い牢屋があり、その中に一人の子供が閉じこめられている。そしてオメラスの繁栄は、この子どもの苦痛と絶望と引き換えにもたらされているのだ。
 理屈はわからない。しかしとにかく、オメラスの多数の人々の栄華は一人の子どもが地獄の苦しみを味わい、汚物にまみれて沈黙していることと引き換えにもたらされている。そして、オメラスに暮らし続ける人々は全員、そのことを理解しているのだ。


 いま、電車に座る俺の目の前にひからびたゲロがあって、電車は東京駅を出て神田、御茶ノ水と進んでいくが、そこに座ろうとした人はみなゲロに気づいてあわてて飛びのいてそこから離れていき、誰も座ることがない。


 俺は何でこんなことを考えるのかわからない、そもそも目の前のゲロとは関係ないし『オメラスを歩み去る人々』とも関係ないとしか言いようがないが、金曜日の深夜にだらだらと電車に乗り込んできてもう何も考えたくない、という表情の人々、どこから前借りした元気なのか同行の知り合いとげたげたと車内で下品に笑う人々が、たかが一つのゲロにああも狼狽しているのを見て、あることを思う。
 俺たちが日常の何かを冷静に少し見直すこと、あるいは少し諦めること、みんなでみんないっせいに、「くだらないからやめた」と言ってしまうことが、どこかの誰かを、あるいは俺たち自身を、週末のしょぼい気晴らししかないこのどうしようもないゴミそのものの生活から楽にしたりしないだろうか、と思う。その何かが何かはわからないが、なんとなくそうじゃないかと思う。
 なんでかは知らない。知らないけどそう思う。たぶんそれでもみんな、本当は無意味そのもののクズのかたまりを大事に抱えながら、わずかな汚物を踏むことを恐怖しながら生きていくことから逃げられないことを理解しながら、そう思う。
 以上、よろしくお願いいたします。