『言い訳』は少年漫画だ。ナイツ塙のM-1・漫才評『言い訳』の感想について①

 少年漫画でゾクゾクくる好きな展開というか演出がありまして。

 作中で、強キャラのポジションをすでに確立しているやつが、別のキャラクターの強さを「こいつは強いな」って肌感覚で瞬時に理解する、もしくはストレートに褒め称えるやつ。これが好きなんです。

 『トリコ』でトリコとココがはじめてスタージュンと遭遇したの戦慄とか。

 『HUNTER×HUNTER』で、会長がピトーを最初に見たときの「あいつワシより強くねー?」って呟きとか。

 『無限の住人』で無双中の槇絵(そこそこ強いのを複数敵に回してるはずなのに圧勝)を天津が「私がどうしても届かぬものがあそこに舞っている」と評する場面とか。

 『ゴールデンカムイ』で岩息と杉本がはじめて握手するときとか(これはちょっと複雑だけど、杉本の強さはこれまでさんざん描かれてきていて、その杉本のパワーを握手一つで即座に理解する岩息が只者じゃない、ってことですね)。

 

 強キャラが言うってとこがやっぱりミソで。あれだけ強いはずの○○にここまで言わせる・ビビらせるこいつは何者だ?という。

 

 で、最近またこのパターンでイイのがあったわけですよ。漫画じゃないけど。

 それが、漫才コンビ・ナイツのボケ、塙宣之さんがM-1というコンクールと周囲の芸人について実名をまじえて語った、『言い訳 関東芸人はなぜM-1で勝てないのか』なんですね。

 

 この本は、大まかに言うと三つの側面に分かれていると思います。

 一つは、あのMー1をひとつの「競技=傾向と対策が存在する攻略対象」として認識した上で、その戦略について語ったもの。

 一つは、ナイツ塙がお笑いに求める美学や意義のようなものについて。

 そして、最後に、塙がこれまで接してきてすごいと感じた他の芸人についてです。

 

 上で書いたとおり、俺は最後の一つ、塙による他の芸人語りが一番面白かったんですが、その前に、Mー1に対する分析と戦略も面白かったので触れておきます。

 塙は、Mー1決勝の4分っていう時間制限と、彼が言う「うねり(客席からその日これまでなかったような笑いが生まれること。芸人自身の実力が重要なのはもちろん、自分たちの前のコンビの出来にも影響される)」の重要さを説いた上で、次のように分析します。

 まず、Mー1の歴史はスピード化の歴史である。Mー1は4分間に詰め込める笑いの数を競う勝負になっている。

 ナイツの08年の『宮崎駿』というネタは、この4分間におおよそ37個ぐらいボケが入っているそうです。

 これが本当かどうかは別として、これ個数を4分間に詰め込めるマックスであると淡々と語る塙の態度、漫才をこのように数値化する視点に俺は少し驚きました。業界では常識なのかな?

 その上で、こう語ります。

 まず、最初の30秒で中ぐらいの笑いがひとつは欲しい。

 歴代優勝したコンビは、序盤でこの規模の笑いをとるのがセオリーらしいです。前半でこのくらいの笑いが取れることは、野球で言ったら、1回の表に3~4点入るようなアドバンテージだと。ついでに100m走にも例えれば、これが達成できないと後半トップスピードに乗ることができない(「うねら」ない)、とも。

 

 これを読んでるとき、妙な背徳感がありました。同時に、興奮もした。

 漫才という、面白ければ正義であり、一方、そのメカニズムについてはブラックボックスであるものの秘密が、スポーツという別種のものに例えられることで、こじ開けられているような錯覚があった。

 「錯覚」というのは、俺が言うのも変だけど、塙はあくまで例えを使ってそれっぽい話をしているだけで、正しいかどうかは別の話だから。

 俺がナイツのファンだからかもしれないけど、お笑いというある意味「秘儀」を言葉に変えて明確化してしまうような冒涜は、塙だからこそ、許される気もします。

 あと、一流の語る説得力と言う意味では、塙が述べる自身のMー1の記憶は読んでいてゾッとします。

 どうも『宮崎駿』はスベったネタでもあったようで、前半で塙、そして相方の土屋ともども、演じながら「ヤバい」という状態だったらしい。

 崩壊寸前と自ら評する状況で、生放送で、塙は「宮崎駿」を「宮崎勤」と言い間違えかけたそうです。

 もし本当に間違えていたら、土屋は…土屋だったらうまく拾ったかな。でも、寒気のする話だと思いました(長くなったので、続きは分載。冒頭に書いた強キャラによる別の強キャラ評という煽りがまったく生かされていないけど、次に書きます)