『言い訳』は少年漫画だ。ナイツ塙のM-1・漫才評『言い訳』の感想について②

※(前回からの続き)
 Mー1の分析をすすめる上で、時間の使い方や盛り上げ方以外に塙が言及したことがあります。
 それは、どのように決勝に乗り込むかということの重要性、ぶっちゃけて言えば、敗者復活枠からの参戦、もしくは初出場という肩書きが持つドラマ性の有利さです。
 
 挑戦する者に優しく変化を拒む者に厳しいMー1は、決勝常連のコンビが新しいスタイルの漫才を持ち込むことを歓迎する大会であるとともに、完全に新顔のチャレンジャー、もしくは敗者復活から勢いを伴って乱入するコンビが優勝をさらう、シンデレラストーリーを望むコンテストでもある。
 決勝初参加、あるいは敗者復活からの参戦を「強いカード」、いわば一種の役が乗っている状態であるという即物的な表現をしつつ、塙はオードリーも南海キャンディーズも、この2コンビに対するリスペクトを忘れない一方で、初出場のあの1回が最大にして最後のチャンスだった、と思わせるような書き方をしていました。
 ちなみに、塙のこの分析が正しいかどうかは別として、最初の決勝進出が最大のチャンスだったコンビには、塙自身のナイツも含まれているようです。
 ただ、一方で塙は当時の自分たちについて、アスリートでいうゾーンに入った状態のように何を言ってもウケる状態でいたようで、実際は下降線になりつつあったとも分析していて、どこまでも冷静…というか、少し怖いぐらいです。
 
 塙はMー1という大会について、ようやく漫才師全員が平等によーいドンで勝負できる舞台ができた、と発足当時の興奮を思い返しています。一種のスポーツとして戦略を分析したり、他の競技に例えてみたりするのも、塙がここにいくらかの公平性を認めている証拠なんでしょう。
 しかし一方で、完全な平等の実現とはほど遠い要素が含まれることにも触れています。
 上で書いたような、ニューフェイス優遇の審査姿勢とか。
 ちまたでもよく言われる、演じる順番に影響されるウケやすさ、ウケにくさとか。
 審査員それぞれの評価基準のズレとか(純粋なウケの総量、技術、革新性…)。
 漫才とは上方漫才であり、上方漫才とはしゃべくり漫才であり、しゃべくり漫才師を多数擁するのは吉本であって、その吉本が提供するMー1で有利なのは結局…というところまで踏み込みます(ただ、塙はこれを他事務所の、芸人でも参加させる吉本はむしろ度量が大きいと認識している)。
 
 これを読んで、なんとなくMー1の審査にまつわる諸々が議論を呼びがちな理由が整理できた気がしました。
 Mー1は一見、数値化や方法論という客観的な要素と相性がいいように見える。
 4分という時間の使い方、しゃべくりorコントという漫才のスタイル分類、手数優位説…からの、スリムクラブの革新性と衝撃(後述)など。
 しかし実際は、それをどう評価するかは結局見る人の判断にゆだねられていて、なにをもって面白いかとする公平な基準は、明確になっていない。
 その矛盾を魅力といっていいのかはわからないけど、バランスが絶妙にとれているような全然とれていないようなところが、語らせたいとみんなに思わせる一因なんじゃないかな。
 
 ここまでMー1にかかる塙の解説について書いてきましたが、俺がこの本の主題だと思っているのは、実は塙が他の芸人について、実名とともに評価する、ほめちぎる部分なんですね。
 例えば、まだ意識の低かった若手時代に遭遇した、別格の存在感を放っていたコンビとしてキングコングを挙げるところ。
 当時から彼らは、テレビスターになるという明確な目標意識と自負がしっかりと佇まいに表れていて、そのときに受けた、まるで実際の喧嘩で一度コテンパンにのされて格付けされたような感覚がいまもって抜けない、とか。
 漫才は練習し過ぎて新鮮味を失うと、コンビのかけ合いがまるでセリフを言わされているようになって客も笑えなくなるものだが、このコンビ同士の「間」が絶妙に生きているのがますだおかだである、とか。
 関西圏が野球で言ったら160kmを投げるやつがゴロゴロいるような地域だとしたら、非関西で唯一160kmを投げたのがアンタッチャブル、おそらく投げていたのはビートたけし、とか。
 
 特にグッときたのは、スリムクラブかまいたちに関する評でした。
 
 ボケの手数優位説が揺るぎなかった当時、スリムクラブの漫才を見た塙は、「やられた…」と思ったそうです。
 仮にセリフを文字に起こしてみたら、例えばnon styleのネタの半数もないんじゃないかな、と言う(実際、カウントしてみたらnon styleのあるネタが約2,000文字、スリムクラブは800文字とのこと。こういうのをさらっと言っちゃうのがすごい)。
 ボケの数は圧倒的に少ないのに、客席のウケの総量では実は勝っている。それは、ツッコミ側である内間が真栄田の理解不能のボケに困惑し呆然としている状態が、客の笑いを誘っているから。
 当時の常識的な「戦法」をぶっ壊して勝利する革新性云々と、まるでその評価だけ見たらビジネスとか将棋とかの話? と思うけど、実際は塙による漫才評なんですね。
 
 かまいたちについては、コンビ間と客席を行き来する意識の流れという観点から評価されています。
 コンビ間でセリフを応酬する、あるいはコンビのどちらか一方が客席と目線や意識をやりとりする。塙はこれを「線」と表現します。
 そして、コンビ間と客席、どのポイントからも相互に行き来が発生することを「三角形」とする。塙はこれを漫才の理想型としています。島田紳助もそうだったようです。
 そこで言及されたのがかまいたちで、かまいたちは「三角形」でも「線」でもなく、「点」なんだそうです。山内がひたすら「自分はこう思う」ということを主張し続けているだけ。相方とも客席とも意識の行き来がない。
 それでも漫才になっているところに感動した、と塙は書いています。「線」や「三角形」という概念があるからこそ、そこから逸脱したかまいたちの斬新さに気がついた。
 俺もかまいたちは面白かったけど、もちろんそんな見方はしておらず、なるほどなあと思いました。
 
 あと、実は一番感動したのはオードリーのネタについての評でした。これは機会があったら実際に、読んでみてください。
 感動したのは、塙の意見ももちろん、文字起こしされたネタ中のやりとりそのものが美しいからです。
 少し話がそれるかもしれませんが、漫才って結局、ボケとツッコミ同士の愛情の表現なんじゃないか、それを表現することで、笑いをとるというかたちで自分たちを世界に肯定させる芸術なんじゃないか、と思わせてくれます。
 塙の上方漫才はロック、オードリーは即興のジャズ、という表現は、最初はなんのこっちゃ、という感じですが、読むとなんとなく腑に落ちるところはあります。
 
 個人的には、実は、笑いという本来数値化できないもの、あやふやな部分が残るものを言葉で解剖するのは、ある意味不遜なことに思えます。
 塙は若手の頃、ウケたいと思う一方で、あんまり漫才のレベルアップに熱心じゃなかったらしいです。
 それはどこかで、俺と同じように、人を笑わせるという行為を過剰に整理し、言語化することへの反感、どこかミステリアスなものであって欲しいという願望があったんじゃないかと想像します。
 でも塙は、そこから、漫才を言葉で説明する方法をギリギリ突き詰めて、ここまで大きな結果を出していて。
 そういう塙だから、こういう本があってもいいよなと思うし、すごい面白いので、読んでみてはいかがでしょう。以上、よろしくお願いいたします。