間違っても「超娯楽大作」ではない。『アド・アストラ』の感想について

はじめに

 物語の終盤のある場面で、観ている自分の顔がいきなりぐしゃっと歪む感覚があって、なんだなんだ、どうしたんだ、と驚いた。

 なんで俺は泣いているんだろう。

 俺は嗚咽していた。恥ずかしい。でも、スクリーンの中のブラッドピットもそのとき泣いていた。だから、俺が泣いたのもあながち間違ってはいなかったんだろうとは思う。

 

「超娯楽大作」ではない。

 書いたとおりで、観ていてハラハラするとか、スカッとする話ではない。

 

 16年前、地球外生命体を探索するため宇宙に向かい、消息を絶った父。やがて自身も宇宙に関わる仕事に就くことになった息子は、あるとき軍部から、実は父が海王星で生存していること、そして、先日宇宙から到来し地球を襲った災害の原因を作っていることを聞かされる。彼は父を説得し、それが不可能な場合は「処分」するため、自らも海王星に向かう…。

 

 なんと心躍るあらすじなのか。しかし、このストーリーから宇宙を舞台にしたスペクタクルロマンとか、宇宙で消えた父親を追う大冒険とか、そういうのを期待していると確実に肩すかしを食らう。

 そのあたり、予告編はくみ取れるようなそうでもないようなで、少し不親切だと思うが、言い方は悪いものの、罠にかけるようなプロモーションになってしまう理由は少しわかる。

 それは、この映画のメッセージ(だと俺が思うもの)を前面に出してPRしても、興味を持つ人はほとんどいないだろうからだ。たぶんたいていの人は「なんのこっちゃ」だろう。

(22日追記:ここから6~7分、うだうだした話が続きます。

どうもこの映画、世間的にはあまり評判がよくないらしく…。以下の文章は、「俺は・私はよかったのに…」という方に対して、俺もだよ!というメッセージとしてお読みください。) 

じゃあ『アド・アストラ』はなんの話なのよ?

 そういうわけで、「アカデミー賞最有力」とか宇宙とか地球外生命体とかのワクワクワードは、すべてデカい地雷だと思った方がいい。

 じゃあ『アド・アストラ』は何の話なのかというと、人間の退屈と孤独をめぐる話である。

 退屈さのせいで大事なものをすべて投げ出して遠くに出向き、それでも何も見つけられず、気がついたのは自分がひとりぼっちになっていること。そういう話なのだ。

 退屈と孤独の話なので観ていて退屈で(特に序盤)、もの悲しい(しかも別に感動とかではない)のは当たり前といえば当たり前なのだ。

 

 作品としては、最近で言えば『ブレードランナー2049』が近いと思った。でも、小説の方がもっと感覚的に近いものが思い浮かぶ。ポール・オースターのニューヨーク三部作(特に、『鍵のかかった部屋』)とか、ヘミングウェイの『海流のなかの島々』とか。

 どういうことかというと、自分のことしか考えていない連中の物語ということだ。

 こころがカラカラに渇いていて、誰かに愛されることを死ぬほど望んでいるのに、いざ愛情が注がれそうになるとなぜか恐ろしくなって逃げ出してしまう。

 心が安まる我が家にいますぐ帰りたくて気が狂いそうで、その一方で自分のいまいる場所が死ぬほど退屈で、だから一歩でも、故郷より遠くに足をのばそうとしてしまう。

 なんで俺はこうなんだ。

 なんで他の人がするように、バカみたいにすべてむき出しにして人に愛されることを素直に喜び、また、何もかもささげて誰かを愛せないんだ。

 なんで、気づいたらこんなわけのわからない遠くまできてしまっていて、俺の周りには誰もいなくなっているんだ。

 そういうやつらの話だ。

 実は宇宙とか知的生命体とかはおまけみたいなもんなのだ。

 『アド・アストラ』の舞台が近未来だったから、この時代のテクノロジーで目指せる限界である海王星に向かっているだけで、その物語の時代における人間が到達できるギリギリ、「辺境」であれば、別に南極でも密林でも村の裏にある山でもなんでもいいのだ。

 何を言ってんだかわからん、と思ったらまともな反応です。その場合は、ぶっちゃけ観ない方がいいです。たぶんつまらなくて爆睡すると思います。

 何を言ってるかわかる気がする、と思ったらヤバいですが、『アド・アストラ』を観に行った方がいいでしょう。

 まあ、そんなぐらいのテンションがちょうどいい映画だと思います。デートや親子で行くと気まずいのでやめましょう。でも、観終わった後、大切な誰かを思い出して優しくしたくなる映画ではあります(ちょっとage)。

 

月と猿と宇宙服

 ここから、ネタバレ込みで書いていく。

 

 宇宙はおまけ、と書いたけど、舞台としてはやっぱり適切だな、とは思う。

 現代の俺たちには宇宙に対する憧れがいくらかあって、それは進歩のシンボル、場合によっては地球を一つにする融和の象徴だったりするかもしれない。

 一方の『アド・アストラ』は俺たちより少し進んだ世界だけど、そこで描かれる月や火星の基地は、結局地球にあったくだらないいさかいの延長線上にある。

 そこに、他の映画作品で描かれるワクワク感はない。退廃や危なささえ感じられない。ただひたすら無意味でくだらない場所なのだ。

 それを2019年の俺たちに示す意味では、宇宙というのはいい舞台だと思う。

 

 猿とか宇宙服も、いい演出だった。

 作中に、実験のために宇宙に連れ出されて激怒した猿が登場する。

 ブラッドピットは、その猿の気持ちがわかるとつぶやく。何がなんだかわからないうちに、こんな遠くまで来てしまった猿と自分とを重ねたのだと思う。猿が二匹いたのも、親子をめぐるこの物語で、暗示的な気がする。

 暗示という意味では宇宙服もそうで、人と人のつながりを阻む、肉体の殻の象徴になっている。

 物語の終盤、ブラッドピットがようやく父親であるトミーリージョーンズに出会うときも、宇宙服は2人の間を常にさえぎっていた。2人がともに宇宙服を脱いで会話をしたシーンはあったのかな? なんだか、なかったような気もする。

 

父と息子とクソ野郎

 ブラッドピットは海王星の果てで探し出したトミーリージョーンズを地球につれて帰ろうとする。

 宇宙飛行士として世界的な英雄である父を誇りに思うと他の人には語りながら、心の底では自分と母親を捨てて地球外生命体を探す任務を優先した彼を憎んでいた。

 その父親を許して、ブラッドピットは、海王星でまだ探索を続けようとするトミーリージョーンズの手を取る。あなたが探している「自分とは違うもう一つの生き物」なら、いまここにいるじゃないか、と。

 まるで「地球人も宇宙人」だ、という冗談みたいな話だが、ブラッドピットは間違っていない。トミーリージョーンズは一度それを拒み、しかしブラッドピットと手をつなぐ。

 

 それでも最後に、地球へと帰る船に戻る途中で、トミーリージョーンズはブラッドピットから離れて、一人宇宙に消えていく。

 ここに、『アド・アストラ』の一番強いメッセージがあると思う。

 ブラッドピットとトミーリージョーンズは、ほとんど同じかたちをした特定のタイプのクソ野郎だ。

 ブラッドピットは探し求める側、トミーリージョーンズは探される側だが、ブラッドピットも地球に残してきた女性から側にいて欲しいと望まれるのをふりきって今回の任務に就いているし、トミーリージョーンズは、そもそも宇宙人を探すために自分の妻子を捨て、遠くの果てまでやって来た。そしてともに、地球から海王星への道のりをたどって、いま同じところに立っている。

 しかし、ブラッドピットが父親との壁を越えて彼を許したのに対し、トミーリージョーンズは一度ブラッドピットを受け入れながらも、その絆を断ち切って(精神的にも物理的にも)、一人、もう誰にも届かないところに姿を消す。

 トミーリージョーンズとしての生き方も、ここではたぶん認められているんじゃないかな。そういうやつもいていいのだ。人間のくだらなさとか身勝手さとか、そういうのを作品全体として描きながらも、あるべき姿を簡単に決めていない。

 一度理解し合った親子のこの別離に、そういうメッセージがあると思う(もちろん、愛せる人がいるならそこに帰った方がいいのは言うまでもない)。

 

 ちなみに俺がぐしゃぐしゃになって泣いたのは、トミーリージョーンズが自分を見つけだしたブラッドピットに対し、自分の道のりを帰ることのない「片道」と表現して話す場面だった。

 あまりに自分本位すぎて、でもそう言う気持ちが理解できて、突き放されたブラッドピットがかわいそうで、でもブラッドピットがこのとき、自分と父がそっくりだと気づいたのもわかって、もうこらえきれなかった。

 

 とまあ、そういうわけで、観ていて愉快な映画では全くない。

 この感想も、ほめてるんだかなんだかわからない感想になってしまった。でも、俺には良い映画だったことは最後にはっきり書いておく。

 

 以上、よろしくお願いいたします。