10月19日について①

 午後11時、テントの天井から吊ったランプの周りを、迷い込んだらしい蠅が一匹、嬉々として飛び回っていた。うっとうしいな、と思いながら寝袋の中でもぞもぞ体を動かす。
 
 この日、俺は都内のキャンプ場に泊まっていた。テントの外には小糠雨が、降ると言うよりも宙を薄く包むようにして漂っていた。
 気温はかなり下がっているはずだが、それがかえって寝袋のぬくもりを実感させてくれるようで、蠅の存在が気になりながらも、明かりを点けたまま心地よく眠りに落ちていった。
 
 いつの間にか強くなっている雨に起こされたのは、午前4時前だ。た、た、たた、と、かなり存在感のある音で雨粒がテントを叩いていた。
 テントの表面に溜まった雨が、生地の細かい編み目をくぐり始めているらしい。煙のように微細な水分が、風の動きを教えながらテント内の狭い空間を流れていた。
 そのとき、宿泊を予約するときは「残数わずか」だったキャンプ場内に、いざ到着したとき、拍子抜けするくらい他の宿泊者が少なかったことを思い出した。その理由がようやくわかったような気がしたが、時すでに遅し、だった。
 
 ちょっと困ったな。
 そう思ったのを合図にしたように、雨がさらに勢いを増した。風も強くなりテントが外から揺さぶられ、きい、ときしむように布地が引っ張られて張り詰める。
 やがて、テントの表面に張りついていた雨水が、本格的に中に染み込んできた。迂闊すぎることにタオル類を持ってこなかった俺は、慌てて、寝るときに脱ぎ捨てていたトレーナーの袖部分を使い、テントの内側から染み入ってくる水滴を拭う戦いに突入した。
 
 焼け石に水、という諺があるが、この戦闘にはまさにそうした絶望感が伴っていた。そして今回はその水こそが襲いかかる敵なのだ。
 シャレにならん、と思いながら、水滴の対処を続ける。
 水の浸食は、やがて、テント内の温もりであり精神的支えでもある寝袋にまで、じっとりと染み込み始めた。湿った繊維の皮膚に不快に張り付く感じが、わずかではあるが始まっている。
 気休めのつもりでテントの上に掛けたビニール傘は、数分後に強風で吹き飛ばされていった。脳裏に、暗いキャンプ場の中を果てしなく、ビニール傘が転々と遠ざかっていく光景が浮かぶ。
 バカなことをした。いま継続中のこの事態はいったん脇に置くとして、何時間か後にはこのキャンプ場から出て行くのだ。そのときも今ぐらいの強さで雨が降っていたら、俺はどうやって帰路につくのだ?
 後悔先に立たず。とにかくこの戦闘は俺を大きく消耗させたが、俺以外にテントの中で弱り果てている生き物がいた。
 あの蠅だ。
 水煙が何やら悪霊のように渦を巻くテント内で、蠅は天井に吊り下がったランプに留まったきり、まるで飛び回ろうとしなかった。
 蠅は神経質そうに、ときおり足と足を拭い合わせ、俺が水滴を払うために動かす腕がそばをかすめるときだけよろよろと飛び立った。それは、水気で重たくなったテント内をまるで泳いでいるような鈍重な動きで、精一杯、という感じで、テントの一画に必死にしがみつくのだった。蠅は、数刻前の意気軒昂ぶりが嘘のように衰弱していた。
 この地獄のような状況で、俺と蠅はおそらく同じものを同じように呪いながら、同じように戦っている。つまみあげて外に放り出すことも簡単な話だが、そうする気は起きなかった。
 
 文字通りの光明が射してきたのは、雨漏りとの格闘が1時間を過ぎた頃だったと思う。ふと、テントを透かして見える外の様子が、かすかに白んできていることに気がついた。
 雨は弱まることなく降り続けている。しかし、もしや、と思ってテント脇のジッパーを開けて外の様子をうかがった俺は、夜が明けようとしているのを確かに目にした。
 もう一つ心の助けになったのは、はるか遠くに風で持ち去られたと思っていたビニール傘が数m先の植え込みに引っかかっているのが、弱々しい朝日の中で見えたことだ。これで、最悪帰路の心配はなくなった。
 このタイミングで、俺は携行していたカップに水を注いだものをガスバーナーにかけてお湯にすると、冷えた体にあてがい、飲み、また注いでお湯を作っては肌を温めた。
 
 やがて、午前7時を過ぎる頃、雨は次第に弱まっていき、小雨と呼べる勢いに落ち着き始めた。
 俺はしっとりと保湿されたようなソックスのまま足を靴につっこむと、湿原と化した地面に足をつき、地獄の亡者のようにふらつきながら、およそ8時間ぶりにテントの外に這い出した。空はまだ灰色に覆われていたが、ところどころ、晴れ間の予感と呼べなくもない感じがあった。
 『ショーシャンクの空に』の逆バージョンだ。水没した芝生をばしゃばしゃ踏みながら、俺はビニール傘を手に取る。張ったままの傘をひっくり返すと、傘いっぱいに溜まった水が音をあげて流れ落ちた。
 それをさして、俺は朝飯を買うために近所のコンビニに向かって歩き始めた。