惨状と説教

誰か山から降りてきてほたえてから山に帰っていく記事。ブログ

2月2日について

  俺が喫茶店で朝飯を食っている横に母親と子供の二人連れがいて、やっぱり朝ごはんを食べている。

  小さい子供。あの、何かするたびに「あう、あ」と声がぽこぽここぼれてくるような時期だ。

 

  普通の椅子ではテーブルに届かないので、飲食店が小児用に備えている、高さを補助する器具に座っている。

  小さい子供にとって、食べ物とおもちゃ、食べることと遊ぶことの境界は曖昧なんだと思う。そして、食べることと真剣に考えることの境目も。

  別に行儀が悪いというわけではなく、小さい両手をわしわしさせて、ああ、うう、と言いながら、目の前の食べ物(プレートに色々な料理が少しずつ盛られている)をじっと見つめる。そうやって、ひと口ひと口、くちに運ぶ。母親がそれを見守っている。

 

  弱い。こういうのに。

  美しいと思う。胸がいっぱいになる。

  この二人で調和し、あまりに完結しているように見えてしまう世界に、感嘆する一方で怖いとも思う。

  ここでは、父親の存在なんて果てしなく遠い彼方に消え去っている。

  それぐらい、母と子の情景は美しい。そして、美しさを感じるほど、お父さんごめんなさい、父子家庭のお父さんごめんなさい、と思う。

 

  こういう無条件の強烈な美しさ(俺だけならいいけど)がどこか別の家庭の苦しさにつながっているのか。それを強めているのか。

  感動したがり、美しさにやられたがりの者が俺の中にいて、綺麗なものを浴びて俺は幸福だが、それが世の中全体をときに息苦しくするのか。

  そう思うと、ごめんなさい、と思い、感動しながら俺も苦しい。

 

(追記)

  こうやって、「母と子供」の美しさを謳うほど、その理想像は父親を疎外するだけでなく、母親への重圧としてもかかっていくんだろう。

  やはりちゃんと考えなくてはいけない。すみません…

 

  以上、よろしくお願いします。