『闇塗怪談 醒メナイ恐怖』について

今週のお題「怖い話」

はじめに

 評価は次のように行います。

 まず、総評。S~Dまでの5段階です。

 S…価格、提供される媒体に関係なく手に取るべき。恐怖のマスターピース

 A…購入推奨。もしくはkindle unlimitedにあればぜひ勧める。恐い。

 B…購入してもよい。もしくはkindle unlimitedにあれば勧める。

 C…図書館で借りる、もしくはkindle unlimitedなら読んでもよい。

 D…読むだけ時間のムダ。ゴミ。(少なくとも俺には)。

 

 続けて、本の中で印象に残った作品を評価します。

 ☆…それ一品で本全体の価格を担保できてしまうような作品のレベル。

 ◎…一冊の中に三品以上あると、その本を買ってよかったと思えるレベル。

 〇…一冊に七〜八品あるとその本を買ってよかったと思える作品。

 

 最後に、あらためて本全体を総評します。

 

 こういう書き方をするのは、初見の人に本を勧めつつ、できるだけ先入観を持たない状態で触れてほしいからで、評価が下に進むほど、ネタバレしてしまう部分も増える、というわけです。よければ、こちらもどうぞ。

 実話怪談という「本」について - 惨状と説教

 

 では、本編に入ります。

総評

 D。

 何を伝えたいか、整理することから始めさせてもらいたい。

 本を読む人はみんな、「こういう話が面白い」という基準を心の中に持っている。

 そして、話を書く作者もまた、「こういう話が面白い」という基準を持っている。

 読書というのは、この二つの基準がちゃんと重なるかどうか、1ページずつ確認していく行為だと思う。

 二つの基準がちゃんと重なる限り読書は続く。つまり、読書とはコミュニケーションなのだ。

 どちらかの基準が変なかたちをしていると、やがて重なりが崩れ、ストレスが生じて読書は中断されてしまう。

 しかし、変な基準を心に抱えていることは、悪いことではない。だって、それこそがお互いの「趣味」ってものだからだ。

 俺たちはいつも、自分だけの変なかたちをした基準を、書き手の基準が正しくなぞってくれること、そして、より深くえぐってくれることを願っている。それがいい読書体験だ。

 ただし、どんな書き手の基準にも許容されないものがある。

 それは、物語としてツジツマが合わないこと、破綻していることだ。基準がどういうかたちをしているか以前に、そういう物語は壊れているのだ。

各作品評

 なし。

 

あらためて、総評

 読者と作者の相性ばかりは誰にもどうしようもない。それが合わなくても、誰のせいでもない。

 俺は怪談が好きだが、オバケの存在を信じていない。厳密に言うと、存在を信じていないからこそ、信じたい。

 だから、それを信じさせてくれるような強烈な怪談を望んでいるのだが、とにかく、怪異への「不信」と「期待」のせめぎ合いが俺のベースになっている。

 『闇塗怪談 醒メナイ恐怖』を読むとわかるとおり、作者はいわゆる「見える人」だ。自身でオバケを見たと明言している。

 オバケを信じていない俺と、オバケの存在が自明の書き手が書く怪談が、出だしからかみ合わないのは当然だ。これは誰のせいでもない。

 

 ただ、言わせてもらうと、そこまでオバケを目にする機会があるなら、なぜこの作者は怪談以外のかたちでオバケの存在を証明してみせないのだ?

 人を窒息死させるほど顔に押し付けて造形されたマスク、襲ってくる女の霊、死者が書いているという日記…。

 どれも『闇塗怪談 醒メナイ恐怖』で作者が直接目にしたものだ。なぜ写真や動画に残して持ってこない?

 もちろん、世に出しても「加工だ」と言われる可能性はある。ただ、本当だというなら真実だと主張すればいいのだ。

 

 …ここまでは、「合う・合わない」の次元の話だ。繰り返すが、誰のせいでもない。

 でも、これはどうだろう。

 この本のある怪談は、次のように展開する。

 ある女性が、夫が長期出張で不在にしており夫婦関係がなかったはずの期間に妊娠した。それを聞いた夫はまったく疑問を抱かなかった。むしろ喜んだ。

 なぜ?

 妊娠検診によると、子供に何か異常があるようだ。しかし、医師は母親に何も告げない。

 なぜ?

 母親もそれに気づいていながらその理由を追求しない。

 なぜ?

 妊娠を知って喜んだ夫も一度も検診に同行していないようだ。

 なぜ? ちっともわからない。

 

 別の話。参加しないと命に危険が及ぶ、とある地方の祭りがあるという。詳細を知っているはずの親は息子になんの説明もしてくれない。離れて暮らす息子がそれに参加しなくても、親は無理やり連れてこようとはしない。

 にもかかわらず、怪異が始まって危機に瀕した息子を助けることだけは熱心に行う。

 また別の話。自分の家系に、蛇の神にまつわる秘め事があると知って調査を始める女性。音信不通で関わるなと言われている老人に話を聞きにいく。

 しかし、そもそもそんな世捨て人みたいな人物に、どうやって連絡をつけたのか。また、なぜその人なら秘密を握っているとわかったのか。

 またまた別の話。夜に絶対爪を切ってはいけないと決められたとある地方。それを信じない息子が夜に爪を切ろうとすると、理由を知っている親は、「切るな」とは言っても、なぜか理由は教えてくれない。

 しかし、頼まれた爪切りは持ってきてちゃんと置いていく。夜に爪切り持ってこられたら、普通そのまま夜に切ってしまうだろうに。

 なぜ? なぜ? なぜだろう?

 

 もう、率直に言う。

 嘘くさいんだ。

 全部嘘くさい。怪異がどうこう以前にツジツマが合わないことだらけで、話として破綻している。

 

 「実話」でなければかまわない。そんなものなら、はいて捨てるほどある。

 でもこの本は実話怪談をうたっているのだ。

 実話怪談なんてものは、オバケという、そもそもが非現実的なものを実話として扱っているために、スタート時点から大半の人間に大ウソ呼ばわりされる宿命にあるジャンルなのだ。

 だから怪談作家は、他の点では一つの穴もないように物語に気を配る。そうでもなければ、誰も「オバケが本当に出た話」なんて真剣に読まない。

 この本はそういう意味で問題外であって、話にならないのだ。

 

 嫌いな怪談本に対して言いたいことを、この本に集めてぶつけてしまった。

 …実際は、この本は竹書房のホラーで一番売れているらしい。だから、俺の感想はむしろマイナーみたいだし、これにまったくピンとこない人が読めば、ちゃんとハマるかもしれない。

 俺は俺で、自分と同じ感覚の人に向けて、引き続き感想を書いていこうと思う。

 

 第6回はこれでおわり。次回は、『「超」怖い話Γ』を紹介します。以上、よろしくお願いいたします。