『「超」怖い話Κ』について

はじめに

 評価は次のように行います。

 まず、総評。S~Dまでの5段階です。

 S…価格、提供される媒体に関係なく手に取るべき。恐怖のマスターピース

 A…購入推奨。もしくはkindle unlimitedにあればぜひ勧める。恐い。

 B…購入してもよい。もしくはkindle unlimitedにあれば勧める。

 C…図書館で借りる、もしくはkindle unlimitedなら読んでもよい。

 D…読むだけ時間のムダ。ゴミ。(少なくとも俺には)。

 

 続けて、本の中で印象に残った作品を評価します。

 ☆…それ一品で本全体の価格を担保できてしまうような作品のレベル。

 ◎…一冊の中に三品以上あると、その本を買ってよかったと思えるレベル。

 〇…一冊に七〜八品あるとその本を買ってよかったと思える作品。

 

 最後に、あらためて本全体を総評します。

 

 こういう書き方をするのは、初見の人に本を勧めつつ、できるだけ先入観を持たない状態で触れてほしいからで、評価が下に進むほど、ネタバレしてしまう部分も増える、というわけです。よければ、こちらもどうぞ。

 実話怪談という「本」について - 惨状と説教

 

総評

 S。
 平山夢明作。2007年刊行。
 
 「超」怖い話シリーズ第10弾にして、初の平山夢明単著。
 もう一度言う。
 「超」怖い話シリーズ初の、平山夢明単著である。
 
 加藤一とタッグを組んでいた従来の形式から離れたためか、本全体から、平山夢明単独の意図…というか、もはや強烈な意志を感じる構成になっている。詳しい評価は後述。
 
 この実話怪談の本を紹介するという企画には、いくつか、目標にしていることがあった。
 一つ。俺の好きな怪談作家である我妻俊樹の作品をできるだけ紹介すること。
 一つ。「実話怪談」というおおざっぱにくくられがちなジャンルの中にも様々な書き手がいることを整理すること。

 一つ。そうした整理を通じて、俺の好きな作家のどこが好ましいのか、嫌いな作家のどこが心底嫌いなのかを明確にすること。

 この、『「超」怖い話Κ』について紹介することは、そんな目標の中の一つだった。第19回にして達成することができた。
 

各作品評

 孫娘…◯。後述。
 実験…◯
 一銭狸…◯。後述。
 衣…◯。同上。
 案内を乞う者…◯
 マリヤちゃん…◯。惨事スレスレなんだけど、なんか一粒ぐらい笑いの要素が混じっている感じ。
 前かご…◯。ヒールとバッグの見つかり方。ホラーのはずが、これも、なんでだよとちょっと笑ってしまう。
 シャボン玉…◯
 自死…◯
 猫と半分…◯。針が刺さる描写には美しさを感じる。緊張感。情景が目に浮かぶよう。
 
 以下は全て後述する。
 地下で声…◎
 布団…☆
 殲滅…☆
 上へ上へ…☆
 

あらためて、総評

 「超」怖い話シリーズ初の(そして実は最後の)平山夢明単著となったこの作品は、ある意味で、恐怖とはこういうものだと平山夢明が信じているもの、そのものだと思った。
 上で書いたとおり、本全体を通して、構成に対する強い意志を感じる。
 その信念みたいなものに、どこまで共感できるか。その意図をどこまで堪能できるか。
 読み手としてその狙いに付き合い、味わうことができれば、これ以上ない恐怖を体験できる。実話怪談というジャンルにおける一つのマスターピースだと思う。
 
 『孫娘』について。
 実話怪談の(一部の)愛読者というのは本当に変なやつらで、オバケのことなんて信じていないリアリストでありながら、その存在を感じて心底怖がりたい、という食い違った願望を持っている。
 作者はその倒錯した欲求に対応しなければならない。
 ただ、なにしろ基本的には現実的な連中なので、オバケが出ました、人が呪いで死にました、ハイ怖いですね、というだけの展開をきわめて嫌う。「何を非現実的なこと言ってるんだよ…」と呆れられてしまうだけだ(それを好んで読んでるのは自分たちなのに…)。
 そういう相手には、怖いんだかヘンテコなんだか、よくわからない話を持ってきてぶつけるのが効果的だったりする。
 『孫娘』もそんな話だ。オバケが堂々と登場する一方で、最後に登場する老婆のひと言によって、話の焦点が絶妙に狂ってしまう。
 結局なんの話なんだよ…? 良い意味で苦笑させられる。
 しかし、実は平山夢明の技巧によって、「オバケの実在」をひそかに飲み込まされてもいるのだ。現実主義者であるはずが、少し笑いを織り交ぜられたせいで、オバケを自分があっさり受け入れたことに気が付かない。
 そういう意味で、恐慌が渦を巻く、この本の終盤への下準備にもなっていると思う。
 
 『一銭狸』『衣』は恐怖というより奇談の類で、民俗的な話。ここで書かれていることを嘘だの本当だの言ってもしかたがない。
 しかし、「怪異は実在する」という土台が、ここでも着実に固められているとも言える。個々の話として読んでも面白いが、ある意味、すべては後半戦のために、という読み方も可能だと思う。
 
 そして、『地下で声』『布団』『殲滅』『上へ上へ』の四連続がやってくる。
 この構成に意図を読み取らないことは難しい。本の前半から、困惑や苦笑いといった怖さ以外の感情を利用して読者に刷り込まれてきた「オバケの実在」が、本の最終盤になってついに、恐怖の猛威を振るう。
 評価は、『地下で声』に◎、続く三作品にすべて☆をつけた。こんな本は、おそらくもう現れないのではないだろうか。
 
 『地下で声』『布団』『殲滅』、どの作品も、語り手以外の第三者が恐ろしさを伝えるのに大きく貢献している。
 実話怪談というジャンルは、どれだけ怖い体験であっても、死んでしまった者・心を病んでしまった者は語り手になれない、というジレンマを抱えている。恐ろしすぎる経験は、言い換えれば貴重な体験とも言えるのだが、当事者が全員再起不能になってしまえば、それを語ることは誰にもできない。
 しかし、だ。
 逆に言うと、一人でも正気を保てれば、残りは地獄の底まで行っても話として成立する、ということになる。
 『地下で声』の同僚。『布団』の友人たち。『殲滅』における語り手のかつての恋人たち。彼らは全員破滅した。
 唯一、語り手だけが生き残り、そのおぞましさを報告することに「成功した」。この三作品は恐ろしさは、破滅した者たちの存在に大きく支えられている。
 ちなみに一番ショッキングだった一節は、『布団』の「感極まったような歓声をあげた」。もう、感動を覚えるぐらいの絶望感があった。
 
 この三作品に共通している邪悪さは他にもある。どれも、わけのわからない巨大な仕組みのようなものに巻き込まれているという点だ。
 オバケや怪異とたまたま波長が合ってしまった、というレベルではない。彼女たちは、何か圧倒的に太刀打ちできないものの端っこに、不幸にも組み込まれてしまった。
 怪談とは、究極のところ、オバケを怖がるものではない。
 オバケはもちろん怖いだろう。しかし、それは、自分もいつかオバケと出くわして破滅するかもしれないという世界観に引っ張られたから恐怖を感じるのだ。
 読者はオバケではなく、世界そのものを怖がっているのだ。
 『地下で声』『布団』『殲滅』は、オバケの登場と同時に、この世界自体の闇の底知れなさを示している。そういう点で、あらためて賛辞を贈る。
 
 『上へ上へ』は美しい。
 本当に美しい。
 それは、他の作品が持つ恐怖とのコントラストでもあるし、あるいは、世の中そのものの邪悪さを表した『地下で声』『布団』『殲滅』に対して、ひたすら個人的な救済が描かれているという対比でもある。
 今回、この『「超」怖い話Κ』は、構成に対する平山夢明の強いこだわりを感じる、と書いてきた。『上へ上へ』を最後に配置したことによって、あらためて、実話怪談という一冊の本を作るうえでの、一つのフォーマットが完成している気がする。
 
 第19回はこれでおわり。次回は、『黒木魔奇録 狐憑き』を紹介します。以上、よろしくお願いいたします