深更について

 亡くなった祖母は「○○(俺のことだ)の前世は夜鷹だ」とよく言った。夜鷹というのは夜道で男の袖を引く江戸時代の娼婦のことで、俺が深夜に外を歩き回るのを好んだから、そう呼ばれたのだ。

 特に目的があってそうするわけではなく、俺は0時~2時頃の街の雰囲気が好きなので深夜に外を歩く。引っ越してきた今の街でもそうする。

 2時前になると小さな街路には誰もほとんど歩いていないことが多い。大きな道にぶつかって駅にも近づくと、少しずつ人の姿を見かけるようになる。遅くまで営業している飲食店は店を閉めたばっかりで、椅子を上げたテーブルが明けた扉の向こうに見えていて、「虫干し」みたいになっていることもある。

 セミはこの時間でも鳴いている。頭上の街灯でこつ、こつと音を立てているのは、飛んできた甲虫がぶつかっているのだろう。ガラスでつるつるに覆われた灯りに足をかけるところはなく、習性上それを止めることもできないから、運よく飛翔のコントロールを失って光の圏外まで外れていくか、力尽きて落下するしかない。

 人の密度が一番濃いところまでやってきても、当然ながら、昼間とは比べるべくもない。しかし、人間も含めた生き物の気配は確実にある。

 コンビニで買ったカップ麺を手に夜道を歩きながら、この感覚が俺にとってちょうどいいんだろうな、と思った。「なじむ」というか。

 『賭博黙示録カイジ』でカイジが高層ビルの鉄骨をわたらされているとき、もう終盤戦で、同じ生き残りの佐原と天空で会話を交わす場面がある。

 そこでカイジが気づいたのは、この世界は本来、お互いに手も触れられない、もちろん助力もできない、情報量の多いやり取りなど全く期待できず、コミュニケーションは「通」じたと「信」じるだけ、という人生の本質だった。これは日常でぶ厚く覆われ、不可視になっている世の中の真の姿であって、それが超高層の鉄骨をいっさい保険なしでわたるという過酷な状況によって引きはがされた、ということだ。

 深夜に歩いていて俺の覚える感覚は、もちろんこんなに激烈なものではないけども、関係性としては近い気がする。

 基調が闇になった世界で、ぽつぽつ明かりが灯っている中で、「ああ、誰かがいるな」とときどき思う。燃えるような生命の動きの激しさと、周囲の揺るがしがたい静けさが生き物を押し込めて沈黙させる様子とが二重写しになっている。

 俺の中に普段からそういう実感が確かにあるのだ。ただ、それは本来、人が多く騒々しい日中からは出力されてこないはずの感覚であり、「俺は何でこんな気持ちになるんだろう、どっかおかしいのだろうか」という違和感となる。

 それが夜更けの時間帯を歩き回ることで、自分の感覚と外界とのバランスがようやくとれるんだろう。だから俺は夜に歩くんだろう、というようなことを思った。

会話について

 職場に向かう途中の四つ辻にベビーカー、小さい男の子が乗っていて、お母さんらしき女性がその後ろに立ち止まってスマートフォンを見ている。道でも調べているのだろうか。

 男の子が身をぐいぐい乗り出し、自分の前方に指を示して「う。う」と言う。「行け、行け」と言うように。「ちょっと待っておくれ」と女性が言う。

 「待っておくれ」、いいね。「待ってて」よりもいい。

 

 良いコミュニケーションとは何か、意外とそのことについて考えたことがなくて、誰もわかってくれないと言いながら、結局どうにかなっているからそうなんだろう。

 ちゃんと定義してみると、お互いの意思疎通ができていること、もしくはそこに違和感を生じさせないこと、ということになるだろうか。肝心なところはお互いの、という部分で、相手には自分の伝えたいことがまるで理解できていないようだが良いコミュニケーションが取れた、というのはあり得ない。

 

 しかし、あの女性の「待っておくれ」のニュアンスは果たして小さい子どもに伝わっただろうか。たぶん無理だろうと思う。

 というか、俺にも上手く言葉にできない。よく聞く「待ってて」よりも、相手の「おい、止まってないでずんずん行こうぜ」という姿勢をいったんやわらかく受け止めて、かつ余裕のある感じがする、という具合だが、おそらく幼児には違いがわからない。

 こうして考えてみると、コミュニケーションというのは他者と交わすものであると同時に、自分自身に対しても発信するものだろう、という気がする。

 もちろん、自分の言いたいことを相手に伝えるのが第一義なのだが、その一方で、口を開く自分のためにより良いかたちを模索している部分もあるんじゃないか。

 「この場で少し止まるので我慢してください」というメッセージを伝えるのに、「待ってて」よりも「待っておくれ」の方がいい。ファニーだ。例え聞いてる側にその違いがわからなくっても、口にする側はその方がいい、というようなことを思った。

日記について

 海辺をランニングしていた。夕焼けがものすごい日で、西の空にのったりと広がった雲が夕陽をあますところなく受け止めていて、それが雲の隆起やうねりを複雑な色彩の反射によって照らし出していた。

 その夕焼けを浜で見ていたら、若い女の子二人に夕陽を背景に写真を撮ってくれと言われたので何枚か撮る。暗くなってきた周囲と、まさに残照という感じの激烈な落日との対比が、二人の顔もちゃんと写そうとカメラがフラッシュを焚くとなんだかボケてしまうのでなかなか難しい。

 「うーん」

 「もう一回撮りましょうか」

 「…お願いしてもいいですか?」

 「いいっすよ」

 とかってやり取りを何回か繰り返す。結局、「加工するからいいか!」と女の子の一方が言っててつい笑ってしまった。

 「撮影に何回か付き合わせた人の目の前で、俺だったら言わねーな、それ」と思ったが、同時に笑ってしまったら負けだと思う。かわいげは強い(っていう感想も少し気持ち悪いか)。見た目でなく、性格の話。

 

 落日の速さは本当にすごくて、再び走り出して市街に入ってからふと西方を眺めたら、夜間のただ暗い薄墨色にすでに突入していた。立ち位置が変わったからというだけの理由かもしれないが、たった数分のことだった。

 

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少し話はズレますが、キミたちも神学を学んだらいい。『 チ。―地球の運動について―』4巻の感想について

はじめに

 破竹の勢いと言ってよいでしょう。超話題作、第4巻。

 以下、ネタバレあります。

 

 

 

 決闘代理人オクジーが偶然残した手がかりから、知と神の信奉者である修道士バデーニがついに地動説の証明らしきものに到達する。

 次に待ち構えているのは内容をいかにして、安全かつ確実に世の中に問うか、というフェーズ。いかにも天動説が支配的だった数百年前ならではの問題、とも思ったが、学問や表現におけるこうした段取り、いわばプロモーションは、現代でも重大に意識するべきものですね。

 一方、異端審問官にして拷問のプロフェッショナルであるノヴァクがついにオクジー・バデーニのペアを捕捉する。バデーニ逃亡の時間を稼ぐため、オクジーはかつて相対して圧倒されたノヴァクの前に立つ。

 

 1巻において、天動説が常識=それを疑うと死の危険さえある=その常識に沿って生きていくのは優れた知性を持つ者には超楽勝、という世界観を示した上で劇的に破壊してみせたのと比べると、2巻以降は世界観の新たな構築にあてられている感じがする。

 例えば、天動説もけっして非科学的な妄信ではなく、科学的に追求された結果の一つであること、その確立に一生を捧げる者も存在することが明らかになるのは、作品の現在の方向性が序盤よりも複雑になったことを示している。

 4巻でタイトルの「チ。」が地球の「地」のみでなく、バデーニが全霊を捧げる「知」、ノヴァクが世の中を安定させるために必要と説く「血」も含むトリプルミーニングとなったが、これも物語のテーマが広がっている証だと思う(特に「血」)。

 1巻で若き天才ラファウを死亡させ、その死にざまに衝撃を受けたように見えたノヴァクが、現在も平然と異端審問官を務めているのは少し意外だった。

 ただ、彼が説く「血」の中に、今のノヴァクの心境が表れている気がしないでもない。というのは、暴力というのが実は合理性の行使だからだ(というか、そういう論法じゃないと正当化されないのだが)。

 ある種の暴力は、将来的に大勢傷つけなくて済むように、早いうちに少数を痛めつけるというロジックによって発動する。ラファウの死を受けて、ノヴァクはもしかすると、必要最低限の暴力を振るうことが将来的に同じような被害者を出さずに済ませる解決策だ、という方向に、自らの生き方を推し進めたのかもしれない(ちなみに、作者の魚豊さんがこちらの記事でノヴァクについて語っています)。

 他にも学問と信仰をめぐるジレンマに関する面白い議論があって、とにかくこの問答によって、作品が混沌としてより強いエネルギーを内蔵したように見える…が、それは以下でくわしく書く。

 

本題

『自らが間違ってる可能性』を肯定する姿勢が、学術とか研究には大切なんじゃないかってことです 第三者による反論が許されないならそれは――信仰だ

 

 4巻の後半で学問と信仰の関係をめぐる議論が登場する。

 これを読みながらかなり興奮した。それは、この問答が新鮮だったからではなく、むしろ学生の頃によく親しんだ内容だったからだ。

 引用した部分を語っているのは決闘代理人オクジーで、修道士バデーニが言葉を投げかけられる相手となる。

 学問や宗教の素養はまったくないオクジーは、知性の面でバデーニに到底かなわない。つまり、オクジーがバデーニにこんなことを言う構図はすごく奇妙なのだが、もう一つ面白いのはバデーニが信仰者だというところで、「お前の示した姿勢は信仰だ」と言われても、それを批判として受け止める必要が微塵もないはずなのだ。

 しかし、実際はこの言葉がバデーニに刺さってしまう。それも、猛烈に。

 

 俺の通った大学にはCコードという概念があって、常勤の教員はクリスチャンでなければいけないという決まりがあった(おそらく今も)。

 ということで恩師たちはイエス・キリストの復活という非科学的な現象を信じていたはずだが、同時に、大学の教授という知のプロフェッショナルであり、論理的で、博識で、もはや常軌を逸して頭の良い人たちだった。

 少なくとも一部の人間にとって、知性というのはきわめて器用で、かつ悲劇であるのかもしれないが、不合理を信じるという信仰と学究のために必要な疑念とを一緒に抱えて、まったく正反対の方向に同時に走り出すことができた。それは神や救世主は無条件で信じるがそれ以外は疑ってかかる、といった都合の良いものではなかったはずで、そこには常に、一方から一方への慌ただしい往復と、恐ろしくなるような緊張があった。

 神学という、多くの人がその名詞を知っているが内容はいまいち理解されていない学問の一つの側面は、こうした答えのない問題を扱うフィールドであって、そして、俺も非信仰者なりにそれを学んでいた(ほとんどモノにならなかったが)。

 

 修道士でありながら信仰という言葉が批判として機能してしまうバデーニの姿を見て、学生時代を思い出してうれしくなった。

 あわせて、こうしたきわめて神学的な議論がちゃんとエンタメしうるのを教えてもらったことに、本当に興奮させられる。4巻を読んで、この部分に「おもしれえ」という印象を抱いた方は、ぜひ大学や専攻の選択肢の一つに、神学を加えてみてはいかがでしょうか。人間という存在のポジティブな悲哀や奥深さについて、理解が深まると思います(死ぬほど就職では役に立たないけど)。

 以上、よろしくお願いいたします。

 

 

子どもについて

 仕事の帰り道で横断歩道をわたってるとき、向こうから3~4才ぐらいの子どもが走ってきた。ずいぶん小さいのがいるな、と思っていたらその向こうにお母さんがいたのだった。

 横断歩道を駆けていこうとするその子にお母さんが「止まって止まって」と声をかけて、母親の言葉どおり俺の目の前でぴたっと止まる。

 「右見て」の声で右、「左見て」の声で左。お母さんに言われるとおり、体ごと元気よく振り向くようにしながら左右を見て、また早足で歩き始める。

 大人に言われていることに従うのが気に入らねえ、という時期が子どもにはきっとあると思うのだが、世の中のルールが段々わかってきて、それに沿って行動してみせることが楽しい、なんというか、誇らしいという年齢もあるんだろう。母親は子どもの姿をほほ笑みながら眺めていた。

 宝物のようだろうな、と思う。もしくはこの言葉でも、まるで足りないぐらいの。俺は子どもがいないのでわからないが、きっとそうだろうと思う。

 

 先日、トラックが大きな事故を起こして小学生が亡くなった。親の心に何が起こったか、想像しようとしてもうまくいかない。想像しようとするべきでも、言葉にするべきでもないかもしれないが。

 

 子どもが死なない世界がいい。世界がそうなることはおそらく永遠にないが、子供が死なない世界がいいと思っている。

地元について

今週のお題「住みたい場所」

 ということで。

 

 23時前、ほろよいというリキュールのハピクルサワーフレーバーがいきなり飲みたくなって、コンビニまで探しに行った。売っている店舗を把握してはいないので、見つかるまでハシゴする覚悟だった。

 かつての「住みたい場所」だったこの街にいま住んでいる。越してきて3ヶ月程度が経った。

 通勤まではけっして便利ではない。土地の名前を知り合いの誰に聞かせても、「お前はどうかしている」という。俺もまあ、そうかもしれないと思う。仕事終わりに長いこと電車に揺られて、最寄り駅のホームに降り立ったときとか。自分で選んでたどり着いていながら、妙なところに来ちまった、と思う。

 コンビニをめぐって駅前までやってきた。ようやく、三軒目で目当ての商品を探し出した。

 同じファミリーマートでも売っている店舗、売っていない店舗があるのは不思議なことだ。コンビニエンスストアの流通に係る調査というは、ITや統計など総がかりで駆使されてとてつもない進化を果たしているのだろうから、それで最適なのだろうと思うが、通りが違うだけで消費されるアルコールのフレーバーが変わったりするのか。変わるのかもしれない。

 住居までの道のりを歩いて戻り始める。数分歩いただけで、あたりがとっぷりと闇に包まれる。

 連日のように雨が降り続いていた。午後になってようやく止んだ。アスファルトから立ち上る湿気は、暑さを連れてはこなかったが、水煙になって地上を漂うことに決めたらしかった。周囲がぼんやりとかすんで、闇の中で白く渦を巻いていた。

 歩き進むたびに、道のりが狭く暗くなっていく。理由はよくわからないが奇妙に贅沢だと感じる。

 この街に越してきてよかったと思う。どこかで咲いたらしい百合の匂いが強烈に香った。見回してはみたが、どこにも見つからなかった。

読もう、中華ミステリ。『死亡通知書 暗黒者』の感想について

はじめに

 中国の小説というと、最近は『三体』をはじめとするSFが話題の印象があるが、そもそも中華圏における書籍市場の全体像を語れるほど詳しいわけもなく、じゃあSF以外に何が有名? と聞かれると『聊斎志異』だとか残雪とかが出てくるぐらい偏った知識しかないんだけど、その中でジャンルとして明確に抜け落ちている印象のある分野がある。ミステリーだ。

 中華ミステリは本当に思いつかない。もちろん最大の理由は俺の見識が狭いからだが、こんな記事もあるぐらいなので、マーケットが実際に小さいのだと思う。

 そんな中で手に取った『死亡通知書 暗黒者』は(妙なタイトルだけど、死亡通知書シリーズの第一作で副題が『暗黒者』ということらしいですよ)、先日の早川書房によるkindle半額セールをきっかけに知った作品だが、これがメッポウ面白かった。だからそのことについて書く。

 

アクション×謎解きのハイレベルな調和

 舞台は中国国内のA市。一人のベテラン刑事の死をきっかけにして、復讐の女神〈エウメニデス〉の名を騙る犯罪者による連続殺人が始まる。実戦、サイバー技術、心理学など各分野のエキスパートによる対策班が結成されるが、それをあざ笑うようにして、〈エウメニデス〉は犯行予告を繰り返し、思いもよらない手口で予言した殺人を実現化していく。鋭いひらめきと抜きんでた行動力で〈エウメニデス〉を追う先陣を切るのは、A市外の所轄でありながら対策班に組み込まれた刑事・羅飛。彼には、この犯人と個人的な因縁があるのだった、という話。

 

 警察小説というと髙村薫のようにダウナーで思弁的な作品か、深町秋生のようにアッパーで火薬・血煙くさい作品の両極端しか知らないところ、どちらかというと、『死亡通知書 暗黒者』は深町作品のようなスピード感のあるエンターテインメント路線に近い。

 劇中で何度か殺人が、ショーめいた状況で執行されるわけだが、異様に大がかりだったりシチュエーションが凝りすぎていたりで、荒唐無稽な感もある。「まあ、楽しもうぜ」という雰囲気がある。

 ただし、それらもふざけているばっかりではなくちゃんとロジカルにできているし、とにかく「ミステリ」に分類されるだけあって、張り巡らされた謎の数、明かされたいくつもの真相によって物語が転調する回数が尋常じゃない。そういう意味で、単に能天気な作品ではなく、疑心暗鬼の緊張感がラストまで張り詰めている。

 信頼できる登場人物はほぼいないと言っていいだろう。ちょっとしたネタバレになるが、主人公の羅飛でさえ、途中からかなり怪しい気配を漂わせてくるほどだ。アクションと謎解きの高次元のハイブリッド。映画作品で言えば『インファナル・アフェア』に近い雰囲気かもしれない。

 

もう少しネタバレと続刊希望

 かなり強烈なページターナーなので、ぜひお薦めしたい。

 もう少しネタバレすると、作品の結末には大きなオチがつき、事件はある程度解決するのだが、あくまで「第一部 完」(原文ママ)である。

 ある者は大きな因縁を抱え込み、ある者は安息の地を失くし、ある者(たち)は舞台から去ったが各々の後継者を残した。中でも主人公・羅飛の境遇が印象的で、この作品もミステリでよく語られる「犯罪者とそれを追う者は表裏一体」というロジックに則っているのだが、羅飛が終盤で下した決断は、犯罪者側に一歩踏み込んだものと言えなくもない。

 これがどの程度、作者の意図したものかは不明だが、彼のこの選択も含めて、小説が完結してなお、多くの因縁が作品世界の中で渦を巻いている。早川書房にはぜひ、続編の翻訳をお願いしたいところ。以上、よろしくお願いいたします。