狂った犬のように走ることについて

tonarinoyj.jp

 『ゴールデンカムイ』の最新話まで無料公開、というすさまじいキャンペーンが始まっている(9/17まで)。

 もちろん、これを契機にして最新の単行本を買ってくれれば、あるいはグッズを買ってくれれば、といった利益を見込んだうえでの判断だろうし、ネガティブな方向で考えれば、昨今データでの閲覧は違法のサイトでされてしまうから、どうせなら法的に正しくビジネスの中に取り込んでやろう、ということなのだろうけど、とんでもない時代になったと思う。

 

 「狂った犬のように走る」とは今回のキャンペーンに登場した惹句だが、そもそもは同じ作者の『スピナマラダ!』(超面白いです)で使用された表現だった。

 『スピナマラダ!』は6巻で打ち切られてしまったけど、クリエイターとして、その後も狂ったように疾走し続けていまのかたちがあるのだと思う。頭が下がるというか…そういうレベルさえ超えてるよな、というのが今日の話。

 

 いきなりだがバナナマンがけっこう好きだ。

 けっこう、というのは彼らのコントや映像作品ではなくて、『バナナムーン』という金曜日の深夜にやっているラジオ番組だけを愛聴しているからで、ファンとしてちょっとヘンテコな感じがするが、もう10年以上聴いている。

 今週の二人の話は、過去の傑作コントについて振り返りつつ思い出を語る、といった内容から始まった。バナナマンとして20代の頃はどこか狂気を帯びたような熱の中でコントの場数を踏んでいき、爆笑をさらいながら舞台上で実験を繰り返していた、という話だ。

 上で書いたとおり、俺はコント師としてのバナナマンにほとんど興味がなくて、かつ、「30代でようやく日の目を見た苦労人」というイメージを持っていたので、もっと若いころから演芸場では無敵であり求道者でもあった、と知って意外な気がした。

 別に、彼らの20代だって何の苦労もしていなかったなんて、間違っても思っていない。ただ、年齢を重ねて出てきた印象がある彼らが、俺の知らないところで勝って勝って勝ちまくり、他を圧倒し、ひととおりやりきって、そのときようやく俺という一人の消費者のところに「届いた」のだ、ということを遅れて理解したのだ。

 

 言うまでもなく、生きている人間はみんな頑張っている。

 子どもも頑張っているし、仕事から引退した老人も頑張っているし、言いたくはないが俺だって頑張っている。

 ただ、「誰かのところに届く人間」というのは、それとは完全に次元の違う常軌を逸したレベルで頑張っている。まさに、狂った犬のように。それは努力の絶対値という話でもあるし、努力と成果が完全に等価(勝たなければ意味がない)という世界観の話でもある。

 そりゃそうだろう、ってなもので、「要はお前が世間知らずなんじゃねえか」ということだしそれは合っているのだけど、たぶん彼らは本当にどうかしているのだ。狂っている。

 その狂気にも関わらず、彼らはあまりそれを見せてくれない。「ものすごくとても面白い人・才能」ぐらいな感じで世の中で説明され、なんなら消費されさえしている。なんだかそれも奇妙な話だな、という気もする。

 

 特にオチはない。

 書いたとおり、人間はみんな頑張っているので、誰もさらに狂ったように頑張り、勝利しなくてもいい。昔は、(漫画やコントじゃないにせよ)そういう仕事観・人生観がメジャーだった時代もあったのかもしれないが、すでに相対化されているし、さらに加速していくだろう。旧来の男性優位社会ともどこかで結びついている気もして、そういう点では、自然消滅という以上に廃れていくべき価値観かもしれない。

 でも、そうやって狂ったみたいに頑張れるの、本当はちょっと憧れるし、ズルいって気もするんだよな、とまったくそんなキャラクターじゃないはずの俺は、こっそり思ったりしてるんだ。実はね。

 

 以上、よろしくお願いいたします。

怠け者の使い方について

 職場で割と大きなプロジェクトについて他の部署の人から説明を受けていたときのこと。

 俺の部で管理職を務めている者の何人かが、説明の内容について枝葉末節をいじり回すようなケチをヘラヘラしながらつけるのが続いたので、なんとなく気持ちがイラ立ってしまい、途中で説明者に質問するという体裁を取りながら、間接的に上役連中に嫌味を言ってしまった。

 青い。

 

 今回の計画は組織全体にかなりの負担をかけるもので、それがよその部から降ってくるとなれば、管理職としては費やす労力をコントロールするために、いきなり前のめりで請け合うわけにいかない。それはわかる。

 ただ、そのケチをつけた数人というのが、「そういうお前は普段から何をやってんだよ?」と言いたくなるような、仕事中に寝ちゃったりとかネットサーフィンに余念がないとか、そういう人たちなので、職責の上で牽制しているようで、単に自分らが面倒くせえだけだろう、と思ってイラついてしまったのだ。何度も繰り返すが青いのである。

 

 仕事のできる人は、おそらくあのような場面でも上手いこと議論と人間とを転がすのでしょう。

 視点をまったく変えてみて、そもそもなんでむかっ腹立てたかと言えば、当の俺自身が怠け者だからである。まあ、新しいこと・大変なこと・人から言われたこと、取りかかる前にやめる理由って言えば、事前に100や200は思いつくだろう。

 もちろん自分のことだから(?)、なるべく直視しないようにしているわけで、それを他人の姿かたちを借りて見せつけられて醜怪さにおぞ気を振るったのだろう。上司連中は八つ当たりを受けてトバッチリとも言える。申し訳ない…いや、謝るのもおかしいか?

 上手いこと、自分のナマケをコントロールできるようになれば、同じような人間の転がし方もわかるのだろうな。逆もしかりだろうし、色々と人間としても労働者としても精進したいと思う。

 

 以上、よろしくお願いいたします。

彼女/彼とそうじゃない新しいものについて

 あるPodcastを聴くためにSpotifyに登録したら、アカウントをつくるときに確認される性別に男性・女性に続いてノンバイナリーの項があり、時代だなあ、と思った(揶揄も称賛もありません)。

 当事者たちがこれで生活しやすくなるなら、いいことだろうと思う。こういう具合の当事者意識を欠いた考えも、批判されるべきなのかもしれないが。どうせなら項目自体失くしちゃえばいいのに、と感じたけど、性自認と愛好する楽曲の統計がまとめられて、マーケティングに利用されたりするのだろうか?

  

 学生の頃に英語でレポートを書かされたとき、三人称単数の人称代名詞を使用する場面で性別が特定できない場合は、he/sheと書いていた。「人間」という意味にはhuman、もしくはhuman beingを用いた。

 manで表すことを避けていたのは、確か、人間たる存在として男性を優先的に想起させかねないという発想だったはずだ。俺がこんな殊勝な考えを自分で思いつくはずがないので、大学側から指導されたのだろう。

 ただ、指導というのが「必ずそうするように」だったか、「そうすることを推奨する」だったかは覚えていない。人間をhuman、human beingと書くべき理由についても、「manと表記するのは男性主権的な姿勢だからやめようね」だったか、「男性主権的だとあなたが誤解されるからやめようね」だったか、どう説明されたんだったか…。

 別にフェミニズムや男女同権の意識から求められる慣習をあげつらうつもりはなく、「めんどくせえな、でもまあ、そういうものか」と当時から思っていたし、いまも思っている。表記としてのhe/sheが現在でもイケてるのかはわからないが。

 

 外国の人物が登場する文章を読んでいると、名前から性別がわからないことがあって、彼女と言い換えられたときにはじめて、「こいつは女だったのか」となる。女だったのか、という印象自体が暗に男性優位的だったりして。こういうケースにおける疑念にはキリがない。

 考えてみれば、その人物の性別が男だろうと女だろうとどっちでもいい内容の文章もけっこうあるよな、と思う。

 性別を誤認させようとする叙述トリック…という例は極端すぎるとして、小説やジェンダーに関するノンフィクションなんかは人物の性別表現に配慮した方がいいだろうけど、いま読んでる医療系ドキュメンタリーだと別にどうでもいい。

『ファーバーも夢見たのだ。悪性細胞が特異的な抗がん剤で殺され、正常細胞が再生して本来の生理的なスペースを取り戻す夢を。彼はがん医療に挑戦状を叩きつけた。』

  「彼」というからには男性だろう。

  それはわかるが、別にわからなくてもいい。まあ代名詞を使わないと不便だからな、という以外の理由は何かあるのだろうか? おっさんの漠然としたビジョンが、もやっと浮かんだりはするけども。

  こういう面倒くさいことを言われた場合、英語圏ではhe/sheというとんちを使うのだろうか。

  日本では彼か彼女を使わざるを得ないよな。「彼」は「かのひと」の意であって、性差を含まないんだぜ、というコンセンサスができればいいが…(と思ったら、かのひと・あのひともどちらかと言うと男性を指す意味合いが強いらしい)。

 

 要するに、彼女でも彼でもない、文脈において性別が重要でない場合における代名詞が、日本語にもあっても(広まっても)いいんじゃないの、ということだ。

 別に表記のたびに当人の苗字を繰り返してもいいのだが、ずっと名前ばっかり言いやがって矢沢永吉かよ、みたいなことになるので、何かしらあってもいい。それこそ「彼人」とか(ダセえ)。

 俺自身に割と、言語的相対論的というか言霊信仰みたいなものがあって、彼/彼女の二元論で表記している限り世の中の認識はあらたまらない気がしていて、そこに収まらない人たちは居心地悪いのかもしんねえな、と思わないでもない。というか、収まらないという表現自体が逸脱を意味としてはらんでいてムカつくのか。すいません。

 ちなみに、俺はフェミニズムを重んじていたりLGBTに関する問題意識が強かったりするわけではないので、この文章丸ごと、てんで見当違いのことをしゃべっているのかもしれない。

 見識の広い方からすると「てめえいい加減なことほざいてんじゃねえ、こっちまで馬鹿だと思われるだろうが」という可能性もあって、俺はあくまで思い付きでしゃべってるだけだからどうもすいません、と思っている。

 以上、よろしくお願いいたします。

俺たちは何年クリエイティブに寿司を握れるか、について ③

今週のお題「寿司」

 

sanjou.hatenablog.jp

 実業家の堀江氏が以前語っていたところによると、従来は寿司職人になるのに10年間の下積み期間が必要とされていたが、寿司を握る技量を身につけるのに、本来はそんなに長い時間はいらないのだ、と。

 一方、まったく別の場面で経済学者ダニエル・コーエンは、将来、情報科学の発達によってルーチン化できる作業はすべて機械によって代替されるため、人間に残された仕事は創造力を生かすものだけになる、と語った。

 コーエンによれると、やってくる未来では、後進を育成することを目的とする期間も消滅し、キャリアの全体を通じてフルに創造性を発揮する労働者であることを期待されるようになる。機械は人間を単純作業に追いやるのではなく、クリエイティビティの戦いに誘導する。

 

 仕事のプレイヤーとして参加している寿司職人が(これは半分暗喩でもあって、すべての労働者に当てはまるかもしれない)創造性を求められ、競い合う時代になるのは、消費者としては好ましいんじゃないか。

 最初はそう思えるが、お寿司を食べる機会がそんなに多いわけじゃないし、果たして本当に、「美味しい寿司」を安く、職場に大きな負担をかけない上で提供するように努力している「職人」が適切に競争を勝ち抜くのか、俺たちの市場はそう機能するのかはかなり疑問だ。

 実際はかなり難しいのではないか。

 結局、増加したプレイヤーの中で競争を有利に展開するには、広告などの領域に注力し、ライバルを押しのけた方が効率的なのではないか。新しい時代で期待される「創造性」はPRの方向に発揮され、消費者の利益にはつながってこないのでは…と、これが前回までに書いた話だ。

 

 広報活動を否定するわけではなく、どんな名店も周知がなければ消費者に選ばれることはないので、要素としては欠かせない。

 ただ、新しい時代で想定される変革は、このPRという活動を過剰に進めてしまうのではないか、という疑念がある。

 単純労働の解消と創造性の解放は、結局、資金力を背景とするPR合戦や軽薄な広告業界のハッキングに終わるのでは…と思うぐらいには、俺は世の中を信用していないが、じゃあ「お前、広告なしで目当てのお店や商品にたどり着ける自信があるか?」と言われると黙るしかない。

 

 話がおかしな方向に進みつつある。強引だけど、なんとかまとめてみよう。

 つまり、どこに落ち着くかわからんよな、ということだ。

 別に擁護するわけではないけど、寿司屋における10年間に及ぶ最初の修行が、ある種の「キャップ」としてプレイヤーの上限を制限し、業界から健全性と秩序が損なわれるのを防いでいたのでは?

 そんなことを考えてしまう。

 寿司屋に限らず、様々な業界における非効率な因習が競争市場への参加者を制限しており、一方で、現在の俺たちの世界にはプレイヤーが増加した場合の公正な競争を実現する方法が存在しないなら、果たして悪習は是正されるべきなのだろうか。

 

 もちろん、飲食の世界を知らない俺にはくわしいことはわからない。

 いまの寿司業界、あるいは飲食、もしくはこの世界全体は、どの程度正しく機能していて、本当はどのぐらい破壊されるべきなのだろうか。

 「よく知らねえけど下積み10年は長すぎんだろ」。そう思ったのも事実なのだ。まとまりがないけど、とにかくそういうことを考えた(やっぱり寿司屋と全然関係なくなった!)。

 

 

俺たちは何年クリエイティブに寿司を握れるか、について ②

今週のお題「寿司」

 

sanjou.hatenablog.jp

 こういうものを書いた。

 で、じゃあ未来の労働において最大の価値をおかれるのは創造性である、という世界が到来して、寿司屋になんの関係がある、という話なんですが。

 

 ここでもう一つ加えて意識しておきたいのは、前回紹介した経済学者ダニエル・コーエンが、人間の職業人としての人生を「創造性を発揮して仕事に取り組む前期」と「後進の教育に取り組む後期」に二分して考えていることだ。

 ベテランの仕事には創造性を生かす余地がないんかい、という批判はあるだろうが、コーエンによれば、それはむしろ、「これから未来に訪れる世界観」となる。クリエイティビティが最優先されることで、旧時代では労働者としての前半~中盤に留まっていた「創造的前期」が、職業人の人生全体にまで拡大される、というのがコーエンの見解だ。

 例えば18歳で寿司職人の世界に入ったとして、従来であればここから10年間、下積みの時代に入る。引退は65歳として、職人後半の10年は後進の育成にあたる(もちろん、65歳を超えて一線に立ち続ける人もいるが)。

 この場合、創造的前期と呼べる期間は、28〜55歳の27年間ということになりそうだ。

 しかし、技術習得の効率化に特化することで、極論、技術は一年あれば身についてしまうと仮定する。そうすると、新時代における寿司職人は19~65歳までの46年間を創造的労働者として勝負していくことになる。

 旧時代において、寿司職人が100人いれば、その中で創造的前期に該当するのは約57%だった(27/47)。

 これが新時代では、創造性重視の期間に終わりがなくなるため、寿司職人のほぼ100%近くがルーチンワーク・後進の教育から解放され、クリエイティビティの発揮を期待されることになる。

 このとき何が起きるのだろうか。長くなったが、そういう話なのだった。

 

 楽しみな点、単純に興味がある点、不安を抱く点がある。

 業界を発展させるものは労働者の創造性であると(後発の教育も間違いなく重要だが、ここではおく)仮定する。先ほどの計算では、旧時代の1.8倍近い人数の職人が創造的期間の中でしのぎを削る結果になるため、顧客として受けられるサービスの向上が期待できる。

 堀江氏の「10年も修行しても意味ねえし、上司が若手を便利に使ってるだけだろ」という発言は、素人からすれば、そうかもな、と思う。

 無駄な部分が削られて競争が促進されることは(店舗間でも、同じ店内の先輩・後輩間でも)、消費者側としては良い結果が望める。

 

 純粋な興味としては、「それで実際、どこに落ち着くのかね?」というのがある。

 批判される側面を含みながら、旧来の体制は、「10年間下働き、キャリア後半は若手の育成」というモデルを中心に動いていたと思われる。今後、修行・教育期間に挟まれたキャリア設計が書き換えられることで、新しい業界はどういうところでバランスされるんだろうか。

 すでに書いたとおり、この文章での「寿司」は口にするお寿司であると同時に、あらゆる職業の暗喩でもある。

 秘匿されていたノウハウの解禁、現役期間の延長は様々な現場ですでに起きているわけで(というか、ある意味古来からその傾向はずーっと続いている)、これがさらに加速した結果、寿司の業界も含めてどんな世界がやってくるのか。

 良い方向に働けば顧客も含めてみんながハッピーになれるが、そうならない可能性もあるだろう。しかし、結果としてすべての「寿司」がまずくなっても、「一体どうなる?」というところに科学的な興味がある。

 

 良いことばっかりだったり、興味が尽きなかったり、これからやってくる時代に対して何の問題もないじゃない…という中で一つ不安に思うのは、職人の創造的期間とプレイヤーの拡大を制するのは、果たして本当に「美味しいお寿司を安く正しく提供する者」なのだろうか、ということだ。

 技術が高く、(相対的に)安い、という消費者にとっての利益と、現場や外部関係者に過重な負担を強いることがない、という労働環境が満たされて、はじめて新時代の良い競争者と言える。これが、商品の質ではなく資金力による広告で他者を押し除けたり、誰かを多大に搾取する方向で勝負が加速するなら、これは時代が進んだ意味がない。

 

 なんだかよくある社説のようになってしまったが、あえて言えば、俺は「正直うまくいかねえんじゃねえか?」という気がする。

 消費者が製品に触れる機会、費やせる時間と費用には絶対的な制限があり、寿司はまさにその最たるものだが、やってくる未来でプレイヤーが増加したとき、その乱戦を制するのは「消費者に得のあるかたちで清く正しく研鑽する者」かというと、美味い寿司を握るよりもよっぽど、広報に注力した方が勝率は上がるのでは、と思う。長くなったので続く。

 

 

 

 

 

俺たちは何年クリエイティブに寿司を握れるか、について ①

今週のお題「寿司」

 

 と言いながら、まあ寿司自体にはよくて数%、世の中の何か実態みたいなものには、0.1%ぐらいかすっていたらラッキー、みたいな話なんですが。

 

 何年か前、実業家の堀江貴文氏いわく「寿司の修行に何年もかける必要はない」という主張があって話題になった記憶がある。寿司を握る技術だけなら数ヶ月あれば身につくという話も聞く。

 なんでこんな話をしているかというと、『欲望の資本主義』という本(NHKでドキュメンタリーにもなりましたね)を読んでいて、ダニエル・コーエンというフランスの経済学者による言説に触れて思い出したのである。

 それは、情報技術やAIの発達によって世の中に何が起きるかをコーエンが語っているときのことだった。

 人間の仕事で定型化可能なもの、いわゆるルーチンワークは機械によって置き換えることが可能、と彼は言う。ここまではよく耳にする内容だが、コーエンによればそのターゲットは高等教育が必要な内容であるか、専門的であるかを問わないらしく、例えばデイトレーダーなど特殊な知識が必要な職業であっても、そこで発生するプロセスがルーチンとして表せるものであれば、AIによって代替できてしまうそうだ。

 実際、機械による株式や外貨の売買はすでに実用化されており、多少知識がある程度の人間の判断力では到底太刀打ちできない、という話を聞いたことがある。

 より面白いのはここからだ。

 AIの躍進によって将来、ルーチンワークに従事している現在の中産階級が大量に仕事を追われると、その時点でベーシックインカムなどの制度が整備されていない限り、彼らは新しい仕事を探さなければいけないのだが、その世界で彼らが給金の代わりとして社会に差し出すものは、旧世界のような手順の確立された労働・単純な体力ではなく、むしろ創造力をフルに駆使して、既存のものを革新していくことを要求されるのだという。

 つまり、新世界においては「すでに手順が整備されている作業」は高度かどうかは関係なくすべて機械によって占有されているため、人間が参入する余地はなくなっている。消去法的に、人が何かの役割を果たして対価を得ようとすれば、創造性を発揮して旧来のものを革新し、未知の何か(領域・手法・表現…)を開拓する以外なくなってしまう、というロジックだ。

 まるで、人類総芸術家時代と言える。

 チャップリンの『モダンタイムズ』がそうだったように、テクノロジーの発達に伴って人間からは自主性が損なわれていく、というイメージもあるが(エンジニアの目線では逆でしょうけど)、反対に、機械によって人間がクリエイティビティの世界に「追いやられる」という可能性もあって、面白い発想だと思う(次回に続く)。

『ヱヴァンゲリヲン新劇場版:序』の感想とか、90年代の雰囲気とかについて ①

はじめに

 いまさら『序』ですか。

 そうなんです。

 

 本当にいまさらだと思う。

 理由を二つ挙げると、まず、もうすぐ新劇場版の完結編である『シン・エヴァンゲリオン劇場版𝄇』の劇場公開が終了するというのがあった(というか、多くの劇場ではすでに終わっているのだが)。

 俺は子どもの頃にTV版に強く魅了されていながら、新劇場版シリーズにはなぜか距離を取っているところがあって、『シン・エヴァンゲリオン劇場版𝄇』も未見なら、『Q』でさえ観ておらず、『序』『破』を十年以上前に鑑賞してそのままだった。

 それがここ数日で急激に、やっぱりこのシリーズの完結をスクリーンで観なくていいのか、という気持ちを抱くのと同時に、観るならこれまでの流れもさらっておくべきだろう、という悪い癖が出てきた。それで、いま慌てて見直している。果たして、『シン』をちゃんと劇場で観ることができるのかは、神のみぞ知る。

 

 もう一つの理由は、30過ぎて観る『エヴァ』が想像以上に自分の感情を揺さぶったから、というのがある。

 作品の内容というより、TV版の放送から過ぎ去った時間の流れが、ここに来て実感を伴って大きく俺を圧し潰そうとしている。

 十年以上前、まだ大学生の頃に観た『序』『破』は、「ああ、エヴァってこういう話だったよな」という印象だった。もちろんTV 版と異なるところもたくさんあったが、一種のダイジェストでもあった。小学、中学以来で観るエヴァンゲリオンを、「確認」として楽しむ余裕があった。

 今日観た『序』は、もうダイジェストではなかった。それは冷静な「確認」ではなく、あま苦い「追憶」になっていた。

 俺は、ものすごく久しぶりに90年代のことを思い出した。

 あれから二十年以上が経ったんだ。

 もう、俺は30代になった。なんてこった。

 なんてこった、と思いながらこの文章を書いてる。

 

感想とか、90年代の雰囲気とか

 あらすじとか細かい内容について、俺がいまさら言うことは一つもないだろう。

 あらためて観てみて、作品としての単純なおもしろさより(おもしろいですよ、もちろん)「ああ、こういうアニメだったな。そして、こういう雰囲気の時代だった」という感覚を強く抱いた。

 

 シンジの初陣で初号機が暴走して使徒を圧倒する場面は、たぶん、それまでのフィクションにおける戦闘の描き方としても、あるいは現代のものと比較しても、異質である気がする。

 追い詰められたキャラクターが覚醒して逆転するという構図自体はよくあるものだ。

 ただ、特徴的なのは、普通の物語ではこれまでに蓄積したストレスや前々から張られていた伏線が反撃というかたちで解消され、それが快感であるのに対して、シンジの初戦においては、俺たちは彼のことを予備知識を除けば知らないので、まだよく知らないはずの少年がいきなりブチきれて怪物を蹂躙するのを見せられるという点である。

 言い換えると、バトルにおける反撃の度合いとは、作品がそれまで溜めたある種の「負債」に比例しなければならない。フラストレーションとか、因縁とか、そういうものだ。

 まあ、そうしなければいけないということはないが、少なくともこれがちゃんと釣り合わないと、観ていておもしろくはない。

 しかし、シンジの初陣は脈絡のない逆上によって決着するはずなのに、なぜかおもしろい。

 これは、シンジが今回の戦闘に入る前から鬱屈を抱えていたことを、観ている側が暗に理解しているからだと思う。一方的な周囲からの期待、抑圧。それに対して上手く応えることも、あるいは反論することもできない自身への苛立ち。それは視聴者自身が現実に抱えている鬱屈でもある。

 共感を経由することによって、シンジは攻撃力に転換できるものを物語の外からも「調達」し、それを敵である使徒にぶつけることができた。物語における表面的な「貸し借り」以上のものを消費者から勝手に借りてきてしまうパワー、これは、時代を代表することになる主人公にとって重要な資質の一つだと思う。

 

 ただ、俺はこの戦闘を「おもしろい」と書いたけども、けっしてすっきりする勝ち方ではない。別に努力の成果だったり、敵との間に何か因縁があるわけでもないし、戦い方も異様だ。あんなに躍動感があるのにまったく爽快じゃない。

 もうすぱっと言っちゃうけど(っていうのは散々指摘されてきたことだろうから)、やっぱりあれはキレた子どもそのものだ。力のやり場がおかしな方向に噴出して、自分でももっと正しい怒り方があるのを知ってるのに、自制も知識もないからどうにもならない。

 だから、いまの自分がキレられない/かつての自分がキレられなかった代わりに初号機が暴走して忌々しい敵をボコるのを見るのは痛快かもしれないが、同時にとても痛々しい。攻撃される使徒の側も妙にタフなので、猛烈に圧倒している初号機の方がかえって錯乱しているようで、見ていてつらい。そういう矛盾した楽しさがある。

 

 いまの子どもや若者は、あの戦闘を見てどう思うんだろうか、と感じた。

 自分の代わりに初号機が怒っている、と思うのだろうか。ある日の自分と同じように、あるいは教室で見た級友や、ある日の家での兄弟のように、初号機も怒っていると感じるのだろうか。

 いまの子どもにとってあれは「カッコいい」のだろうか。

 子どもの頃の俺には「カッコよかった」けど、最近の若者のヒーローは、もっと明確に自分の考えや感情を言語化できるキャラクターなのかもしれないな、という気もする。実際のところはわからないけど。

 

 なんだか長くなっちゃったので、次に続きます。