惨状と説教

誰か山から降りてきてほたえてから山に帰っていく記事。ブログ

中の人がんばれ、と思ってしまうことについて

www.moomin.co.jp

 

 企業が何かやらかしたり、一つのプロジェクトがご破算になったときに、倫理や善悪とは別の回路で「おおう…」と嘆息してしまうことがあって、つまりは、事業に携わっている「中の人」への同情なのだった。

 今回の場合でいえば、提携を解消された側の会社の担当者ということになる。

 

 そもそも、この事態を招く原因となった当該の発言は、読んでいて目まいを覚えるような醜悪なものだった。これを目にしたときの俺自身の怒りと混乱を、俺も覚えている。キャラクターの版権元が下した今回の判断は至極、当然のものであり、是非を云々する余地はまったくない。

 だいたい、企業内部でキャラとのコラボレーションを企画する部署(実作業は広告代理店なんでしょうか?)だって、提携する作品の世界観をふまえて製品のブランディングをするのだろう。

 にもかかわらず、作品世界にある反差別の思想をちゃんと汲み取れていないならば勉強不足でしかないし、逆に把握していたとすれば、それが自社の一部から発信されている声明とまるで食い違っていることは自明だろうから、強いて言えば偽計なのだ。いずれにしても、擁護しようがない。

 だから、ここから先は、上で書いたとおり、倫理や善悪とは別の回路の話だ。

 大変だなー、と思っちゃうのだった。がんばれ、中の人、と思ってしまう。この「がんばれ」はちゃんと言葉にならないんだけど。

 

 企業における個人の立場は、難しい。

 もし、その組織の社是や理念が人種差別や偏見の助長を堂々とうたっているならば、そんなところに務めている者がどうかしている、という話になるが、さすがにそんな企業はこの世に存在しない(たぶん)。今回の法人だって、当たり前だが、組織の沿革や目標にそんなことは一文字だって書かれていない。

 おそらく、組織としての「顔」を一つしか持たないで、その単独の表情だけが果てしなくどこまでも奇怪…などという法人はなく、企業というのはどれも、いくつかの側面を持っているものだと思う。

 ただ、じゃあ今回の件は、トップのうち一人がどうかしていた、ということでいいんですね…ということにはならない。それが組織の難しいところだ。

 それは、その企業が常軌を逸して強権的なワンマンでもない限り、一人の有力者がわけのわからないことを言い始めても異なる視点から修正し、封殺し、法人としての体裁を健全に保つ、そういう組織内の多様性が期待されるのがまっとうな企業というものだからだ。責任があるのだ。

 大元となったあの醜怪な文書だって、あれをデータ化して企業のサイトに掲載する作業と決裁手順が(おそらく)あった以上は、そこに関係した全員が社会的な責めを負うのだと思う。これは、例えば組織論として部下の失敗は上司がすべて担保する云々とはまた別の話で、世の中からの道義上の叱責について、「上から言われた通りやったことなので私の責任ではありません」とは、関係した者は言えないのではないかという気がする。

 

 ただ…、と一方で思ってしまう。

 あの文言を当事者の代わりに文字起こししているとき、もしくは、それをアップロードする作業をしているとき、俺はその個々の担当者が、まるで無感覚にそれを行っていたとはどうしたって思えないんだよな。

 「この言葉はどう考えてもまずいだろう」

 「私は(俺は)こんなことをしたくてこの会社に入ったわけじゃないんだけどな」

 きっと、仕事しながらそう思ったんじゃないかと思うんだ。

 おかしな方向に進まないために期待される内部の多様性が、かえって圧殺される矛盾を抱えるのが企業という奇妙な共同体で、その中で、自社のサイトに載った文章を読みながら胃の底に苦い汁をわき上がらせた社員が、きっと大勢いると思うんだよ。

 

 「そんな思いをするぐらいなら辞めちゃえば」

 「で、新しい勤め先を探せば」

 そう言えるのは、俺に言わせれば、きっと普通よりも優秀か強い人。

 普通の人は、なかなかそういう選択ができないんだよ。仮に、いま自分がやっていることが道義にもとっていてもね。

 

 だから、まあ、がんばれって思っちゃうんだな。

 何度も言うように、この「がんばれ」はうまく説明できない。

 自分のとこの企業からあんな不気味な声明が出てて、それに対して「がんばって自身の心を殺していまの仕事に努めていこうな」っていうのも絶対違うし、かといって、がんばっておかしな社風を是正しよう、とか、転職しよう、とか、すげえパワーのいることを無責任に提案できないし。

 うまく言えないんだ。「中の人がんばれ」としか言えない。単に同情してるっていう以上の感情でもって、そう思ってる。

 

 以上、よろしくお願いいたします。

生き物と人間について

 早めに夕飯を食べたら、20時過ぎたばかりのおかしな時間に睡魔に襲われてしまい、しばらく横になっていた。

 まどろみの中で出どころのよくわからない音をずっと聴いていた。何かが硬いものにぶつかるような、かつ、かつという音だ(怪談ではない。念のため)。

 22時ごろに起きて暗闇を広げる窓ガラスを見ると、部屋の光に吸い寄せられたのかカメムシが一匹、こちらに腹を見せながらガラスをよじ登っていた。

 部屋の中に入りたいのかもしれないがそうもいかず、足をかけているガラスはつるつるなのでずっとはりついていることもできなくて、やがて、力尽きたように落下していく。かつん、と音がする。これで正体が分かった。

 

 速水御舟という日本画家が、『炎舞』という絵を描いている。

 

  https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/6/66/Enbu_by_Hayami_Gyoshu.jpg

 

 数匹の蛾が闇の中で、燃え上がる炎に誘われて舞っている絵だ。光景の美しさももちろんだが、やがて近いうちに火の一端が虫の羽をかすめて、焦がして呑み込んでいくのだろうという、そういう予期を含めて鑑賞する作品なのだと思う。

 本能ゆえに、蛾は自分を焼き殺す炎に抗うことができない。光に吸い寄せられるカメムシも同じだろう。

 人間には知性があり、ほんの少し先のことが見通せるので、他の生き物を待ち受ける運命や徒労を眺めていることができるけれど、あくまでこの関係性において、ということだ。内側にある衝動や欲望をコントロールできないのは高い視点から見下ろせば人間も同じことで、『炎舞』もどこかの段階では、一つの「鏡」として見られることを望んでいる作品な気がする。

 

 ところで、20時なんて早い時間に眠くなってしまったのは、日中、海の中に入って波にもまれもまれて遊んでいたからでもある。

 そのせいか不明だが、少し眠って起き上がっても、身体のうちがわで水がたゆたっている感覚があるというか、なんだかゆるゆるしている。たった数十分、海に浸かっただけなのに、こんなことになってしまった。

 生き物としてどうしようもなく衝き動かされていく得体の知れない原動力が存在の奥深くに埋め込まれている一方で、人生全体の比率で言えば圧倒的に大半を占める陸の生活で慣れていた身体感覚が、わずかな時間で崩れてしまってぐにゃぐにゃになる。生き物はよくわからないな、と思う。

 

 以上、よろしくお願いいたします。

じいさんの墓を潰すかどうかで考えたことについて(後編)

sanjou.hatenablog.jp

 ちなみに、前出のサイトでは故人にバーチャルの花を手向けたり線香をあげたりすることもできる。

 なんだかなあ、いちいちデジタルで安っぽいんだよなあ、と「死んだら自我は消滅」派にもかかわらずウェットな感想をもちつつ呆れてしまうが、そこで故人に寄せられた見知らぬ人々の言葉に見を通すと、半笑いでもいられなくなる。

 たくさんの人たちがこの電脳上の空間を使って、「そちらで元気にやっていますか」と死者に語りかけている。

 こちらは今日は暑かった、こういうことがあった、と故人に報告しながら、「あなたに会えなくなってさびしい」「生きているときはつらかったと思うけど、いまは天国で元気にやっていると信じている」、そういう言葉がそこに並んでいる。

 遺されてしまった人たちには、こういう場所が必要なのかもしれないな。俺とはまったく異なる死生観だけど、そこに込められた想いや哀惜に対して想像力が働くくらいのキャパシティは俺の脳にも残っている。

 別に手紙でやれないこともない行為だが、データとして集積され、他の人たちと共有されるというのが、現代のひとつのかたちなのかもしれない。それがかえってグロテスクだと感じる人もいるかもしれないが、俺は段々と、安っぽいとかくだらないとかどうにも言えなくなってしまった(死者の没後デジタルカウントだけはそれでもなぜか恐ろしいが)。

 

 10年以上前にNHKが製作した、南米のヤノマミという少数民族を追ったすさまじいドキュメンタリーがあった。

 よく話題にのぼるシーンだが、父親のわからない子どもを身ごもった少女が、集落を離れて密林に入っていく。彼女はそこで、生まれた赤ん坊を自分たちの村に迎えるか、「天に還す」かを一人で決めなければならないのだ。

 天に還す場合は、赤子を殺めた後、亡骸をシロアリの巣に入れる。

 ヤノマミの死生観では人間は死ぬと精霊になり、天で精霊だけの層を形成しているのだという。再び人間になるときはそこから地上に降りてくるが、母親に受け入れられるまでは精霊の状態なので、もし拒絶された場合は精霊のまま天に還っていく。なんだか、地上と天界とどちらが存在の拠点なんだかわからなくなる話だと思う。

 ちなみに、天の精霊は人間だったときに男だったらアリやハエ、女だったらダニやノミになって地上に降りてくることもあるそうだ。アリ=シロアリだとすれば、拒絶された赤ん坊を天に還すのはかつて精霊だった男たちの役目ということになり、ここにも一つの円環が形成されている。

 年齢の問題で親になる決心がつかないとか、家族に育てていく余裕がないとか、現実的に赤ん坊を受け入れられない事情は発生しうる。そこに精霊という一種の装置が必要になるのが興味深い。

 罪悪感なのだろうとは思うが、なんの感傷もなく淡々と口減らしする文化でもよさそうなのに、そうはなかなかならないみたいだ。

 

 世界中で人間たちが総がかりで、創造力と技術を駆使して、故人が無になるのではなく、ただ安らかであるように、自分たちもいつかそこに加われるように祈っているんだと思うと不思議な感じがする。

 人間はどこの時代でも文化でも、基本的にそういうものらしい。合理的でなくて居心地が悪いが、そういう非合理性と人間の知性は矛盾するようで裏表というか、人類という種の最後に非合理がすべてをねじ伏せてさらっていくような気もする。俺もいつまで「死んだら無」でいられるかわからない。じいさんとばあさんがどこかにいるなら、まあいつかよろしく頼む、というようなことをお盆の終わりに思った。

 

 

じいさんの墓を潰すかどうかで考えたことについて(前編)

 先日、祖父母の骨が納まっている墓の整理について母と叔母(ともに還暦過ぎ)と話す機会があった。

 祖父は次男だったため、まだ存命中に自分のための墓を買い、死後はそこで眠ることになった(などと書いているが、俺は世事に疎いのでその辺の慣習をよく知らない)。そして、祖父が鬼籍に入って数年後、祖母も同じところに加わった。

ただ、じいさんは自身とその伴侶の死後について当面の道筋はつけてくれたが、死後数十年が経過して、娘たちや孫(俺だ)に墓をどうして欲しいかまでは決めていなかった。母も叔母も高齢者になって、その点をいよいよ、生きている者たちでちゃんと決めなくてはいけなくなったのだ。

母と叔母はどちらも同じ墓に入るつもりはないという。大まかには、一まとまりの金をあらためて寺に納めて永代供養扱いにするか、俺が管理を継いでいまのまま維持するか、もしくは墓自体を潰してしまうかの3択になるようだった。

 俺は別にどれでもいいと思ったが、なんとなく意見を聞かれるっぽい感じになったので、「死後どうするか具体的な指示がなかった以上、故人がどうして欲しいか想像して考えるしかないんじゃねえか」と知ったようなことを言った。

当座の出費で言えば永代供養がもっとも金がかかる。現状維持も、長期的に考えればそれなりのコストだ。その辺の負担を子孫に強いることを「俺たちの心の中のじいさんとばあさん」はどう言うか、例えばそんなことを想像してみるのが、一つのヒントになるんじゃないか、ということだ。

 

 死者が何を望んでいるのか。これをちゃんと意識して考えるのは、けっこうめんどくせえ話だな、ということに俺はようやく気がついた。

 身もふたもない話だが、そもそも人間は、自分が死後どうなるかさえ選ぶことができないのだ。

 個人的には何もない無になると思っているけど、もしかすると天国や生まれ変わりがあるのかもしれない。いずれにしても自分で決めてどうにかなるものじゃないだろうから、本人の宗教観なんて関係なく、何かたどるべきものをたどってどこかに落ち着くしかないのだと思う(だからこそ、某漫画の「死の他にあった4つの結末」というフレーズには激烈にしびれたが)。

 一方で、「自分が死後どうなったと周囲に思ってほしいか」、これぐらいなら故人の意志(遺志)でどうにかなりそうな気がする…が、実際はかなり難しいかもしれない。

 例えば、海に撒かれて地球に還りたいとか、樹木葬にされたいとか、資金と協力者さえ整えば、葬式のやり方ぐらいはある程度の融通がきく。

 問題はここからで、「あいつは生前に望んだとおり海洋に散骨されて地球に還った(故人の死生観)」→「いまはあの世で他の死者たちと楽しくやっているだろう(残された側の死生観)」という具合に、結局、死んだ本人の死生観はなあなあのうちに、生きている側の宗教観に取り込まれて処理されてしまう気がするんだよな。自分の中に自前の死生観と他人の死生観とを共存させて二重に持つことなんて、そうそうできないからだ。

 こうした故人の死生観の放棄と生きている側の宗教観へのシームレスな回収は、無意識、かつ悪意なく実行されるのだと思う。

 だからこそ、今回のうちのじいさんの場合のように、故人がいまどうして欲しいかをあらためて意識させられると、どこか戸惑いを覚える。死者をどう扱うか、その裁量が生きている側に完全に委ねられていると自覚することで、かえって何か試されているように感じてしまうんだろう。

 

 この前、若くして亡くなったある漫画家についてググっていたときのこと。

 それほどメジャーな作家でなかったにも関わらず、俺が調べている当日に更新されたページが見つかったので訪問してみて、少しゾッとしてしまった。その漫画家だけでなく、あらゆる著名人について亡くなってから何日が経過したか、ずっとカウントして更新し続けているサイトだったのだ。

 あるクリエイターは死んでから何日。ある俳優は死んでから何日。新しい人が亡くなるたび、そのリストに加えられ、故人になってからの時間がカウントされていく。

 死人をあまりにも無機的に管理している雰囲気も嫌だが(じゃあ有機的な管理ってなんだよ?)、理由のよくわからないもっと強い嫌悪感を抱かされたことは、死者と死者は亡くなった日付の開きを抱えて、その差は永遠に縮まらないままカウントが進んでいくのだ。

 なんだか、死んでからも延々と終わらない競争を強いられてるみたいだ。やめてやれよ、と思ってしまう。死んだら(ゴールを切ったら)、みんなもう同じでいいじゃないか…と思ってしまう。

 やろうと思えば、人類全体を対象にして同じことができるんだろうな、なんて妄想もする。現実にはあり得ないんだけれども、これから死んでいく人間すべて、人類の最後の一人まで死亡した日時を記録していく。もう誰も確認する者の残っていない遠い未来の世界で、何十億・何百億の人間に関して死んでから何年経過したか個々のカウントを続ける、デジタルの集合墓標。

 『マトリックス』的というかギーガー的というか、先に書いたとおり俺なんか人間は死んだらそこで等しくみんな終わり、と思っているから、死んでもまだそうやって管理される目に遭うのかよ…と思ってしまうのだが…(後編に続く)。

マルク・デュガン『透明性』の感想について

あらすじ

 西暦2068年、グーグル社は個人情報の取得を対価として人々に様々なサービスを提供する事業を推し進めていた。体調を含む個人的な情報をリアルタイムで企業に送信することで、個人は完全に透明な存在となり、このようにして収集されたデータが形成する強力なアルゴリズムに支えられて、人類は安心と繁栄を謳歌していた。

 主人公は一人の女性エンジニア。自社サービスをグーグルに身売りした後に同社を辞めた彼女は、複数の同志とともに「個人から吸い上げた情報を元に新しい強靭な体に人格を再構成し、人々に永遠の生命を与える」という計画を世に公開することで、世界中の産業、経済と宗教に大きな混乱をもたらす。

 彼女が約束する永遠の生命は、人間全員が享受できるわけではない。そこに参加可能か否かは彼女の開発したアルゴリズムによって決定され、その基準と到来する新しい世界をめぐって、女性はグーグル社長、各国権力者、宗教的権威、そして自らの夫と対話を交わす…という話。

 

感想

 読み終わって、割と奇書の類なんじゃないかと思った。

 以下、ネタバレを含む。

 

 

 

 

 奇書というのは、この作品の見え方というか、視点が大きく2度転回する構成だからだ。

 約220ページほどの作品だが、まずこのうち200ページぐらい、率直に表して、退屈な文明批判が続く。

 2000年代前半〜2020年あたりの出来事を2068年に反省する、という体裁になっているが、未来の視座を先取りしている感のない、まあ現代でも普通に言えるような内容だ。SF的なギミックにも特に飛躍がなく、2068年という舞台設定の必要性はあまり感じられない。

 

 最終盤で、一つ目の転回が起きる。

 作品の題名にもなっている個人の「透明性」は抗いようのない時流であると同時に、テクノロジーによるある種の救済を人類に与えるものだったが、それに対する個人の反逆と代替となる希望が、かなり悲劇的なかたちで描写される。

 二つ目の転回は最後の数ページで描かれて、作品の構造自体が変わってしまう。それとともに、物語の90%以上にわたる21世紀批判がなぜ、ああした凡庸なものであったのか、得心がいくようになっている。

 

 二度目の転回でも、描かれているのは個人の反逆であるように読んだ。

 ただ、一つ目の転回が「技術的な支配から人間はどう逃れるか」という文明をテーマとする構図だったのに対し、二度目の転回で示されているのは、「(時代を問わず)そもそも、人間の内面を完全に捕捉することは可能なのか」という人の精神に関する構図になっている気がする。

 言い換えると、一つ目の対立は「追ってくる文明に捕まらないように逃亡する」というかたちで危機と希望を描いているが、二つ目は、「テクノロジーで把握も救済もしようがない孤独がある」というかたちで絶望と希望のうらおもてを描いている、という気がする。

 延々と続いた文明批判云々は最後の二度の転回に向けて敷かれた長い前フリであると言えて、この変調がかなり力を込めて、えいや、と転がす感じで二回起こされるので、その感覚が奇書、という表現につながったのだろう。抒情的な表紙からは少し意外な、けっこうヘンテコな読後感。まあ、そういう感想であった。

 

 以上、よろしくお願いいたします。

 

 

 

会話について(サッカーボール編)

 夕方、海岸で本を読んでいるときのこと。少し離れたところで、父親らしき男性とその息子と思われる8、9歳ぐらいの男の子が、サッカーボールでパスを回して遊んでいた。

 少年はなかなかボールさばきが巧みだ。男性が蹴ってよこした球をつま先で受け、勢いを流して空中に跳ねあげる。それを足の側面や膝を使って何回かリフティングしてから、男性に向かって蹴って返す。

 男の子がボールを弾ませるたびに、球が体を打つ乾いた音が浜辺に聴こえる。その音が思いのほかしっかりしているのが印象に残る。

 

 以前ブログにも書いたけども、俺は父親が嫌いだ。ただし、それは年齢を重ねて大人になってからで、子どものころは大好きだったし尊敬していた(というか、それは実はいまでもそうなのだが)。

 幼いころ、俺も父親とよくサッカーボールを蹴り合って遊んだ。そのときの俺の意識は、父というより自分に飛んでくるボールにばかり向けられていたけれど、今日浜辺で男性と少年のサッカーを見ていて、俺の父親はあのとき何を感じていたんだろうな、とはじめて思った。

 自分の血を受けてこの世にやってきたものが、無事に大きくなって、いま自分とボールを使って遊んでいること。二つの腕を使って体のバランスを取りながらボールを受けて、それを自分に向かって蹴り返してくる肉体の動き。はじめはかなり手加減しながらボールを蹴っていたけど、少しずつ力を強くしても、ちゃんとそれを受ける。

 

 「僕はこんなことができるようになったよ」とは子どもは言わない。そんなつもりでボールを追って蹴っていないからだ。

 しかし父親からすれば、ボールをやり取りするパスの毎回がそのメッセージに等しい。そこに言葉はないし、片方には発信している意識さえないけど、これも一つの会話なのだろう。

 たぶん、あのとき俺の父親もそういうことを思っていたのではないかと思った。そういう話。

 

 以上、よろしくお願いいたします。

シリアスな場面にぶち込まれるギャグはなんのためか、について

 前回の記事の内容(下記)から、いくらか続いているんですけど、こんなことを思ったという話。

sanjou.hatenablog.jp

 

 面白い作品は、マンガに限らず、シリアスの中に笑えるところが入っていることが多いと思う。

 これは、その物語がいわゆるギャグパートと真剣パートで構成されてる、というケースはもちろんのこと、いまストーリーで重心が置かれてるトーンは緊迫そのものなのに、一瞬脱力したり違和感が残ったりするような妙な描写がはさまっている場合もあって、よくも綱渡りというか、雰囲気が台無しになりかねないことをするもんだ、と感心する。

 これは一つの技巧なのだろう。感動を数値化するのはナンセンスかもしれないが、例えば真面目な展開をひたすら積み上げていった結果として与えられる感動や衝撃というのは、実は心理的に、「度合い」の上限が決まってしまうのではないか。

 笑いだとか違和感だとか、緊迫感で満ちた中に強引にでもそういう異物を挿入することで、目指している感動の天井が取り除かれるのでは、と思う。

 俺が好きな漫画家の中で抜群にこれが上手いのは『スピナマラダ!』『ゴールデンカムイ』の野田サトル

 『スピナマラダ!』の最終盤での笑いの使い方はものすごく鮮烈だったし、『ゴールデンカムイ』でも登場人物が生き死にを賭けて激しく殺しあってる場面で唐突におちゃらけた描写が入るのが、独特のテンポになっていてすごいのだ(余談だけど、これマンガ以外の媒体でやろうとしたら本当に大変だろうな。小説で同じ感覚にさせてくれた作家を見たことがない)。

 そういうわけで、シリアスに含まれたギャグは作劇の一つのテクニックである、と思っている。思っていた、けれど…という話。

 

ameblo.jp

 これは、サッカー漫画『アオアシ』を書いている小林有吾さんのブログに載っていた記事。

 同氏の『フェルマーの料理』という作品(これも超面白いです)の新刊情報がないかな、と思って閲覧していて、たまたま目に入ったのだ。

 

 ある日、故郷から上京してきた小林氏が、製作に煮詰まって出版社の作業室でカンヅメになっていた。

 部屋の中には他の漫画家さんたちもいて、作業をしている。小林氏も作品を進めたいが、かたちにならない。

 彼が焦ったり、現実逃避でふて寝したりしている横で、漫画家さんたちはひとり、またひとりと部屋からいなくなっていく。しかし、その中で最後まで残って一心不乱に作業を続けている人がいた。

 その作家さんは、小林氏がいつ視線を向けて姿を確認しても、同じ姿勢でひたすら作業を続けていた。明け方までそうだったという。

 

 この人が何者だったかは当該の記事で確かめてもらうとして(ファンかどうかはともかく、「なるほど…」と腑に落ちるものがあると思います)、本当に嘘偽りなく、この作家さんは野田サトルに次いで、「すごいとこでギャグ入れてくるな」と俺が思っている人です。

 それで、こんな風に思いました。

 シリアスのみで押すのではなく、物語に適当に笑いを入れること。

 この手法を取る場面に正解もタブーもなく、どんなシーンでそうしてもいいこと。

 これは「売れる」「面白い」漫画の鉄則であり、あとはそのタイミングや、比率の問題である…と、俺はそう思っていたけど、そればかりじゃないのかもしれないな。

 これは意図された演出とか、技法とかいう単純なもの(だけ)ではなく、もっとライブ的な、こういう作り方をしないと精神がちぎれてしまうという類のものかもしれない。

 

 別に、「実は、あのギャグとかテンパりすぎて行き当たりばったりで書き込んでたんだろ?」ってことじゃないんです。

 なんというか、異様な重圧でわけわかんないぐらい追い込まれた中で、精神が自然に適切な表現を生み出すというか、一種の修行からのトランスに似たものじゃねえのか? と思ったんですね。

 まあ、噂では〆切間際の漫画家さんの作業というのはどこも修羅場になると聞くので、「時間を忘れたように集中する姿」と「作品が世に与えた影響」をイコールで結ぶのは短絡的かもしれないけど、説得力があるというか、その作家さんはたぶん、いつその姿を見てもそうなんだろうな、という気がするようなエピソードだと思います。そういう話。

 

 以上、よろしくお願いいたします。