2021年9月26日について

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 午前、歩いて15分ぐらいの距離の浜まで散歩に行く。

 天気はかすかに曇天。まだ海に入れる気温ということもあって、人出は割りと多い。

 しばらく海を見ていたが、立ったままでいるのが疲れてきたので腰を下ろし、その後肘を枕にして横になった。日光で温められた砂が気持ちいい。

 寝転がったまま、あらためて海を見てみたら、水平線が断崖と化して容赦なく墜落していた。みんなそこを平然と、切り立った地面に対して垂直に歩いていく。

 すごいな、重力。

 よく言われる話だが、視点を変えるだけで世界ががらっと様変わりしてしまう。

 宇宙には本当は上も下もないことがよくわかる。強いて言えば重力のある方が下ということになるんだろうけど、それは主観とは全然関係のないところで働いている。

 面白い、と思って横になったまま写真にしたのだが、よく考えたら、普通の姿勢で撮影してから90度左に倒せば同じことなのだな。

 賢くなくてイヤになるが、まあそういう、ただ回転させたわけじゃなくて、撮る側の身体的な実体験が含まれた写真として見てください。

 

 昼過ぎ、どうも睡魔に勝てなくてしばらく横になった。

 薄い意識の合間で弱い雨が降る音を聴いていた。洗濯物を取り込んでおいてよかったな、と思う。

 

 16時ごろ、起きて街に散歩に出る。雨は上がっていた。

 まだ9月、太陽が照っているときの日中の気温は盛夏に劣らないけれど、一度雨が降った後ははっきりと冷え込むのがわかる。

 市街には誰もいなかった。

 ああ、ひとりぽっちだな、と思った。

 冷えるような空気とか季節の匂いみたいなものでそう感じた。

 俺はひとりぽっちだ。

 子どものころ、特に秋の夕方なんかにそう思うことがあった。友だちだっていたけれど(少ないが)、それとは関係なくひとりぽっちだった。

 その感覚は、幼少期の特有な何かしらの感覚器が世界の波長をキャッチしたものなのか、もしくは、両親共働きで夜まで家に一人で、熱中できる興味も何もなくて、って個人の環境が作る複合的な織り物なのか。

 なんにせよ、齢を重ねたらなくなるものかと思ってたけど、全然消失しなかったな。

 そこまで不愉快な感覚じゃないけど、すかすかの骨になった気分だから、40、50になってもこれだと苦しいなあ、と思った。

 

 っていうか、鋭い人にはわかると思うけど、これっていくらかはナルシシズムなセンチメンタルなんだろう。

 でも、多くの人たちが普通に割りとこうなのだろうか。そうだとしたら、人って、けっこうしんどいよなあ、と思った。

 以上、よろしくお願いいたします。

twitterについて

今週のお題「眠れないときにすること」

 

 twitterについて考えることが最近多くて、どうも人間として上手に利用できていないと言うか、要するに毒だな、と思う。

 世の中、面白いものや刺激的なものを発信する人々で満ち溢れていて、それをあれもこれも、とフォローしていくんだけども、当たり前のことだけど、何十人分もリストが連なって、その内容を全部追っていく時間があるわけがないんだよな。

 こんな、理屈以前のとっても単純な事実と、「見なけりゃ損だぜ」という欲求の部分がいまだにバランスされずに、タイムラインを延々と下って下って、気づくとすごい時間が経っている…そんなことがよくある。とても。

 見ないと損をしている、という感覚が前提として誤っているのだろう。

 実際は、未確認は損得ゼロのニュートラル、もし見たら得することがあるかもね、ぐらいが本当のところだと思う。錯覚しているのだ。

 ただ、twitterで接点を持ててありがたい、という人たち、楽しいコンテンツも当然たくさんある。トータルで、まあ負けは若干かさんでるけど楽しんだ分含めればトントン、的なギャンブルみたいな感じになっている。

 

 そんなtwitterだが、先日は本当に救われる体験をした。

 コロナウィルスワクチンの2回目接種があって、キツいぞヤバいぞ、とはかなり周囲から脅かされていたのだが、これがちょっと想像を超える副反応を食らってしまった。

 接種から10時間ほどが経過した深夜1時ごろ、もともと平熱が低いのに、39℃に達する高熱が出た。当然、体に強いストレスがかかる。

 実は、俺は心臓神経症という自律神経に関するトラブルを体質として抱えている。身体に負荷がかかると、これが胸周りの神経に障って息苦しくなり、夜間眠れなくなるのだ。

 発熱に呼び起されて、この症状がモロに出た(あらためて強調しておくが、そもそもの神経的な体質であって、ワクチンの副反応とは区別される。俺は思想としての反ワクチンを否定しないが、自分がその資料に使われるのは明確に拒否しておく)。

 

 苦しい。眠れない。

 高熱のせいで時間が流れるのもおそく感じる。

 時間は2時になり、3時になり、布団の中で寝返りを繰り返しながら、俺は一体何をしていたか。

 twitterで、「39℃」で検索していた。

 そこでは、日本中の人々が39℃以上の熱を出して苦しんでいた。みな、ワクチンの副反応にやられている人々だ。

 嘆きがタイムラインに渦を巻いていた。阿鼻叫喚だ。

 そして、俺は言葉の連なりを見ながら、「…俺だけじゃない!」という安堵を感じていた。

 自分と同じく苦しんでいる境遇の人たちの情報を摂取しておのれの不安を和らげる。まこと、性格のゆがみきった話といえる

 正直、39℃も発熱したらヤベえんじゃねえのか? という心配や恐怖があり、誰も周りにいない深夜の自室は環境として感情を加速させるが、検索結果の中には「40℃いった」という剛の者もおり、自分よりヤバい状況の人を見て安心するという、本当に唾棄すべき人格の俺を大変に勇気づけた。

 

 twitterありがとう。

 これは、こころの底からそう言えた珍しい体験であり、今週のお題「眠れないときにすること」と言えば、俺は何といってもtwitterだ。そういうことになる。俯瞰してみればメンタルの弱いポンコツが自分より過酷な境遇の人を見て安心するという、かなり世にはばかる図式ではあるが、不問とする。以上、よろしくお願いいたします。

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『デス・ゾーン 栗城史多のエベレスト劇場』の感想について ③

「デス・ゾーン」はどこから始まっていたのか?

 「登山家」栗城史多氏の半生と死を追ったノンフィクション。

 ①では登山界における異物としての栗城氏について②では彼についてときどき語られる、SNSが及ぼした多大な影響という言説について反証した。

 

 最後に、本のタイトルにもなっている「デス・ゾーン」という言葉について、想起したあやふやな思いのようなものを書いておく。

 本来の定義から触れておくと、本書によれば「デス・ゾーン」とは標高7,500m以上の高地を指し、生命がいるべき場所ではないと説明されている(wikipediaでは8,000m)。

 最期のとき、栗城氏はエベレストの7,400mあたりで撤退を決断し、下山中に滑落したと思われ、6,600mあたりで遺体として発見された

 つまり、栗城氏は登山的な意味での「デス・ゾーン」には差し掛かっていなかった。ここから俺が述べるのは、あくまで「デス・ゾーン」という言葉から想起した妄想のようなものだ。

 具体性を欠いた内容になるので、実際の死亡事故をダシに自分の思想を開陳するおごりを、あらかじめ謝ります。すみません。

 

 7,400m地点で撤退することを決めた栗城氏が、自分の足で山を下ろうとしたのは失策だった、という意見が本で紹介されている。滑落する危険性が高いからだ。実際、彼の死はそれが原因だったと思われる。

 栗城氏は、この7,400m地点で待機するか移動するかの二択を誤った。

 選択を誤ることが事故死に直結する領域。標高に関する定義とは別に、それも「デス・ゾーン」の一つの側面と言えると思う。

 しかし、この7,400m地点が本当に、生き死にを分ける「デス・ゾーン」だったのか、他の場所がそうだったのではないか、ということを俺は考えている。

 

 ここからは、人間の自由意志に関する観念的な話になる。

 俺が思うに、7,400m地点が生死を分ける「デス・ゾーン」たりうるのは、栗城氏にまっとうな判断力が残っているという前提の話だ。

 「危険だから待機する」という合理的な判断をその場所で下せる、そういう可能性が残されていて、はじめて生きるか死ぬかの余地が生じる。

 絶望的な状況に追い込まれ、本人に正常な思考が不可能になっていたとすれば、そこはもう生死を分ける「デス・ゾーン」ではない。

 残酷だが、事故に遭うことがほぼ確定してしまっている場合、「デス・ゾーン」を超えてしまっている、つまり、「デス・ゾーン」は空間であると同時に、そこにいる当事者の精神が正常かどうかに左右される。

 

 では、どこなら、まだ選択の余地が残っていたのか。どこならまだやり直せたのか。

 標高がもっと低い地点だろうか。

 あるいは、もしかすると、山に入る前ということさえあるのではないだろうか。

 入山した直後、まだ登り始めたばかりで、「いざ窮地に立ったときに自分の精神が正常に働くかどうか」を自覚できる人間はいないだろう。どんどんと歩を進めてしまうはずだ。

 つまり、スタート直後の地点でさえ、ある意味でその人は手遅れに近いことになっている。例えば、あたりの環境はまだ良好そのもので、自らの体力も気力も充実している(と思っている)としても、その人はすでに、最後の「デス・ゾーン」を通過してしまっているのだ。

 

 そうやって仮定してみると、入山する以前、下界で送っている日常のある瞬間が、選択の余地のある最後の「デス・ゾーン」だった可能性もあるのではないか。

 そんな風に思うのは、エベレストに挑戦して敗退を繰り返す栗城氏を、周囲の人間が繰り返し励まし、ときにはブレーキをかけるような言葉をかけ続けたのが、本書に描写されているからだ。

 エベレストを踏破するのに、極端に難しいルートを選ぶ必要はない。というか、栗城氏の今後の人生設計を考えるうえで、山にこだわる必要さえないかもしれない。

 言い聞かせられた言葉を栗城氏がどう受け取ったのかはわからない。しかし、山岳のプロフェッショナルや支援者、旧友と交わした、極地でも何でもない市街における会話が、もしかすると最後の選択可能性、生死を分ける「デス・ゾーン」だったのではないか、と思うと、人間の運命の過酷さに少し寒気を覚える気がする(最後に、個人の死を題材にして思考実験のようなマネをしたことをあらためて謝ります)。

 

 色々と書きなぐってきたが、それだけ印象的な本だった。

 センセーショナルな人物の半生と死、という面からだけ評価されるのは損をしている。

 この本は、「この社会で何かをかたちにしたい」「個人として強く生きていきたい一方で、周囲への感謝もしがらみもあわせて抱えている」というすべての人に何か思わせる作品だと思う。以上、よろしくお願いいたします。

 

 

『デス・ゾーン 栗城史多のエベレスト劇場』の感想について ②

ソーシャル・ネットワーク栗城史多氏に何を及ぼしたか

 「登山家」栗城史多氏の半生と死を追ったノンフィクション。

 前回、登山という世界における異物としての栗城氏の存在に想像をたくましくしてみたが、その続き。

 

 栗城氏とその死については、SNSの功罪という点から語られることが多い。

 ウェブを利用した情報発信と人々との交流は、彼の自己プロデュースを強力に推進した。一方で、こうした不特定多数とのつながりが、膨大な数の批判と直接触れてしまうチャンネルにもなり、山で結果を出せなくなった晩年の栗城氏を追い詰めていったのではないか、という意見もある。

 

 『デス・ゾーン』を読んでみて、栗城氏がネットに情報をいかに発信するか、どのような反応を得られるかに強いこだわりを持っていたのは確かだと感じた。

 ただ同時に、彼の躍進と最期について、SNSがもたらした現代的で特異な現象と考えるのは正確性を欠くかもしれない、とも考えた。

 その理由は単純で、文中で紹介される、栗城氏と実生活で接点を持った多くの人々による彼への影響が、ネット上の有象無象の匿名の声に見劣りするとは思えなかったからだ。

  栗城氏が高山をエンターテインメントの舞台として人々に提供するとき、足跡のログ関係や映像に関する技術は生命線だった。登山中、リアルタイムで進路の選択について相談できるプロフェッショナルの存在も同様だ。

 『デス・ゾーン』では、こうした多くのアドバイザーや後方支援の存在が描かれている。それは「単独」を謳う彼のキャッチコピーを偽る懸念も場合によっては抱えるわけだが、いずれにしても栗城氏の背後には彼に助言し、サポートする人たちがいた。

 また、高額な海外遠征費用をまかなうため、栗城氏は自らの卓越したプロデュース能力を駆使して多様な人脈を作り上げていた。

 その中には財産家もいれば政治家もいるし、自己啓発のプロもいて、正直、きわめてクセの強い海千山千という印象の面々だ。本書には「彼ら」についても大半が実名で赤裸々に書かれている。

 栗城氏はこうしたネットワークを巧みに形成して多額の支援費用を集金し、やがて、登山だけではなく自己啓発的な講演活動の比重を増していく。

 当然、こうした人脈は一方的に利用するだけでは済まされない。「彼ら」が栗城氏を支援するのは、将来的に相応のリターンを見込んだからであり、ゆくゆく山から引退した後は、某党から政治家として立候補する、という生臭い話もあったという。

 サポートスタッフや後援者から寄せられる期待と重圧を、栗城氏が感じていなかったとは思えない。また、さらに邪推すれば次のようにも言えるかもしれない。

 つまり、彼がまだ20代のころ、マッキンリーを初挑戦で登頂したときには理解していなかったしがらみや報恩という概念が、齢を重ねるにつれて次第に現実感を持って重たくまとわりついてきたのが彼の後年なのかもしれない、ということだ。

 こうして考えてみると、栗城氏の後年のあり方について、SNS等のネット上に形成された人物評や言論だけに過大な影響を求めるなら、それはスジが違う気がする。

 むしろ、大昔から人間が繰り返してきたように、具体的な顔つきの思い浮かぶ誰かのため、その恩に報いるため、義理を果たすため、あるいは恥をそそぐために、追い詰められていったことの、一つの変形としてとらえるのが正しいのではないか。そんな風に感じた(③に続く)。

 

 

『デス・ゾーン 栗城史多のエベレスト劇場』の感想について ①

はじめに

 かなり気持ちを揺さぶられた。

 「登山家」であり、2018年にエベレストで滑落して亡くなった栗城史多氏についてのノンフィクションだ。なお、登山家にカッコがついているのは、本人の技量や手法が問題視されたことによる。

 

 読み終えて、三つの感想を抱いた。

 この感想が、どのぐらい的を射ているかはわからない。この本を個人の半生と死に関する記録として見れば、ポイントがズレているかもしれない。

 ただ、俺にはこの本で描かれていることが単純な生と死だけとは思えなかった。だから、少し踏み込むつもりで、以下の感想を書いておく。

 

異物がその界隈に何をもたらすか

 栗城史多という人物についてはものすごい毀誉褒貶がつきまとう。

 好意的に評価する面としては、世界最難関レベルの高山に撮影機材を持ち込んだことで新たなエンターテインメントとして提供し、多くの人に勇気を与えたことだろう。

 俺は、彼が亡くなってからその登山活動についてはじめて知ったのだが、彼が送り届けた映像をはじめて観たときは感動を覚えた。生前に知っていたらファンになっていたかもしれない(氏の活動を批判する人々からすれば、それもペテンだということになるだろうけど)。

 一方、否定的な評価としてはどういうものがあるだろうか。その登山活動の不透明さ、プロとして単純に実力が不足していること、そこから派生して、やや漠然とした批判ではあるが、「山に対する敬意の欠如」というものが挙げられると思う。

 栗城氏の肩書きである「登山家」にカッコがつくのはそういう理由だ。この本にも、プロとしての見識の欠落、もっと言えば、その活動の相当ダーティな部分が数多く描写されている。

 

 インターネット上には、氏に対して不特定多数による批判が繰り返されている。山岳の専門家たちも辛辣だ。「登山家というより芸人」とか、「(適当な目標を設定する能力を欠いた)ドン・キホーテ」といった厳しい表現が記載されている。

 しかし、外野から見ている立場としては、登山業界のそうした反応も、これはこれで興味深い。不快感や哀れみだけでなく、ある種の焦りや、純粋な混乱があるように感じるからだ。

 山という世界が認識や実力の足りない者の健康や命を容赦なく奪う空間であることは、現実の事故からも理解できる(ちなみに漫画作品の『岳』からも)。しかし、そうした失敗や事故は、基本的に「想像の及ぶ範囲」で起きていたのではないか。

 栗城史多の実力を考えたとき、彼がエベレストへの登頂を、しかも酸素ボンベ無使用をぶち上げて挑戦するというのは、成功するはずはない挑戦だった。それを本当に実行することは、登山界隈の想像と理解を完全に超えていたのではないだろうか、と思う。

 

 以下は部外者である俺の想像なので、間違っていたら申し訳ない。

 登山における従来の失敗とは、仮に失敗するにしても、その原因を分析することが可能だったのではないか。そして、「結局のところ、最後は運に左右される」、という割り切り方も確立されていたのではないかと思う。

 なぜこう推測するかというと、反省と諦めがシステムとして整備されていることこそ、成熟した業界の条件だからだ。「仕事の振り返りはしっかり行うけど、どうにもならないこともあるから、そこは受け入れようね」という認識を、ソフィスティケートされた分野は備えているものだ。

 

 しかし、栗城氏の登山内容はそうした範囲を完全に逸脱していた。

 彼は、プロフェッショナルから見れば失敗に終わって当然と言える不可能な挑戦を、途中で両手の指9本を失うという大怪我を負いながら繰り返した。そこに運・不運がからむ余地はない。また、根本的に実力が足りないのだから、反省なんてやりようがない。

 こういうわけのわからない異物が、しかし、「登山家」として自分たちと同じカテゴリーに乱入してきたらどうなるか。その業界に先住していた者たちは、それをどう評価したらいいか、選択を強いられることになる。

 あらためてそう考えると、「芸人」「ドン・キホーテ」という表現は、どこか硬直した言い方というか、この得体の知れない人物に触れるのをできるだけ忌避したい、という専門家たちの心情がうかがえる…気もする。批判しているだけでなく、見たくない、遠ざけたい、という気持ちが隠れている気がする。

 

 「触れたくない」は、もしかすると、「触れなければならない」かもしれない。

 既存のシステムで評価できない存在は、先住者からすればきわめて迷惑だが、業界全体を健全化・革新する可能性もある。むしろ、ニューカマーとはそういう役割を負ってさえいるのかもしれない。

 いずれにしても栗城史多という異物が、「芸人」という、登山家に対してはおそらく前例のない言葉を強引に引きずり出したことは事実で、それが面白いと思った。

 

 もちろん、異端であることの対価が命を落とすことであってはならない。

 栗城氏による業界の渡り方をたたえるつもりもない。

 ただ、そういう役割を担っていたかもな、とは思う(②に続く)。

 

 

サスペンスのある部分を決着させたかもしれない、『OLD』の感想について

 

 面白かった。

 上映時間120分未満。けっして長い映画ではないのだが、物語的なイベントが立て続けに起きるためにものすごく濃密だった。満足。

 ただ、科学的な正確さや細かいツジツマを気にする人は相性悪いかもしれない。作品世界をとある強力なギミックが支配しているんだけど、けっこう設定が適当だからだ。科学的には「んなアホな」という感じで、ストーリーの細部も勢いでどうにかしている印象はある。
 あと、文字通り悪趣味な展開が多い。

 ここはシンプルに欠点に感じた部分で、不愉快に思う人もいるだろう。実は俺自身がその一人で、虫けらでもなぶるように閉鎖空間で人を傷つける場面が続くので、もういいよ〜、と思うこともあった。
 でも、トータルでは満足。タイトルに書いたとおり、サスペンスという形式のある部分を終わらせたかも、とさえ思う。

 

 ここから、ややネタバレを含む。

 

 物語の登場人物たちは、身体的な時間の流れが異常な速度で進む砂浜に閉じ込められる(通常の30分が1年間に相当)。

 子供は急速に成長していき、すでに年齢を重ねている者たちは「持ち時間」の少なさにおびえることになる。このように突拍子もない設定であり、ろくでもない出来事も次々に起こるので、「もしや夢オチなのでは」という疑惑さえ抱いたが、ちゃんと現実である。

 砂浜からの脱出は色々な事情があってきわめて困難だ。しかし、キャラクターたちは時間と戦いながら、なんとかここから生還を試みる。きわめて特殊な閉鎖環境における、一種のソリッド・シチュエーションものといえる。

 

 さて、ソリッド・シチュエーション作品を評価するときの視点の類型として、この状況は人生の縮図である、というものがある(気がする)。

 『CUBE』なんか、割とそういう感想を見た記憶があって、理不尽で凶悪だけど、そもそも世界って標準的にそういうもんだよな、という。

 これは、もちろんこじつけもいいところで、実生活でワイヤーでサイの目に切断されて死ぬことってあんまりねえだろ、と思うが、『OLD』に限っては本当に、上手いことこの特殊な状況と普遍的な人生を重ねてみせたのではないかと思う。

 すさまじい速度で時間が進んでいく中で、これまでの愚行や人生の喪失経験が無慈悲に、けれど穏やかに洗い流されていく。

 キャラクター同士のしがらみも失くなり、過ぎていく時間の中で残ったのは感謝と愛情だけ…と思いきや、過去への追憶に囚われてしまう登場人物も出てくるが、それもリアルな感じだ。

 いずれにしても、きわめて特殊な環境にもかかわらず、人生で何十年も経過する中で、誰しもそうなっていくんだろうな、というのが自然に描写されている(作中の時間では一日強しか経過していないんだけど)。

 

 それで、サスペンスのある部分、というか「問題」を決着させた、って感想について。

 大げさ言った割りに全然たいした話じゃないんだけど、次のようなことを思った。

 サスペンスやパニック映画で、物語の途中で人がバカスカ死んだり傷ついたりしてるのに、最後は一件落着、色々あったけど、まあ終わりよければなんとやら、と丸くおさまる作品がある。俺はこれ、ちょっと嫌なんである。

 最近だと『レディ・プレイヤー1』が代表例で、最後はハッピーエンドという雰囲気だったが、俺は物語の途中で爆死したおばさんの死がずっと忘れられなかったのである。「いや、なんか上手くまとまった風に終わらせてるけど、家族が悲惨に死んだばっかりじゃん」という。

 

 同じようなことを言っているやつをあまり見た覚えがないが、とにかく俺はそういう映画の見方をしてしまうのである。

 その点で言うと、『OLD』は登場人物たちにとってものすごい速度で時間が経過しているので、悲劇の重さが次第に失われても、違和感がまったくない。

 つらいことがあってからも人生は長く続くので(実際は十数時間だけど)、むしろ、悲しいことはやわらいでいく方がいいのだ。

 これは物語で起きた悲劇を自然にバランスするには実にうまい方法である。というか、こういう演出しか正解はないのではないか、という気さえする。

 「サスペンスのある部分を終わらせた」というのはそういう意味で書いた。もちろん、こんな細かいところで騒ぐ人間はあまりいないので、そこに感動するのはお前ぐらいだろ、という話ではある。

 

 ここから、もう少しネタバレ。

 砂浜での滞在が二日目になり、出てくるキャラクターもかなり限られてくる。

 登場人物が砂の城をつくる前後のシーン、ここが作品のハイライトだった気がする(その少し前の夜も良かったけど)。

 何歳になっても、人の心の中には遊ぶ子どもの精神が残っているということと、何歳になろうと、何かに挑戦するのに遅すぎることはない、そういうことが表れていた場面だと思う。

 冷静に考えれば、成長し老いていく身体はともかく、精神年齢まで変化しているのは変である。しかし、数十年間分の変化を、演技の中に表した俳優たちが素晴らしかったのだと思う。

 

 この作品、おそらくは、「閉鎖環境ですごい速さで歳を取っていったらどうなる?」というアイデアが最初にあったのだと思う。科学的検証とか、オチとかは後付けな気がする。でも、結果として美しい、印象に残る作品になっている。

 

 以上、よろしくお願いいたします。

ヤクザと呪術師について ①

www.yomiuri.co.jp

 ある人が呪術師を名乗る者から「いま、お前に呪いをかけた」と言われた。

 その人は非科学的なことには興味がなかったが、そんなことを言われて、なんとなく嫌な気持ちになった。

 一年後、その人は重い病気を患った。

 はたして、呪いは本物だったのだろうか。

 

 科学的に未知の力が働いてこの人に病を運んだ、という意味で言えば「否」だろう。

 というより、不思議なエネルギーを持ち出す必要がないと言うべきか。この人が病気になったのは偶然かもしれないし、この人が「呪術師」に言われたことを気にしすぎて体調を崩してしまったのかもしれない。

 逆に言えば、ランダムな不幸や思い込みという次元では呪術は成立する。そして、おそらく一部の「呪術師」はそれを承知で、きわめて非・非科学的な領域で我々に呪いをかけているのだ。

 

呪いについて

 超自然的なエネルギーを除いて考えると、呪いとは、対象となる相手の思考に原「因」となるものを埋め、時間を経て、結「果」として認識させるシステムと定義できると思う。

 ちょっと長いか。ちぢめて表現すれば、主観的な因果というところだ。

 基本的には言葉を用いて因を埋め込むことが多いが(「死ぬぞ」「病気になるぞ」「悪いことが起きる」「不幸になる」…)、相手にとって思わせぶりなジェスチャーでもいい。要するに、これから嫌なことが発生するぞ、というメッセージが伝わればいい。

 そのすべてが成功するわけではないが、言われた相手が迷信深かったり、たまたま気持ちが落ち込んでいたりすると、後々、実際に悪い出来事があったときに、以前言われた予言とそのことを結びつけてしまう。

 もちろん、科学的ではない。しかし、主観的には立派に呪いが降りかかっている。

 弱点としては、呪いは不吉なメッセージとして伝わらなければ「因」が埋め込めないので、一部の対象には発動できないことだ。例えば、生まれたばかりの赤ちゃんには呪いがかけられない。当たり前だが、考えてみると面白い気がする。

 

呪術師について

 こうした、主観的な因果としての呪いを積極的に利用する者が「呪術師」である。

 今回のニュースで登場したヤクザの言動は(「生涯後悔するぞ」「東京の裁判官になってよかったね」)、内容が不透明でありながら不穏な響きがあって、彼らは一種の呪術師であると言えるかもしれない。

 何も、超自然的な結びつきばかりが呪いではないのだ。

 例えばこの言葉を投げられた法曹の方が、将来いやな経験をしたりトラブルに巻き込まれたりしたときに、あのときのヤクザの意志を受け継いだ何者かが嫌がらせをしているのでは、と疑念を抱いたとする。こうすれば、立派に呪いが発動していると言える。

 まあ、プロの裁判官、ましてや極刑を扱う人物のメンタルは、そう簡単に揺さぶられるほどヤワではないかもしれないが(②に続く)。