スプラトゥーン3・ヒーローモードの感想と「オルタナの、その先へ」の心構えについて

はじめに

 スプラトゥーン3のヒーローモードを隠しヤカン「オルタナの、その先へ」までクリアした。

 ストーリー本体はめちゃくちゃ面白かった。一方、その後にひかえる裏ステージ(隠しヤカン)の鬼畜さたるや。

 ストーリークリア後の「すごいスタッフだな〜」という余韻を残したままに隠しヤカンを体験したときは、「すごいスタッフだな〜」と思ってしまったよ。同じだけど同じじゃない感想。

 この記事では、ヒーローモード全体を通して思ったことと、「オルタナの、その先へ」の心構えについて書いておく(攻略法ではない。ヘタクソだろうが、いつかはクリアできる、という話)。

 

ヒーローモード雑感

以下、ネタバレ。アーカイブオルタナログのExtra Logに言及する。

 

 

 

 

 

 

・クマサン

 首謀者だった。そして、クマサンは熊三号であり、本当の熊だった。

 実は、俺はエンディングを見てもクマサンの正体がよくわかっておらず、最終ステージで戦う熊三号のことも生体スーツ的ななんかだと思っていたので、クリア後も「結局、あれは誰だったんだ?」とか思っていた。

 色々考えたよ。おもわせぶりに出てくるイルカが本体なんじゃねーか、とか。人類に実は生き残りがいたとか(基本的に、人類が全滅しちゃってるのはLog001~006でわかる)。

 実際のところは、隠しヤカンをクリアして手に入るExtra Logで読めるとおり、実験の結果ものすごく賢くなった本物の熊なのだった(長いのでpixivにリンク)。

 クマサン、孤独だな。ジャッジくんとかと仲良くしてほしい。

 あと、今作の主人公がおともでコジャケを連れてるのはなんでかな? と思ってたけど、最後の熊対鮭をやりたかったんですね。その発想に感服しました。

 

・すりみ連合

 3のマスコットなのに敵なの? と思ってたら、事情があったようで。小者っぽいけど嫌いじゃないです。

 ボスとして見たらマンタローが一番弱かったな。ウツホのイエローウツボカモンは、元ネタわかるやついねえだろ(おれもマサルさんで間接的に知っただけだし)、と思ったけど、まあいいんでしょう。

 

シオカラーズ

 キャラクターとしては好きなんだけど、3も結局、彼女らの物語になっちゃってるよな~、というのは思う。

 オクトエキスパンション的なDLCでは、すりみ連合のエピソードが補強されるんだろうか。テンタクルズのときみたいに(ぜひ、して欲しい)。

 でも、道中の進行状況にあわせてアオリやホタルがコメント入れてくれるのはマジで楽しかった。けっこう厳しいアクションや制限時間内のクリアが求められる中で、ミスが続くと本当にイライラが溜まってしまうので、難所を超えるたびに褒めてもらえるとテンション上がる。

 

・最終戦

 プレイヤーである人間が、種族としてどっちに近いかというと敵キャラであるクマサンなわけで、イカやタコの立場でそれと戦うのは不思議な感じもしたが。

 クマサンの、過去よりも今や未来を見つめる大変さ(意訳)というセリフはすごくよかった。クマサンは、これで死んでしまったのかな? 

 俺としては、”Return of the Mammalians”ならぬ、"Revenge of the Mammalians"でDLCとかで復活してほしいと思います。

 

・コジャケ

 かわいい。隠しヤカンでは強化必須。

 

オルタナの、その先へ」

 はじめに書いておくと、俺はアクションゲームが苦手だ。もう一つ書くなら、苦手でも「オルタナの、その先へ」はクリアできる。

 これは、攻略法ではない。気合いは道を開く、ということだ。

 え、それって精神論じゃん、と言われそうだが、そうではない。失敗しても繰り返していれば、体がやがてルートを覚え、アクションの細かい感覚に適合する、という話だ。

 

 俺がリトライした回数(赤イクラを支払った回数)はたぶん二十数回、総トライ時間は4時間くらいだと思う。長い。

 しかし逆に言えば、とにかく、ヘタクソでもクリアはできるということだ。根気と時間さえあれば。

 おそらくステージ1が一番難しい。これはギミックの意地悪さもあるが、ジャンプできる幅の感覚や新アクションのイカノボリなどに、まだプレイヤーが慣れていないのも理由だと思う。

 ステージ1で一番嫌だったのは、イカノボリとイカロールを使って三枚の垂直の壁を飛び移っていく場所。

      

 コツ。

 ① イカノボリのためにBボタンを押しっぱなしにし、体を壁に固定する。Lスティックはいったんはなしておく。

 ② Bを押しっぱなしのままLを下に入れる。

 ③ Bを一瞬だけはなす。これで、体が壁をイカロールで蹴って反対側に行き、向かいの壁にセンプクでつかまれる(はず)。

 言葉で書くと長いが、結局慣れのはず。

 あと、三枚の壁の順番に、右端・左端・右端でロールした方が次の壁をつかみやすい。これは単純に、この位置取りだと壁と壁の距離が縮まるからだが、最初のうちはこういうことにも気づきにくい。

 

 いずれにしても大事なことは、時間をかけて続けて入れば、それなりに感覚が合っていくということ。回転したり動いている足場にだって、いつかちゃんと、狙ったところにジャンプして着地できるようになる。

 それだけじゃなく、飛び石になったインクレールも乗り継げるようになるし、的を壊している途中でインクを回復させたり、連射中にRボタン軽くはじきながら視点を調整するタイミングも体が覚えていく(というか、ステージ2の中盤ではボタンを使って視点を調整しないと、ジャイロで追っていくと上半身がねじ切れることになる)。

 ステージ1を越せれば全体の半分…というか、ほぼ終わっていると言っていい。ステージ4のタコゾネスの難易度もどうかしているが、こちらは、とにかく待って誘導&各個撃破に徹すれば、いつか必ず終わる。

 そう、終わるのだ。各ステージの各ギミックで、やるべきこととタイミングを覚えて繰り返していけば、いつか必ずクリアできる。ここが、オンラインマッチングで人間を相手にするのとは違うところだ。

 トライする前の赤イクラは10,000もあれば十分だと思う。俺の場合、挑戦当初の失敗しまくってたときは「赤イクラ、30,000くらい持ってるけど、これでも足りんのでは…」と思っていたが、足りる(隠しヤカンの道中でも手に入るので、ある程度はまかなえる)。

 

 ヒーローそうびの強化は可能な限りやっておきたい。強化機能は隠しヤカンのために用意されている説すらある。

 要らない装備はほとんどない。なお、それぞれの強化でありがたさを体感したポイントは以下のとおり。

 

 ① コジャケ攻撃力アップ

 雑魚の処理やギミックの起動(ヘビブロックやボム風船)がものすごく楽になる。特に、ギミックがすぐに起動できると、タイミングを調整する余計な手間が減るので、メンタルに優しい。

 ② 敵インク影響軽減、ヒーローシューター強化、インクタンク容量アップ、スーツ回復力アップ、センサー追加

 すべてはタコゾネス戦のために。WAVE1とWAVE2はともかく、これらを強化しないでWAVE3を越せたら人間じゃないと思う。

 シューター強化は道中の探索でも便利。また、インクタンク容量アップも、ステージ2の的当てで活躍する(ずっとインクを吐き続けるので)。

 ③ カーリングボム

 これも、タコゾネス戦のために。理由は後述。

 

・上級者のクリア動画を観よう

 申し訳ないが、こんな文章よりもクリア動画の方が10億倍参考になる。動画を見通すと、難易度が0.3倍ぐらいになると思う。

 アクションゲームの難しさというのは、「次のエリアで何が起こるかわからない」+「現れたトラップで消耗するうちにプレイングが雑になる」、これらが精神に及ぼすデバフのせいなので、クリアできるルートを目で確認しておくと、見違えるほど楽になる。

 

 俺の場合はこちらの動画を参考にした。

www.youtube.com

 最初にこれを観たときは、「こんな軽業(かるわざ)みたいなことを連続でやらされるのか」と思った。正直、引いた。また、俺にできるわけがないとも思った。

 でも、大丈夫だ。できるようになる。そして、何度も言うが、ステージ1さえ越してしまえば勝ったようなものなのだ。

 

 ステージ4のタコゾネスについて、もう少し書く。

 WAVE1,2,3で構成され、推測だが、WAVEが進むにつれて敵のAIが向上している(と思う)。また、WAVE2では敵がサブウェポンを、WAVE3ではスペシャルウェポンを使うようになる。

 クリアしてから冷静に考えてみたが、ガンガンにスペシャルを切ってくる複数の敵を相手にして、普通の方法で勝てるわけがなく、まともに挑んでも時間の無駄なのだ。

 俺の場合、参考動画で紹介されているとおり、WAVE3では高台のラインを拠点にし、センプクして待ちながら、近づいてくるやつを攻撃&リスキルを繰り返し、とにかく数を削った。積極的に索敵に回るのは、残り2~3体になってからでいい。

 こういう戦い方でさえ、タイミングによってはジェットパックを避けながらホップソナーをジャンプでかわし、マルチミサイルをくぐっていくことになる。センプク&誘導中心で行動することで、こういう地獄が生まれる頻度を少しでも下げて楽をしよう、ということだ。

 体力が減ったら、カーリングボムで退路を引いて回復をはかる。隠しヤカンに来るまでは「ボムとかいらなくねえ?」と思ってたが、こういう使い道だと思う。

 

 頑張って、みんなでクマノミミを手に入れよう。クマノミミのかわいさは常軌を逸している。

 そして、あらためて製作陣に感謝を。

 本当に面白かったです。お疲れさまでした & ありがとうございます。

 

画像

 かわいすぎか?

 

 

 

沖田修一の会話とのんを観に行く。『さかなのこ』の感想について

※ この記事に性差別の意図はありませんが、以下の文章がそう読めてしまったら私のジェンダーロールに関する想像力や知識の不足です。すみません。

 

はじめに

 沖田修一監督作品という点は大事なのでタイトルに入れた。沖田修一なら内容やテーマに関わらず行こう、という人がいるからだ。俺のことだ。

いい映画だが

 沖田修一のファンとしても、そうでなくても、文句なくいい映画。『南極料理人』が好きな人は行ったらいいし、のんと柳楽優弥が好きでも行ったらいい。井川遥もよかった。

 

 沖田修一の作品はどれも、スローなコント作品のように会話が面白い。今回も、観ていてほぼずっと笑っていた。

 中でも、学生時代ののん(役名はミー坊)がどれだけ変人か伝えるために不良の一人が放った、「机の中に乾かした魚をしまっている」というセリフが一番好き。そこなのかよ、でも確かにヤベえか、という。

 

 一方で、気になった点。同じ沖田修一監督作品である『南極料理人』や『キツツキと雨』と比べると、物語の中心がのんに集まりすぎている、とは思った。

 好きなことを続けているうちにおかしなところにハマってしまった、という点では『南極料理人』、『キツツキと雨』に似ているが、この二作が群像劇であるのに対し、『さかなのこ』の焦点はほぼ、のんにずっと当たっている。

 もちろん、さかなクンという描くべき明確なモデルがあるのだからしょうがないとも言えるんだけど。とにかく、ひたすらのんを観に行くための映画だと思う(能年玲奈と書いてもいいのだろうか)。

 

 作品からのメッセージがあるとすると、「何かを好きであることを大事にしよう」ということだと思う。

 これはものすごく真っ当なメッセージなのだが、「なかなか、そうもいかないよな」ということを大人はわかっているわけで、そういう疑問やツラさも丁寧にフォローするのが『さかなのこ』のいいところだと思う。

 

 何かのことが好き。すごく好き。

 もしも、俺たちがそれ一本で生きていこうと思ったら、こうした感情さえも何らかの方法で現金に変えなければ生活できない。物語ののんも同じく、「とにかく魚が好き」だけでは生活できず、それをお金に変えようとして、うまくいかなくて、苦労する。

 それを支えたり次の展開につなげたりするのは周囲の人間だ。親や昔の友人たち。

 

 『さかなのこ』は、のんを友人たちが助ける理由を、彼らが親切だからとか、のんがラッキーだからとか、そういう理由で説明しない。それがいいところだと思う。

 友人たちがのんを助けるのは、のんがただ魚を好きなことによって、結局、彼らの方が勇気づけられたからだ。だから、のんがこれからも魚を好きでいられるように、彼らはのんを助けるのだ。

 友人たちの多くは、確実に、のんほど好きなものを持っていない。自分の「好き」の大きさがどの程度か、それを知ってしまうのも成長するつらさの一つと言えるだろう。

 のんの友人たちはとびきり好きなものを持たない代わりに、目的を果たすために、最適な方法を知っている。実際のところ、柳楽優弥夏帆も、あまり器用なタイプには見えないが、のんよりは生きていくための処世を知っている。

 心の底から大好きなものを持たない彼女たちは、のんに「好き」を現金化するための仕事を与える。繰り返すが、それは単なる親切ではない。

 

 これは深読みかもしれないが、彼らはのんの生き方を見て、叱咤(しった)された気がしたのだと思う。

 つまり、生きていくための合理的・効率的な方法をまったく知らないのんが全力で世の中を渡っていこうとしているのと比べて、より生きやすいコツを知っているはずの自分は足踏みしている、そこに自分の本気は本当にあるのか、という気がしたのではないだろうか。だから、彼女たちはのんに恩を返すのだと思う。のんに欠けている発想や手段を手助けするかたちで。

 

 このように、のんは自分の「好き」を貫き、それによって周囲をも助ける。一方で、それが純度の完璧なきれいごとでないのは、のんの両親がおそらく、劇中で離婚してしまっていることに表れている。

 離婚の原因がすべて、のんへの向き合い方の違いにあったとは限らないし、離婚=不幸でもないが、両親の違いが何よりも鮮明になったのは育児のあり方だったので、大きく関係はしているのだと思う。

 この点をどう評価するべきかはわからない。エンディングまで観ると、離婚があったことまで含めて、のんの「好き」でカバーしてしまっているし…。

 

 ところで、まったく話は変わるが、『さかなのこ』はさかなクンの半生を再現したものではなさそうだ。映画に出てくる「ギョギョおじさん」(主人公の町に住んでいる魚付きの不審者で、さかなクン自身が演じている)とかも、たぶん、映画オリジナルの存在なんだろうと思う。

 

のん過ぎる

 問題(?)はここからだ。ちなみに、映画のド頭に出てくる「男か女かはどっちでもいい」というメッセージに反した感想なので、この映画でそう考えるひねくれ者もいるんだな、と思ってくれればいい。

 

 さかなクンは男性だ。のんは女性である。

 仮にさかなクンを演じる俳優を女性に限定するなら、のんで正解だな、と俺は思った。他にも「正解」はいるかもしれないが、その一人がのんなのは間違いないと思う。

 ただ、そう感じた理由が、のんという俳優の男性性(男っぽい雰囲気、ぐらいの意味)にあるのか、性別関係なく、かすかに狂気を帯びたあの目にあるのか、俺にもよくわからない。

 のんの学ラン姿はコスプレっぽかったが、バイトの一つで寿司屋でうつむいて作業をしているときの雰囲気は、一瞬男性に見えた。これまで、他の女優の演技を観ていて、そういう印象を抱いたことがない。

 では、そういう男っぽさで、のんがさかなクンなのか。

 一方で、魚にエサをやったり壁に絵を描いたりしているときの、のんの目の怖さも気になる。これは危険なぐらいの集中力が放つ怖さであり、性別とは関係ない。

 それでのんがさかなクンなのか。それとも、両方か。俺も観ていてわからない。

 

 話は、もう少し入り組んでいる。そもそも、別にさかなクンを演じる俳優を女性に限定しなくてもいいのだ。男性含めて検討したらどうなるだろうか。

 俺はそれでも、のんが「正解」だと思う。

 ただ、その理由はのんが女性だからこそ、なのだ。どういうことかというと、さかなクンという人物の異質さを描くときに、実物に近い印象を観客に与えられるのは、男性が異質さを演じた場合ではなく、女性が演じた場合だと思ったからだ。

 例えば、二枚目の男性が異質さを演じたとき、現代ではどこまでいっても、それは単に、愛すべき長所になってしまうと思うのだ。そういう世の中になってしまっていると思う。

 さかなクンの異質さに、別の人物がもっとも近づけるとすれば、女性、それも、のんのような強烈な美人がなぜかわけのわからない言動をしているという、そこだと思う。だから、のんで正解なのだ。

 これを「美人なのに残念」とか「もったいない」という言葉で表すのはあまりに薄っぺらい。まあ、残念という感想自体が実際に薄っぺらいのだろう。

 

 平安時代の物語に『虫めづる姫君』というのがあって、大昔からずっと、「女のくせに、しかも美人なのに◯◯が好き」は異質な印象を人々に与えてきた。

 その「残念さ」ゆえに愛嬌がある、というメッセージも読み取れるのが『虫めづる姫君』の油断ならないところだが、それだって、大きなお世話ではある。別に、女性が虫が好きだろうが魚が好きだろうが、その変なところに愛嬌が存在しようが、ほっといてくれって感じだろう。

 話を戻すと、ただ、さかなクンの異質さはのんという美人の異質さによって、もっともうまく置き換えられているのでは、というのが俺の立てた仮説だ。

 つまり、製作側としては性別は関係なく人柄でのんをキャスティングしており、実際にのんの演技はハマってるんだけど、それは人柄の影響ではなく、のんという美人がキテレツなことをしているからこそ、実物のさかなクンの印象に近づいたのでは、と思う。

 そう思うが、それが正しいのか俺も自分でよくわからない。別に、男性の俳優だってよかったのかもしれないし、のんの芝居がハマっているのだって、のんが男っぽいからかもしれないし、のんの目がガチだからかもしれない。わからんな~と思いながら俺は観ていた。

 

 なんにせよ、面白いのでお勧めします。沖田修一の映画は悪人がまったく出てこないのすごいよな。

sakananoko.jp

あわいについて

※ 虫をわかせた話が出てくるので、苦手な方(得意な人がいるのか?)はお止めください。

 

 蝉の声と鈴虫の声が両方とも聴こえる。

 8月末から9月のはじめ、朝起きると夏と秋の二つの虫の音が混じっていて、季節が変わっていくのだな、と思う。二つのものが重なっていて、いま、その「あわい」にいるのだな、と感じる。

 この前までは蝉だけが鳴いていた。やがて、鈴虫だけが鳴くようになるだろう、というこれまでの記憶と見通しがあるので、いまは中間にいるのだな、と感じる。

 ただ、夏や秋という言葉というか、頭の中のある種の「箱」が持つ力も影響している気がする。夏という箱と秋という箱があって、そういうイメージがあるから、その二つの中間にいるのだ、というのがわかりやすくなる。

 そう考えると、あわいとか侘び寂び(わびさび)、詩情とか、うまく言葉にならない概念だと思われがちだけど、その出どころにはやっぱり言葉があるんだろう。言葉の箱を並べたときの隙間にまで名前を付けた結果、生まれたものなんだろうな、最初は言葉ありきだな、と思う。

 

 飲用のプロテインをひっくり返して冷蔵庫の下をびしゃびしゃにし、拭き掃除を嫌々やったのが三週間ほど前。それから日が経って、「どうも最近、家に蠅が多いな?」と感じるようになった。

 不在にしている間はもちろん、夜に帰ってきてからも窓は基本的に閉じているので、外から入っているとは考えにくい。なんだか嫌な予感はしたが、原因がいまいちわからない日々が続く。

 考えてみれば、日中に窓を閉め切っているために部屋は連日高温多湿となっているのだった。全てのものが容赦なく、まっしぐらに腐っていく。いわんや、こぼした乳製品をや。

 

 プロテインをこぼした冷蔵庫の下を、先日になって目に留めたのはたまたま。本当に偶然。

 うぐう。意識が固まる。

 参ったぜ。

 

 俺は割りと虫が好きだ。蝉も好きだし、鈴虫も好き。しかし、蠅は嫌っている。

 厳密に言うと、ブログのタイトルに『蠅と鬼と人』とつけたぐらいなので、蠅という生き物に対して、相反する複雑な感情を持っている。ただ、好きと嫌いの箱が二つあったら、迷いなく嫌いの箱に入れるだろう。

 問題はここからで、蝉や鈴虫に対する感情に「好き」という名前をつけて、「好き」の箱に入れた。蠅は反対に、「嫌い」の箱に入れた。そうすると、箱が二つ並んで、そこにあわいが生まれてしまうのだ。

 好きの箱と嫌いの箱の隙間ができてしまって、さて、この隙間には何があるのかしらん、と思う。

 

 普通はみんな、こんなことを考えずに暮らしているだろう。俺だって、普段は考えない。「ああ、いまは夏と秋のあわいなんだな」とふと思ったことがきっかけで、それが伝播して、今度は蝉と蠅のあわいを考えている。

 言葉というのは物事を整理するためにあるはずなのに、使い方を誤ると、かえって世の中の垣根を乱してしまう。

 いや、ときには乱した方がいいのか?

 蝉の箱と蠅の箱は、好きの箱と嫌いの箱であり、清潔(でもないか)の箱と不潔の箱でもあるが、はて、その隙間にあるものは、と考えたときの不確かさが、俺は嫌いではないのだな。

 

 俺たちは言葉をたくさんつくって、それはこの世界を整理するためにたくさんつくったのだ。

 ただ、箱が二つ並ぶとあわいが一つ生まれるように、この世にどれだけの言葉があるのか知らないが、「すべての言葉の数引く1」の数のあわいも同時に生まれた…というようなものかどうかは別として、言葉が増えればそれだけ、あわいも増えてしまった。

 俺たちはそういうことを考えないようにして生きているけれども、言葉を増やした分だけの、ツケというか爆弾というか遊びというか、そういうものが世の中に潜んでいるのかもしれない。

 そして、それは何かのきっかけで俺たちのつくった区分された世の中をガタガタ揺すり、乱すのかもしれない。例えば、俺がぶち撒けたプロテインが招いてしまった災いのように。

 最後にうまいオチが付いたと思ったけど、どうですか? そうでもないか。わはは。

結局、一番怖いのは「映画」ということですよ…『NOPE』の感想について 2/2

※ この記事に人種差別の意図はありませんし、私個人もあらゆる点で反対する立場ですが、以下の文章がそう読めてしまったら私の想像力や知識の不足です。すみません。

 

ここまでの話

sanjou.hatenablog.jp

 以下、ネタバレあり。

 

 

 

 

 

 

 『NOPE』の物語では、利用され軽んじられるものがいくつか登場する。馬やチンパンジーといった動物、黒人という人種。

 かつて、『動く馬』という最初期の映画に登場したのは黒人だった。しかし、そんな歴史があることなど、今ではとっくに忘れ去られ、映像の中で馬に乗っていた者の正体は誰も覚えていない(作中での発言より。史実かどうか、俺は知らない)。

 物語が佳境に入り、黒人であり馬牧場を営むOJは、自分たちの土地を襲う謎の生物"Gジャン"の撮影に挑み、一攫千金を目指す。電子機器を停止させてしまうGジャンを誘導し、撮影するためには、カメラもオートバイも使用できない。

 Gジャンの姿を記録するため、OJと仲間たちは手回しフィルムと乗馬によって、この怪物を撮影しようとする。それは『動く馬』の再現であり、黒人の手に映画を取り戻すことでもあった。

 

 …この解釈はいい。こう観ると楽しい。

 ただ、こう観ると、とある食い違いというか、どこか腑に落ちない部分が生まれてしまうのだ。『NOPE』の感想を書いた文章でその点に触れているものはなく、俺はそれを整理するため、ここから先を書く。

 

エンジェルとホルスト

 「食い違い」について書く前に、OJとエム以外の主要な登場人物であるエンジェルとホルストについて書く。

 エンジェルはOJの牧場近くにあるスーパーマーケットの店員で、機械に強い以外は普通のあんちゃんだ。ものすごく優秀とか変人とかでもないが、いいやつだ。

 電力をストップさせるGジャンの特性を利用し、電化製品を配置してGジャンの接近を把握することができたのはエンジェルのファインプレイだ。あと、Gジャンが薄べったいひらひらした幕とか紐とかをマジで嫌っている(食うと爆発する)のが観客に伝わったのもエンジェルの果たした仕事と言える。

 何より、リアルにいそうないいやつが親切に協力してくれるという、これが大きい。作品の雰囲気的に、すごく大切。

 このおかげで、後半の『NOPE』のジャンルが、ホラーやSFというところからいい感じに「ボケた」と思う。何しろ、OJたちの一番の目的はGジャンを倒すことでも生き延びることでもなく、映画撮影を成功させることなのだ。

 『NOPE』は結局、映画がテーマの映画であって、映画作りを追った擬似的なドキュメンタリーでもあるのだ。ホラーとして展開してきた物語の雰囲気を変更する上で、エンジェルの貢献はすごく大きいと思う。

 

 そして、ホルストだ。ホルストはカメラマンで、電子機器が止まってしまった後、手回しフィルムによるGジャンの撮影を担当する。

 計画に参加する前にホルストが観ていた映像はすごく暗示的だと思う。それは、次々に出てくる色々な動物の目であり、肉食獣が他の動物を捕食する場面だ。

 ホルストはそれを延々と流していて、おそらく、目の映像は「カメラによる撮影」、捕食は「他者からの暴力」、どちらも『NOPE』の重要なテーマを象徴している。

 ポイントは、「撮影」と「暴力」を別々のものとしてではなく、「撮るという暴力」としてイコールで結ぶことだと思う。かつて、カメラの前でストレスから暴走してしまったチンパンジーのゴーディのように、この「撮影」=「暴力」という類推は正しいし、こうすることで、見えてくるものもある。

 ちなみに、終盤になってホルストはGジャンの撮影に成功するが、よりよい映像を求めて(?)単独行動を起こし、Gジャンに食われてしまう。撮影という暴力を行使する側だったホルストは、反対にGジャンによる攻撃の犠牲になるわけだが、これもなかなか…深読みを誘う展開だ。

 撮影という暴力を使っていたホルストが、逆にGジャンの暴力によって食われてしまったこと。そして、『動く馬』から抹消された=軽んじられた存在である黒人のOJたちが、今度は撮影する側に回っていること。

 俺はここに、奇妙な食い違いの存在を感じるのだ。

 

食い違い?

 実は『NOPE』は、章立てされた構成になっていて、各章は動物に付けられた名前からスタートする。ラッキーやゴースト、クローバーといったOJの馬たちや、凶悪な暴力事件を起こしたチンパンジーのゴーディなどだ。

 動物は『NOPE』において被害者のシンボルだ。スタジオに駆り出されても満足なケアが受けられなかったり、化け物の餌にされてしまったりする馬や、極度のストレスにさらされて暴れ出してしまったゴーディ、みんな暴力の、「撮影する」という行為の被害者だ。

 重要なのはここからで、『NOPE』の中で最大の暴力を振るう怪物であるGジャンの名前もまた、章のタイトルに使われているのだ。考えてみれば当然なのだが、撮るというのが一種の暴力であるなら、Gジャンは完全に、暴力を振るわれている側なのだ。

 つまり、Gジャンは加害者であると同時に被害者でもある。これが「食い違い」の一つ目であり、このことがさらに、もう一つの食い違いを生む。

 

 黒人という存在もまた、『NOPE』では基本的に被害者として描かれている。『動く馬』からは存在が忘れ去られ、現代でも、仕事の現場で十分な敬意が払われない。

 しかし、ゴーディの場合が示すように、撮影するという行為がある種の強制や暴力であるなら、Gジャンを撮って一攫千金を狙うOJとエムは、加害者であるとも言える。『NOPE』という作品は、被害者から始まった黒人が最後は加害者にもなってしまう映画なのだ。

 これは、なんの意味もない食い違いか? それとも、深読みして、ここから何かの意図を探ってみることが許されるだろうか?

 

 実は、この作品の冒頭から気になっていたことがあって、それは、物語の最初も最初で引用された旧約聖書の一節にある。

「私は汚らわしいものをあなたに投げかけ、あなたを辱(はずかし)め、見せ物にする」-ナホム書3章6節)

 

 ここで「私」と言っているのは旧約聖書の神であり、「あなた」というのはメソポタミアにあるニネベという街の指導者に向けて呼びかけている(と思う)。私(神)が導く軍勢によってニネベはいずれ破壊され、あなた(指導者)は敗北して名誉を失う、ということだ。

 これを『NOPE』の物語に当てはめると、人間たちがチンパンジーや馬といった動物たちを見世物にし、辱めているという構図に重なる。ただし、実際のところ、問題はそれほど単純ではない、と思う。

 なぜかというと、聖書の神が相手を「辱める」のと、人間が「辱める」のは意味合いが違うからだ。神が相手を見世物にするのは、それが正しい罰だからで、人間が相手を辱めるのとはまるで違う。

 聖書のこの一節は、神による正しい暴力(仮に、そういうものがあるとして)を示すものであり、それを人間に、そのまま当てはめることはできない。

 

 というわけで、さて、困った。

 加害者であり、被害者でもあるGジャン。

 被害者であり、加害者でもあるOJたち。

 そして、引用された聖書は、本当は何を言いたいのか。考察を続けたら、奇妙なズレが三つも生まれてしまった。

 

半分だけが正解(かも)

 満足な答えではないと思うが、一つ、正解というか俺から提案がある。

 それは、撮影するという行為に伴う暴力性を、半分だけ忘れるということだ。馬たちやゴーディ、撮影という行為が生き物たちに与えてきた被害を、全部ではないが、半分忘れる。

 そして、空きができた半分を、「生きるために利用する」という善も悪もないエネルギーで埋める。それは神による罰のように、否定しようのないエネルギーだ。

 こう考えれば、OJたちの撮影作戦も、完全にではないが、半分は罪が軽くなる。エムもOJも、生活を守るためにGジャンを撮ろうとしているのだから。

 生きるために撮る。

 ただし、被写体も生きているので、怒りを覚えれば反撃する。

 そのパワーバランスや加害と被害の関係は、いつでも反転する。撮影のために暴走し、反対に食われてしまったホルストの最期は、撮る/撮られる、攻撃する/されるという関係の移り変わりを上手く表していたと思う。

 

 なぜ、俺はこんなことを思いついたのか、最後の深読みでその理由を書いておく。

 Gジャンというあの怪物、被害者でありながら加害者でもあり、ずっと撮影され続けたあの怪物の姿。あの怪物は何かに似ていないか?

 あの怪物が攻撃に転じるとき、平たい体の真ん中についた丸い目をこっちに向けるのは、あれはやっぱり…映画や写真を撮るのに欠かせない、あの道具に見えないか?

 

 OJたちはもしかすると、ずっとその道具のレンズに追われ、そして、その道具を自分たちのレンズで映していたのかもしれない。

 撮られながら、撮っている。

 撮りながら、撮られている。

 どうだろう? 俺はやっぱり、Gジャンは似ていると思うんだ。カメラに。だって、『NOPE』は映画のための映画だもんな。

 

 

nope-movie.jp

結局、一番怖いのは「映画」ということですよ…『NOPE』の感想について 1/2

※ この記事に人種差別の意図はありませんし、私個人もあらゆる点で反対する立場ですが、以下の文章がそう読めてしまったら私の想像力や知識の不足です。すみません。

 

はじめに

 めちゃめちゃ面白かった。世の中的には、まあまあって評価みたいですが。

 カテゴリーとしてはホラーとかSFだと思う。ただ、どのジャンルかよりも、描きたいものというか、テーマの方が重要な作品だと思っている(それが何なのかは後で書く)。

 

 雰囲気的には、『メッセージ』(ばかうけみたいな形の宇宙船がやってくる、船のかたち以外はすごくシリアスで面白いSF)とか、一番最初の『ジュラシック・パーク』に近い気がする。マジで。

 強大で得体の知れない存在。すごいパワーを持つだけでなく、行動の目的が理解できないもの。

 こうしたブラックボックスをどうやって理解し、コントロールするか(もしくは、できないか)、これがテーマの一つだと思う。

 ちなみに、タイトルの"NOPE"とは否定や、「あり得ない」の意。

 

あらすじ

 アメリカの田舎で馬牧場を経営する黒人の親子が、外で馬の世話をしている。そのとき、馬に乗っている父親の周囲で地面から無数の砂煙が立つ。

 どうも、何かが上空から大量に落下してきて、それが地面に当たっているらしい。馬がゆっくりと歩き出して、息子の目の前で父親は落馬し、地面に崩れ落ちる。

 父親は病院に搬送されるが、上空を飛んでいた飛行機から落ちてきた硬貨が頭部を直撃していて、亡くなってしまう。

 季節が変わって、息子(OJ)は映像作品に馬を出演させるための調教師として、馬と一緒にスタジオに呼ばれている。しかし、他の参加者が動物の扱いを心得なかったせいで馬がトラブルを起こし、仕事を白紙にされてしまう。

 スタジオに同席していた妹のエメラルド(通称はエム)と一緒に牧場に帰ったのち、OJは妹に、父の死因となった硬貨は飛行機が落としたものではないと思う、と告げる。

 この一帯の上空を「なんだかわからない巨大なもの」が住み家にしていて、人や馬を狙っており、コインはそこから落ちてきたんじゃないか、とOJは推測している。

 実は、父の死以降、牧場の経営は苦しくなっていて、近郊にあるテーマパークに馬を買い取ってもらって存続している状態になっている。エネルギッシュで目立ちたがりなエムの提案で、二人はこの「空にいる何か」の撮影に挑み、一攫千金を目指す。

 

嘲弄(ちょうろう)について(動物に向けて)

 物語の冒頭で、旧約聖書の一説が引かれている。

「私は汚らわしいものをあなたに投げかけ、あなたを辱め、見せ物にする」-ナホム書3章6節)

 ここで「私」と言っているのは旧約聖書の神、「あなた」というのはメソポタミアにあるニネベという街の指導者に向けて呼びかけている(と思う)。私(神)が導く軍勢によってニネベはいずれ破壊され、あなた(指導者)は敗北して名誉を失う、ということだ。

 これを『NOPE』に当てはめるとどうなるか。

 この映画では、動物が繰り返し、人間によって利用される場面が描かれる。もっと強い言い方をすれば、おとしめられ、搾取されている。

 例えば、OJが飼育している馬はスタジオの撮影でトラブルを起こしてしまうのだが、その背景には、現場の配慮が欠けていたのがある。また、ゴーディという名前のチンパンジーの場合はもっと悲惨な事態を起こす。

 ゴーディはアメリカのホームドラマに出演していたのだが、あるとき、共演者たちから受けるストレスが限界に達し、撮影中にむごたらしい暴力事件に発展する。馬たちやゴーディに対する人間の姿勢と、先に出てきたナホム書の言葉を組み合わせると、まず、人間たちが動物を利用し、見世物にしている、というのが見える。

 ただし、この「私は汚らわしいものをあなたに投げかけ~…」は、深読みしようと思うと、かなり違ったものが見えてくる気がする。そのことについては2/2で書く。

 

嘲弄(ちょうろう)について(黒人に向けて)

 ここから、ネタバレを含む。

 

 

 

 

 

 

 『NOPE』の中で嘲り(あざけり)の対象となっているのは、動物だけではなく、黒人も軽んじて見られていると思う。

 OJの馬がスタジオでトラブルを起こしたとき、現場のスタッフは黒人であるOJの注意にまったく配慮をしなかった。ただ、これだけでは映画のメッセージを受け取るのに弱いので、もう一つ挙げるなら、OJの妹であるエムの言葉がある。

 人間が作った最初期の映画に、『動く馬』というものがある。そして、エムによると、このとき騎手を務めた人物は黒人だったのだという(これが史実かどうかは知らない)。

 つまり、映画というのはある意味で、黒人から始まっている。しかし、この人物は名前はもちろんのこと、騎手が黒人であったことを覚えている人は誰もいない、とエムは続ける。

 

 『NOPE』を「軽んじられている黒人」というテーマから観るのが重要だと思うのは、そこに政治的なメッセージがあるなら理解したい、と俺が思ったからだが、もっと単純な理由がある。

 それは、映画の世界から忘れ去られた黒人が映画にカムバックする、という風に物語を観た方が、『NOPE』はずっと面白いし、興奮するからだ。

 

 映画が佳境に入り、「空にいるもの」(新たに、"Gジャン"という仮称がついている)を撮影する作戦が本格化する。狙ったポイントにGジャンを誘導し、この怪物からできるだけ早いスピードで逃げながら、その様子を映像に残すことになる。

 ちなみに、Gジャンは宇宙人というより宇宙生物だ。あまり、その正体をめぐる部分に期待して劇場に行かない方がいいとは思うが、個人的には気持ち悪くって好きです。エヴァ使徒か? と言われるとよくわからないけど(影響を受けているらしい)。

 このGジャンの特性として、その付近にいる電子機器はすべて機能を停止してしまう、というものがある。ビデオカメラも、自動車やオートバイなども動かなくなる。

 それでも、Gジャンを撮影しようと思ったら、どうすればいいか。電力を使わない映像機器と、電気を必要としない乗り物を使うしかない。

 つまり、大昔の、手回しフィルムと、馬。『動く馬』の時代に帰ってくるのだ。『動く馬』から忘れ去られた黒人が、もう一度、古くからの手法で映画を「取り戻す」ことになる。

 映画の終盤で、OJはGジャンから追われながら、荒れ地を真っすぐに、馬を駆って走っていく。怪物から逃げる光景がエキサイティングなのはもちろんだけど、「OJはいま、失われたものを取り戻そうとしているんだ」と思って観た方が、『NOPE』は絶対に面白い。

 

 ただし、だ。これは、考えようによってはかなり危険な鑑賞方法だと思う。

 それは、歴史的な正しさや相手の政治的主張の検証を一度、脇において、「とりあえず、相手の言っていることが正しいと仮定してストーリーを追った方が面白い」ということだからだ。結構危ういところがあると思う。

 だから、みんなもこうやって観たらいいよ、とは言わない。俺はこう観た、という話だ。

 

 そして、実際のところ、『NOPE』は黒人による単純な反撃なのか、というとよくわからないところがある。

 それが監督の意図なのか、作品が生んでしまっている齟齬なのか不明だが、ちょっとここは気になるぞ、という部分があるので、それは2/2で書く。

 

sanjou.hatenablog.jp

 

nope-movie.jp

『血界戦線 Back 2 Back』災蠱競売篇は、なぜつまらないのかについて 2/2

ここまでの話

sanjou.hatenablog.jp 長すぎる。

 

② 登場人物たちが「いま何をしたいのか」、最後までわからない(続き)

 災蠱競売篇は、人命を犠牲することで強力な兵士を製造できる道具であるカロプス人蠱をめぐって攻防が起きる。

 攻め側であるライブラやグリーディナッツが勝利するためには、次のいずれかをクリアする必要がある。

 1.カロプス人蠱と契約したリチャード・インセイン・フーを確保する

 2.フーを警護しているタイクーン・ブラザーズを倒すか(倒せれば、だが)

 

 反対に、防御側であるフーたちズールディーズ側にも、選択肢がいくつかある。タイクーン・ブラザーズはめちゃくちゃ強いので、ライブラたちに実力差を思い知らせてあきらめさせてもいいし、徹底的に攻撃して全滅させてもいい。

 どちらの陣営にも、選択肢はある。ただ、「俺たちはいま、これを目指しているんだよな」と誰も言わないので、みんな何をしたいのかよくわからない。

 

 ところで、「攻め側」には勝利するための手段がもう一つあるようだ。それは、物語の後半にレオと一緒に逃げ出した、カロプス人蠱の中身を消滅させることだ。

 スティーブンが「中身」の命を奪おうとしたのは、そうすることでフーと人蠱の契約完了を阻害できると判断したからだろう。なぜ、スティーブンがそう考えたのか、単にやってみる価値があると思っただけなのかは、わからない。

 実際、スティーブンの読みは当たっていたらしく、フーは「中身」を取り戻すことにこだわる。大富豪のフーなら、逃げ出した中身と同じだけの人命を用意することはできるはずだが。

 というか極端な話、人蠱の中身をすべて白紙にして、新たに100人分の命を調達することもできそうだ。それにもかかわらず、そうしないということは、やはり、逃げ出した「中身」以外では契約を完了できないのだろう。

 

 整理すると、以下のような仮説が立つと思う。

 1. 人蠱で一度兵士の生成を始めると、その材料にした中身以外では生成を完了できない。

 2. そして、一度生成が始まると、リセットできない。

 3. だから、生成中の中身がなんらかの理由で抜け出してしまうと、中身を回収するまで、人蠱はずっと使用できなくなる。

 

 これは俺の推測だ。ただ、こう考えれば、フーが逃げ出した中身にこだわる理由はわかる。

 また、「人蠱が多数の命を代償にして強力な兵士を生み出す道具なら、フーは私兵をどんどん犠牲にして、タイクーン・ブラザーズ以外の兵力を増やせばよかったのでは? 」と思っていたが、この仮説ならそうしなかった理由も説明できる。

 でも、こういうルールは作中で書かれていない(はずな)ので、読む側がそうやって補完することに面倒くささを感じる。そして、次に書く批判が、災蠱競売篇の状況をさらにわかりにくくしている。

③ 血界の眷属(ブラッドブリード)と各キャラクターの力関係がよくわからない

 作中で、血界の眷属はきわめて強力な存在と説明されている。これに勝てるとはっきり言えるのは、いまのところ次の二つだけだと思う。

 1. クラウス(レオの能力によって相手の本当の名前を把握している場合。「拳客のエデン」でオズマルドには負けていたので、単独だと厳しい?)

 2. 裸獣汁外衛賤厳(ザップとツェッドの師匠。単独でも血界の眷属に勝てる)

 

 これ以外のキャラクターは、対血界の眷属戦において、できても時間稼ぎだけ…と言えないのがややこしい。

 例えば、師匠の支援によって一時的にパワーアップしたザップとツェッドは、タイクーン・ブラザーズ戦において勝つ気で戦っているように見える。怪人キュリアスやその仲間たちも、おそらくは勝つ気で戦っている。

 つまり、血界の眷属は強力だが、クラウスや師匠以外は勝てないというわけではなく、他のキャラクターにも倒せる可能性があるということだ。タイクーン・ブラザーズが特別に強かったので勝てなかったわけだが。

 

 前回の記事で、「作中の力関係が明確なら、それぞれの目的をいちいち明示しなくてもいい」と書いた。

 つまり、どう頑張っても血界の眷属に勝てないキャラが戦っていれば、その目的は時間稼ぎや陽動になるし、勝てそうなキャラなら倒すつもりで戦っているだろうから、読者にも戦闘の理由がわかりやすいということだ。

 しかし、実際はこのようにパワーバランスが曖昧なので、結局、みんながいま何をしたいのかよくわからない。勝つ気で戦っているのか、他の狙いがあるのか(もしくは、最初は勝つつもりだったけど、無理そうだから他の考えに変わったのか)。

 しかも、災蠱競売篇はこれまでも書いてきたとおり、必ずしも相手を倒さなくてもいい作戦なのだ。タイクーン・ブラザーズを倒さなくても、フーと人蠱さえ押さえてしまえば、それでもいい。

 こうなると、読んでいてかなり苦しい。「結局、みんないま、何がしたいの?」というのがずっとわからない。

じゃあ、このままでは悪いのか

 いまさらだが、以下はネタバレになる。

 

 

 

 

 災蠱競売篇を通じてタイクーン・ブラザーズという敵をあそこまで強力に描いておいて、コピーした敵の能力で自爆して負けることに、納得のいかない読者もいると思う(一応、師匠が伏線を張ってはいる)。

 人蠱と契約したフーが、大義も何もない単なる非道な金持ちだったのもがっかりだった。人蠱を使って何がしたかったのかぐらい、描いてもいいのに。

 

 最後は、自滅したタイクーン・ブラザーズの血液が人蠱にかかったため、人蠱が暴走し(?)、フーを取り込んでしまう。この場面の解釈も推測であり、誰も何が起きたのか説明してくれないので、「まあ、そういうものだったんだろう」と思うが、3年の間、読者の側が色々わからないとところを補完しながら、こういうオチになった背景まで想像するしかないのか、というのは釈然としない。

 

 じゃあ、『血界戦線』はもっとわかりやすい漫画になった方がいいのか?

 これはけっこう難しい。俺はこれまで『血界戦線』を読んできて、そもそも、「わかりにくい」と思ったことがないからだ。災蠱競売篇ではじめて、そう思ったのだ。

 これまでずっと、わかりやすいし、面白かった。単純に、短いストーリーが多かったのがその理由だと思う。

 災蠱競売篇はかつてない長編だった。そのために、血界の血族とのパワーバランスの曖昧さとか、色々と説明が足りない部分が目立ってきたのだと思う。

 今後、通常営業として(?)短編中心に戻るのであれば、おそらくスタイルを変えなくてもいい。というか、変えない方がいいのかもしれない。

 『血界戦線』は言葉による説明よりも画面の力、必殺技の迫力が持つ説得力でまとめる漫画だと思うからだ。短い話なら、読者は背景を自分で補完しながら、喜んでついていく。

 

 ただ、3rdシーズン(Beat 3 Peat)もおそらく、最後は長編になるのだろうから、そのときもまた、こういう展開になるとしたら、正直嫌だな、と思う。別に長編にしなくてもいいけど、たぶん長編だろうし、そのときの敵はタイクーン・ブラザーズよりも強力になるんだろう。

 それなら、よっぽど話を単純にした方がいいと思うけど、たぶん無理だろう。何しろ、キャラクターが大勢いて、しかもみんな魅力的なので、どうしても同時多発的に各地でイベントが起きる構成になってしまう。

 しょうがない。長々書いたが、ここで終わる。次回は、「わかりにくいんだけど」がとにかくないようにして欲しい、と思っている。

 

 

『血界戦線 Back 2 Back』災蠱競売篇は、なぜつまらないのかについて 1/2

はじめに

 色々と、長々と書くので、最初に要点だけ書いておく。

 

① 話が長すぎる

② 登場人物たちが「いま何をしたいのか」、最後までわからない

③ 血界の眷属(ブラッドブリード)と各キャラクターの力関係がよくわからない

 

 はっきり言うが、こういう理由でつまらない。これをふまえて、続きを書く。

 

① 話が長すぎる

 基本的にはこれだ。災蠱競売篇は2019年上旬に始まって2022年上旬に完結してるので、3年かかったことになる。

 これは、3年間って長いよな、というのとは少し違う。3年の間、延々とキャラクターが何をやっているかよくわからなかった上、結局のところ最後までよくわからなかったので、それが長い、ということだ。

 そういうわけで、以下の②・③につながる。

 

② 登場人物たちが「いま何をしたいのか」、最後までわからない

 災蠱競売篇ではいくつかの勢力が入り乱れて物語が展開する。

 ・クラウスやレオたちの「ライブラ」。

 ・人命と引き換えに強力な兵士を製造する道具(「カロプス人蠱」)を出品したオークション機関の「ズールディーズ」と、人蠱を落札したリチャード・インセイン・フー、フーを警護する吸血鬼である「タイクーン・ブラザーズ」

 ・以前登場した怪人であるキュリアス率いる異能者集団「グリーディナッツ」

 ・アメリカ合衆国大統領直属部隊「Ex-G.I.」

 ・その他(警察、堕落王フェムト、次元怪盗ヴェネランダ)

 

 ライブラ、グリーディナッツ、Ex-G.I.は人蠱を回収したい。

 ズールディーズたちはフーと人蠱の「契約」を完了させたい(たぶん。ちゃんと説明されていない気がする)

 

 なんだ、単純じゃないか、と思うが、実際はそうではない。それは、最終的な目的は一つでも、それを達成するためのルートはいくつかあるためだ。

 

 まず、ズールディーズ側だが、彼らの目的はフーと人蠱の契約完了にある。

 ライブラ等の敵対勢力からの攻撃を防ぐ、いわば防御側と言える。ただし、後半になって契約を完了させるのに必要な材料となる人蠱の中身が逃げてしまい、一緒に逃亡しているレオを捕まえることが目的に加わるため、攻撃的な面も増える。

 あくまで契約の完了までの準備が整えばいいので、別にライブラやグリーディナッツを全滅させなくてもいい。タイクーン・ブラザーズがきわめて強力なので、相手を全滅させようと思えば可能かもしれないが、兵力は実質この二人だけなのが問題だ。

 どういうことかというと、攻撃に転じると守るべきフーが無防備になってしまうのだ。「あれ? 人蠱が兵士を増産する道具なら、それで戦力を増やせばいいんじゃないの?」…そう思った人は、俺と同じ疑問を持っていて、これは最後に書く。

 いずれにしても、ズールディーズ側としては敵対陣営を全滅させてもいいし、実力差を思い知らせて追い払うだけでもいいのだが、どちらが目的なのかは、ずっとわからない。

 

 一方、ライブラやグリーディナッツといった「攻め側」の目的は人蠱の回収だ。これも達成する方法はいくつかあると思われる。

 例えば、タイクーン・ブラザーズを引き付けて攻撃をさばきながら、同じ陣営の誰かがフーを取り押さえてしまってもいい。ただ、一番単純なやり方がある。

 それは、タイクーン・ブラザーズを倒してしまうことだ。この二人を完全に無力化できれば、フーを守る者がいなくなるので、勝ちが確定する。

 「え、そんなことできるの?」と思う人もいるだろう。なにしろ、災蠱競売篇の全篇を通じて、この二人がどれだけ強いかがずっと描かれているからだ。

 答えを言うと、倒せることは倒せる(実際に、倒して決着したので)。倒せそうなキャラクターも攻め側に何人かいる。

 では、攻め側の目的はタイクーン・ブラザーズを倒すことなのか。これが、よくわからない。災蠱競売篇を通じて、攻め側の目的が何なのか、明確に説明される場面はほとんどない。

 攻め側は、タイクーン・ブラザーズを出し抜いてフーを確保したいのか、正面衝突でタイクーン・ブラザーズを倒したいのか、誰が何をしたいのかまったくわからない。誰も、自分たちがいま何をしたいのか言ってくれないからだ。

 

 「攻め側」の目的を描写しなくても、彼らの目的がはっきりとわかる(読者に伝わる)方法が、あることはある。何かというと、血界の眷属と他のキャラクターとの力関係を明確にすることだ。

 例えば、明らかに弱いキャラクターがタイクーン・ブラザーズと戦っていれば、勝つ気のない時間稼ぎや陽動のために戦闘していることがわかる。反対に、倒せるキャラクターなら勝つ気でやっている、ということになる。

 しかし、災蠱競売篇で、そのあたりのパワーバランスは明らかではない。というか、『血界戦線』という漫画は最初からずっと、そこをあまり明らかにしていない。これが批判の③につながっていく(2/2に続く)。