『淵の王』の感想について

 

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「……それが普通だよね」

「それが普通だよ」

「結婚前なら、まだ耐えられるかな?」

「……私はね、あんたに私のこと好きになって欲しいんだよ。私だけのことを。それも中村悟堂だけにね」

 

 夢中で読んだ。職場最寄駅構内にある啓文堂で買って、電車の中で読んで、吉祥寺で降りてマクドナルドで読んで、帰って読み終えた。

 

 いいな。すげえな。と思った。その感想が色んな方向に向かって伸びている。

 

 『淵の王』の良さは、おおまかに言うと三つある。

 

 一つ目は、物語として、ホラー、もしくはエンターテインメントとして単純に「読ませる」、抜群に面白いということ。

 

 二つ目は、一つ目の良さとも結びついているんだけど、ストーリーを記す語り口がもう舞城王太郎にしかできないことをやっていて素晴らしいということ。

 

 そして最後の三つ目は、俺たちが生きて、何かを決心し、行動するってことについて、俺たち自身それをどう意識すればいいのか、ひとつ答えを示してくれるということだ。

 

 主人公は男女三人。物語は一人ずつその半生を追い、彼らの身に起こるそれぞれの「ある決定的な出来事」の決着を描く。

 

 それぞれの章で(こころに戸惑いもあるけど正義感の強い女子大生、猪突猛進型で自分とその前の道しか見えてないけど妙に周りを惹きつける女性漫画家、遊び人だけど気のいい会計士)、「怪談」が大きな意味を持っている。オバケ自体も出る。バンバン出る。それらは単に物語にホラーテイストを味付けするだけでなくって、作品内で現実的な攻撃力…どころじゃない、殺傷力を持っている。

 

 舞城王太郎はもともと文章で緊張感の高まりを表現するのがむちゃくちゃ上手かった。二人で話す会話が、どちらかのある一言をきっかけにピン、と張り詰める、もしくはじりじりと温度が上がるようにお互い引き返せなくなっていく様子を描くのが巧みだった。

 

 でも、この『淵の王』における緊張の出現と恐怖の演出は、これまででも図抜けていると思う。油断して読んでいた何気ない会話や文章中で、事態が異常な方向に唐突に振り切れる。

 怖かった。恐ろしさって一定の基準を超えると、怖いというよりもう思考が止まる、よくわからなくなる。『淵の王』を読んでいて何度かそういう瞬間があった(特に第2章の『堀江果歩』の中盤と、第3章『中村悟堂』の序盤)。

 

 そんな恐怖の描写もまじえつつ、テンポの良い会話と先を気にさせる展開で物語にぐいぐい引き込まれる。

 『淵の王』独特の語り口も、ここに大きく貢献している。『淵の王』は、主人公たち3人をそれぞれ3人の語り手(某巨大掲示板の表現を借りると守護霊のようなもの)が、「あなた」「君」「あんた」と呼びながら、主人公たちの身に起こることを見守り、描写することで進んでいく。

 

 この守護霊たちの語りが、寄り添う主人公たちへの愛情が感じられてとてもいい…。動作も表情も目に見せられない小説というメディアで、よくここまで「人の人への思慕」を表せると思う。

 

 単に「コイツはコイツが好き」という、立ち位置を表すための情報ってレベルを超えて、あるキャラクターの別のキャラクターへの思慕が実感できるということが、俺にはあんまりない。

 だから、第1章の主人公 中島さおりを慕い敬う誰か、第2章の堀江果歩の横でその挙動にゲラゲラ笑いながら彼女の不幸には心底いきどおる誰か、第3章の中村悟堂に「こいつしょーがねーな」と呆れながら常にその身を心配している誰かの気持ちが伝わるたびに珍しい体験をしている気がしたし、この『淵の王』という本を好きになった。

 

 『淵の王』においては、絶対的な味方という存在はあんまりいない。というか、誰が「闇」を開いてくるかよくわからない(だから、誰かの不気味な側面が現れるたびに虚をつかれてぞっとしてしまう)。

 明確に光の側であがいているのは主人公と、そのかたわらで彼らを見守る語り手の守護霊たちだけだ。

 だから読んでいて戦う主人公を応援すると同時に、同じ立ち位置でいる守護霊たちのことにも強く共感できるのだった。

 

 最後に、『淵の王』の三つ目のよさ、「人間が生きて、何かを決め、行動することについてのこの本としての解答(だと俺が思うもの)」について書いてみる…のだが、ここからは本書のネタバレを大きく含むし、分量も多くなってきたので、次回の記事に別記しようと思う。

 舞城王太郎の新しい代表作だ。単に価値が別格に優れているという意味ではなく、一人の作家と触れる最初の一冊目としても、その作家の本質を示し心に何か良いものを残してくれるという意味で。たくさんの人に読んでほしい。

 

淵の王

淵の王