人生で自分のことしか考えてこなかった。
いまも自分のことしか考えていない。
さすがにそれを表に出してはいないけれど、俺のそういう自意識が放っている、一種悪臭のようなものに、周りの人は気がつくものなのだろうか。
少なくとも、家族や親しい友人や勘付くし、恋人だった人たちも勘付いていたようだ。姿勢を改めさせたいような言葉も受けた。
一方で、勤め先で多少接点を持つ程度の人たちは、いちいち俺を注視する必要なんてないから、気づいていないのかもしれない。自分で言うのもバカバカしいけど、俺は能はないが優しい人間として通用しているような気もする。
でも俺が他の人に優しくするのは、嫌われる勇気というやつがないか、あるいは人に好かれていた方が何かと助かる場面が多いからで、別に俺が人を心底思いやれるからではない。俺は人のことなんてどうでもいい。自分が一番大切…というより、自分以外に大切なものがないのだ。
画家であり船乗りでもある男の生涯を、彼と周囲の人々との交流をとおして描くこの小説は、全篇とおして海やそこに住まう生き物たちが美しく描かれ、登場する酒と食べ物の描写が読んでいて楽しい作品だが、後半から文中の端々に、作者であるヘミングウェイの自我をめぐる苦しみの気配が色濃く漂うようになる。
主人公トマス・ハドソンは、画家としても船乗りとしても、軍人としても才能に恵まれ、家族や友人など周りの人間には慕われて、きらめくような世界で生きている。
しかし、この素晴らしい環境に対する満足感がハドソンから読みとれる場面は、あまり多くない。それは、彼が根っこの部分で自分のことしか考えていないからだと思う。
自分、自分、どこまで行っても自分のことばっかり。単に自分が好きとか可愛いとかだけではなく、俺はもっとできるはずなのに、なんで実際には上手くいかないんだろうという自責の感情も含めて、ハドソンは自分のことしか考えない。そして、自我をめぐる自身のそういう生き方を自分でも憎んでいながら、いつまでもそこを抜け出ることができないせいで、こんなにも恵まれた世界に生きていながら、彼のこころからはむなしさと息苦しさがなくならない。
家族が苦しんでいるとき、友人たちが悩んでいるとき、ハドソンは彼らをとてもスマートに気遣ってみせる。ハドソンは、「こういうときにはこうするべき」「人にはこういう言葉をかけ、こう接するべき」ということを知り尽くした名人だ。
しかしその振る舞いにはどこか形式的というか、情熱がぽっかりと抜けた無機的なところもある。まるで、解答の出力を期待して、機械に決められた信号を打ち込んでいるようなところが。
別にハドソンが周りの人々をモノや自分を満足させる手段として見ている、というわけではない。ただ彼は他人に対して、「この人にはこうすればこうなる」という冷静な判断から一歩踏み出して、ひたすらバカのようになってその人のことを思うということができないのだ。あるいは逆に、自分をこの閉塞から連れ出してくれと、恥も外聞もなくSOSを発信することが。
そのイビツさに、周囲の人たちも当然気がつく。
「あんたって人は、自分に惚れてくれる人間のことは、何一つ分かりゃしねえ人だよ」(p.371)
誰かが傷を負えば、それを癒してやろうとするけれど、自分の傷を誰かが癒そうとすることは絶対に許さない。たとえそれが、どれだけ親しい間柄の相手であったとしても。
優しさを示すけれど、自分が示される側に立ったときにそれを受け入れないことは、ときとして、敵意を向けられることよりも相手のことを傷つける。一体自分たちがこれまで築き上げてきたものはなんだったのかと、相手を途方にくれさせる。そのことを知りながら、それでもハドソンは最後まで変わることができない。
自我をめぐる苦闘とあわせて物語からもう一つ漂うのは、死への意識である。
自分を罰する運命を求めるようにして、ハドソンは死地へ、死地へと、ストーリーが進むにつれて自分を追い込んでいく。そして、物語の最後に戦闘の中で被弾し、おそらく致命傷を負ったところで作品は終わっている。
ヘミングウェイが自殺していることをふまえて、俺は、自ら死を選んだ作家が自身の作品でここまで死を見つめている事実がショックだった。これまでまったくなんの兆候も見かった人がある日急に死んでしまうことに比べたら、当然といえば当然なのかもしれないが、なんというか、「ああ、結局逃げられなかったんだな」というやるせなさのようなものを強く持った。
『海流のなかの島々』は、別に自死の決意表明や予行演習ではなかったはずだ。勝手な想像だけど、あくまで自分の中に存在するある衝動を冷静に見つめた結果だし、少なくとも本人はそう思っていたはずだし、どちらかといえばその感覚を結晶化させてコントロールするつもりのものだったのだ、と信じている。
それでも、作家は最後に死に喰われてしまった。なすすべなく呑みこまれたのか、内的な協議の結果だったのか、そのこころの中は絶望だったのか、平穏だったのか、わからない。
俺はただ、自分の中に死を目指す芽が生えていることに気がついた人が、それを客体化し抑制してやるつもりで一つの小説を書き、残したにもかかわらず、最終的に自死から逃げられなかったという事実に、言いようのない気持ちになるのだった。
ヘミングウェイというと欧米でマッチョでアウトドアなイメージがあるが、島国の根暗なひきこもりにもけっこう響いたぜ、という話。
ちなみに、「どこまでいっても自分のことばっか問題」については舞城王太郎の『暗闇の中で子供』という作品でも扱われているので、興味のある方は一読を(このブログで記事も書いてる。恥ずかしめのやつ)。以上。