『悪魔を憐れむ歌』1巻の感想と、創作におけるボーイズラブ要素に関して思うことについて

はじめに

 作品の内容と直接関係のない、断りの言葉からはじめさせてもらいます。

 この文章は男女の性別について問題のある考えを含んでいたり、それによって誰かを傷つける可能性があります。

 また、本来明確に区別されるべきそれぞれ別々の感情を、混同している可能性もあります。

 書いていてそう思うところがあり、自分の中でもともと性差や同性愛に関する意識が高くないという自覚もあって、そう感じながら述べるものになります。

 じゃあ書くな、というようなものですし、最初に言えば許されるものでもないでしょうが、誰か「お前の考え方は間違っている」と強く思われる方もいるかもしれないので、最初に謝っておきます。すみません。

 

 『悪魔を憐れむ歌』の感想について

 梶本レイカ作、犯罪・警察漫画。

 冒頭、雷雨の中で警察によってひとつの死体が発見される。全身の関節を逆向きに折り曲げられたたまれたその遺体は、すでに起きていた別の殺人事件の被害者と酷似しており、事態は「箱折犯」と呼ばれる殺人者による連続殺人の様相を帯びる。

 しかし、その後犯人が捕まることはなく、8年の歳月が流れる。事件は風化しかけ、「箱折犯」は実在するかもあやしい存在として扱われていた。

 署内でただ一人、いまだに解決に向け執念を燃やす刑事・阿久津は、あるとき同僚から事件について手がかりを得られるかもしれないと一人の医者を紹介される。

 訪ねていった医者・四鐘は阿久津を丁重に迎え、阿久津が注目していた遺体の損傷について同様の見解を述べる。このことをきっかけに阿久津は四鐘を何度か訪問し、距離を縮めていくことになる。実はこの四鐘こそが、自身の追う「箱折犯」であるとは知るよしもなく。

 

 本来なら警察から逃げる立場であるはずの四鐘が、なぜか阿久津に執心し、むしろ積極的に接触しようとする。追う者と追われる者が、片方が気づかないまま異常に近い距離感で接するのでものすごい緊張感があり、これがいつ決壊するのか、怖いような期待するようなである。

 四鐘の殺人の動機も不明だったり、道警上層部がなんらかの理由によってこの事件を隠蔽したがっていたりと、他にもまだ謎がある。特に、主人公・阿久津が作品紹介によって「鬼」と表現されていること、彼が捜査の過程で同僚をひとり廃人に追い込んでいることが示唆されていることなど、当人の明るいキャラクターともあいまって、秘められている部分の多い作品である。

 今後、そして最後に明らかになるものはなんなのか、期待して待ちたいと思う。

 

 ここで特に触れておきたいのは、作品の中に流れる、人が同性だけに向ける特別な感情の気配についてである。

 描いている方がボーイズラブの作家さんなので色眼鏡で見ている可能性もあり、作り手としては実はそういうつもりでないのかもしれないが、特に四鐘と阿久津が接する場面、四鐘が阿久津を診察しているところなど、そこには性的な関心も含めて、いくつか特別な感情が混じっているように見える。

 

 俺は異性愛者なのでこれが理解できないかというと、実はそうではない。むしろ、この関係性にかなり惹かれるものを感じる。

 これが性的な興味だけだったら絶対にそうはならなかっただろう。でも、ここには他にも、人間が同性にしか期待しない特別な気持ちがあるようで、そこにひきつけられるのだ。

 

 この流れで例として扱うと怒られるかもしれない。でもわかりやすいので引き合いに出す。

 俺がイメージするのは『ピンポン』におけるペコとドラゴン、ペコとスマイルの関係、もしくは、同じ松本大洋の『竹光侍』における瀬能と木久地の関係だ。あと、AMAZONのレビューで触れてる人がいたけど、同じ警察ものってことで『レディ・ジョーカー』の合田と半田の関係とかも。

 もちろん、ここには恋愛の要素はない。ペコとドラゴンだったらどっちが受けなのかなあ、とかは別に考えない。

 でも、例えばペコが卓球がバカ強い女子だったとして、男子であるドラゴンがペコとの勝負でああいう心境にたどりつけたか、もしくはスマイルがひそかにすさまじい才能を秘めた女子だったとして、スマイルに追い抜かれた男子のペコが頂点で待つスマイルを追ったかというと、これは成立しないか、まったく別の物語になったと思う悪鬼のような女剣客・木久地はちょっと見たいけど)。レディ・ジョーカー』の合田と半田の交流、激突も、同性同士でないとたぶん成立しないだろう。

 

 男は男にしか救ってもらえないところがあるというか、もしくは単に救われないと思いこんでるだけなんだけど、でも結局この思い込みが強固すぎて実際男にしか救ってもらえない、男同士を通じてしか腑に落ちない部分があると思う。

 自分と同じ性別である誰か、ということが重要だ。バカらしいかもしれないけど、同じでないと納得できないのだ。

 ここに、それが性の対象であるかどうかが加わると、ときとして作品自体がまったく別のジャンルに分類されてしまう。でも、相手を恋愛対象として見る作品であるかどうかに関わらず、実は共通している部分がある。

 そこには、同性ゆえの憧れや悔しさ、その果ての納得や成長など、同性だけに寄せてしまう激しい期待が存在する。そして、こうした感情の存在は異性愛者でも理解し、強く実感することができる。

 

 『悪魔を憐れむ歌』の作中で、阿久津が「自分は箱折犯の存在を必ず証明してみせる」と当の犯人自身である四鐘の前で宣言したときの四鐘の表情が、とても印象に残る。犯人として追い詰められる怖れでもなく、といって爆発するような歓喜でもなく、なにかまぶしくて美しいものを見たようなその顔。

 四鐘にとって阿久津がどういう存在なのかまだはっきりとわからなくて、この表情の奥にあるのは感動なのか、期待なのか…。でも、たぶんこの表情は阿久津が言ったからこそなのだと思うし、たぶん阿久津が女性ではダメだったんじゃないかな? と思う。

 仮にここに恋愛感情が混じっていたとしても、それでいっぺんに「理解不能」にはならない。『ピンポン』や『レディ・ジョーカー』とはもちろん違うけれど、なんというか、領域を接するものであり、まったく異質なものとしてとらえる方がむしろ正確ではない、という感じで、この作品を見て、楽しんでいる。

 

 この漫画は暴力描写が多い。また肌の質感などキャラクターの画が生っぽいため、合わない人もいるだろうと思う。なによりボーイズラブ要素を忌避する人もいるでしょうし。

 でも、同性間のギリギリするような緊張感と、それゆえのカタルシスの予感はむしろ他の「非・ボーイズラブ」作品と共通する部分でもあって、他の生き方ができなかった不器用な者同士が互いに代わりがきかない役目を与えあった果てに激突するのを題材とするのが好きな人は、読まないと、きっともったいない作品だと思います。

 最後に、もちろん同性間のみで生まれる感情について男だけに制限する必要はなくて、女性同士でも同様のこと、あるかもしれない、ということを申し添えます。『鉄風』とかそうなんだろうか? 未読なのでわからないですが。おわり。

 

悪魔を憐れむ歌 1 (バンチコミックス)

悪魔を憐れむ歌 1 (バンチコミックス)