はじめに
2~3月にかけて狂ったように京極夏彦の『巷説百物語』シリーズを読んでいた。
面白い。ファンといってよいかもしれない。
しかしその一方で、実は、読みながら違和感を感じる瞬間があった。
それもたまにではない。多々あった。
俺はこの違和感について整理しておきたいと思った。なので、以下そのことを書く。
注意。この記事は基本的に京極夏彦作品に対する批判であり、フォローも特に入りません。悪口ばっかです。
なので、ファンの方、作家さんへの批判を許せない方はここで読むのをやめるか、アホがなんか妄言を吹いてるな、ぐらいにとらえていただければと思います。
フィクションにおけるイカレポンチの扱いについて
『巷説百物語』シリーズについて、話の流れはおおまか次なようなものである。
①何か世間を騒がせるような問題、怪事が起きる。
②その裏には正気を失った狂人やら悪人やらがからんでいるようだが、もろもろのしがらみがあって、事実をそのまま明るみに出すことができない。
③そのため、妖怪という超常的な存在を持ちだしそのせいにすることによって、世間を煙に巻き、事態を丸く収める。
俺は『巷説~』の何が気になったのか。それは、作中における狂人、つまりイカレポンチの扱いであった。
このシリーズには、理由もなく人を斬りたくなったので実際に斬っちゃう人とか、理由もなくイライラするので権力をかさに着て暴力をふるっちゃう人とかが大勢出てくる。
ポイントは「理由もなく」というところで、彼らがそういう狂気に陥ってしまった背景はほとんど語られない。彼らは、単にそういう人、という扱いでぽんと作中に登場する。
彼らが、単に作中に波乱を起こしたり暴力による緊張感をもたらすだけの存在ならそれでもよい。好物である。
また、彼らが大暴れした後、自分よりもっと大きなパワーによって打倒されるならそれもよい。これも好物である。
俺が強烈に違和感を抱くのは、『巷説百物語』が彼らを破滅させるとき、自らの罪を自覚させ、それによって自滅させようとするところにある。
物語に登場した彼らは、単にパワーで押しつぶされて敗れるのではない。
彼らは、彼らがそれまでの生き方を続けていく限界に追い詰められて、それによって破滅する。
自分より強大な者が出ようと出まいと、狂人たちはすでにどん詰まりにいたわけで、彼らはそのことを悟って滅びるのである。
俺は『巷説~』がその過程を描くときのやり方に、腑に落ちないものを感じるのであった。
俺は、悪人や狂人がもうそれ以上その生き方を続けていけなくなって破滅するとき、その狂気の根本に何があったのかわからないのは、よろしくないのではないか、と思う。
これは、悪行への裁きは何をしたかだけではなく、その原因となった要素も含めて下されるべきだと考えるから、そう思うのかもしれない。
ただ、別の理由もある。
「こいつはイカレポンチなんですが、その原因や背景はよく知らないです」「でも悪いことしたから死んでもらいますね。それも、思いっきり自分自身に絶望して」
なぜ自分が狂っているのか、なぜ自分は悪いことしかできないのか…。
そのこともちゃんと描かれないまま、創作者によって自らの限界を悟らされ、死んでいく。
そんなイカレポンチは、クリエイターにとって都合がよすぎないか?
作り手として、楽をしてしまっていないか?
というか、受け手である俺はそれをそのまま受け止めていいのか?
そう感じるのだと思う。
『ドラゴンボール』のフリーザとか『殺し屋1』の二郎・三郎なんかは、ああいうド外道になった理由なんかは特に語られない。
こいつらは、単に力比べで負けて破滅していく。だから、主人公によって成敗されなければのうのうと生き続けただろうと思う。
一方、町田康の『告白』で主人公の熊太郎が凶行に及ぶとき、そこには主人公の生い立ちと、自分として生きた結果どうしようもなく行き詰ってぶっ壊れる様子が、膨大なページ数を割かれて描かれている。
熊太郎は自分として生きた結果破滅するしかなかった。ある意味はじめから詰んでいて、最後の最後に自分でそのことに気づいた。
小説としてのこの流れに、俺はとんでもない衝撃を受けた。この小説のせいで文字通り人生がねじれたと思う。
凶行に及んだ理由や背景さえしっかり描かれれば、下された裁きに納得いくのか。
いわゆる精神病質とか過去のトラウマとか、そういう属性付けで狂気に説明をつければいいのか。
そんな簡単じゃない気もするが、イカレポンチの扱い方、狂気の消費のしかたについて、俺はこう思った次第なので、以上、よろしくお願いします。
(追記:『巷説~』における凶行の全部が全部理由不明なわけではないので付記します。「帷子辻」とか「野狐」とか。これらはシリーズ中でも特に俺の好きな章です)