NHKスペシャル「“冒険の共有” 栗城史多の見果てぬ夢」を観た感想について

はじめに

 先日、引退を表明した吉田沙保里の昔のエピソードで小さい頃から父親にレスリングの教育をされていたと知って、「うわーっ」と思った。

 今日、市川海老蔵(現 團十郎)の息子が父親のかつての跡を襲名したと聞いて、やっぱり「うわーっ」と思っている。

 ファンの方からはものすごく怒られるかもしれないが、あまりポジティブではない意味の「うわーっ」である。

 要は自由じゃなくて大変だなあ、とか、もっと言えば、小さくてまだ何も知らない見たこともないときから、そんなに強く大人の影響下においていいのかな、とかそういう「うわーっ」である。

 怒らないで欲しいのは、俺はこの手の「うわーっ」が多いんです。

 SMAPの解散騒動のときも思っていた。もう本人たちが辞めたいんだから周囲があれこれ言わずに好きにさせてやれよ、と思ったし、解散後の今までありがとうありがとう、ってのも、彼らはお互い嫌でしかたなくてバラけたのに、その嫌な過去にそこまでお礼言われるってのはつらくねえか? とか思ってたんです。なんかかえって怒りに火を注いだ気もします。

 

 もちろん子供への教育を含めて、誰かに周囲の人間が与える影響について、そんなに簡単に良いの悪い言えるはずがない。

 サラリーマンの家庭で気ままに育った俺に家業という概念や親の悲願について気楽に批判する資格はない。それに、重圧を伴うそうした期待や、英才教育があったからこそ、偉業を達成することができるというのも事実だろうと思う。

 さらに言えば、今回のケースでは親子で同じ競技を選んでいたり、歌舞伎という世界であったからこそ「周囲からの重圧」というものが見えやすくなっただけで、実は他の誰もが、多かれ少なかれ、他者からのそうした束縛の中で生きているとも言える。

 誰もがみんな、他の誰かに縛られ、支えられ、生かされている。

 

NHKスペシャル「“冒険の共有” 栗城史多の見果てぬ夢」を観て思ったことについて

 これを観たのである。

 俺はあまりこの人のことをよく知らなくて、彼が自撮りによって届けた高所の世界の映像も、目にしたのは今日がはじめてだった。

 率直に言って感動した。もしこれをリアルタイムで共有したら、すごい衝撃を受けただろうと思った。

 番組でも取り上げられていたが、彼の実績には競技としての登山のルールでは評価できない、いわばプロとしての得点に値しないところはあったようだ。番組に登場していた、生前彼と接点があった登山家の方も、栗城さんのことを「演出家」という表現に寄せることもありうるような言い方をしていた。

 それでも俺は、登山家としての「採点」とは別のところで、彼が伝えた映像をすげえ「画」だと思ったし、それに感銘を受けた人がいたということもよくわかる気がした。

 また、栗城さん自身にとっても、この「画」を伝えた体験は、生涯忘れがたいものとして、精神に強く焼き付けられたのではないかと思う。

 何かを成し遂げたい、周りに評価されたいという渇望と、それに突き動かされて自らをアピールしたところ、周りは彼の存在を認めただけでなく、その行為に救われさえした。

 求めていたものとそれに対するレスポンスが完璧に噛み合ったとき、その体験はもはや絶対に消し去りがたく、どうしようもなくこの人の心に焼き付けられたのだと思う。

 

 その後栗城さんは、登山活動の中で両手の指9本を失ったらしい。そして、最後は専門家の目から見れば絶対に無理だろうという登山ルートに挑戦して、亡くなってしまった。

 栗城さんの経歴を、かつての成功から、事故の連続へ、評価を挽回するべく無茶をして、最後の事故死へとたどる、幸福から不幸への下降線として描くことは簡単だと思う。また、彼への評価と期待を、それと並行して下降していくもう一本の線として描くことも簡単だろう。

 彼が亡くなった背景について、周囲の俺たちはなぜ彼を止めることができなかったのかと問うことも、問題としては簡単だと思う。

 でも、俺は栗城さんのことも知らないし周囲のことも知らないので勝手なことを言うが、なんと言うか、実はもっと全然簡単じゃないんじゃないか、本当は。

 

 栗城さんの登山に失敗が続くようになって、どれだけ彼への期待が薄れて罵詈雑言が増えても、最後まで純粋に彼を応援していた人はいたはずだ。

 それであれば彼の最後の挑戦は、誰かの祈りと、それに応えようとする勇戦でもあったはずだ。彼が最後はどれだけ追い詰められ、自己本位になったように見えても。また周りが軽率に煽って、彼の逃げ場をなくしていた事実があったとしても。

 次に同じようなことが誰かの身に起きたとき、それを防がなくていいかどうかは、別の問題だ。崇高な部分があったとしても、止めなくてはいけないケースはあると思う。思うのだが。

 一方で、初期の成功によって心に刻まれたものが、同じ体験をもう一度と彼に強く望ませていたのであれば、周りが何を言おうと、彼を止めることは難しかったかもしれない。

 少なくとも、死ぬ前の彼の制止できなさや焦りの原因を、同じ時期の周囲の批判や期待だけに求めるのは、俺は不完全なんじゃないかと思う。この人の一生を、未来の果てまで方向づけてしまうものがあったんじゃないかと思う。

 だから、まあ、簡単じゃないのだと思う。

 

 なんにせよ、ファンというのはどこかグロテスクだな、と番組を観ていて思った。

 批判を超えて口汚く罵るような人間は俺には気味が悪い。

 でも支持する方についても、山に登る前には頑張れと言い、結果として事故死を迎える直前、吐き気がするので撤退すると言えば失望したと言い、亡くなればショックだと言う、それらが同一人物とは思わないが、言葉を受け止める側からすればそれらはひとカタマリの何者かに見えるはずで、正体不明の怪物に違いないと思う。

 自分を棚にあげることはできない。

 俺も好きなアーティストに「まだ新しいアルバム出ねーのかよ」と言い、好きな漫画家に「お、隔月で描いてるんだ。偉いじゃん」と言い(これは最近新作が出た桜玉吉)、あるいは「おい、いつの間にか10週描いたら休むのがそういうスタイルみたいになってんじゃねーか」とか言っている(これは、えーと…)。

 やはりファンというのはどれだけ小さく見積もっても絶対にゼロにならない部分で、グロテスクなのだと思う。

 

 この文章に結論はない。とにかく簡単じゃないなあと思っただけなので、以上、よろしくお願いいたします。

 

 最後に余談ですが、生前栗城さんにアドバイスを授けたことがあるとして番組に出演されていた登山家の方の淡々とした話しぶりもすごく印象に残っています。

 批判したいわけではまったくなくて、この方の性格というより、たぶんそこで生きていればそういう口調で語る以外になくなる、そういう世界なのかもしれないな、と思いました。