惨状と説教

誰か山から降りてきてほたえてから山に帰っていく記事。ブログ

明石市長の暴言をめぐる意見について思うことと「火をつけてこい」と口にした時点でアウトだということについて

はじめに

 また俺の中の逆張りクソ野郎が暴れ出してしまった。

 

 先日、明石市市長が道路の拡幅工事をめぐって担当者を叱責した際、「火をつけて捕まってこい」と口に出して発言していたことが報道された。

 この暴言に対し、はじめは批判の方が大きかった(と思う)。

 しかしその後、市長の発言の全文が広まるにつれて、立ち退きに応じない相手には自分も一緒に土下座に行ってもいいという本人の言葉や、現場周辺での事故を危惧していることなどが周知され、徐々に擁護する意見が出始めた。

 

 擁護する意見としては、あくまで俺が見聞した範囲で、次のようなものがある。

 

 ・「火をつけて捕まってこい」という暴言は許されないものだが、市政の長としてのそれまでの功績は、それとは区別して評価される必要がある

 ・「火をつけて捕まってこい」という言葉は悪いが、市民を思う市長の真意をくむ必要がある

 ・「火をつけて捕まってこい」という暴言は悪いが、言葉のかたちとは別に、叱責される担当者にも問題があるし、市長の熱意自体は評価する

 

 いずれの意見にしても、「火をつけて捕まってこい」とする市長の発言はまずい、と前置きはしつつ、そういう言葉が発された状況も含めて、この件は「総合的に」判断するべきである、としている。

 こうした意見がどの程度大勢なのかはわからない。なんにせよこの意見からうかがえるのは「火をつけて捕まってこい」と口に出した後でも、場合によっては市長に引き続き市政の舵取りをお願いしてもいい、という考えであると思う。

 

 「火をつけて捕まってこい」と口に出しても、その先を続けて良いらしい。

 

 そうなんですか。

 

 そうなんですか?

 

「火をつけて捕まってこい」と言葉にした時点ですべてアウトであると思うこと

 市長の発言の全文が周知されたことは良かったと思う。部分部分だけが切り取られるのはフェアでないからだ。

 逆に言えば、俺はそこには公平性がちゃんと実現された以外の意義はないと思っている。

 「火をつけて捕まってこい」と言った時点でアウトだ。その先はない。その後に市長が何を言おうが、それまでに市長が何を成し遂げていようが、関係ない。アウトだ。くどいようだが、市長職としてのその先が続いてはならないと思う。

 

 なぜ俺がここまで口に出されたこの言葉にこだわるかは後で書くとして、俺が不思議に思うのは、果たして市長を擁護している人たちは、彼の言葉が最初からこの全文のかたちで世間に広まっていたら、今のように市長の立場に理解を示しただろうか、ということだ。

 はじめから「火をつけてこい」「家を売れ」「辞表を書け」という言葉と「あそこでまた人が亡くなったら」「自分が土下座してもいい」という言葉がはじめから明確に併記されていたら、いまの実際の気持ちと同じくらい強く、市長を擁護していたのだろうか。

 あるいは反対に、最初は事故を危惧する言葉が口にされていたのが、実はその後に「火をつけて捕まってこい」という言葉が続いていることがわかった、という場合だったらどうだろうか。

 これは屁理屈?

 でも俺は、人間の意見や考えというのは、話を持って行く順番が違ったせいで同じことを言っているはずなのに有利になったり不利になったりするものだからこそ、むしろ入れ替わった場合を仮定することで冷静に評価されないとならないものだと思う。

 

 上で挙げた、市長を擁護する意見に対して。

 まず、今回の暴言とこれまでの功績は区別されなくてはならない、という意見には同意する。市長が「火をつけてこい」と言おうと、あるいはもっとひどいことを言おうと、それは市長がこれまでに成し遂げたことをみじんも損なわない。

 しかし、あるいはだからこそ、市長が市政に貢献した成果も、今回の暴言をかばうことはできない。暴言が成果を損なわないように、成果も暴言の結果を償えない。

 

 市長の言葉は悪かったが、その真意を汲む必要がある、あるいは言葉は許されないが熱意を認めるという意見には、もっと強く反論したい。

 それは、なぜ俺が口から出た言葉、暴言があったという事実にここまでこだわるかという理由にかかっている。

 俺たちが、目の前の人間がどんな人間で、何を考えているかを知ろうとするとき、彼/彼女が実際に口を動かして発した言葉それ自体を軽んじては絶対にいけない、なによりもそれに重きを置かなくてはならない、俺はそう信じている。

 もちろん、生活していく中で言葉が必要以上に過ぎることはある。しかし仮に、本来なら発されてはならない言葉が口に出されるたびに、功績のある人間、熱意のある人間というのは、その真意を汲んでもらえる資格があるものなのか? その本当の意図が検討されるべきなのか?

 じゃあ、なんの功績もない人間の本当の気持ちは? いや、というか、熱意・人情・思いやり、それらが言葉の裏に本当にあることを、誰が客観的に証明できる?

 気持ちとか真意とか、俺は二の次だと思うのだ。

 人が本当に何を考えているかなんて、まず言葉でしか伝えられないはずだ。そして言葉を発する側からしても、それが相手にどのように受け取られるかなんて究極的にはわからないはずだ。

 だからこそ俺たちは、自分の考えをどんなかたちで言葉にするか日々真剣に考えて、ポジティブな場合なら少しでも自分の真心と同じかたちにしようと努力するし、ネガティブなケースなら下手なことを言って揚げ足をとられないように慎重になるんじゃないのか。

 まず何よりもかたちになって発せられたもの、そこに注意しないで、相手の真意がどうとかと言葉以外のところに重きを置いて、言葉だけとれば犯罪教唆そのものの内容を口にした権力者にもその先が与えられるなら…

 なんというか、それこそ上手く言葉にならないが、俺もみんなも自分たちの子供に、それでいいと本当に言えるのか? 「火をつけてこい」という人間が市政の長として人の上に立っていていいと。功績と、真意さえあればその先が認められるのがこの社会だと。

 

おわりに。無能な社会人の一人として

 市長を擁護する意見の中に、暴言の事実を込みで考えてもこの人が適任だからよい、というものがある。

 確かに、市をもっと良くする人材が他にいないなら、そういう選択にならざるを得ないのかもしれない。

 でも、暴言をはかないし同じくらい市を良くできる人材を見つける、という選択肢だってあっていいはずだ。「しかたがない」という現実主義は、「もっといいものがいたっていい」という理想主義と併存してはじめて説得力を持つんじゃないか? 俺は明石市のことを良く知らないから、そこまで強く言えないけれど…

 

 俺に怒りは結局、目的を達するために他に言いようがいくらでもある中で、最悪の犯罪教唆そのものである暴言が、なぜか、その後に続いた言葉やこれまでの功績、真意といった要素で曖昧になっていくことへの戸惑いなのだと思う。

 俺は市政の内情も知らないし、世間そのものについて無知だ。これは別に、だからこれまでの大言を多めに見てね、というつもりで言っているのではなくて、無垢な目線で見ているという自負でもあるつもりだ。

 なんで、「火をつけてこい」なんて人を擁護してるんだよ? 本当にわからないのだ。本当に。

 

 以上、よろしくお願いいたします。

 

 最後に。それでも、自分の発言をすべて事実だと認めた市長の態度を、掛け値なしに尊敬する。俺はこの人をごく個人的に絶対に許さないが、これだけは、ならわないといけないと思った。