できるわけがないこと、もしくはできるわけがないと思わされることについて

はじめに

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 何年か前、ドナルド・トランプがまだ大統領候補でしかなかった頃。自分が大統領になったらメキシコとの間に壁を作るつもりであるとこの人が言っているのを聞いたときのこと。
 俺は、このおっさんは何を言ってるんだと思っていた。
 異国民が入ってこられないように防壁を築くなんて、移動を制限する手段にしたってどう考えてもナンセンスで、なんというかあまりに前近代的で、物理的に有り得ないし、道義的にも大儀が見えないことのように思えた。

 21世紀のこの時代に建てられた、国と国とを物体としてしきる長大な壁のイメージ。頭に思い浮かべるだけで強烈に滑稽だ。
 どんなくだらない奇跡が立て続けに起きればそんなものがこの現代に現れるのか。できるはずがないと思った。そもそも、ドナルド・トランプが大統領になること自体があり得ないことだと思っていた。

 その後、壁の建造はともかくとして、かの人は大統領の椅子を見事に手中にすることになる。

 

できるわけがないこと、もしくはできるわけがないと思わされること

 「できるわけがない」。何かばかげた夢想や壮大な野望を耳にしたとき、俺は、あるいは俺たちは、反射的に、そしてきわめて無防備に、そういう感想を抱きがちだ。はいはい、おつかれさん、と。あんまり面白くないショーを見せられた後に芸人に支払う小銭のような感覚で、気軽にそういう反応をとってしまう。
 でも、今回の壁建造のニュースを聞いたとき俺は、この「できるわけがない」という感想を抱くこと、あるいは抱かされることは、実は俺たち自身にとってかなりリスクのあることなのではないかと思った。

 気軽で使い捨てなリアクションのつもりでいて、ひそかに俺たちは、ある日唐突にバカでかい負債を払うことになる爆弾を背負わされているんじゃないか?

 

 うまくいくはずがない計画、大成するはずがない人物が人々の予想を裏切る成功を収める、という展開はフィクションでもよく描かれるパターンだ。
 だからなんであえてこの例なの?というのは自分でもわからない。しかし、「できるわけがない」で俺が思い浮かべるのは、『シグルイ』の屈木頑之助のエピソードである。
 屈木頑之助はガマガエルに似た醜怪な男で、自分が想いを寄せる道場の娘を手に入れるため、この武家で行われている兜投げというならわしに挑戦する。この兜投げは若かりし頃の家長が戦場で敵兵の頭を兜ごと刀で叩き割りそこから立身していったという逸話にちなんでおり、見事兜を割ったものが娘の婿となることが認められる予定になっていた。
 さて、家長は屈木頑之助の参加を認めたが、別に屈木が本当に兜投げに成功すると信じていたわけではない。また、娘をやるつもりなど毛頭なかった。
 家長は単に、かつて自分が裸一貫から成り上がったように、出世の機会は立場に関係なく開かれているべき、という主義を貫こうとしたに過ぎない。ある意味屈木のことなどどうでもいい。自己満足だ。
 その当主は、いざ兜を前に刀を構えた屈木頑之助を見て戦慄することになる。「こいつは割る」と直感したからだ。
 嘲っていたもの、無視していたものが、自分の想定を超えるとき、その敗北感が決定的に自らに刻みつけられること、そこで成立したマウンティングは生涯消え去ることがないことを、家長は感覚的に理解したのだと思う。
 すべては、「できるわけがない」と油断したばっかりに。この思いこみさえなければ、仮に屈木が兜を割るだけの技量があることに気づいてもそこまでの衝撃はなかったと思われる(というか、そもそも屈木の危険性に気づいて屈木を参加させなかっただろう)。

 

 屈木が実際に兜を割ったかはさておいて、アメリカ大統領の話に戻る。
 俺は、この壁の件について、大統領はかつての自分の発言が大衆から招いた嘲笑、そしてそれとともに彼らの中に密かに忍ばせた爆弾の存在を計算していると見た上で、解釈するべきだと思う。
 だから俺たちも、本当に壁ができたら自分たちは何を刻み込まれることになるか覚悟した上で、その動向を追うべきだと思う。

 困ったことに俺たちは意外とマジメなので、誰かを一度小馬鹿にしたという記憶を忘れたようで忘れていないのだ。覚悟がいると思う。この負債は実は取り返しがつかない。

 次からは簡単に「できるわけがない」と思うのはよした方がよさそうだと考える。どうでしょう?
 俺は政治のことは何も知らないし、壁が本当にできる可能性も知らない。ただ、壁の完成がかつてそれを妄想だとあざ笑った世界中に刻み込むものの意義を考えると、壁ができたらうれしい人は意外と多そうだ。

 思えばこの人が大統領になったときも、俺はこんな記事を書いていたのだった。

アメリカ大統領選でフツーにアホのように驚いただけのことについて - 惨状と説教

 人物評はさておいて、色々と勉強になる方だと思う。以上、よろしくお願いいたします。