あるところに昆虫好きの少年がいた。
近所の木が咲かせた花にクマバチがやってくれば虫取り網を振り回してそれを追いかけ、夏に公園のクヌギに勝手に黒蜜を塗っては、仕事で疲れた父親を付き合わせて早朝にそれを見に行く。
暇さえあれば、当時は実物を見ることなどとうてい叶わない、怪獣のような海外のカブトムシやクワガタの写真を頬を上気させながらみつめて、チラシの裏に下手くそな絵で熱心にそれをスケッチした。
ある日のこと、少年は何人かの他の子供たちと一緒に、引率の大人に連れられて近所を散歩していた。
昼間だったが、子供たちは途中でとても珍しいものを目にした。ちょうど一匹の蝉が、木の枝から体を吊り下げながら、羽化しているところだった。
昆虫好きの少年は、図鑑で覚えた知識をひけらかすつもりでこう言った。「蝉は羽化してからだいたい2週間くらい生きるんだよ」
口にすると同時に、彼はおさな心にある感情がわき上がるのを感じた。
それは恐れだった。
「蝉の成虫の寿命は一週間であること」。
この俗説が世間に広く知れ渡っていることも知っていた彼は、「一般的には一週間しか生きないとされているけど、実は、」という部分を省いてしゃべってしまったことで、自分が単なる無知として扱われる可能性があることに気づいたのだった。
果たして、少年は他の子供たちからいっせいに馬鹿にされ、「蝉の寿命は一週間」という当たり前の「常識」を知らないマヌケの烙印をおされることになったのである。
それから二十年以上の時が流れた。
あのとき自分が「だって図鑑に書いてあったんだ」と反論したのか、ただ黙りこくっていたのか、それは定かではないが、少年は大人になったいまでも、まだあのときのことを覚えている。
という記事を見たのである。
見た瞬間、少年こと俺は黒いギラギラとした恨みの炎が時を超えて自分の身を焦がすのを感じたし、よせばいいのにこの記事に関するSNSの反応を調べたせいでその炎の大きさがさらに増して爆破炎上することになった。
誤解されないように強調するのは、研究に臨んだ高校生とその成果を、批判したりいやしめるつもりはみじんもないこと。
彼は小さい頃の俺がいつかなりたいと思っていた姿そのものだし、スーファミやプレステがいつしか人生の中心になってしまった俺が(別にそれがいけないわけじゃないけど)、結局なれなかった、理想そのものだからだ。
昆虫が自分のすべてだった頃の俺だって、結局図鑑の説明をなぞっていただけでそれを自分で検証したわけでもないし、彼へのリスペクトは欠かせない。
しかし、とにかく二十年以上前の図鑑に、「寿命:2週間程度」という記載はあった。
そして、これがちゃんと根拠を持つものであるなら、俺が怒りを抱くのは、「事実」から「誤解」へととっくに変わっていた俗説について、まるではじめてこれが覆されたかのような書き方をした新聞と、それをそのまま受け取って騒ぐ人々だ。
羽化した蝉が一週間で死ぬなんてのは、見た目が毒々しいキノコは危険だが地味なやつならすべて食える、ぐらいの、いわば有名さと誤っていることとが自然にセットでおさえられているべき「有名な誤解」に過ぎないと思っていた。
だからついでに言えば、『八日目の蝉』という本のタイトルがあるが、自然界で蝉が八日目を迎えることは普通のことで、一週間しか生きない、という説を下敷きにすることでシンボリックな響きを持っているけれど、現実には八日目を迎えた蝉は長生きでも特別でもないのだ。
そりゃ俺も子供の頃は、蝉が実は一週間以上生きるという情報を特別な知識だと思っていた。だからこそ自慢げに話したわけだし。
しかし、幼い頃に図鑑で見たことなんかなくても、成長してからなんかのタイミングで知識として入ってきそうなもんだ。
それなのにこの記事を受けて、常識とされていることを疑うことの大切さ云々、とかSNSでさらっとまとめられると、おいおいちょっと待ってくれよ、と思う。
俺は虫が好きだったから図鑑を読んで知ったけれども、別にそうじゃなくてもいい。
昆虫なんか興味なくても、蝉について気まぐれにググッてみて目にするのでもいい。
昆虫好きの変わり者とだべる機会があって、豆知識を聞かされるのでもいい。
なんだっていくらだって、チャンスがあったはずなのだ。
疑いを持つ姿勢とか、なんというか、そういう漠然とした心構えの問題じゃないのだ。
なんでか知らんが虫が好き、とかの天与の熱意があるんならともかく、そうでもなければ専門外の知識にぶっつかる嗅覚を養う経験とか人付き合いとか、要は物を読んだり聞いたり人と会ったり、常識から抜け出すというのは、そういう地道で具体的な勉強に帰結する話なのだ。
反骨精神でも俯瞰的な視点の獲得でもなんでもいいが、その手の精神論は結局怠慢なだけだし、その人たちのいう「常識」とやらも、そんな気の持ちようで壊されるほど脆くないはずだ。
怠慢。そう。怠慢ね。
グサァッ、というのは、俺が「何が常識を疑うだ、食らえこの野郎」と言って投げたブーメランが秒で俺の頭に刺さった音。
なぜなら実は俺も怠け者。俺の方はというと、常識がまったくない。疑うべき常識がない。
それは別に俺が反骨的に生きてきたからではなく、単に、「普通」を学ぶことに対する努力ができなかったからだ。下着を毎日変えるのがめんどくさい、というのにも似た、努力でさえない当たり前の日々の営みができないのだ。
だから社会人として、あるいは30過ぎた大人として、毎日めちゃめちゃ苦労している。みんながすいすい済ませていく、なにをそんなことで…というようなことでいちいち悩んでいる。
繊細なわけでも思慮深いわけでもなく、単に普通のやり方を学んでこなかったから。蝉が一週間で死ぬと思っている人たちは、俺を見てきっと引くだろう。なんだこいつ、いい歳こいてこんなやついるのか、と思うだろう。
ちくしょう、と感じるが、頭に刺さったブーメランから派手に流血しながらどうしようもない。
なんの話だかとりとめもないが、とにかく蝉は一週間では死なない。そんなことは前から判明していた。
俺はとりあえずもう少し普通を頑張る。具体的には昨日はいた靴下を、まあいいか、つって今日もはくことをやめたりとか。常識を学ぶ。
だからみんなも蝉について学べ…というわけじゃないが、気軽に常識を疑うとかどうとか言わないでほしい。
そいつは才能や努力の果てに結果として達成されるものでしかなく、平然とそう口にするのは高邁なようで実は怠慢のひとつのかたちに過ぎないし、何よりも常識ってやつは、基本的にそれなりに大事なもののはずだからだ。
常識ってもののおかげで、いい歳して身の振り方がわからず、半日オフィスや自室の隅で固まってる、そういうやつにならずにすんでるかもしれないだろう? って俺はそう思うんで、以上、よろしくお願いいたします。