電話で応対した相手が、あまりに頭のいい方なので驚いた。
向こうが基本的にまだ知識の浅い人であるのは、本人も自身でそうことわっていたし会話していてもわかるのだが、受け答えの精度がすごい。
俺のつたない解説を完璧に理解した上で、本来ならある程度時間をかけて浮かんでくるようなツボをおさえた問いがポンポンやってくる。
説明、要約、質問、回答がとんでもない速度で回った。
おそらく、俺の携わっている業界のある分野で交わされてきた質疑の中で、半分冗談半分本気で、ここひと月ぐらいでもっとも本質的な会話だったと思う(そういう話を電話でしていいかは…どうでしょう)。
上手な質問は答える側を幸せにさせるもので、それはまるで説明している側の自分が賢くなったような錯覚を抱かせるからだが、言うまでもなくすごいのは疑問を投げかけている向こう側である。
まあそれはそれとして。
あまりにいい質問ばかりくるため、説明しながらどこか恍惚とするような奇妙な状態であり、それとともに、正体のよくわからない不快感を覚えているところがあった。
なんだろう、これは? この不快感はどこから来るんだろう。
電話の相手にじゃない。
誰か。
俺自身だ。
相手に説明をしながら、自分の知識がよどみなくペラペラ口から流れ出ていくことに、快感を覚えるそばから気持ち悪さが同居しているのだ。
何様なんだお前は、ということだろうな。
Mr.Childrenの曲で、自分の不器用さが嫌いだけど、妙に器用にたち振る舞うときはもっと嫌いという歌詞があって、実にうまいことを言うと思う。
俺にとって、自分がときどき見せるこの器用さは快と不快が混じった感覚を呼び起こすものであると同時に、少し自分を寂しい気持ちにさせる。
それは、町田康の『告白』という小説に関係している。
俺はこの作品を自分の中のオールタイムベスト10位以内にためらいなくランクインさせるものなんだけど、さて、この小説の主人公の城戸熊太郎は、自分が心の中で考えていることと、それを口から言葉にして表すことが、まっすぐにうまくつながらない男である。
熊太郎は常に、自分が考えていることを正しく表現しようと苦闘するがうまくいかない。思っていること、やろうとすることが奇妙に変質して行動になって表れるので、周囲の理解を得ることができずに苦悶し、積もり重なった鬱屈と怒りが、物語の最後に凶行となって爆発する(最後の最後に、もう一つ深い闇に落ちるんだけど、それは触れない)。
俺も言いたいことがうまく言葉にならなくてもどかしいことが多いので、熊太郎に共感する。
でも上で書いたように、ときどきペラペラ舌が回ることがあると、自分でツッコミを入れずにいられない。
あれ、全然上手に世の中立ち回れてるじゃないか。 それでうまくしゃべれないとか生きるのが不器用とか、アレですか? ファッション的なことですか?
『告白』を含めて、ものを考えすぎて人生がかえってドツボにはまってしまう人物というのは、文学における一つのテーマだと思う。彼らは思考の泥沼の中で空転しながら疲労していき、やがて破滅してしまう。
俺はそんな彼らに共感を抱くし、もっと言えば、たぶん彼らの物語を経由することで間接的に自分自身のことを愛そうとしている。
でも、俺には彼らと自分を重ねる資格がない気もときどきするんだ。だって、自分で言うのもバカバカしいけど、おれはそれなりに器用に生きてるからね。
まあ彼らと同じ純粋さで生きていこうとすれば、彼らと同じ末路=どん底の不幸や破滅が待ち受けているかもしれないし、もちろんそれで人生を棒に振りたいとも思わない。
でも、不器用さゆえに世の中からつまはじきになった者たちの物語にも完全に没入できず、といって、まっとうに生きていくにはやっぱり自分は微妙に歪んでいて何か人として大事な落ち着きとか優しさみたいなものが抜け落ちてる自覚がある俺みたいなやつは、じゃあいったい何によって救われたらいいのかね? ってときどき寂しくなるって話。でした。
以上、よろしくお願いいたします。