新型コロナウィルスによるマスクやトイレットペーパーの不足について。あるいは、不合理な行為は不合理なことなのか?ということ

 新型コロナウィルスの報道によって日本中の店舗からマスクがなくなってしまい、「まぁ俺はマスクをしねぇしなぁ」ってヘラヘラしていたら、今度はトイレットペーパーやティッシュペーパーまで不足し始め、季節に限らず万年鼻炎で洟水を垂れている俺もついに困ってしまった。

 

 ウィルスの影響でペーパー類の生産が悪化するというのはデマであるらしい。

 店頭からティッシュペーパーはなくなってしまい、しかも、その背景には特に根拠がないという、二重の意味でふざけんなよー、という感じになっているところ、こんな記事を読んだ。

 

limo.media

 

 ウィルスがペーパー類の生産に悪影響を及ぼす、というのが本当であろうとなかろうと、買い占めが発生している時点で自分もトイレットペーパーを購入して確保しておくのは合理的な判断である、と書いてある。

 といって、多目に購入することを擁護しているわけではない。

 主旨としては、買いに走ることに合理性がある(賢い判断である)以上、デマに影響されて行動するのは愚か、と断ずるのは的を射ていないこと、そして、こうした動きを静止するためには、自分の利益追求だけではなく、他人の苦労を想像する思いやりという要素を持ち込む必要がある、とのことだ。

 

 なるほどなあ。

 そう思いながら、どこか心の隅で納得がいかない。

 

 自分の利益のために行動するのが合理的なことはわかる。

 俺がわからないのは(純粋にわからないのであって、ケンカ売ってるわけじゃないですよ?)こういうことだ。

 自分がここでトイレットペーパーの買い占めに加担したら、誰かが困るだろうなあ、そういう罪悪感を抱えるくらいなら、買わない方が気持ちが平安だなあ、という人間がいるとする。

 その者が「買わない」のは、不合理な選択なのだろうか?

 それはそれで合理的なんじゃないの? だってその人にとっては、紙がなくて困ることよりも、他者を困らせないで済む方が、選択として価値があるわけだから。

 

 つまり、優しさとか想像力とか、そういう心の働きも、合理的かどうかを判断する材料になると思うのだ。

 

 例えば二人の人間が将棋を指していて、片方に「詰み」が見える盤面が訪れたとする。

 このとき相手を詰ませるべく指すのが「合理的」であるのはわかる。それ以外の手を指すのは「不合理」で、選択する意味はない。

 

 ただ、世の中のあらゆることが、みんなでひたすら将棋を指すように一つの「層」だけで動いているわけではない。

 将棋を愚弄するつもりはないので、あくまであり得ない話として述べる。

 例えば、対戦相手が自分の恩人で、かつ向こうの進退がかかった一局であるとか、その対局に自分が勝つことで代償として何か失うものがあるとき、「詰ませない」手をあえて指すことは、けして不合理ではなく、ひとつの合理的な判断と言えるんじゃないか?

 

 俺には、結局、俺たちは全員が全員、自分の「合理性」に従って生きているように見えてしまう。

 その中で、紙がないと用を足すときに困る、として快適さに重きを置く人間と、自分が多少不便でも、より多くの人間が助かる選択をした方が自分がおちつく、というもしかしたらちょっと変わってるやつがいるという話で、そこは合理的かどうかで線が引けないんじゃないの?

 

 正直、俺からしたら優しさとか想像力みたいな概念は合理性の外から持ち込まれるもの、みたいな物言い自体がちょっとピンとこない。

 俺たちが全員それぞれの合理性に従って生きてるとしたら、そこにある違いは合理的か否かではない。そいつが、自分の快・不快以外の基準を生活に持ち込んで、どのくらい複雑なルールで生活してるかだ。

 っていうか、単に、他のやつのことって生きててもうちょっと考えてるもんじゃねえのかよ? というのが正直なところなんだけど、まあ俺は経済学のド素人だし、大学のゲーム理論の単位も「あ、これわかんねえな」って落としたぐらいなので、誰かわかりやすく教えてくれる人いたら教えてください。

 

 あと、マスクって病気に罹患しないためのもの、って以上に、他の人を自分の病に巻き込まないためのものらしいですね。

 それをしないやつに、他者への想像力をどうこう言う資格があるのか。

 そういうツッコミは、今回はナシでお願いします。以上、よろしくお願いいたします。