はじめに
時節柄、外出が気ままにできない(特に遠出)。
そのせいか、気持ちの面だけでも遠くに行こうと諸星大二郎作品ばかり読むことになる。古代中国、隔絶された山村、っていうか普通に異界。そんなのばっかり出てくる。
『太公望伝』
というわけで太公望伝である。諸星作品には珍しく、超常的な存在との接点はあまりない作品だが、これが久しぶりに読み直したところたいそう面白かった。
ちなみに太公望とは歴史上の人物であり、『封神演義』なんかにも登場する。
本作では、人身供犠のために殺されかけていた奴隷であったのが、供物としての数を合わせるために気まぐれに放免され、それから徐々に立身していくキャラクターとして描かれている。
そんな『太公望伝』は、ひと言で言うと自分探しの物語である。
自分探しと言うと、若者の自意識とモラトリアムから煮出されくる、見る者の苦笑いと共感性羞恥をさそう青臭さの結晶、というイメージだが、『太公望伝』のそれはひと味違う。
なぜならこの作品で太公望が「自分」を見つける(作中では釣り上げる、と
表現される。ちなみに釣り好きな人のことをそのまんま「太公望」と呼ぶことがある)のは古希、70歳を迎えてのことなので、かなり気合が入っている。
たいていの場合、自分探しと言うのはどこか適当なタイミングで、「まあこの辺でひとつ、見つかったってことにしておくか」となる。「就活とかも控えているしな」なんていってなあなあにある。
そもそも好きでやり始めたのはおめえだろ、という感じだが、探している本人も社会からの圧みたいなものにもみ洗いされて自然とゴールしていくし、年齢を重ねたあとは「あのときは…」なんて悶絶したりする。
ポイントは、じゃあ果たして何人のワコウドが本当に自分を探し当てたのか、ということで、それをちゃんと完遂しきったやつは実際のところほぼいないのではないだろうか。
恐ろしいことだが、マジモンでそれに全力で取り組もうとすると、一生ごとになるぜ、ということが『太公望伝』では描かれている気がする。マジで。
ところで、諸星作品というと、登場人物の8割が強欲なおっさんとおばさん、じいさんで構成されることで有名である(望むものは不老長寿だったり莫大な富だったり世界の真理だったりする)。
『太公望伝』を読むとあまりそういうキャラクターが出てこなくて、おや、と思う。
主人公も欲望にあまり振り回されることのない人物だし、周囲のキャラクターもなんとなく小さくまとまっているというか、善悪はともかくド外れて壮大な野望を持った人みたいなのは出てこない。
不思議だな、と少し思ったが、考えてみれば、やっぱり『太公望伝』もこうした諸星作品の系譜にちゃんと連なっている作品だと思うにいたった。
というのは、不老長寿もこの世界の真実の探求も、ある意味「自分探し」みたいなものだからだ。
「自分」には、あるいは自分が主役を張っているこの世界には、もっと隠された可能性があるはずだ、という感覚。
壮大な、目もくらみ意識が陶然となるような神秘が世界には存在するはずだ、という期待。
これらは言い換えれば、「自分探し」の変形と言える。
諸星作品は実は、昔から一貫して「自分探し」を扱っていたのではないかな。それが『太公望伝』にいたって、珍しくというかついにというか、このテーマを真芯から描いた、というのが正しい理解かもしれない。
そういうわけなんで読むといいですよ。
30過ぎて心がブラブラしているままでこの作品を読んだら、俺よりもっと年かさの主人公が、ただ一人の伴侶に自分の心を打ち明けることもできず亡くしていき、自己流の思想まがいに入れ込んで人生を棒に振ったことにきづいて慟哭する場面が描かれていて、なんとも言えない気持ちになったことです(ネガティブな感情ではないが)。
以上、よろしくお願いいたします。