美しいものについて

 美しい写真を見た。チョウセンアサガオの花と、闇の中でその花の蜜を吸うスズメガの写真だ。

 

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 見た瞬間、しん、と静まり返るというか、見ている側の抱えていたざわざわしたものが整えられるような感覚があった。

 

 この写真の何がそこまで俺に美しさを感じさせたのか、自分で考えてみて、それは次のようなことだと思った。

 チョウセンアサガオは人体に入ると身体的な異常や幻覚を引き起こす成分を多量に含んでおり、薬用もされるが毒性の強い植物である。なぜここまで強烈な毒を有しているのかはわからないが、花ごと動物に食べられないためだとか、生存の過程で必要だったのだろう。

 それが花弁の奥に蜜をたくわえていて、昆虫を呼んでいる。植物が「呼ぶ」という表現は奇妙に感じられるかもしれないが、これは実際に呼んでいるのであって、植物は蜜に惹かれた生き物の体に花粉をこすりつけることによって、遠く離れたところに咲いている同種との間の受粉を媒介してもらうのだ。

 写真に写っているスズメガは空中でホバーリングしているが、ときどきは花弁の上で羽を休ませることもあるだろう。そのとき、脚の先や体に花粉が付く。

 このスズメガという生き物だが、成虫になればこのように優雅に忙しく空中を飛び回っているものの、幼生の頃はいわゆる芋虫という存在で、葉っぱの上だとか地面だとかを鈍重にのたくっている。

 美しい成虫と醜い幼虫、という対比が大切なのではない。幼虫の、生命そのものという具合で満々とみなぎるような様子は、それはそれで、ある意味美しい。

 重要なのは、変化するということだ。もちろん、観察を通じて衝撃的なその変態に驚かされるのも見ている人間の勝手な主観なのだが、とにかく、幼虫が自分で吐きだした糸で作った繭の中で自らをどろどろに溶かし、羽を備えてまるで違う姿になって出てくる、というのが壮絶なことで、そんな生き物は地球上に昆虫ぐらいしか存在しない(ということにしておく。実際は甲殻類とかも幼生からの過程でなかなかすごい変身をする)。

 

 あらためて、写真を見る。スズメガが口吻(こうふん)を伸ばし、チョウセンアサガオの花の蜜を吸っている。

 そこにあるのは協力ではない。花からすれば受粉が果たされさえすればいいのであって、虫の食事のことなど本質的にはどうでもいいし、虫の方も、自分の食事が重要であり、自分の体につく花粉のことなんて考えたこともないだろう。

 二種類の生き物は、同じ目的をまったくもって共有していない。写真に写った闇の中で屹然と咲く花弁と、針のように立った虫の口吻がそれぞれ象徴するように、自分の持っている強みというか性質というか、生命の漠然としたエネルギーを具体的なかたちにしたものを手探りで伸ばしていった先に必要なものがあったので、その結果として接触しただけだ。

 だからこの写真は強い緊張感によって支配されている。しかし、野性の中でお互いの性能を命の設計のままに伸長していった結果が、一方的な捕食でも、競争でもないこと、お互いに利用している意識さえなく、孤高と、第三者の目から見てはじめて理解できる「分かち合い」とが二層に重なっている状態であることに、妙な協調を感じる気もする。そして、それが進化の過程で猛毒を獲得したチョウセンアサガオと、同じく進化の産物として完全変態を行うスズメガの間で交わされていることに、俺はより特別な美しさを感じる。

 

 というのが俺がこの写真を美しいと感じた理由である、らしい。

 らしいというのは、最初に美しいと感じたときにはこんなことを言語化して考えていなかったからだ。なんでこの写真に心惹かれるのかな? と整理した結果、こういう理屈を掘り当てたことに自分でも驚いている。

 本当に美しいと感じるものにはちゃんと(その人なりの)理由がある。その人が世界に求めるもの、かくあるべき、と信じているものが表れているんだろう。

 つまり、美しいものというのはある意味で自分の名刺のようなもので、これは言い換えると、人間は自らの美から、それが自分の世界観自体である以上は逃れられないし、場合によっては、それを放棄するぐらいなら破滅する可能性があるということである…というのは『チ。 ―地球の運動について』という漫画を読んで思ったことでもあるのだが、長くなりすぎたのでここでやめておく。

 以上、よろしくお願いいたします。